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 夜、と言っても解放されたのは明け方。一度家に帰って妹たちに朝食を食べさせてから出勤した。
 気持ちを切り替えて今日も仕事を頑張ろうと思っていたのに、朝礼から気分はどん底まで落とされる。

「今日から一週間限定で新人が入る」

 一週間限定の新人。そう言われたのは昨日見たあの男、アルフィオだった。
 名前が入った自店のコックコートに身を包んだ背の高いスラリとした男。間近で確認した顔はモテるだろうと確信するほど整っていて、それだけで嫌な気持ちになる。金も実力も容姿も全て持っている男。

「アルフィオじゃねぇかよ! 久しぶりだなぁ!」
「連絡ぐらい寄越せよ薄情者!」
「元気そうだな! 儲かってるらしいじゃねぇかよ!」

 ジルヴァの知り合いではなく、この店に関わっていたのだろうことがわかるほどシェフたちは大喜びしている。肩に拳を押し当てて笑う皆の様子にディルだけが疎外感を味わっており、笑顔で挨拶すべきなのに口元を緩ませることもできない。

「皆すごいおじさんになったなぁ」
「んだとテメー! 女のケツ追いかけるしか能がなかったガキンチョだったくせに生意気言うじゃねえか!」
「今もだよ」
「そりゃそうか! ハーッハッハッハッハッハッハッ!」

 オージの笑い声が一段と大きくなり、開店前の店に響き渡る。
 彼の笑い声がディルは好きだ。オージが笑えば皆が笑う。それはディルも例外ではない。オージの笑い声を聞くだけで笑ってしまうのに、今日は違う。五年で馴染んだ世界が壊されていく気分だった。

「君が──」

 楽しそうに会話する彼らを見ていられず俯いていたディルの視界にコックシューズが入った。顔を上げると見えたのはアルフィオ。見上げるほど背が高く、厚めの胸板が備わっているのがわかる。筋肉をつけようとしているディルがまだ手に入れられていないものだ。彼はディルが持っていない物を全て持っている。ジルヴァの肩を抱くことも許されている男だ。

「ディル君?」

 気安く名前を呼ぶな。許されるならそう言いたい。でもジルヴァの前でそんなことは言えないから笑顔を作って「はじめまして」と握手を求めた。

「アルフィオだ。よろしく」
「よろしくお願いします」

 握った手の大きさ、硬さ、熱さに男を感じる。骨ばったこの指も女性は好きなんだろうなと嫉妬のような感情が込み上げるのを感じていた。ジルヴァが彼に向かなきゃそれでいいのに、ジルヴァだって人間だから、心があるからいつ動かされるかわからない。この五年間、ずっとそんな感情と戦ってきた。そしてきっとこれからもそれは続いていく。たぶん、永遠に。

「若いね」
「十五歳なんで」
「夢を持つのは若ければ若いだけ良いよな。たっぷり時間をかけられる」
「そうですね。ジルヴァに一から全部叩き込まれて必死に追いつこうとしてるところです」
「覚えるだけで精一杯のくせに追いつくなんざ百年早ぇよ」
「アイツ、口悪いだろ? 平気か?」
「口は悪いけどジルヴァはとても優しいので大丈夫です──ッ」

 言い方に含みがあったと自覚はあったが、その直後に握っているアルフィオの手に結構な力が加わった。ほんの一瞬だが、その一瞬が驚くほど強かった。ピクッと頬の筋肉が一瞬動いただけだが、明らかにアルフィオも悪意を持ってそうした。オージたちの笑い声で彼らに届くことはなかったが、ディルにはハッキリ聞こえた。

『へえ……』

 そう言ったのだ。

「一週間だけだけど世話になるよ」

 爽やかな笑顔と共に手を離したアルフィオは確実にジルヴァに好意を持っている。だから好意を示す自分が気に食わないのだと確信した。
 何も持っていない十五歳の子供を目の敵にする男の器の小ささにディルは作り笑いではなく心の底から笑顔を浮かべた。それもジルヴァと目が合ったことですぐに消えた。なんでも見透かしそうなあの瞳と目が合うだけで気まずくなる。昨日のこと、気付いているかもしれないと沈んでいた不安が再浮上してしまう。

「ディル! ちまちま野菜運んでんじゃねぇ! 畑から全部持ってくるぐらいしろ!」
「はい!」
「ディル! 野菜より溜まった皿洗うのが先だろうが! 目ぇついてんのか!」
「はい!」
「上の飾りはそれじゃねぇだろ! 覚えてねぇのか!」
「すみません!」

 狭い店の狭い厨房は客からもよく見える。あのアルフィオが働いているという話はあっという間に広がって信じられないほどの行列ができた。普段とは比べ物にならないほどの忙しさに普段は許容されるディルの動きにジルヴァから怒声が飛ぶ。まだ料理を任されていないディルは他のシェフのサポートをするのが仕事だが、今日はあまりの忙しさに上手く脳と身体が動かなかった。
 客は食事をしに来ている。皆が皆、時間に余裕があるわけではない。いつもの調子で昼休みに食べに来た者もいる。ミスの許されない現場でミスをすることは命取りとなる。

「あッ!」

 ヤバいと思ったときには遅く、ジルヴァが振り向くタイミングと同時にディルが動いたせいで二人の腕が強くぶつかった。その瞬間、金属が地面にぶつかる音が響き、その一瞬だけ店内が静かになった。

「ご、ごめんなさい! ど、どうしよう! ソースが!」

 料理の最後にかけるソースが入った鍋がぶつかった衝撃でジルヴァの手から離れて床に落ちてしまった。美味しいと味わわれるはずだったソースが床に撒き散らされ、ディルだけがあたふたする。他のシェフは各々が役割を持っているため手を止めて慰めるわけにはいかない。床に落ちたソースは跳ねた油と同じ。皆が躊躇なくソースを踏みつけて慌ただしく動き回る。

「ジル──」
「ディル」
「すぐ掃除しま──」

 片付けなければならないと慌てて掃除道具を取りに行こうとするディルの肩を掴んで入り口に突き飛ばすようにジルヴァが押す。

「お前の仕事はホールだ」
 
 邪魔だと言われているようなものだが、ハッキリそう言われなかっただけ救いだ。今日はもう厨房には入れないだろう。いつもより客が多く、いつもよりシェフが一人多い。全てが違う中でミスなくこなすことは理想でもディルはそこまで器用にできていない。上手くこなせていると思っていたのは周りがディルのことまで見てサポートしてくれていたからで、自分の実力ではなかったと思い知る。
 今日は目が回るほど忙しい。一人しか雇っていないウエイターも目を回している。これが自分の仕事だと言われれば間違いなくそうなのだろう。気を利かせて自分から言うべきだった。アルフィオがどれほどの実力か見てやる、なんて謎の上から目線で足を引っ張っただけ。一番見せたくなかった姿だったのに。押し寄せる後悔に気分を落としそうになりながらもディルはグッとそれを飲み込んでウエイターの仕事をこなした。

 昼ではない昼休憩を迎える頃、ジルヴァとアルフィオの二人以外の全員がグッタリしていた。

「もう今日はディナーやめようぜ。食材ねぇだろ」
「冗談で言ってんなら拳で済ませる。マジで言ってんなら火炙りだぞ」

 テーブルに頬を乗せたまま両手を上げて冗談だと告げるオージの頭をパンッとジルヴァが叩く。
 賄いは出来ているのに誰も手をつけようとしない。そこそこの年齢を迎えている古株のシェフたちにとって今日の忙しさは肉体的にキツかったらしく、オージの言葉に賛成だと頷いていたが、ディナーも続行することが決定すると全員が口から魂が抜けそうになっていた。

「買い出し行ってくる」

 今日はランチだけで一日の平均来客数を超えたのもあって、オージの言うとおりディナー分の食材がなくなってしまった。疲れを見せないジルヴァが煙草咥えて立ち上がるとディルも立ち上がる。

「オレも一緒に──」
「俺が車を出そう」

 車。どう転んでもディルが手に入れられない物。免許も車もディルにはまだない。永遠にないかもしれない。
 ディルと違って涼しい顔でスマートに手伝いを申し出るアルフィオをジルヴァは拒否しなかった。

「オレも行くよ!」

 二人きりにしたくない。そんな子供じみた考えで手を上げたのだが、ジルヴァはそれを拒否した。

「ダメだ。お前が来たら食材が乗らなくなる」

 ディナーは更に客が増えることはディルにもわかる。歩いて抱えられる量の買い込みではないだろうこともわかる。車があれば多少買いすぎても乗せればここまで帰ってこれる。ディルが乗っているだけで場所を取るためジルヴァの言葉は尤もだが、悔しい。

「行くか」

 奥にあるスタッフルームにかけていたコートの中から鍵を取ってきたアルフィオと共にジルヴァが出ていく。

「アイツが相手じゃ勝ち目はねぇな」
「ライバルだと思ってないし」
「そりゃ向こうもだろ」

 笑い声がするが、いつもより元気がない。疲れているのだろう。口だけはいつもどおり回っても力のいる笑いにまでは元気が回らない。

「アルフィオはこの店にジルヴァと同じ頃にやってきたからな」
「昔からの知り合いなの?」
「元オーナーに育てられた兄妹みたいなもんだろうな」
「アルフィオはいつもジルヴァにベッタリで、ジルヴァはいつもそれを鬱陶しがってた」
「長い片想いだぜ」
「でも他の女の人のケツを追いかけてたんでしょ?」
「男だからな。俺だって嫁のことは愛してるが、あの姉ちゃん良いなって思うぜ」
「ナンパもしてるしな」
「その日の疲れ、その日のうちにって言うだろ。その日の出会いもその日のうちに、だ」

 店が暇な日にデイヴがよくナンパしているのは誰もが知っている。筋骨隆々で切れ長の目が男女問わず人気で、デイヴも男女問わず口説きにかかる。その面白さから客がわざわざ会いに来るためジルヴァも止めはしないが鬱陶しそうにしていた。
 ジルヴァと二人の付き合いがいつからなのか、ジルヴァにどういう知り合いがいるのかさえ知らない自分はジルヴァについて本当に何も知らないのだと実感する。

「ディル」
「ん? わっ、なに!?」

 急にグシャグシャッと髪を撫で回されたことに慌てるディルにオージが言った。

「負けるなよ」

 その言葉になんだか泣きそうになった。応援してくれているだけだ。泣くようなことではないのに目頭が熱くなる。諦めるつもりはないけど、勝てっこないと思う気持ちが心の奥底にあって。自分が身を投じた世界を知ればジルヴァは嫌悪を示すのではないだろうか。シェフとして世界に名を轟かせている何もかもを持っている男に、自分が知らないジルヴァをたくさん知っている男に勝ち目なんかないのではないかと思っていたところにオージがかけてくれた言葉が染み入った。

「若さではオレのが勝ってる。これは一生覆らないね」
「そりゃ違いねぇな!」

 世界に名を轟かせるほどのシェフになればいい。年収だって店舗数だって超えればいい。そうすれば車だって買える。顔だけは良いと幼い頃から言われた。だから二十代になれば今よりずっとイイ男になっているかもしれない。毛皮のコートが似合うほどイイ男に。そんなのは望みの薄い話かもしれない。でも誰も否定はしない。こうして唯一自分が勝っているものを挙げて大笑いしてくれる彼らにディルの心は少し救われた。
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