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母親

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 翌日、ディルは約束どおり妹たちの手を引いてやってきた。
 三人は床に座り、出される大量の料理を一心不乱に頬張る。
 約束したことだが、実際に店の中に入るとなんだか申し訳なくなって開口一番、謝ってしまった。そんなディルにジルヴァは『ここは美味い美味いって飯を食うとこで、教会じゃねんだよ』とデコピンをされた。
 たくさん食べるとジルヴァは笑顔を見せてくれるからディルも妹たちに負けじと頬張って食べる。ジルヴァが丹精込めて作った料理、もっと丁寧に食べて味わったほうがいいのだろうとは思うが、手が止まらない。まだ口に入っているのに次から次へと頬張りたくなる。笑ってほしいからじゃない。休まず食べたくなる味なのだ。

「美味かったか?」

 ぽっこりと出た腹を撫でるディルを見ながらジルヴァが微笑む。この優しい微笑みが好きだ。

「ジルヴァの料理はいつも美味しいよ」
「当たり前のこと言ってんなよ。褒め言葉にもなんねぇよ」
「もっとゆっくり食べようっていつも思うのに、食べ始めるとできなくなるんだ」

 それは当たりの言葉だったのか、ジルヴァの笑顔が微笑みから歯を見せた笑顔へと変わった。

「当然だな」

 褒め言葉にもならないとは言われなかった。ジルヴァが笑うとディルも嬉しくなって笑顔になる。
 この笑顔は自分にだけじゃないとわかっている。店に来る客が同じことを言えばジルヴァは同じ笑顔で同じ言葉を言うだろう。特別なんかじゃない。この食事だって余り物だ。堂々と表から入って、メニューを選んで、正規の料金を払って食事ができない自分が特別なんて望むべきじゃない。それでも、ディルは今この瞬間は誰もがこの笑顔を見ているわけじゃない。自分だけが見ているものだ。自分が言った言葉で笑うジルヴァを自分だけが見ている。それがディルには大事なことだった。

「ジルヴァはさ」

 ポツリと静かに言葉をこぼしたディルをジルヴァが見る。
 人差し指を合わせながらくるくると円を描くように動かすディルの声色はたった一言しか発していないのに、ジルヴァには憂いもあれば期待もあるように聞こえた。

「何も聞かないよね」

 思っていただけで聞かなかったことを聞いてしまった。
 キャベツを盗んだことも広大な畑にはたくさんのキャベツが育っているから一個や二個盗まれたぐらいで痛手はないからだろうかと考えていたが、それ以外でもジルヴァは何も聞こうとしない。
 関心を持ってほしいと思うからそんなことを聞いてしまう。同情してくれと言わんばかりの言葉。この浅ましさに気付かれただろうかとジルヴァを見ると二秒ほど視線を絡ませたあと、天井へと向けられた。

「この街で生きてりゃいろんなことがある。親がいなかったり、金がなかったり、仕事がなかったり……のくせ酒や煙草を買う金だけはあって。靴を履いてねぇガキが親に手を引かれてねぇのも、キャベツを盗むのも珍しいことじゃねぇだろ」

 この街では何が正しいか決めるのは自分自身で、強盗や強姦も捕まらなければ悪ではないと考える人間が多い。殺人事件を面倒事と捉える警察官が多い。そんな街から脱出する唯一の方法は大人になること。まだ十歳のディルにはその方法がない。何歳を大人とするのかはディル次第だが、妹が二人いる以上はその判断は独り身よりずっと難しい。

「レストランに来て、人のことを根掘り葉掘り聞くのはバカだけだ」
「ごめんなさい」
「お前は聞いてほしい側だろ。すぐに謝んじゃねぇよ。俺は神父様じゃねぇぞ」

 根掘り葉掘り聞いてほしいと思う。父親のことも、母親のことも、十歳で妹の面倒を見なければならないのは大変かって聞いてほしい。でも、それよりもジルヴァのことを聞きたい想いが強くなっている。根掘り葉掘り聞いてしまいたいと思うほどに。
 頭に乗せられた大きな手に俯いた。自分はお前に興味がないと言われているような気分になる。ハッキリそう言われたわけじゃなくても、ディルの心はそう言われたかのように傷ついていた。
 その日の帰り道、ディルはどうやって帰ったのかさえわからなかった。気がつくと家にいて、床に大の字に寝転んでいた。
 ずっと考えていたのだ。可哀想な自分を見てもらって同情してもらうのが本当に正しい選択なのかどうか。
 この街がどういう場所かジルヴァは知っていた。この街で育った上品な女性はいない。誰も彼もが現実を知っていて、それを受け止めて、順応して生きているから。
 ジルヴァもそうだ。女性でありながら上品さとは無縁。ハンカチも敷かずに直接地面に座り、壁にもたれかかりながら両膝を立てて煙草を吸い、乱暴な言葉を使う。この街で生まれ育ったのだとわかる。
 そんな相手に自分は可哀想な子供だから同情してくれとアピールしたところで、そんな子供は街を見渡せば溢れ返っているのだから意味がない。浅ましさが目立つだけだ。好かれたいのに、嫌われようとしているのではないかと客観的に思えるようなやり方しかできていない自分が情けなくて恥ずかしい。
 涙が出る。寄り添いあって仲良く眠る妹たちを起こすわけにはいかないと震える唇を噛み締めながらトイレに入って涙を流す。こんなことで泣いてどうする。今日食べる物の心配をする必要がなくなったのに、それが唯一の望みだったはずなのに、それが叶えば新しい望みを作っている。それこそ浅ましいじゃないかと膝を抱えて嗚咽を漏らす。
 十歳。まだ十歳。それでもディルは恋をした。心が揺れ動くほど好きになった。
 だからここであと五分泣いたら涙を拭いて妹たちと一緒に眠る。そして明日も妹たちの手を引いてご飯を食べに行く。ジルヴァに「もう来るな」と言われる日が来るまで何があっても通い続ける。
 まだ十歳。チャンスはいくらでもあるのだと言い聞かせた。

 だが、ピンチは突然やってくる。

「ママ、止まってよ! 悪いことなんてしてないから! 本当に食べさせてくれてるんだ!」

 家からずっとそう言い続けているが、一週間ぶりに帰宅した母親は化粧を落とすこともせずディルを引っ張って暗い路地を進んでいく。
 母親が帰宅するといつも空腹を訴えて夜中だろうが明け方だろうが起きて訴える娘たちが眠っていることにまず疑問を抱いた。そして栄養不足で顔色も悪く艶もなかったのが嘘のように整っている。それは息子も同じ。
 母親もここで生まれ育ったから盗みを悪とは思っていない。食べる物がないからと諦めるのではなく、ないなら頭を働かせて食べる物を手に入れるしかないという考え方をしている。だから盗んだ物を食べていたのであれば怒りはしないが、この肌艶は盗んだ物を三人で分け合っていただけで戻るものではない。しっかりと食べなければ、栄養を取らなければこうはならない。
 ある人に食べさせてもらっていると言い、場所を伝えるとそこから無言でディルの手を引っ張って歩き続けている。途中で馴染みの男に声をかけられても甘えた声は出さず、無視して進んでいく。

「呼んできな!」

 店に着くと道に放るように軽々と投げ飛ばされた。痛む身体を摩る余裕もないほど怒った母親は怖い。子供たちが飢えることなく親切で食べさせてもらえているのは親にとって良いことではないのかと困惑するディルの感情など無視して顎で指示する。

「な、なんで!?」

 店の看板はClosedになっている。知っている。今日も腹をさするほど食べたから。もう洗い物も終えて休んでいるかもしれないのに呼びたくないディルが問いかけるも手加減なしに足を蹴られる。

「いいから呼んでこいって言ってんだよ!」
 
 嫌だと拒めば何をされるかわからないから慌てて走り出す。怒った母親に逆らう勇気はまだない。
 店の中を覗いても姿はない。裏かもしれないと向かうと出会った日と同じ場所に同じポーズのジルヴァがいた。

「ディル? 帰ったんじゃねぇのか?」
「……それが……」
「どうした? 何かあったのか?」

 今は名前を呼んでもらえたことに喜べる心境にない。顔に態度に困惑が出ているディルを不思議そうに見ながら立ち上がったジルヴァが歩み寄るとこちらへと進んでいく足音に気付いた。
 顔を向けると知らない女。でもこの界隈じゃフラつきながら歩いていても誰も変な目で見ない女。所謂商売女。それもこの街でしか受け入れられないタイプの派手さと汚さ。

「お前の知り合いか?」

 母親か?と聞かれなかったのは幸か不幸か、複雑な気持ちになる。

「ママなんだ……」
「ママ、ねぇ」

 呼び方をからかうようにニヤつくジルヴァにディルの顔はボッと火がついたように赤くなる。今が夜で良かったと思うほど。だが、そのからかいに返している時間はない。ズンズンと大股で品のない歩き方と共に寄ってくる母親が何をするつもりなのかわからないためディルの身体に緊張が走る。

「マ、ママ……あ、あの、ジルヴァは残り物を食べさせてくれてるだけなんだ! ジルヴァが料理捨てたくないからって言って、それで、その……」

 必死に説明する息子を母親は一度も見ようとはしなかった。睨みつけるような鋭い目つきをジルヴァに向けたまま目の前で立ち止まる。煙草を咥えたまま視線を返すジルヴァも動かない。まるで先に動いたほうが負けの勝負のような、一触即発のような雰囲気。
 喧嘩を見るのは初めてじゃない。生まれた頃から喧嘩の中にいたような環境で育ってきたため怖くはないが、ジルヴァはシェフだ。母親の野良猫の爪のように鋭利な爪でジルヴァに怪我でもさせては大変だと気が気じゃない。
 だが、向かい合いはそれほど長くは続かなかった。

 先に動いたのはディルの母親だった。
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