上 下
26 / 95

彼女

しおりを挟む
 ディルはモテないわけじゃない。むしろモテる。だが、今までずっとその気になれなかった。初恋の女性が傍にいて毎日厨房で輝いているのに他の女性に心惹かれるなんてあるわけがなかった。だから客として来た若い女性に誘われてもやんわりと断り続けていたのだが、それも考え直す日がやってきた。

「いいよ」

 そんな返事をする日が来るとは想像もしていなかったし、目の前で喜ぶ自分よりほんの少し年上の女性を見ながら本当にこれでいいのかと自分に問いかけてみるも答えは出ない。
 いいわけないだろと怒る自分がいるし、これでいいんだと甘やかす自分もいる。だから今回は甘やかしてくれる悪魔に気を許すことにした。

「今までずっと声かけ続けたのに断られるんだもん。地味に辛かったんだから」
「ごめんね」

 自分より小さな女性を隣に置くのは妹以外は初。甘ったるい猫撫で声で腕を組んでくる相手にどうしようと焦ることはなかった。ディルの客の中には少ないが女性もいる。エスコートの仕方はその人たちに教えてもらった。だから回された腕に手を添えてポンポンと軽く叩く。それだけで女性は嬉しそうに笑う。

「私のことはルーチェって呼んでね。ルーチェさんはダメ」
「わかったよ、ルーチェ」
「ふふふっ、よろしい」

 好きになった相手が答えてくれることほど嬉しいことはない。付き合ってと言い、それに「いいよ」と返されるだけで舞い上がるほど嬉しい。それはディルも何度も妄想の中で経験した。だからルーチェが浮かれているその感情がよくわかる。
 腕にしがみつくように抱きついてくるルーチェの胸が当たり、その柔らかさに思い出すのはジルヴァに抱きしめられた子供時代のこと。鍛えすぎているせいで柔らかい部分など一つもない、ムダのない身体をしたジルヴァに女性らしい柔らかさはなかったが抱きしめられているというだけで幸せだった。
 ジルヴァが女性らしくなかろうとジルヴァは人を惹きつける。風に揺れる長い髪も柔らかな身体も甘い声も愛らしい笑顔もないが、ジルヴァは誰よりも輝いているからジンもアルフィオも惹きつけられた。そしてディルもそう。
 首に腕を回してくる女性の積極さに驚くこともなく、ディルは客を取ることで色々なことに慣れすぎてしまった。ジルヴァにはバレたくないから教えこまれた技は何も披露できないが、ルーチェなら大丈夫。バレたくないのは同じでも気付きはしないだろう。そんな風に考えていた。

「明日はランチから出るの?」
「明日はディナーからだよ」
「じゃあデートしよ!」
「いいよ」

 休みの日はジンに把握されているため休みの日は朝から客の予約を入れられてしまうためデートはできない。
 彼女ができたことをジンに報告すべきだろうかと考えるが、きっとこれもすぐに把握される。そしてあの気味の悪い笑みを浮かべて「こっちが優先だからな」と念を押す。店、恋人、男娼。店と男娼だけでも身体は根を上げることもあったのに、恋人を作ってそこに今まで休んでいた時間を割いてやっていけるのだろうかと不安もあるが、ジルヴァへの恋心をなくすためには仕方ない。
 好きだと言い合えばきっと暗示がかかってルーチェのことを好きになる。好きになったらそのうち結婚だって考えるはず。だが、もしこのまま結婚したとして、ジンはそれを理由に解放したりはしないだろう。
 ディルは男娼として稼ぎが良い。客があとでゴネないように前払い制を取っているジンは売り上げのいくらかを持っていく。いつもディルに『お前のおかげで今月も潤った』と笑う。それを結婚を理由に手放しはしないだろう。彼が純粋な笑顔でおめでとうを口にして拍手と共に見送るなんて想像できない。結婚したことでジルヴァへの気持ちはもうないと判断して諦めてくれればいいが、ルーチェを好きになったからといってジルヴァを解放するとは思えない。それどころか更に脅しは強くなるはず。母親を見殺しにしたことをルーチェにバラされたいのかと。
 この街で倒れている人間を助けず見殺しにする話など珍しくもないことで、開き直ってしまえばいい話なのだが、やっぱり誰にも知られたくない。だからなんだよとジルヴァのように誰にでも強く言えるほどの勇気がディルにはないのだ。
 どんなに汚れても今の場所だけは失いたくない。あそこがなくなればディルは心の支えを失う。客を取るだけの毎日に足を踏み入れれば妹たちに笑顔を浮かべられなくなってしまう気がする。それが容易に想像できてしまうのだからディルは恐ろしい。

「どこか行きたい場所決めておいて」
「いっぱいあるの。だからいーっぱい付き合ってもらうからね」
「仰せのままに」

 デートなんてしたことがない。客とはすぐに宿に入ってしまうため街をぶらつくこともない。ぶらつく目的がないし、ぶらついてディルがねだれば客はそれを買わなければならない。ただでさえ安い金は払っていないのだ。そこにプラスの出費はアルフィオのように余裕がありすぎる人間でなければ街をぶらつくことにメリットはない。
 真昼間から女性と街を歩くのは店の買い出しに付き合ったとき以来。ジルヴァに『これってデートだよね』と言うと『買い出しをデートに思えるとは幸せな脳してんなぁ』と笑われた。

「あ、笑ったー! ディルって笑うと可愛いよね」
「え、そう?」
「お店でもよく笑うけど愛想笑いって感じだったから、そういう笑顔が見れて嬉しい」

 思い出して笑っただけなのだが、ルーチェにとっては嬉しかったらしい。ジルヴァとの思い出にほんの少し浸るだけで笑顔になれるほど幸せなものだかり。そんな状態で本当に忘れられるのかという不安はあれど、ディルは結婚するジルヴァの後ろを幼子のように追いかけ続けるのはやめると決めた。ルーチェには悪いと思いながらも試みることにした。


「まだ買うの?」
「こんなのまだまだ! あっちも行くよ!」

 ディナーの時間までデートすることにしたのはいいが、今のところ、デートというよりは荷物持ちのような役割にしか感じていない。名家のお嬢様というわけではないのに好き放題買い物ができるだけの潤沢な資産があることに驚いている。
 妹たちにもこんな風に買い物ができるだけの金を渡してやりたい。「もう欲しい物ない。全部買ったもん」と生意気なことが言えるだけの金を。
 引っ越しの資金とは別に衣食住の心配なく過ごせるだけの資金を手元に置いておきたい。そのためにはもっと稼がなければならない。
 ジンが言う『若さはそれだけで価値になる。これだけ稼げるのも今だけだぞ』がずっと頭に残っている。十五歳。来年には十六歳になって成人を迎える。客を取るようになってわかったことは客たちにとってディルは「未成年だから意味がある」ということ。来年、ディルは未成年ではなくなる。それは妹たちと暮らしていく上では最高だが、客を取る上では最低になる。来年からどれだけ稼げるかはディルの力量次第。今ほど楽ではないことだけは想像に難くない。

「ディル!」

 溜息が出そうになったとき、愛らしい声に名前を呼ばれてハッとする。

「もー! 私の話ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ。向こうの通りに美味しいドーナツ屋さんができたんだよね」
「聞いてたならちゃんと相槌打ってよ。ムシされてるみたいで悲しいよ」
「ごめんね。ルーチェが可愛い声で楽しそうに話すから自分の声で邪魔したくなかったんだ」
「もー……上手いんだからぁ。でもそれなら許してあげる」
「ありがと」

 風が吹くとふわりと揺れるウェーブのかかった髪。そこから香る良い匂い。切り傷も火傷もない綺麗な手の指は細く小さい。施された淡いネイルがよく似合っている。青空の下を歩くのによく映える白のワンピースとリボンがついたローヒールの靴。煙草の匂いもしないし、足を擦って歩くこともしない。小さな鞄の中に財布を入れて、ポケットに直接お金を入れることもない。自分から話を振らなくても話題が切れることもない。何を考えているのかわからない表情から読み取る必要もない。楽なものだ。
 ジルヴァもこんな風に考えていたのだろうか? 自分が話さなくても勝手に話す男を相手にするのは楽だと。
 相手の考えていることなんてわかりもしないのに勝手に想像して気分が落ちる。
 目の前で大きな目を瞬かせて長いまつ毛を揺らす彼女に微笑みながら無意味な相槌を何度も打つ。穏やかな時間が流れる中、ディルの心の中までは穏やかにはならなかった。

「ん? あれって……」

 一人の男が向かいのカフェのテラスにディルを見つけた。向かいには愛らしい女性。まさか、と道路を渡って近付いていく。

「あら、やっぱりディルじゃな~い。だと思った。アンタ、可愛い顔してるから向かいにいてもわかったわ」
「デイヴ!? あ、今日休みか!」

 普段は力持ちで頼りになるデイヴだが、プライベートでは女性っぽくなる。あまりプライベートに遭遇することはないため久しぶりだが、違和感はない。筋骨隆々なのにと面白くもある。

「……彼女?」

 聞くまでに間があったのは先日の話のせいか。怪訝そうな顔はしていないものの、何か思うところはあるのだろう。

「そうだよ。昨日、付き合うことになったんだ」
「ジルヴァには言ったの?」
「まだ言ってない」
「そう。ま、アンタのペースでいいわよね」
「うん。ちゃんと言うから」
「待ってるわ」

 昨日付き合ったばかりの彼女を皆に紹介しなければという意識はなかった。それなりの日数付き合って上手くいってると確信してから言うつもりだったのだが、まさか初デートで見つかるとは思っていなかった。
 でもデイヴはオージとは違う。自分のペースでいいと言ってくれたことに感謝した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります。

とうや
恋愛
「私はシャーロットを妻にしようと思う。君は側妃になってくれ」 成婚の儀を迎える半年前。王太子セオドアは、15年も婚約者だったエマにそう言った。微笑んだままのエマ・シーグローブ公爵令嬢と、驚きの余り硬直する近衛騎士ケイレブ・シェパード。幼馴染だった3人の関係は、シャーロットという少女によって崩れた。 「側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります」 ********************************************        ATTENTION ******************************************** *世界軸は『側近候補を外されて覚醒したら〜』あたりの、なんちゃってヨーロッパ風。魔法はあるけれど魔王もいないし神様も遠い存在。そんなご都合主義で設定うすうすの世界です。 *いつものような残酷な表現はありませんが、倫理観に難ありで軽い胸糞です。タグを良くご覧ください。 *R-15は保険です。

王子妃だった記憶はもう消えました。

cyaru
恋愛
記憶を失った第二王子妃シルヴェーヌ。シルヴェーヌに寄り添う騎士クロヴィス。 元々は王太子であるセレスタンの婚約者だったにも関わらず、嫁いだのは第二王子ディオンの元だった。 実家の公爵家にも疎まれ、夫となった第二王子ディオンには愛する人がいる。 記憶が戻っても自分に居場所はあるのだろうかと悩むシルヴェーヌだった。 記憶を取り戻そうと動き始めたシルヴェーヌを支えるものと、邪魔するものが居る。 記憶が戻った時、それは、それまでの日常が崩れる時だった。 ★1話目の文末に時間的流れの追記をしました(7月26日) ●ゆっくりめの更新です(ちょっと本業とダブルヘッダーなので) ●ルビ多め。鬱陶しく感じる方もいるかも知れませんがご了承ください。  敢えて常用漢字などの読み方を変えている部分もあります。 ●作中の通貨単位はケラ。1ケラ=1円くらいの感じです。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界の創作話です。時代設定、史実に基づいた話ではありません。リアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

噂の悪女が妻になりました

はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。 国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。 その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。

そろそろ前世は忘れませんか。旦那様?

氷雨そら
恋愛
 結婚式で私のベールをめくった瞬間、旦那様は固まった。たぶん、旦那様は記憶を取り戻してしまったのだ。前世の私の名前を呼んでしまったのがその証拠。  そしておそらく旦那様は理解した。  私が前世にこっぴどく裏切った旦那様の幼馴染だってこと。  ――――でも、それだって理由はある。  前世、旦那様は15歳のあの日、魔力の才能を開花した。そして私が開花したのは、相手の魔力を奪う魔眼だった。  しかも、その魔眼を今世まで持ち越しで受け継いでしまっている。 「どれだけ俺を弄んだら気が済むの」とか「悪い女」という癖に、旦那様は私を離してくれない。  そして二人で眠った次の朝から、なぜかかつての幼馴染のように、冷酷だった旦那様は豹変した。私を溺愛する人間へと。  お願い旦那様。もう前世のことは忘れてください!  かつての幼馴染は、今度こそ絶対幸せになる。そんな幼馴染推しによる幼馴染推しのための物語。  小説家になろうにも掲載しています。

君に愛は囁けない

しーしび
恋愛
姉が亡くなり、かつて姉の婚約者だったジルベールと婚約したセシル。 彼は社交界で引く手数多の美しい青年で、令嬢たちはこぞって彼に夢中。 愛らしいと噂の公爵令嬢だって彼への好意を隠そうとはしない。 けれど、彼はセシルに愛を囁く事はない。 セシルも彼に愛を囁けない。 だから、セシルは決めた。 ***** ※ゆるゆる設定 ※誤字脱字を何故か見つけられない病なので、ご容赦ください。努力はします。 ※日本語の勘違いもよくあります。方言もよく分かっていない田舎っぺです。

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

悲劇の令嬢を救いたい、ですか。忠告はしましたので、あとはお好きにどうぞ。

ふまさ
恋愛
「──馬鹿馬鹿しい。何だ、この調査報告書は」  ぱさっ。  伯爵令息であるパーシーは、テーブルに三枚に束ねられた紙をほうった。向かい側に座る伯爵令嬢のカーラは、静かに口を開いた。 「きちんと目は通してもらえましたか?」 「むろんだ。そのうえで、もう一度言わせてもらうよ。馬鹿馬鹿しい、とね。そもそもどうして、きみは探偵なんか雇ってまで、こんなことをしたんだ?」  ざわざわ。ざわざわ。  王都内でも評判のカフェ。昼時のいまは、客で溢れかえっている。 「──女のカン、というやつでしょうか」 「何だ、それは。素直に言ったら少しは可愛げがあるのに」 「素直、とは」 「婚約者のぼくに、きみだけを見てほしいから、こんなことをしました、とかね」  カーラは一つため息をつき、確認するようにもう一度訊ねた。 「きちんとその調査報告書に目を通されたうえで、あなたはわたしの言っていることを馬鹿馬鹿しいと、信じないというのですね?」 「き、きみを馬鹿馬鹿しいとは言ってないし、きみを信じていないわけじゃない。でも、これは……」  カーラは「わかりました」と、調査報告書を手に取り、カバンにしまった。 「それではどうぞ、お好きになさいませ」

処理中です...