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五年目の真実
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今日は最悪な日だった。いや、今も最悪なのだから最悪続きだと言う他ない。
あれから職場に戻るとオージに叩かれた。ジルヴァはオージが遅れるといつも『やる気がないなら辞めろ』と言うが、オージはディルにそうは言わなかった。わかっているのだ。ディルが昼食も取らずにどこへ向かったのか。真面目なディルが最悪の顔で戻ってきたのを見て突き放すような言い方ができるわけがない。遅れるしかなかった。それがディルの言い分だと理解している。だから頭を引っ叩くだけで終わった。その行為はこの店のルールのようなものだからやった。その証拠にあまり痛くはなかった。
ジルヴァはいつも通りの顔でいつも通りの態度を貫いた。きっと今までも同じことがあったのだろう。この顔でこの声を出して周りに何一つ変わらない態度で接するのだから幸せいっぱいの頭で気付けるはずがない。
『誰かの幸せは誰かの犠牲の上にある』
父親だったか、母親だったか、そこら辺の酔っ払いだったか……誰かがそう言っていた。まさにそうだ。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
「散歩だよ。夜風に当たりたいんだ」
「あんまり遅くなっちゃダメだよ」
「わかってる。兄ちゃんは鍵持ってるから戸締りしっかりな」
「うん!」
夜はいつもどおりすぎて嫌だった。Closedの看板を下げたあと、ジルヴァはやはり「さっさと帰れ」とは言わず、妹たちがやってくるのを待って、いつもどおり食事を提供してくれた。それを眺める微笑みもいつもどおり。嫌だった。
でも、そうしなければならなかったんだと理解したのは妹たちが店に来てから。嫌な気分を顔に出すわけにも、ショックを受けた日だったと悟らせるわけにもいかない。だからディルもいつもどおり笑顔で接した。
妹たちは何も知らない。何も知らないでいい。自分が兄としてそう思ったように、ジルヴァも同じような気持ちでいたのかもしれないと理解した。八つ当たりなんてできるわけがない。そう思うことができたのは幸いだったが、これから向かう先にいる人物のことを考えるとやはり気分は最悪で。
家を出て、妹たちが鍵を閉めた音を確認してから通りへと向かう。十五歳になったディルに声をかける者は多い。こんな夜更けに若者が歩いていて声をかけられないはずがない。声をかけられるだけで終わればラッキーな街だ。ディルはそれを知っているから声をかけてきた人間に「ジンに呼ばれてるんだけど、どこにいる?」と聞いて回った。聞けばわかると言うほどだからそれなりに名の知れた男なのかもしれないと武器にしたのだが、正解だった。腕を掴んできた男でさえ今からジンに用事があると言うだけで居場所を告げて去っていく。背後で舌打ちが聞こえようとも手を出されなければ気にもならない。
この身体は大事にしなければならない。包丁を握って、フライパンを振って、鍋を掻き混ぜて、客に料理を提供して、バタついた厨房の中で動き回る。あの中で役立たずにならないためには指一本だって失うわけにはいかないのだ。だからジンの名前があって助かったと心から安堵した。
「最悪……」
聞く人間全員が真実を言っていた。誰もが同じ場所を告げ、そのとおりに向かうと普段は絶対に通らない路地を抜けた先に三階建てのビルがあり、薄明かりがついている。
窓を見上げると女が張り付き、その後ろには男が立っている。一定のリズムで動いている様子に眉を寄せながら目を閉じた。
今すぐにでも踵を返して立ち去りたいが、用事があって来たのだと固い決意のもと、自分の足でやってきた以上は引き返せない。
嫌だと地面に張り付く足を無理矢理引き剥がして建物の中へと入っていく。
入り口は不気味なほど薄暗く、その奥にある階段へ向かうと男が二人スッと姿を見せた。
「ッ!」
悲鳴を上げなかっただけ偉いと自分を褒めてやりたくなるほど驚いた。バクバクと異常な速さで動く心臓を押さえながら平静を装う。
「ジンに呼ばれてる。ディルだ」
ディルが名乗ると男たちは何も言わずに道を開けた。彼らが名前を聞いていたということはジンはディルがここに来ることがわかっていたということ。それがディルは悔しかった。
この階段を駆け上がって、あのとき出来なかったドアを蹴破って中に入り、ジンを見つけて顔を殴りつける。それが出来たらどんなにいいだろう。そんなことをしてジルヴァがより酷い目に遭ったらと思うとディルの足は大人しく一歩ずつ踏み締めるようにして階段を上がっていくしかできなかった。
二階にいた男たちが道を開けないということは三階だと判断して上がると三階のフロアへ続く入り口に立っていた男たちが道を開け、一人がドアを開けた。一本道の奥に一人だけ男が立っていて、そこへ向かうと男はディルの顔を見てドアをノックした。
「ジン、ディルが来ました」
一階からここまで五人の男が立っていた。どれも屈強そうな男たち。そんな輩を従わせるだけの力を持った男をなぜ自分が知らないのだろうと不思議だった。
「入れ」
ジルの声を合図にドアを開けた男がディルに入れと顎を動かした。
中に入るとドアが閉まる。ご丁寧に向こうから鍵までかけられた。中は相変わらず廊下同様に薄暗いが、この部屋一面に敷かれた絨毯が赤だということはわかる。それからジンがニヤついていることも。
「来ると思ってたぜ、ディル」
またあの視線だ。上から下まで舐めるように這わされる視線が蛇のようにまとわりついてくる。椅子から立ち上がってゆっくりと歩み寄ってくるその時間はきっと三秒程度だっただろうが、ディルはもう何時間もこの場所に立っているように感じていた。
「あそこではジルヴァが邪魔して話せなかったからな。ここならゆっくり話せる」
視線と同じねっとりとした話し方に鳥肌が立つ。伸びてきた手がディルの頬を優しく撫で、それが首筋へと降りていく。今すぐにでも払い除けたいが、聞きたいことがあるディルは今ここで相手を怒らせるような行動を取るべきではないと判断して拳を握りながら我慢していた。
「お前なら技術さえありゃお前が必死に働いて稼ぐ一ヶ月分の給料が一日で稼げるぞ」
その言葉が靴磨きや新聞配達をしているだけなら魅力的だと思っただろう。ディルは渋々あそこで働いているわけじゃない。脅されて仕方なくというわけでもない。自ら望んであの場所にいるのだ。靴磨きをするよりずっと厳しく、罵倒だって飛んでくるが気に入っている。なにより、あそこで働いていればジルヴァの傍にいられるのだ。金額だけで手放すはずがない。
「稼ぎに来たわけじゃないってわけか」
揺らがない瞳に察したのか、ジンはディルから手を離して部屋の中央に置いてあるソファーにドカッと乱暴に腰掛けた。
「俺とアイツがどういう関係か聞いてもショック受けるだけだぞ」
含みのある言い方にディルは自分が否定していた関係が実は真実なんじゃないかと不安になった。握っていた拳に更に力が入ったのか手が震える。
「ジルヴァを乱暴に扱うな。ジルヴァは優しい人なんだ。あんな扱いを受けていい人間じゃない」
振り絞るように出した言葉に目を瞬かせたジンがこれ以上ないというほど愉快そうに大声で笑う。
「アイツが優しい? あんな扱いを受けていい人間じゃない? おいおい、とんだお坊ちゃんだな。アイツはああされることを望んでんだよ。あれがアイツの望みだから俺が叶えてやってんだ。優しいのは俺のほうだろうが」
「嘘だ! ジルヴァはあんなこと望んでない!」
「あーあー、そうかそうか。お前はなーんにも知らねぇバブちゃんだもんな。五年間、何も知らずに守られてきた気分はどうだ?」
なぜ自分とジルヴァの付き合いが五年ということを知っているのか。ディルの心臓がまた速くなる。
「この街で生きてる奴にロクな奴はいねぇ。大体の奴がなんらかの犯罪経験を持ってる。強盗、強姦、殺人、薬。こんなのはもはや罪じゃねぇ。でもお前にとっちゃどうだ?」
ドクンッと心臓が大きく脈を打つ。
この男は何を知っている? 何を言おうとしている?
「あれは……雨の日だったか。確か、大雨だったよなぁ?」
一瞬で蘇る、胸の奥底に閉じ込めていた最悪の記憶。心臓か、脳か、それとも全身か。どこの脈が異常を知らせているのかわからないほど、ディルの呼吸が乱れ始める。
「車に跳ねられた母親を見殺しにするってのはどんな気分だった? 最高だったか? そりゃそうだよな? この街に真っ当な人間はいねぇ。腐った大人しかいねぇ場所で育ったガキもあっという間に腐っちまう。お前の母親も腐ってたよなァ。だが、お前はまだ腐ってねぇ。いや、腐りきってねぇ、か。親殺しは立派な勲章だぜ、ディル」
あの日、誰も見ていないと思っていた。ちゃんと確認したつもりだった。だが、周囲を走り回って路地に入ってまで確認したわけじゃない。あくまでも見回しただけだ。どこかで誰かが見ていてもおかしくなかった。誰も助けに来なくても、盗み見るぐらいなら誰だってする。そこまで頭が回らなかったのだ。だから失敗した。
「顔の良いガキはサツ共の好物だからな。お前を提供すりゃあ俺はこの街の支配者になれたんだが……なあ?」
まさかと目を見開いたディルに向けて指で作った銃を打つ真似をしたジンが彼を絶望の底に叩き落とす。今にも崩れそうな膝でなんとか踏ん張って堪えているが、気を抜けばすぐにでも床にへたり込んでしまいそうだった。
「あのジルヴァに弱点が出来たって聞いたからどれだけその瞬間を待ってたか」
その瞬間、ディルは全てを理解した。
「俺の……代わりに……?」
「そうだ。お前をサツの餌にしない代わりにジルヴァが俺の餌になったってわけだ。信じられるか? 隙一つ見せねぇ奴がガキ一人守るためにテメーを差し出したんだぜ。俺は感動したね。ジルヴァを手に入れて、ジルヴァの永遠の弱味も握った。五年間、楽しかったなァ」
五年間。あの大雨の日のことを知ってからジンはすぐにジルヴァに接触したのだろう。そしてジルヴァはそれをただ受け入れた。ディルを守るためだけに己を差し出し、今も律儀にその約束を守っている。
恍惚とした表情で天井を見上げながら語るジンを睨みつけながら噛み締めた唇から顎へと血が伝う。だが、睨みは長く続かない。ジンが悪いんじゃない。ジルヴァが悪いんじゃない。母親を見殺しにした自分が悪いのだ。全て自分が蒔いた種でしかない。
何も知らず、ただ幸せな五年間を過ごしてきた自分がいかに愚かでどうしようもない人間なのかを自覚させられただけ。十歳だったあの頃から何一つ成長していない自分が現実を突きつけられて佇んでいる。鏡で見ずともわかる滑稽さにディルは思わず手の甲で目を隠すように覆った。
その様子を見たジンが立ち上がり、歩み寄っていく。
「可哀想に。泣きたくなるよなぁ。お前があの日、ちゃあんと母親を助けようとしてればこんなことにはならなかったんだもんなぁ。母親の手を握って、ダレカタスケテーって叫んでればジルヴァを脅す材料にはならなかったってのに、お前が母ちゃんを見殺しにしたからジルヴァが俺みたいなクズに身体を差し出すことになっちまった。五年間、お前が頭の中お花畑にしてる間に俺は裏でたーんとしゃぶりつかせてもらったぜ。これからも、だがな」
含み笑いが混ざった言葉が耳元で吐息と共に吐き出される。それにディルが嫌悪することはない。嫌悪すべきは自分だから。
喉の奥がキュッと締まるような感じがした。
「……お………い…」
振り絞った声をちゃんと聞いたジンが待ってましたとばかりにニヤついてディルを抱きしめる。尻の形を確認するように鷲掴みにしてから手を這わせ、背中の窪みをなぞっていく。
「いいぜ。取引成立だ」
顎を伝うディルの血をねっとりと舐め上げるジンにディルはなんの反応も示さなかった。
あれから職場に戻るとオージに叩かれた。ジルヴァはオージが遅れるといつも『やる気がないなら辞めろ』と言うが、オージはディルにそうは言わなかった。わかっているのだ。ディルが昼食も取らずにどこへ向かったのか。真面目なディルが最悪の顔で戻ってきたのを見て突き放すような言い方ができるわけがない。遅れるしかなかった。それがディルの言い分だと理解している。だから頭を引っ叩くだけで終わった。その行為はこの店のルールのようなものだからやった。その証拠にあまり痛くはなかった。
ジルヴァはいつも通りの顔でいつも通りの態度を貫いた。きっと今までも同じことがあったのだろう。この顔でこの声を出して周りに何一つ変わらない態度で接するのだから幸せいっぱいの頭で気付けるはずがない。
『誰かの幸せは誰かの犠牲の上にある』
父親だったか、母親だったか、そこら辺の酔っ払いだったか……誰かがそう言っていた。まさにそうだ。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
「散歩だよ。夜風に当たりたいんだ」
「あんまり遅くなっちゃダメだよ」
「わかってる。兄ちゃんは鍵持ってるから戸締りしっかりな」
「うん!」
夜はいつもどおりすぎて嫌だった。Closedの看板を下げたあと、ジルヴァはやはり「さっさと帰れ」とは言わず、妹たちがやってくるのを待って、いつもどおり食事を提供してくれた。それを眺める微笑みもいつもどおり。嫌だった。
でも、そうしなければならなかったんだと理解したのは妹たちが店に来てから。嫌な気分を顔に出すわけにも、ショックを受けた日だったと悟らせるわけにもいかない。だからディルもいつもどおり笑顔で接した。
妹たちは何も知らない。何も知らないでいい。自分が兄としてそう思ったように、ジルヴァも同じような気持ちでいたのかもしれないと理解した。八つ当たりなんてできるわけがない。そう思うことができたのは幸いだったが、これから向かう先にいる人物のことを考えるとやはり気分は最悪で。
家を出て、妹たちが鍵を閉めた音を確認してから通りへと向かう。十五歳になったディルに声をかける者は多い。こんな夜更けに若者が歩いていて声をかけられないはずがない。声をかけられるだけで終わればラッキーな街だ。ディルはそれを知っているから声をかけてきた人間に「ジンに呼ばれてるんだけど、どこにいる?」と聞いて回った。聞けばわかると言うほどだからそれなりに名の知れた男なのかもしれないと武器にしたのだが、正解だった。腕を掴んできた男でさえ今からジンに用事があると言うだけで居場所を告げて去っていく。背後で舌打ちが聞こえようとも手を出されなければ気にもならない。
この身体は大事にしなければならない。包丁を握って、フライパンを振って、鍋を掻き混ぜて、客に料理を提供して、バタついた厨房の中で動き回る。あの中で役立たずにならないためには指一本だって失うわけにはいかないのだ。だからジンの名前があって助かったと心から安堵した。
「最悪……」
聞く人間全員が真実を言っていた。誰もが同じ場所を告げ、そのとおりに向かうと普段は絶対に通らない路地を抜けた先に三階建てのビルがあり、薄明かりがついている。
窓を見上げると女が張り付き、その後ろには男が立っている。一定のリズムで動いている様子に眉を寄せながら目を閉じた。
今すぐにでも踵を返して立ち去りたいが、用事があって来たのだと固い決意のもと、自分の足でやってきた以上は引き返せない。
嫌だと地面に張り付く足を無理矢理引き剥がして建物の中へと入っていく。
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「ジンに呼ばれてる。ディルだ」
ディルが名乗ると男たちは何も言わずに道を開けた。彼らが名前を聞いていたということはジンはディルがここに来ることがわかっていたということ。それがディルは悔しかった。
この階段を駆け上がって、あのとき出来なかったドアを蹴破って中に入り、ジンを見つけて顔を殴りつける。それが出来たらどんなにいいだろう。そんなことをしてジルヴァがより酷い目に遭ったらと思うとディルの足は大人しく一歩ずつ踏み締めるようにして階段を上がっていくしかできなかった。
二階にいた男たちが道を開けないということは三階だと判断して上がると三階のフロアへ続く入り口に立っていた男たちが道を開け、一人がドアを開けた。一本道の奥に一人だけ男が立っていて、そこへ向かうと男はディルの顔を見てドアをノックした。
「ジン、ディルが来ました」
一階からここまで五人の男が立っていた。どれも屈強そうな男たち。そんな輩を従わせるだけの力を持った男をなぜ自分が知らないのだろうと不思議だった。
「入れ」
ジルの声を合図にドアを開けた男がディルに入れと顎を動かした。
中に入るとドアが閉まる。ご丁寧に向こうから鍵までかけられた。中は相変わらず廊下同様に薄暗いが、この部屋一面に敷かれた絨毯が赤だということはわかる。それからジンがニヤついていることも。
「来ると思ってたぜ、ディル」
またあの視線だ。上から下まで舐めるように這わされる視線が蛇のようにまとわりついてくる。椅子から立ち上がってゆっくりと歩み寄ってくるその時間はきっと三秒程度だっただろうが、ディルはもう何時間もこの場所に立っているように感じていた。
「あそこではジルヴァが邪魔して話せなかったからな。ここならゆっくり話せる」
視線と同じねっとりとした話し方に鳥肌が立つ。伸びてきた手がディルの頬を優しく撫で、それが首筋へと降りていく。今すぐにでも払い除けたいが、聞きたいことがあるディルは今ここで相手を怒らせるような行動を取るべきではないと判断して拳を握りながら我慢していた。
「お前なら技術さえありゃお前が必死に働いて稼ぐ一ヶ月分の給料が一日で稼げるぞ」
その言葉が靴磨きや新聞配達をしているだけなら魅力的だと思っただろう。ディルは渋々あそこで働いているわけじゃない。脅されて仕方なくというわけでもない。自ら望んであの場所にいるのだ。靴磨きをするよりずっと厳しく、罵倒だって飛んでくるが気に入っている。なにより、あそこで働いていればジルヴァの傍にいられるのだ。金額だけで手放すはずがない。
「稼ぎに来たわけじゃないってわけか」
揺らがない瞳に察したのか、ジンはディルから手を離して部屋の中央に置いてあるソファーにドカッと乱暴に腰掛けた。
「俺とアイツがどういう関係か聞いてもショック受けるだけだぞ」
含みのある言い方にディルは自分が否定していた関係が実は真実なんじゃないかと不安になった。握っていた拳に更に力が入ったのか手が震える。
「ジルヴァを乱暴に扱うな。ジルヴァは優しい人なんだ。あんな扱いを受けていい人間じゃない」
振り絞るように出した言葉に目を瞬かせたジンがこれ以上ないというほど愉快そうに大声で笑う。
「アイツが優しい? あんな扱いを受けていい人間じゃない? おいおい、とんだお坊ちゃんだな。アイツはああされることを望んでんだよ。あれがアイツの望みだから俺が叶えてやってんだ。優しいのは俺のほうだろうが」
「嘘だ! ジルヴァはあんなこと望んでない!」
「あーあー、そうかそうか。お前はなーんにも知らねぇバブちゃんだもんな。五年間、何も知らずに守られてきた気分はどうだ?」
なぜ自分とジルヴァの付き合いが五年ということを知っているのか。ディルの心臓がまた速くなる。
「この街で生きてる奴にロクな奴はいねぇ。大体の奴がなんらかの犯罪経験を持ってる。強盗、強姦、殺人、薬。こんなのはもはや罪じゃねぇ。でもお前にとっちゃどうだ?」
ドクンッと心臓が大きく脈を打つ。
この男は何を知っている? 何を言おうとしている?
「あれは……雨の日だったか。確か、大雨だったよなぁ?」
一瞬で蘇る、胸の奥底に閉じ込めていた最悪の記憶。心臓か、脳か、それとも全身か。どこの脈が異常を知らせているのかわからないほど、ディルの呼吸が乱れ始める。
「車に跳ねられた母親を見殺しにするってのはどんな気分だった? 最高だったか? そりゃそうだよな? この街に真っ当な人間はいねぇ。腐った大人しかいねぇ場所で育ったガキもあっという間に腐っちまう。お前の母親も腐ってたよなァ。だが、お前はまだ腐ってねぇ。いや、腐りきってねぇ、か。親殺しは立派な勲章だぜ、ディル」
あの日、誰も見ていないと思っていた。ちゃんと確認したつもりだった。だが、周囲を走り回って路地に入ってまで確認したわけじゃない。あくまでも見回しただけだ。どこかで誰かが見ていてもおかしくなかった。誰も助けに来なくても、盗み見るぐらいなら誰だってする。そこまで頭が回らなかったのだ。だから失敗した。
「顔の良いガキはサツ共の好物だからな。お前を提供すりゃあ俺はこの街の支配者になれたんだが……なあ?」
まさかと目を見開いたディルに向けて指で作った銃を打つ真似をしたジンが彼を絶望の底に叩き落とす。今にも崩れそうな膝でなんとか踏ん張って堪えているが、気を抜けばすぐにでも床にへたり込んでしまいそうだった。
「あのジルヴァに弱点が出来たって聞いたからどれだけその瞬間を待ってたか」
その瞬間、ディルは全てを理解した。
「俺の……代わりに……?」
「そうだ。お前をサツの餌にしない代わりにジルヴァが俺の餌になったってわけだ。信じられるか? 隙一つ見せねぇ奴がガキ一人守るためにテメーを差し出したんだぜ。俺は感動したね。ジルヴァを手に入れて、ジルヴァの永遠の弱味も握った。五年間、楽しかったなァ」
五年間。あの大雨の日のことを知ってからジンはすぐにジルヴァに接触したのだろう。そしてジルヴァはそれをただ受け入れた。ディルを守るためだけに己を差し出し、今も律儀にその約束を守っている。
恍惚とした表情で天井を見上げながら語るジンを睨みつけながら噛み締めた唇から顎へと血が伝う。だが、睨みは長く続かない。ジンが悪いんじゃない。ジルヴァが悪いんじゃない。母親を見殺しにした自分が悪いのだ。全て自分が蒔いた種でしかない。
何も知らず、ただ幸せな五年間を過ごしてきた自分がいかに愚かでどうしようもない人間なのかを自覚させられただけ。十歳だったあの頃から何一つ成長していない自分が現実を突きつけられて佇んでいる。鏡で見ずともわかる滑稽さにディルは思わず手の甲で目を隠すように覆った。
その様子を見たジンが立ち上がり、歩み寄っていく。
「可哀想に。泣きたくなるよなぁ。お前があの日、ちゃあんと母親を助けようとしてればこんなことにはならなかったんだもんなぁ。母親の手を握って、ダレカタスケテーって叫んでればジルヴァを脅す材料にはならなかったってのに、お前が母ちゃんを見殺しにしたからジルヴァが俺みたいなクズに身体を差し出すことになっちまった。五年間、お前が頭の中お花畑にしてる間に俺は裏でたーんとしゃぶりつかせてもらったぜ。これからも、だがな」
含み笑いが混ざった言葉が耳元で吐息と共に吐き出される。それにディルが嫌悪することはない。嫌悪すべきは自分だから。
喉の奥がキュッと締まるような感じがした。
「……お………い…」
振り絞った声をちゃんと聞いたジンが待ってましたとばかりにニヤついてディルを抱きしめる。尻の形を確認するように鷲掴みにしてから手を這わせ、背中の窪みをなぞっていく。
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