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最終日

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「ディ……ディル。おい、ディル」

 名前を呼ばれていたことに気付かず、オージに肩を揺らされたことでハッとすると目の前に立っていたジルヴァと目が合った。睨んでいる。

「俺の話は退屈か? それともやる気がねぇのか?」
「俺が帰るからショックで放心してたんだよね」

 新しい店に相応しい物件を見つけて契約まで済ませたことを昨日報告していたアルフィオは今日が終われば帰国する。今日でこの忙しさも終わりだと思うと安堵するも今はもうそれさえどうでもいいことに感じる。
 
「お前が帰っちまうのは寂しいぜ」
「こっちで店開いたら暫くはそこにいるつもりだから今度はゆっくり酒でも飲み明かそうぜ。そのときのために弱い酒、用意しとく」
「バッカお前、こっちは今も昔と変わらねぇ量飲んでんだ。年寄り扱いすんじゃねぇよ」
「そりゃ楽しみだな」

 じゃれ合うように軽口を言い合う様子を蚊帳の外で見るディルの耳にその声は届いていない。ただその光景が視界に入っているだけ。今日はまだ笑顔一つ見せられていない。

「ディル」

 ジルヴァに声をかけられて顔を上げると顎で横に来るよう指示される。なんだろうと疑問はあるが言葉で問いかけることはせず無言で隣に立った。

「今日でアルフィオは最後だ。なんか一言言ってやれ」

 アルフィオを含んだ全員の視線が向くと戸惑った顔を見せるディルがジルヴァを見るもジルヴァはまた顎をしゃくるだけで二度は言わない。
 言うことなんて何もない。あるとすれば「ようやくか」ということぐらいだが、最後にそんな言葉を吐き捨てるほど子供ではない。だから小さく息を吐き出してから口を開いた。

「オレはこの一週間ホールにいたからアルフィオさんと一緒に動くことはなかったけど、混乱することなく、ここで働いて長いようにチームワークが取れているのを見てすごいなと思いました。オージたちがいつも厨房は戦争だと言っている意味が今回のことでよくわかりました。オレもいつかホールじゃなくて厨房で頼られるようなシェフになりたいです。勉強になりました。ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」

 アルフィオがいた一週間の売り上げはジルヴァしか知らないが、想像せずとも半年分の売り上げはあっただろうことはわかる。
 この店はいつから建っているのか、ガタがきているのは廊下や階段だけではない。手入れしなければならない場所が山のようにある。それを誰も気付かないフリをしているのだ。あっちがダメだ、こっちがダメだと言おうとも決断を下すのはジルヴァで、ジルヴァはあまり店をいじりたくないようだった。だからオージたちも余程のことがなければ指摘しないようにしている。オージたちが気付いていることはここで暮らしているジルヴァならもう既に知っていることだから。
 アルフィオもそうだ。あちこちガタがきていることには気付いただろうが何も言わなかった。厨房で注意を受けることなく連携が取れていた。『やっぱいいな、この感じ』と笑う皆の声が辛かった。まだ包丁を握って二年しか経っていないと自分でもわかっているが、どうしても嫉妬してしまう。
 ディルが口から吐いた言葉は嘘ではないが、笑顔と同じで表面的な言葉を並べただけ。感謝などしていないし、労いもない。ドス黒く塗り潰されている心に蓋をして気付かないふりをした。

「そう言ってもらえると嬉しいよ。こんなに狭い厨房で働いたのは初めてだけどね」
「テメーがデカくなりすぎなんだよ」
「そうだぜ。デカいのはアッチだけにしとけ」
「朝から品がねぇな、オージ」
「もう人生半分終わってんだ。残りの人生楽しむのに朝か夜かなんて気にしてられっかよ」

 宙で何かを掴むように両手を添えて腰を前後に振って笑うオージにジルヴァとディル以外が笑って賑やかになる。これから大忙しの最終日がやってくる。それを受け入れる覚悟を決めるに相応しい賑やかさだが、ディルは笑わない。

「今日はラストまで突っ走れよ」
「もう二度とあんなことにはならないから大丈夫」

 あの日、雨の中帰ったことをジルヴァは何も言わなかった。部屋に帰って驚いただろうか? それとも階段の上にいたことに気付いていただろうか? 僅かな物音にでも敏感に反応するジルヴァなら気付いていたかもしれない。それでも様子を見に行こうとはしなかった。それはアルフィオが同じ空間にいる安心感から警戒する必要がなかったせいだろうかとも思った。

「人と話すときは目ぇ見て話せって言っただろ」

 ディルは何か後ろめたさがあるとすぐに目を逸らしてしまう。ジルヴァの目を見れないことは過去に何度もあった。今は後ろめたい気持ちはないが、見たくなかった。だが、今はジルヴァとディルの関係ではなく、オーナーと従業員の関係。無視するわけにはいかない。

「頑張ります」

 笑顔を見せるディルにジルヴァは何も言わなかった。
 あの指輪をジルヴァは拒絶しなかった。大きすぎると文句は言っていたが、いらねぇとは言わなかった。そしてアルフィオは言った。あの指輪は愛だと。ジルヴァはその愛を受け取ったのだ。この完璧な男からの愛を。
 それが引っかかって胸に重りがついているかのように心を鈍くする。

「よし、やるぞ。気合入れろよ」

 それでもジルヴァはディルを気にする様子もなく手を叩いて厨房へと入っていった。

「ディル、大丈夫?」

 ジミーが声をかけてきた。

「大丈夫。ジミーこそしんどかったら言って。休憩早めに行かせてもらえるよう頼むから」
「十五歳の若者に心配されるようじゃあ僕もまだまだだね」

 気は弱いがとても優しい人。ここで働いてもう七年になるベテラン。一回り上だが、内気な性格故かディルはジミーと話していると心穏やかに過ごすことができる。ジルヴァを追いかけるのは苦でもないが、ジミーと話すと自分の心が疲れていることに気付くことが多い。

「ムリはしないようにね」
「そうだね。ムリすると迷惑かけるだけだってわかったからもう二度としないよ」
「迷惑じゃなくて心配、だよ。僕たちは仲間だから」

 仲間。その言葉にディルはすぐに返事できなかった。

「今日はきっと打ち上げがあるだろうから一緒に座ろう。オージたちと一緒に座ると拒んでも飲まされるから辛くてさ」

 隣に立ったジミーが手の甲でディルの手の甲をスリッと軽く撫でる。そのまま降りていく指がディルの指先に軽く触れて指の間で挟まれた。すぐに離れはしたが、ディルはその行為に鳥肌が立った。
 今更こんな行為に嫌悪はない。だが、驚いた。ジミーはいつも弱気で内気で自分の意見さえ押し通せない性格なのに、こんな積極性を持っていたのかと。

「あー……妹たちに早く帰るって約束したから打ち上げには出れないんだ。最近、家の周辺で揉め事が多発してるらしくて怖いって言ってて」
「あ……そう、なんだ。二人でも怖いものは怖いよね」
「女の子だし、まだ十歳だから」
「心配だよね。じゃあ、次の機会に一緒に座ってね」
「うん」

 ジミーがそれなりの感情を持っていることに気付いてしまったディルとしてはやり辛くなってしまった。今までは何も考えずに安らげる相手として接してきたのに、そういう感情を向けられてしまうと警戒してしまう。

「あの忙しさも今日で最後だから頑張ろう」

 そう言って逃げた。
 メニューを確認して、テーブルクロスのシワやグラスに曇りがないかを確認しているフリをする。
 アルフィオのせいで全員が疲弊しているのは癪だが、今日だけは対応するには限界があるほどの忙しさに感謝した。

「ディル」

 厨房から聞こえたジルヴァの声に顔を向けると姿は見えない。作業中なのだろう。顔も見せずに話そうとするジルヴァこそ目を見て話さないくせにと思いながらも返事をする。

「今日は過去一忙しい日だ。ヘマすんなよ」

 これは注意ではなく激励だとディルは判断した。ジルヴァはそこら辺にいる優しいお姉さんではない。煙草も吸うし、足も手も出るし、言葉も悪く、気遣いがわかりにくい。それでもジルヴァという人間を知っている者ならわかる。わざわざ顔を覗き込んで「大丈夫か?」と聞くような性格ではない。でもこうして何でもない言葉をかけてくれる。
 遠い人になってしまうかもしれない。もう心を寄せることさえ許されない人になってしまうかもしれない。これでいいのだと、それは当然だと思う日だって来るかもしれない。それでもまだ許されているから、まだそうなるまでに猶予があるから心が離れようとしない。好きだと実感して嬉しくなってしまう。
 表情が緩むディルを見つめるジミーの目にディルは気付いていなかった。舞い上がるほどの喜びに満ちていたのだ。

 深夜、道端でアルフィオとジルヴァがキスをしているのを見てしまうまでは──
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