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上手くやること

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 車を降りてすぐ広がる景色にディルの足が止まる。見たことがない色とりどりの花。嗅いだことがない花の香り。どこから溢れ出しているのかわからない湧き続ける噴水。庭だけでディルの住む街が入ってしまうのではないかと思うほど広大な敷地。そこにいる何人もの男性が水やりや花や木々の手入れをしている。
 マダムの姿を見ると全員が姿勢を正して同時にお辞儀をした。その光景はディルからすれば異常なものだが、ここではそれがルールなのだろう。マダムシンディは上機嫌に頷いている。
 その光景の奥に見える警察署よりも大きな建物。あそこが家なのだとしたら世界は本当に不平等だとディルは思う。妹たちと暮らしている家が何個入るだろう。そんなことを無表情で考えてしまうほど大きな屋敷。
 マダムシンディが所有する敷地も家も人間が住む場所とは思えないほど広く、ここは街の一部なのではないかと歩くことさえ躊躇われた。
  
「そんなに怯えなくてもいいの。今日からここがあなたの家なんだから」

 分厚い真っ赤な唇が優しく弧を描き、ディルのを手を引いて進んでいく。屋敷の階段前まで車で進んで行けるだけの道幅はあるが、この景色を見せるためか歩いて進む。
 握られている手が汗をかいている。マダムシンディの体温が高いせいで汗ばむ。
 優しい微笑みを見せてはいるが、手を握る力は強く、そこに逃さないという絶対的な意思を感じる。
 こういう人間は大体がそうだ。笑顔でいながら腹の奥底で渦巻いている欲望を必ずどこかに出すのだ。そして取り繕う必要がなくなったら抑えていた欲望を解放させる。マダムもそういう人間だとディルは知っている。たった一度だったが、その一度が強烈に焼きついていた。

「わからないことがたくさんあって戸惑うと思うけど、ゆっくり覚えていけばいいのよ。手のかかる子ほど可愛いって言うからね」

 そう言いながらも手を煩わせるようなことがあれば絶対に罰が与えられる。マダムシンディが直接下すのではなく後ろに控えているジョージとティニーによって。

「頑張ります」

 想像どおりの笑顔を見せられているだろうか?
 大きな玄関ドアの横はガラスではなくドアと同じサイズの鏡が貼り付けてある。客人はマダムに会う前に乱れがないか確認しろということだろうかと思うもディルは今の自分の笑顔を確認する勇気がない。自分の顔さえ見たくないのだ。こんな場所までやってきて、こんな人間相手に笑顔を浮かべている男の顔など見たくなかった。

「じゃあそうね、まずはお風呂に入りましょうか」
「昨日入りました」
「今日はまだでしょ? だから入るの」

 今日はまだだが、今はまだ朝。ここに来るまでに汗をかいていないわけじゃない。むしろ汗はかいている。車の中でディルが座っていたのはシートの上ではなくマダムが言ったようにマダムの膝の上だった。腹と胸が同じぐらい盛り上がっている前面に背中を預け、ディルの腹部にはマダムの手が回り、ずっと撫でられていた。肌が粟立ち吐き気がした。ただでさえキツいニオイに吐き気がしているのにマダムが上機嫌に発する鼻歌や無遠慮に服の中に手を滑り込ませてくることも相まって車の中に胃液を吐く想像を何度も繰り返した。一点を見つめて感情を殺すことでなんとか耐え切ったが、今日からずっとあんな感覚に襲われるのだから早く慣れてしまわなければと拳を握る。
 マダムのニオイを消すために風呂に入れるならいいかと指示を受けて二人と一緒に風呂に向かった。

「相変わらず汚ぇ服だな」
「懐かしいよね」

 ディルの家ほどある脱衣所で服を脱ぐと後ろで二人がクスクス笑う。

「どうやって入るの?」
「風呂の入り方も知らねぇの? 貧乏人の証拠だな」
「ジョージ、知らないことは教えてあげなきゃダメだよ。おいで、教えてあげる」

 ティニーに手を引かれるままに浴室へと入ると立ち上る湯気に目を細める。
 ジンが用意する部屋にも風呂はついているが、湯は出ない。風呂と呼ぶにはあまりにも粗末で、タオルを濡らして身体の汚れを落とすだけ。一応石鹸があるためそれを使うが、サッパリとはしない。嫌なニオイを消すための道具。でもここは違う。入った瞬間から良いニオイがする。

「お湯に触ったことは?」
「厨房ではある」
「お湯のお風呂に浸かったことは?」
「ある」

 ジルヴァの部屋で入った。あれが一番良い風呂の思い出だ。でもきっとそれも塗り替えられてしまうのだろう。四人や五人押しかけて入ろうと狭くもないだろう大浴場の良さを味わうことに慣れた自分はあの頃の小さな幸せを消してこの世界が当たり前になってしまうのだろう愚かな自分に苦笑さえ浮かばない。

「ここはマダムが作らせた大浴場だよ。マダムの機嫌が良いときは一緒に入れるんだ。でも普段は僕たちだけで入ってる」
「オレは一人でいい」
「ダメだよ。今日から君は僕たちと一緒に行動するんだから。お風呂も寝床も一緒だよ」

 嫌だと言ったところで意味はない。新参者である人間はどの世界でも意見は許されない。もし許されたとしても意見することだけであり、それが通ることはない。レストランでもそうだった。

『口じゃなくて手を動かせ』

 ジルヴァはいつもそう言う。ディルだけではなくオージたちにもだ。意見は他人に文句を言わせないほど仕事ができるようになってからだ、と。どこでもそうだと自分に言い聞かせてディルは反論しなかった。

「ディルはどこに住んでたの?」
「……ガーベージ」
「だと思った」

 区画の名前を口にするのも嫌だったが、教えないと嫌なことをされるのではないかと記憶にあるトラウマが勝手に口を動かした。
 あとから入ってきたジョージがバカにしたように鼻で笑い、大きな湯船に溜めてある湯の中へ躊躇なく飛び込んだ。バシャンッと大きく跳ねた湯がディルの足にかかり、その暖かさに思わず足が動く。一瞬で身体が湯を恋しがってしまった。

「とりあえず身体洗って入ろうか。それからゆっくり話をしよう。ジョージは身体を洗わず入ったことマダムに言うから」
「おいおい、脅すなよ。俺がお仕置きされるの見たいのか?」
「そうだね。僕も参加できるし、日頃の鬱憤晴らせるもん」

 ティニーの即答にジョージが固まる。
 身体を洗ってから湯船に入るのがルールなのだろう。それを監視の目がないからと破ってしまったジョージのことを告げ口すれば“お仕置き”があるのは間違いない。それはきっとマダムのお気に入りかどうかは関係なく、ルールを破れば一律に誰もが“お仕置き”を受けることになる。そしてそれはマダムと違反者の二人ではなく、見せしめなのかマダムの趣味なのか見学者が同席する。そして参加は自由。反論なしでお利口にしているのが正しい選択だとディルは判断した。

「二人は兄弟?」

 顔は似ていないと思いながらも仲が良いことからそう思ったディルの問いかけに二人が顔を見合わせたあと同時に笑う。

「ジョージと僕は他人だよ。一緒にここに連れてこられただけ」
「こんな性格の悪い奴と兄弟なんて恥も良いとこだろ」
「それもマダムに言うから」
「おいおい、俺たち兄弟だろ。仲良くしようぜ」

 連れてこられた。彼らはどこか名家の貴族かと思うほど立派な身なりをしていたからティニーの口からそんな言葉が出るのは違和感があった。

「先に身体を洗おう。ここでバカのジョージと立ち話してると風邪ひいちゃう。マダムは病気になるのを嫌がるから」

 背中を押されて洗い場へと向かえばそこにはスポンジとボトルに入った液体があった。近くに置いてある陶器製の器の中にスポンジを突っ込んで濡らすとそこにボトルに入った液体を垂らす。良い匂いの発生源はこれかと思わず鼻を鳴らすディルにティニーが微笑み、軽く揉んで泡立ったスポンジでディルの身体を丁寧に洗っていく。自分で洗うかどうかは聞かれなかったからディルはそのままにしておくことにした。誰かに身体を洗われるのは今日が初めてではないから羞恥はない。
 隅々まで洗われると後ろから投げつけるように湯をかけてきたジョージのせいで心臓が止まるのではないかと思うほど大きく跳ねた。一瞬、本気で呼吸が止まったほど。

「このボディーソープは一気に流さねぇと流れないからな。いつまでも洗うことになる。いや、洗われることに、か。気をつけろよ」

 何を言っているのかわかってしまうほど嫌な想像をさせるジョージにお礼は言わないものの怒りをぶつけることもせずティニーが洗い終わるのを待ってから一緒に湯船に浸かった。
 全身が溶けてしまうような感覚に身体がもっともっとと湯を求めて鼻下まで湯の中へと入っていく。息を吐けばぶくぶくと泡が起こる。

「僕はガーベージには行ったことがないんだけど、ひどい場所だとは聞いてる。殺人事件さえ問題視されないとか」
「殺人事件じゃなきゃ警察が動くことはないってだけ」
「強盗は?」
「動かない」
「詐欺は?」
「動かない」
「誘拐は?」
「動かない」

 信じられないという驚きの顔はないが、明らかなる苦笑にディルは当然の反応だと目だけでティニーを見る。

「そもそもガーベージにいてそんなことで騒ぐ奴はいない」
「誘拐されても?」
「誘拐事件なんて発生しない。誰もお金持ってないし、殺人が目的ならそこで達成するだろうし、イタズラ目的でもそこでやってる」
「さすがガーベージ」

 ジョージの嫌味な言い方にティニーが「コラッ」と怒るもディルは腹が立たなかった。人の名が体を表すと言うように、あそこも名前どおりの場所。腐ったゴミを捨てる場所だから。

「僕らはトラッシュ通り出身なんだ」

 驚いた顔を見せるディルにティニーが笑う。
 トラッシュ通りはガーベージから少し離れた場所にあるが、同じ貧困街。格差こそあれど似た環境だ。ティニーが言った『僕ら』はジョージもそこ出身であることを言っている。チラッとジョージを見るも目が合った彼はなぜか勝ち誇った顔をしていた。
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