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逃げ場所

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 目を覚ましたディルの目に飛び込んできたのは見覚えのある天井のシミだった。

「オレ……」

 顔を左右に動かして誰かいないか確認するも誰もいない。
 テーブルの上の時計は先程日付が変わったことを知らせている。

「やっちゃった……」

 一瞬で思い出した記憶になぜ自分がここにいるのか考える必要はなく、目の上に腕を置いて後悔と共に溜息を吐き出す。

『休日だからお前がいねぇと回らねぇからな。頼むぜ』

 そう言われていたのに倒れてしまった。管理不足だ。アルフィオが来るまではあの短い睡眠時間でも身体は平気だった。でもアルフィオが来てから目が回るような忙しさが続いたこともあって体力の限界を迎えていたのだろう。自分でも自覚がないわけではなかった。周りから顔色が悪い、休めと言われれば限界が近いことが明確に示されていたのにディルはそれに負の感情で抗おうとしていた。そして迷惑をかけた。

「最悪だ……」

 アルフィオがこの店で勤務するのが一週間限定というのもあって客は大勢押し寄せる。材料がなくなるまで客を入れ、材料がなくなり次第閉店だが、三日間の平均を計算して肉や魚の仕入れを変えたジルヴァにミスはなく、閉店時間まで物がなくなることはなかった。それもあって客は次から次へと押し寄せ、オージが『予約制にしとけよ!』と珍しく声を荒げることもあった。それでもジルヴァは頑なに『コイツが作った飯を食ったことが一生の思い出になる奴もいんだよ。並んで食えなかったなら仕方ねぇが、予約取れなくて食えなかったってのは最悪の記憶にしかならねぇだろ』と断った。だからシェフたちが疲弊して床に寝転んで休息を取るほど忙しくなった。それでも誰もストライキはしない。一週間限定だから頑張っていた。ディルもそうするつもりだった。笑顔で乗り切るつもりだったのに、最悪の結末を迎えてしまった。
 オージの言葉は励ますための言葉だったのかもしれない。気合を入れるための。申し訳なかったのはホールを一人で回したのだろうウエイターのジミー。申し訳ないことをしてしまった。
 どうなったのか、と確認するのも恐ろしい。

「謝らなきゃ」

 まだ二階に来ていないということはジルヴァは仕込み中だろうとベッドから起き上がってドアを開けて階段を一段降りたところでディルの足が止まった。下から男女の声が聞こえる。ジルヴァとアルフィオだ。

「お前はこのままここで店を続けるつもりか?」
「当たり前だろうが。他にどこでやんだよ」
「お前ならもっとデカい場所で店開けるだろ。大都市に出ろよ」

 アルフィオの言葉をジルヴァが鼻で笑う。

「金持ちが好むお上品な料理なんざ俺には作れねぇよ」

 吐き捨てるように言うジルヴァの料理は大衆向けであって美しくはない。だが、この店に来る客のほとんどがそういう料理を求めている。だから人気なのだ。

「この街は腐りきってる。ここでしか生きられない汚い人間が逃げ込む街だ」
「この街がどんなに汚かろうと俺はここでの商売を辞めるつもりはねぇよ。ここに店があるから仕事に励めるって客もいる。給料日になったら腹一杯食いに行くって目標ができるんだと。俺はそういう奴にはその日まで必死に働いたごほーびをやるんだ。ドカ盛りってごほーびをな。そしたらそいつら、マジで腹が破裂しそうなぐらい詰め込むんだぜ。んでさ、帰りに言うんだ。来月も頼むよって」

 シェフをやっていてそう言われることほど嬉しいことはない。美味しかったと言われるよりも嬉しい。歩くのさえ辛くなるほど膨らんだ腹を幸せそうに撫でて来月も絶対に来ると約束する常連の笑顔を思い出して笑顔になる。滅多にこんな風に笑わないジルヴァの笑顔は貴重だった。それを眺めるアルフィオの顔もつられて笑う。

「んな嬉しいこと言ってくれる客捨てて大都市で儲けようとするぐらいなら俺は料理人を辞めるね」
「儲けるのは悪いことじゃないだろ。この街の人間だけじゃなく、世界中の人間にお前の料理を届けたいと思わないのか? オーナーの味をさ」

 少し考える時間があった。ジルヴァの過去を知らないディルにはその沈黙の理由はわからない。アルフィオにはわかる。だから手を伸ばしてジルヴァの手を握ろうとするも引っ込められたことで触れられなかった。

「俺は儲けに興味はねぇ。そういうのは儲けたい奴がやりゃいんだ」

 ジルヴァを誘ったのはアルフィオが初めてではない。今までにもスカウトはあった。話だけではなく、実際に目の前に現金を持ってくる奴もいた。何年働けばそれだけの額を手元に残せるのかと思うだけの額を提示されたこともあったが、どんな好条件を出されてもジルヴァは資料に視線を落とすことさえしなかった。

「俺はここで料理人をやりてぇんだ。ここで料理人をやって、ここで死ぬ」

 ハッキリと言葉にするジルヴァにアルフィオはそれ以上何も言わなかった。ジルヴァという人間を知っていればそれ以上どんなことを何度言おうとムダなことはわかっているのだから。
 この街で生まれ育ったからといってこの街に執着する必要はない。ジルヴァは汚い身なりはしていないし、ここを出てもやっていける。それなのにジルヴァはこの街に、この店に執着して出ようとしない。
 過去に一度だけディルが聞いたことあった。『どうしてここで店をやろうと思ったの?』と。それに対してジルヴァは紫煙を空に向けて吐き出しながらこう答えた。

『この店が俺の命だからだ』

 その表情があまりにも凛としていたものだからディルは見惚れて世間話のようにその言葉の意味を追求できなかった。
 この店のことになると誰が聞こうと同じなのだ。それがディルでもアルフィオでも意見を変えることはない。それがなんだかディルはとても誇らしかった。
 アルフィオの誘いに乗ったらどうしようかと思っていたが、杞憂に終わったことで一階に降りようとしたディルだが、聞こえた言葉に身体の動きがまた止まる。

「指輪ができた」

 なんの指輪だ? 誰の指輪だ?
 身体を屈めて階段の手すりの隙間から覗き込むと二人の様子が見えた。アルフィオが持っていた箱がテーブルの真ん中に置かれ、それがジルヴァのほうに軽く押される。
 椅子の上に片足を乗せて膝を立てているジルヴァはその箱を取ろうとしない。

「どうだ?」
「デケーな」
「美しいだろ」
「デカすぎんだろ。邪魔になる」

 ディルからでもその煌めきがわかるほど大きな宝石がついた指輪。ディルがレストランで働いて、身体を売ってもあんな指輪は買えやしないのに、アルフィオは料理をしただけで簡単に買えてしまう。これが現実なのだと唇を噛み締めるほど思い知らされる。

「指輪につけた宝石の大きさは愛の大きさだ。これは男の甲斐性を意味する」

 甲斐性という言葉にディルの胸が痛む。

「ほー、そりゃすげぇな。こりゃ宇宙からでも見えそうだ」
「それぐらいでなければ指輪を贈る意味なんてないだろ」

 ディルはなぜ覗いてしまったのだろうと後悔した。覗かなければ宝石の大きさを知ることはなかった。もしかしたらそれほど大きな物ではなかったかもしれないと勝手にそこそこの大きさで想像できたのに、覗いたがばかりにあれは勝ち組だけが手に入れられる物だと知ってしまった。わざわざ自分で惨めな思いをするために覗いたようなもの。
 自分とジルヴァがつり合うはずがないなんてわかっている。親なし、金なし、甲斐性なしの自分がこの街一番の最高のシェフと恋人になれると本気で信じていたことのほうがおかしいのだ。
 ハジメテを捧げられただけで、肌を一度重ねただけで何を勘違いしていたのか。
 覗くために屈めた上半身を起こして膝を抱える。

「なんであんな汚いガキを構うんだ?」

 自分のことを言われているのだとすぐにわかった。
 あれだけフレンドリーに接していながら心の中ではそう思っていたのだ。でも自分もそうだったから悔しくはならない。ガキであることも汚いことも間違ってはいないから。

「随分と入れ込んでるらしいじゃないか」
「らしい、ねぇ」

 金持ちは近寄りもしないこの街にどうでもいい噂はあまり流れない。この街の者たちが興味を持っているのは酒とギャンブルと性だけ。誰かが誰かに入れ込んでいるという話に食いつく物はいないが、ギャンブルに参加しないか?という話には涎を垂らして飛びつく。それがこの街だ。
 いくらジルヴァがこの街ではある程度有名だとしても一回り離れている子供に入れ込んでいるなんて話は自ら聞き込みでもしなければ得られないだろう。だからジルヴァはアルフィオの言い方に嘲笑混じりに肩を竦めた。

「逃げ場があるのに見えてないってのは可哀想だろ」

 あれから五年経った今、ディルはジルヴァに同情してほしいとは思っていない。可哀想だと思って抱きしめてほしいなどと甘えもしない。
 この五年でディルはそれなりに成長したつもりだった。でもジルヴァの中ではあの可哀想だった十歳の子供のままなのだと知った。
 
「で、お前がその逃げ場所って?」
「そうだ」

 即答したジルヴァにアルフィオが声を上げて笑う。

「随分な自信だな」
「まあな」

 笑い合う二人の感情とは対照的にディルの感情は泥沼の中へと沈んでいくようだった。
 逃げ場所なんてどこにもない。
 妹たちが成人するまであと六年。最低でもその年数は何があろうと絶対に守ってやらなければならない。苦労させないように、嫌な思いをさせないように、ちゃんとした恋人が作れるように、恋人をちゃんとした家に連れて来られるように兄として整えてやらなければならないのだ。それだけならまだいい。毎日笑顔で過ごせる。妹たちのために働くのは負担にもならないから。
 でも、ディルが抱えているのはそれだけではない。ジンとの約束を破れば地獄が待っている。想い人からは子供に見られたままで、突然やってきた男は完璧で、愚痴を吐き出せるところさえないディルに逃げ場所などない。誰かに助けてなんて言えるはずもないのだから。
 自業自得。そう言い聞かせながらディルは二階にある出口から外階段へと出た。外は雨。また雨。ディルに最悪が降りかかる日はいつも雨が降っている。
 今日も予約が入っていた。こんな時間だ。ジンは怒っているかもしれない。怒っているジンには会いたくない。何を言われるか、何をされるかわかっているから。だからといって家に帰って妹たちを抱きしめながら朝まで眠ることはできない。
 一階までの階段を降りるだけでびしょ濡れになるほどの大雨の中、ディルは裏路地を通ってジンの元へと向かった。
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