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褒められること

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「「ごちそうさまでしたー!」」

 布が擦り切れて薄くなっている服が持ち上がるほど満腹になったミーナとシーナが床に寝転んだまま両手を合わせて声を張る。

「好き嫌いないんだな」
「なーい!」
「なーい!」
「良い子だな」

 大人でも食べきれないだろう大皿四枚に盛られた料理を子供三人で食べると当然残った。皿に盛られた分は完食し、三人ともおかわりもしたけど大皿を完食するのは無理だった。
 二人を褒めて立ち上がったジルヴァは皿を持って厨房に向かう。そのあとをディルが追いかける。

「ジルヴァ」

 初めて名前を呼ぶ。怒られないだろうか。

「どうした?」

 怒られるどころか優しい声を向けてくれた。

「手伝うことない? お金は払えないけど手伝うことはできるから」

 本当はジルヴァと話せるならなんでもいい。妹たちはあと五分もすれば眠りにつく。親指を咥えて二人向かい合いながら眠るから少しジルヴァと話したかった。
 欲張るつもりはない。ジルヴァの手を止めさせて目を見て話をしてほしいなんて言うつもりはない。あの紫の瞳に見つめられたい気持ちはあるが、見つめられると恥ずかしくなってしまうからディルもジルヴァを見ずに話す。

「手伝いたいのか?」
「うん!」
「変わってんな。俺がお前の歳頃は遊んでばっかだったぞ。ま、やりてぇってんならやらせてやるよ」

 持ち帰り用の容器に残りを入れる手を止めて親指で指したのは洗い場。ディルたちが来るまで飲んでいたのだろう珈琲のカップが一つ。そこに空いたばかりの油まみれの皿が四枚追加される。

「やれるか?」
「うん!」

 奥からワインが入っていた木箱を台として用意してもらい、その上に乗ってジルヴァの指示通り洗い物を始めた。

「キュッキュッ音が鳴るまで洗えよ。洗い残しがあったらやり直しだからな」

 ワザと洗い残しを作りたくなってしまう言葉だが、夜も遅い。ジルヴァの手を煩わせて時間を奪いたくない。油が落ちるまでしっかりと洗って最後の一枚の泡を流して水を止めた。
 皿を指で擦るとキュッキュッと音が鳴る。満足だ。

「あ……」

 こんなに手が綺麗になったのはいつぶりだろう。家の中が汚いから外で手を洗ってもすぐに汚れてしまう。だから手はいつも真っ黒だった。それが洗剤を使ったことで綺麗になった。自分の手じゃないみたいだ。

「しっかり洗ったから綺麗になったな。えらいぞ」

 わしゃわしゃと乱暴な頭の撫で方だが、ディルはこれが嬉しい。

「好き嫌いはねぇし、妹の手は引いてくるし、手伝いもできる。良い子だ」
「そんなの……普通だよ」
「大人になっても好き嫌いで偏食家もいるし、人に優しくできねぇ奴もいる。お前、年は?」
「十歳」

 ジルヴァの予想は当たっていた。顔も汚れていたため正確な年齢はわからなかったが、声色や話し方からそれほど大人でもなければ幼くもない、十歳前後かと予想していた。
 顔を洗っていくか?と聞くのは簡単だが、汚れを気にしていれば洗えと言われるほど汚れている自分を恥じる可能性があると思うと聞くに聞けなかった。

「十歳か。立派に生きてんじゃねぇか」

 立派。子供でそう褒められる者は少ないだろう。
 父親は仕事はしているが、酒に煙草に女に暴力と最低な人間だった。母親は大黒柱として稼いでいることを威張り散らし、機嫌が悪いときは手を上げる。そんな両親の間に生まれたディルの十年に褒められるということはなかった。何をしても“当たり前”で、ディルもいつしか「褒めてほしい」と思うことさえなくなっていた。
 褒められることはないのに殴られることばかりで、それは親じゃない相手からもそうで、道を歩いていただけなのに機嫌が悪い大人から邪魔だと蹴飛ばされることもあった。
 そんなことに慣れてしまう人生を望んだことは一度もない。だが、否定もできない。生まれた場所は変えられないし、十歳では育つ場所も選べない。稼いだと威張る母親の機嫌を取りながら妹の面倒を見て生きるしかないのだ。ディルは既にそれを悟っている。

「もう十歳だもん。なんでもできるよ」
「まだ十歳だろうが。たった十年しか生きてねぇガキが大人ぶってんじゃねぇ」

 すごいなって褒められたかった。大人ぶって頭を撫でてもらって……なんて甘い想像だった。
 苦笑も滲まないディルを横目で見たジルヴァの手が伸びて頭を撫でる。

「皿を拭き終わるまでが皿洗いだからな」

 掛けられていたタオルを手に取り差し出せば黙って受け取ったディルが静かに皿を拭き始める。
 ジルヴァは女性にしては声が高くなく、かといって男ほど低いわけでもない。身長は母親より高く、男性ぐらいある。実は男なのではないだろうかと思いながらも胸はある。

「なんだよ」

 無意識に上げていた顔をジルヴァの顔が向くことで目が合った。言い方は乱暴でも声色は厳しくない。目を細めるジルヴァの顔が好きだった。

「今日もありがとう。お腹いっぱいになった。ミーナとシーナにお腹いっぱい食べさせてあげられて嬉しかった」
「妹に腹いっぱい食わせてやりてぇか?」
「うん。でも……」

 そんなことは不可能だ。食べる物があれば御の字な生活を送っている。どうにしかして食べ物を手に入れなければ妹たちはあっという間に痩せてしまう。だから自分は食べなくても妹たちにはなんとか食べさせなければと毎日食べ物を探しに歩き回る日々。いつか、そんな日常が当たり前となっている日々からは卒業したいと思っているが、それはまだまだ遠い未来の話。
 今は母親と妹二人の四人で暮らしている。それだけでも地獄なのに、ここに父親がフラッと帰ってきたらどうなってしまうのだろうという不安はある。
 明日に希望を持てない人生を歩んでいるディルにとって手に入らない食べ物を探す日々は苦痛で、それでも捨てられないから妹のために“当たり前”の日々を過ごしていた。そんな中で訪れたジルヴァとの出会いは最悪でもあり最高なことでもあった。だから嫌われたくないし、好かれたい。それは大事な妹の“良い兄”でいるよりもずっと重要なことになりつつある。

「毎日連れてこい」
「え?」
「腹いっぱい食わせてやりたいんだろ?」
「それは……そうだけど……」
「俺が食わせてやるって言ってんだ。だから妹の手ぇ引いて、毎日食いに来い」

 断らなければならない。昨日の食事も今日の食事もタダじゃない。お金がかかっている。それを毎日自分たちが食べに行けば迷惑になるに決まっている。それなのに、ディルは「できない」とは言えなかった。これを受ければ毎日ジルヴァに会えるのだ。妹の手を引いて、店に入り、ジルヴァの笑顔を見ながら食事をして、洗い物を手伝う。願ってもいないことだ。
 目を合わせたまま何度も瞬きを繰り返したあと、ディルが言った。

「いいの?」

 自分でも思ったより幼い声が出たと思った。それはジルヴァも感じたのか声を上げて笑う。

「なーに甘えた声出してんだよ」

 わしゃわしゃと乱暴に撫でられたことで皿を落としそうになり慌てて抱きしめると手が離れた。

「ガキが遠慮してんじゃねぇよ。飯は食うためにある」
「でも……」
「なあ、デモーナ、これはわざわざお前らのために作った飯じゃねぇ。その日の残りだ」
「そうなの?」
「そうだ。だからお前らが食べてくれりゃあ俺は丹精込めて作った料理を捨てなくて済むし、お前らは腹いっぱいになる。だろ?」

 それなら、と頷くと正しい選択だったのか「よし、いい子だ」と褒めて頭を撫でられた。
 ジルヴァはいつも褒めてくれる。大したことはしていないのに、褒められるようなことでもないのに褒めてくれる。
 母親はあまり褒めてくれない。同じ区域に住む人間も茶化すことはあっても褒めることはない。だからこうしてなんでもないことで褒められると変にむず痒くなる。

「明日来なかったらキャベツ泥棒で警察に突き出すからな」
「そ、そんな!」

 この地域担当の警察は働く気がない人間ばかりで、窃盗ぐらいじゃ動かない。見て見ぬふりをするだけ。だからキャベツが畑ごと盗まれでもしない限りは動かないだろう。それはディルもわかっているが、子供嫌いな警察官ならわからない。気に入らないというだけで捕まえてストレス発散の道具にするかもしれない。
 この街では大人が子供を守るのではない。子供だろうと自分の身は自分で守らなければならないのだ。どんな状況においても常に正しい選択をしなければ生き残れない。まだ小さい妹たちはそれがわからないから、自分が兄として手を引いて歩く。だから今は捕まるわけにはいかない。

「連れてくるよ!」
「食べに来る、でいいんだよ。ま、細かいことはいいか。約束だ」
「約束……」

 差し出された小指は長さはあるが、女性のものとは思えないほど切り傷や火傷の跡が多い。爪もピカピカに磨くこともせずギリギリまで切っている。でも、ディルはこの手が好きだった。撫で方は乱暴でも優しさを感じるから。いくら爪を伸ばしてもネイルをしても優しくない手は嫌いだ。
 伸ばした小指を絡めると上下に三回揺れる。そしてもう一度「約束な」と言われた。
 ディルがする約束はいつも自分のことじゃなくて妹のことだった。『お兄ちゃんなんだから妹の面倒見るのは当然』と言われ、何があっても妹だけは守るようにと約束させられるのが彼がしてきた約束だった。でも今日は違う。兄としての約束じゃない。それだけで嬉しかった。
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