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あったかい食事
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椅子の上で縮こまり、膝の上で小さな手で拳を作りながら震える少年は死刑台に上がるのを待っている気分だった。
さっきの女性はどこに行ったのだろう。周りで賑やかな声を上げる大人たちが色々話しているが、少年の耳に正確な言葉としては届かない。
「おら」
さっきの女の声がする。コトッと目の前のテーブルに何かが置かれる音がした。ナイフだろうか。ナイフだったら指を落とせと言われるのかもしれない。死ぬほど殴られるのと指を落とすのならどっちがマシだろうとそんなことを考える。
「食えよ」
食べる、という言葉になんのことだと目を開けるとテーブルの上にあったのは指を切り落とすためのナイフではなく、湯気立つ料理があった。
「え……?」
なぜ料理が? これは何?
聞きたいことはあったが、声を漏らすので精一杯だった。
「食えよ。腹減ってんだろ」
腹の虫が大騒ぎするほど空腹。それはいつもだ。満足して静かにしているときなどない。今も周りに聞こえるほど大きな音が鳴っている。口内に溢れる涎を何度も飲み込んでゴキュッと音を鳴らす。
反対側に少年の前に置かれた物と同じ料理が置かれ、向かいに女が腰掛けた。
「その歳で好き嫌いなしに生野菜バリボリ食うのも悪くねぇが、それ使った料理食うほうがずっと腹膨れんだろ」
「で、でも……」
自分は泥棒をしようとした。外で育てられている野菜を盗もうとしたのになぜ怒りもせず食事を出してくれるのかわからず、戸惑う少年に女は何も言わない。
「食わねぇのか? 冷めちまうぞ」
肺いっぱいに吸い込みたくなる良い匂いに飲み込みきれない涎が口端から流れる。熱々の料理を最後に食べたのはいつだろう。いや、食べた記憶さえないかもしれない。食べれば幸せになれることは想像せずともわかる。でも、少年は皿の横に置かれたフォークに手を伸ばせない。
目の前で肩肘をつきながらフォークで刺したミートボールを食べる女の顔をチラッと上目で見ると勇気を出して問いかけた。
「僕……これ食べたら……売られる?」
ガリガリの身体を太らせて人身売買するつもりなのではないかと疑って食べられないでいた。疑い、もしそれが当たっていたとしても抵抗する術はないのだが、不安でならない。
女はそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。呆気にとられた顔で今にもフォークを落としそうになっている。その直後に響き渡る笑い声。当たっているからだろうかと不安が膨らみ、呼吸が苦しくなるほど心臓が異様な速さで脈を打つ。
「おいおいジルヴァ、このガキ売るつもりか? お前、まーだ足洗ってねぇのかよ」
「突っ込んだことねぇよ」
ジルヴァと呼ばれた女が「はあー」と重たい息を吐き出してフォークを握った手を額に当てながら睨むような視線を向けた。
「コックコート着た人間が売人に見えるってのかよ」
ボタンを外して寛いではいるものの周りの人間も全員がコックコートを着ている。
「だ、だって、僕なんかにご飯食べさせる理由、ないもん……」
誰も優しくしてくれない世界で生きてきた少年にとって泥棒していたことも怒られず、料理を出してもらう世界はありえない。
「そ、それに僕、お金持ってない……」
また俯いてしまう少年の視界に移動したフォークが映る。
「腹が減りゃ飯を食う。そんなのは当たり前のことだろうが」
「お金が……」
あとで請求されても払えないからと唾液を飲み込み続けるだけでまだフォークには手を伸ばさない。
「おい、賄い食うのに金払ってる奴いんのか?」
「払うわけねぇだろ。こんな飯に誰が金払うってんだよ」
「おい、作ったの俺だぞ」
「あーだからか。今日の賄いは金もらいてぇレベルだわ」
「そりゃテメーが担当のときだっつーの!」
「んなわけねぇだろ! 俺が担当のときは金取るからな!」
「なら食うな! 寄越せ!」
大の大人がムキになって言い合う声に顔を向けると皿の上のミートボールを奪い合っている。
「金を払う奴はいねぇんだと」
いいのかな。そう思いながらも腹の虫が大騒ぎするだけではなくキュウッと締め付けられる感覚にもう我慢も限界。
「坊主、お前が判定してくれよ! 俺の飯が不味いかどうかよ!」
「そうだな! それがいい! 坊主なら忖度なしだ!」
「だってよ。ウルセーから美味いか不味いか教えてやれ」
皿の中にはキャベツや玉ねぎやニンジンが細かく刻まれて入っており、大きなミートボールが贅沢にも六つも入っている。スープと呼ぶにはドロッとしており、これ一杯で充分すぎるほど満腹になりそうだった。
これが不味いはずがない。美味しいに決まってる。唾液を飲み込んだあとに吐き出した息が震える。
ずっと視界に入っていたフォークを持つ手が震えているのはこれが食べられる期待と緊張のせいか。刻まれた玉ねぎを纏うミートボールを突き刺してジッと見つめる。本当に食べてしまってもいいのだろうかと考える間もなく大口を開けて頬張った。
「ッ!?」
野菜が溶けたトマトソースで煮込まれたミートボールに味がよく染み込んでいる。噛まずとも口に入れた瞬間の匂いで美味しいとわかる。噛んでしまうのが惜しい。
皆が少年を見つめて感想を黙って待っている。
噛むたびに旨味が口いっぱいに広がり、今度は飲み込んでしまうのが惜しくなるも皿の中にはまだ五つ残っている。ゴクンと音を立てて飲み込んだ少年は笑顔になった。
「おいしい!」
その言葉に全員が笑顔になる。
「ほらな! これが純粋な感想だ!」
「へっ、お世辞だっての!」
「すっごくおいしい!」
「よし! 坊主、もっと食え! 米も合うしパンも合う! どっちが合うか感想聞かせてくれ!」
張り切った様子で厨房へと向かった男が更に盛った米とパンを持ってくる。目の前に両方存在する奇跡に困惑した表情を見せる少年はまた不安になった。こんなに良いことばかり起きるのは自分はここに来るまでに事故に遭って死んでいて、天国にいるからではないかと思ったからだ。
「ほら、食って感想教えてくれよ! こいつらシェフのくせに舌がバカだからな!」
「お前が食える飯作りゃあ俺らも褒めるんだよ」
そうだそうだと後ろで同じように声を上げる男たちも言われている男も誰一人怒っている様子はない。いつもこんな感じなのだろう。
「ほれ、食え食え!」
バンッと大きな手で背中を叩かれる。皿の上の米からは湯気が立っており熱々であることがわかる。フォークで掬ってフーフーと息を吹きかけて冷ます。そんなことをして食べる食事は初めてだった。口に入れる前から感じる熱さと米の匂いにたまらず勢いよく頬張った。慣れていない熱さにハッハッと口を開けて冷ます。それさえも、それだけで少年は言いようのない幸せを感じていた。
「どうだ?」
「おいしい!」
野菜と肉汁の旨味が出たトマトソースがご飯と合う。
「よし、じゃあ次はパンだ!」
フォークを置いてパンを頬張る。トマトソースをつけて食べるよう、指示通りに食べるとこれまたパンの甘みとよく合う。
「どうだ? どっちが合う? 俺はミートボールがデカいから米が合うと思ってんだが、アイツらはブルジョアぶってパンだと言いやがる」
「どう考えてもパン一択だろうが。お前はなんでも米を合わせやがる。シチューにも米じゃねぇか」
「美味いだろうがよ!」
「はー? シェフやめろ!」
「お前がやめろ!」
大人が子供のようにする言い合いは耳が痛くなるほど大きいが、嫌な感じはしない。それどころか楽しくなる。笑顔に溢れたこの空間がとても心地良いものに感じた。誰も冷たい目を向けてこない。誰も向こうへ行けと怒鳴らない。
「で、どっちだ? 正直に言っていいぞ」
横にしゃがんで少年の顔を覗き込む男は父親よりも歳だが、父親より優しい笑顔を向けてくれる。暖かい眼差しに優しい声と笑顔。美味しい料理。
「……も……しい……」
「ん?」
「パンだとよ」
「黙れ。坊主、どした?」
俯いて見えなくなってしまった少年の肩に手を置くと震えた声が聞こえる。
「どっちもおいしい!」
ボロボロと溢れる涙で濡れた顔を上げて男に伝える。その大きな声が告げる言葉に男は満面の笑みを浮かべて頭を撫でた。犬を撫でるようにグリグリと激しくはあるが痛くはない。この優しさに込み上げる涙の量が増える。胸の前で両手でフォークを握りながら背中を丸めて嗚咽を漏らす。
「泣くほど美味いってよ! 見たか! お前らのバカ舌じゃあ俺の飯の美味さは理解できねぇよな!」
「はいはい、よかったな。味方してくれる奴が子供でも一人はいて」
「子供ほど正直な人間はいねぇよ」
ワハハと上機嫌に笑って席へと戻っていく男。
「男がメソメソ泣くんじゃねぇ。美味い飯が冷めちまうぞ」
「うんッ」
涙を止めようと何度も袖で涙を拭うが止まらない。しゃくり上げながらミートボールを頬張っては米を詰め込む。口の中で一緒になるとまた一段と美味しく感じる。ちぎったパンで皿を綺麗にするように拭って食べる。少年が食べ終えた皿は料理が乗っていたとは思えないほど一滴のソースも残っていなかった。
「行儀良く食べられたな」
少年が食べ終わるまで向かいで頬杖をつきながら眺めていたジルヴァが褒める。立ち上がり自分の皿を片付けるついでに少年の前の皿を持って厨房に向かった。
「腹いっぱいになったか?」
すぐに戻ってきたジルヴァが自分の席に珈琲を、少年の前にグラスに入れたオレンジジュースを置く。
「うん……」
グラスに顔を近付けると甘い匂いがする。料理とはまた違う匂いにゴクッと喉が鳴った。これも飲んでいいんだと思う嬉しさとは裏腹に少年の浮かない表情にジルヴァが頬杖をつく。
「足りないなら足りないって言え」
「ち、違うよ。そうじゃなくて……」
口ごもる少年に「なんだよ」と聞く声は不満げで、少年の肩がビクッと跳ねる。
「ぼ、僕だけ食べちゃったから……」
頭に浮かぶのは家族の顔。同じように腹を空かせて泣き喚く家族のために食べられる物を手に入れて帰る予定だった。店は店員がいてバレればボコボコにされる。だから監視の目がない畑から野菜を盗もうとしたのだ。自分だけが熱々の料理を満腹になるほど食べてしまった。家で家族が待っているのに。
無我夢中で食べていたせいで何も感じなかったが、落ち着いた今、込み上げる罪悪感に落ち込んでしまう。
「お前、名前は?」
「ディル」
「ディル、ね」
珈琲を一口飲んで立ち上がったジルヴァが再び厨房へと入っていく。十分ほどして戻ってきたジルヴァの手には紙袋があり、それをディルの前に置いた。
「今から連れて来いって言ってやりてぇが、昼休憩が終わったらディナーの準備があんだよ。だから今日はこれ食わせてやれ」
中身を覗き込むと自分が食べた物と同じ物が入っていた。パンも米も一緒だ。
「いいの?」
驚いた顔をするディルの頭を撫でて向かいに腰掛けて「ああ」と短く返事をする。
「お金……」
「お前の身なり見りゃ金持ってねぇことぐらいバカでもわかんだよ」
お世辞にも綺麗とは言えない服を着た靴さえ履いていない子供がどこ出身なのかは考えずともわかる。
「でもこんなにたくさん……あいたっ!」
デコピンされた額を押さえるとジルヴァの笑顔が目に入る。切れ長の目が少しキツく見えるが、微笑みは優しい女性そのもの。母親と違うものだ。
「ガキが遠慮してんじゃねぇよ。食わせたい奴がいるなら明日の夜に連れてこい。閉店後ならもういらねぇって泣き出すくらい食わせてやる」
いいの?と問いかけることさえ戸惑われた。今日、たくさん食べさせてもらえた。家族が食べる分まで用意してくれて、明日の約束までしてくれる。それが本当なら嬉しい。だが、信じきれない部分があって、どうしても素直に頷けなかった。
「ま、お前の好きにしな」
「坊主、次は俺の料理食わせてやるからな! コイツのよりずっと美味いぞ! お前の舌が溶けちまうぐらいにな!」
「あ、ありがとう」
「あんま期待しすぎんなよ! 不味いから!」
「お前のより美味いんだよ!」
紙袋を抱えて出ていく少年の耳に聞こえる賑やかな声。言い合いをしながらも楽しそうな顔。店を出たばかりなのにすぐ恋しくなってしまう。もう一度あの空間に足を踏み入れたい。でもこんな身なりの自分が入ってもいいのだろうかと戸惑う部分もある。
『ガキが遠慮すんな』
ジルヴァが言った言葉に妙に胸がムズムズした。ディルが言われる「ガキ」はいつも『ガキのくせに』だった。遠慮するなと言ってくれた人は誰もいなかった。ましてや笑いかけてくれる人なんて。
こんなに汚い頭を躊躇なく撫でてくれる大きな手を思い出しながらディルはまた少し泣きたくなった。
さっきの女性はどこに行ったのだろう。周りで賑やかな声を上げる大人たちが色々話しているが、少年の耳に正確な言葉としては届かない。
「おら」
さっきの女の声がする。コトッと目の前のテーブルに何かが置かれる音がした。ナイフだろうか。ナイフだったら指を落とせと言われるのかもしれない。死ぬほど殴られるのと指を落とすのならどっちがマシだろうとそんなことを考える。
「食えよ」
食べる、という言葉になんのことだと目を開けるとテーブルの上にあったのは指を切り落とすためのナイフではなく、湯気立つ料理があった。
「え……?」
なぜ料理が? これは何?
聞きたいことはあったが、声を漏らすので精一杯だった。
「食えよ。腹減ってんだろ」
腹の虫が大騒ぎするほど空腹。それはいつもだ。満足して静かにしているときなどない。今も周りに聞こえるほど大きな音が鳴っている。口内に溢れる涎を何度も飲み込んでゴキュッと音を鳴らす。
反対側に少年の前に置かれた物と同じ料理が置かれ、向かいに女が腰掛けた。
「その歳で好き嫌いなしに生野菜バリボリ食うのも悪くねぇが、それ使った料理食うほうがずっと腹膨れんだろ」
「で、でも……」
自分は泥棒をしようとした。外で育てられている野菜を盗もうとしたのになぜ怒りもせず食事を出してくれるのかわからず、戸惑う少年に女は何も言わない。
「食わねぇのか? 冷めちまうぞ」
肺いっぱいに吸い込みたくなる良い匂いに飲み込みきれない涎が口端から流れる。熱々の料理を最後に食べたのはいつだろう。いや、食べた記憶さえないかもしれない。食べれば幸せになれることは想像せずともわかる。でも、少年は皿の横に置かれたフォークに手を伸ばせない。
目の前で肩肘をつきながらフォークで刺したミートボールを食べる女の顔をチラッと上目で見ると勇気を出して問いかけた。
「僕……これ食べたら……売られる?」
ガリガリの身体を太らせて人身売買するつもりなのではないかと疑って食べられないでいた。疑い、もしそれが当たっていたとしても抵抗する術はないのだが、不安でならない。
女はそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。呆気にとられた顔で今にもフォークを落としそうになっている。その直後に響き渡る笑い声。当たっているからだろうかと不安が膨らみ、呼吸が苦しくなるほど心臓が異様な速さで脈を打つ。
「おいおいジルヴァ、このガキ売るつもりか? お前、まーだ足洗ってねぇのかよ」
「突っ込んだことねぇよ」
ジルヴァと呼ばれた女が「はあー」と重たい息を吐き出してフォークを握った手を額に当てながら睨むような視線を向けた。
「コックコート着た人間が売人に見えるってのかよ」
ボタンを外して寛いではいるものの周りの人間も全員がコックコートを着ている。
「だ、だって、僕なんかにご飯食べさせる理由、ないもん……」
誰も優しくしてくれない世界で生きてきた少年にとって泥棒していたことも怒られず、料理を出してもらう世界はありえない。
「そ、それに僕、お金持ってない……」
また俯いてしまう少年の視界に移動したフォークが映る。
「腹が減りゃ飯を食う。そんなのは当たり前のことだろうが」
「お金が……」
あとで請求されても払えないからと唾液を飲み込み続けるだけでまだフォークには手を伸ばさない。
「おい、賄い食うのに金払ってる奴いんのか?」
「払うわけねぇだろ。こんな飯に誰が金払うってんだよ」
「おい、作ったの俺だぞ」
「あーだからか。今日の賄いは金もらいてぇレベルだわ」
「そりゃテメーが担当のときだっつーの!」
「んなわけねぇだろ! 俺が担当のときは金取るからな!」
「なら食うな! 寄越せ!」
大の大人がムキになって言い合う声に顔を向けると皿の上のミートボールを奪い合っている。
「金を払う奴はいねぇんだと」
いいのかな。そう思いながらも腹の虫が大騒ぎするだけではなくキュウッと締め付けられる感覚にもう我慢も限界。
「坊主、お前が判定してくれよ! 俺の飯が不味いかどうかよ!」
「そうだな! それがいい! 坊主なら忖度なしだ!」
「だってよ。ウルセーから美味いか不味いか教えてやれ」
皿の中にはキャベツや玉ねぎやニンジンが細かく刻まれて入っており、大きなミートボールが贅沢にも六つも入っている。スープと呼ぶにはドロッとしており、これ一杯で充分すぎるほど満腹になりそうだった。
これが不味いはずがない。美味しいに決まってる。唾液を飲み込んだあとに吐き出した息が震える。
ずっと視界に入っていたフォークを持つ手が震えているのはこれが食べられる期待と緊張のせいか。刻まれた玉ねぎを纏うミートボールを突き刺してジッと見つめる。本当に食べてしまってもいいのだろうかと考える間もなく大口を開けて頬張った。
「ッ!?」
野菜が溶けたトマトソースで煮込まれたミートボールに味がよく染み込んでいる。噛まずとも口に入れた瞬間の匂いで美味しいとわかる。噛んでしまうのが惜しい。
皆が少年を見つめて感想を黙って待っている。
噛むたびに旨味が口いっぱいに広がり、今度は飲み込んでしまうのが惜しくなるも皿の中にはまだ五つ残っている。ゴクンと音を立てて飲み込んだ少年は笑顔になった。
「おいしい!」
その言葉に全員が笑顔になる。
「ほらな! これが純粋な感想だ!」
「へっ、お世辞だっての!」
「すっごくおいしい!」
「よし! 坊主、もっと食え! 米も合うしパンも合う! どっちが合うか感想聞かせてくれ!」
張り切った様子で厨房へと向かった男が更に盛った米とパンを持ってくる。目の前に両方存在する奇跡に困惑した表情を見せる少年はまた不安になった。こんなに良いことばかり起きるのは自分はここに来るまでに事故に遭って死んでいて、天国にいるからではないかと思ったからだ。
「ほら、食って感想教えてくれよ! こいつらシェフのくせに舌がバカだからな!」
「お前が食える飯作りゃあ俺らも褒めるんだよ」
そうだそうだと後ろで同じように声を上げる男たちも言われている男も誰一人怒っている様子はない。いつもこんな感じなのだろう。
「ほれ、食え食え!」
バンッと大きな手で背中を叩かれる。皿の上の米からは湯気が立っており熱々であることがわかる。フォークで掬ってフーフーと息を吹きかけて冷ます。そんなことをして食べる食事は初めてだった。口に入れる前から感じる熱さと米の匂いにたまらず勢いよく頬張った。慣れていない熱さにハッハッと口を開けて冷ます。それさえも、それだけで少年は言いようのない幸せを感じていた。
「どうだ?」
「おいしい!」
野菜と肉汁の旨味が出たトマトソースがご飯と合う。
「よし、じゃあ次はパンだ!」
フォークを置いてパンを頬張る。トマトソースをつけて食べるよう、指示通りに食べるとこれまたパンの甘みとよく合う。
「どうだ? どっちが合う? 俺はミートボールがデカいから米が合うと思ってんだが、アイツらはブルジョアぶってパンだと言いやがる」
「どう考えてもパン一択だろうが。お前はなんでも米を合わせやがる。シチューにも米じゃねぇか」
「美味いだろうがよ!」
「はー? シェフやめろ!」
「お前がやめろ!」
大人が子供のようにする言い合いは耳が痛くなるほど大きいが、嫌な感じはしない。それどころか楽しくなる。笑顔に溢れたこの空間がとても心地良いものに感じた。誰も冷たい目を向けてこない。誰も向こうへ行けと怒鳴らない。
「で、どっちだ? 正直に言っていいぞ」
横にしゃがんで少年の顔を覗き込む男は父親よりも歳だが、父親より優しい笑顔を向けてくれる。暖かい眼差しに優しい声と笑顔。美味しい料理。
「……も……しい……」
「ん?」
「パンだとよ」
「黙れ。坊主、どした?」
俯いて見えなくなってしまった少年の肩に手を置くと震えた声が聞こえる。
「どっちもおいしい!」
ボロボロと溢れる涙で濡れた顔を上げて男に伝える。その大きな声が告げる言葉に男は満面の笑みを浮かべて頭を撫でた。犬を撫でるようにグリグリと激しくはあるが痛くはない。この優しさに込み上げる涙の量が増える。胸の前で両手でフォークを握りながら背中を丸めて嗚咽を漏らす。
「泣くほど美味いってよ! 見たか! お前らのバカ舌じゃあ俺の飯の美味さは理解できねぇよな!」
「はいはい、よかったな。味方してくれる奴が子供でも一人はいて」
「子供ほど正直な人間はいねぇよ」
ワハハと上機嫌に笑って席へと戻っていく男。
「男がメソメソ泣くんじゃねぇ。美味い飯が冷めちまうぞ」
「うんッ」
涙を止めようと何度も袖で涙を拭うが止まらない。しゃくり上げながらミートボールを頬張っては米を詰め込む。口の中で一緒になるとまた一段と美味しく感じる。ちぎったパンで皿を綺麗にするように拭って食べる。少年が食べ終えた皿は料理が乗っていたとは思えないほど一滴のソースも残っていなかった。
「行儀良く食べられたな」
少年が食べ終わるまで向かいで頬杖をつきながら眺めていたジルヴァが褒める。立ち上がり自分の皿を片付けるついでに少年の前の皿を持って厨房に向かった。
「腹いっぱいになったか?」
すぐに戻ってきたジルヴァが自分の席に珈琲を、少年の前にグラスに入れたオレンジジュースを置く。
「うん……」
グラスに顔を近付けると甘い匂いがする。料理とはまた違う匂いにゴクッと喉が鳴った。これも飲んでいいんだと思う嬉しさとは裏腹に少年の浮かない表情にジルヴァが頬杖をつく。
「足りないなら足りないって言え」
「ち、違うよ。そうじゃなくて……」
口ごもる少年に「なんだよ」と聞く声は不満げで、少年の肩がビクッと跳ねる。
「ぼ、僕だけ食べちゃったから……」
頭に浮かぶのは家族の顔。同じように腹を空かせて泣き喚く家族のために食べられる物を手に入れて帰る予定だった。店は店員がいてバレればボコボコにされる。だから監視の目がない畑から野菜を盗もうとしたのだ。自分だけが熱々の料理を満腹になるほど食べてしまった。家で家族が待っているのに。
無我夢中で食べていたせいで何も感じなかったが、落ち着いた今、込み上げる罪悪感に落ち込んでしまう。
「お前、名前は?」
「ディル」
「ディル、ね」
珈琲を一口飲んで立ち上がったジルヴァが再び厨房へと入っていく。十分ほどして戻ってきたジルヴァの手には紙袋があり、それをディルの前に置いた。
「今から連れて来いって言ってやりてぇが、昼休憩が終わったらディナーの準備があんだよ。だから今日はこれ食わせてやれ」
中身を覗き込むと自分が食べた物と同じ物が入っていた。パンも米も一緒だ。
「いいの?」
驚いた顔をするディルの頭を撫でて向かいに腰掛けて「ああ」と短く返事をする。
「お金……」
「お前の身なり見りゃ金持ってねぇことぐらいバカでもわかんだよ」
お世辞にも綺麗とは言えない服を着た靴さえ履いていない子供がどこ出身なのかは考えずともわかる。
「でもこんなにたくさん……あいたっ!」
デコピンされた額を押さえるとジルヴァの笑顔が目に入る。切れ長の目が少しキツく見えるが、微笑みは優しい女性そのもの。母親と違うものだ。
「ガキが遠慮してんじゃねぇよ。食わせたい奴がいるなら明日の夜に連れてこい。閉店後ならもういらねぇって泣き出すくらい食わせてやる」
いいの?と問いかけることさえ戸惑われた。今日、たくさん食べさせてもらえた。家族が食べる分まで用意してくれて、明日の約束までしてくれる。それが本当なら嬉しい。だが、信じきれない部分があって、どうしても素直に頷けなかった。
「ま、お前の好きにしな」
「坊主、次は俺の料理食わせてやるからな! コイツのよりずっと美味いぞ! お前の舌が溶けちまうぐらいにな!」
「あ、ありがとう」
「あんま期待しすぎんなよ! 不味いから!」
「お前のより美味いんだよ!」
紙袋を抱えて出ていく少年の耳に聞こえる賑やかな声。言い合いをしながらも楽しそうな顔。店を出たばかりなのにすぐ恋しくなってしまう。もう一度あの空間に足を踏み入れたい。でもこんな身なりの自分が入ってもいいのだろうかと戸惑う部分もある。
『ガキが遠慮すんな』
ジルヴァが言った言葉に妙に胸がムズムズした。ディルが言われる「ガキ」はいつも『ガキのくせに』だった。遠慮するなと言ってくれた人は誰もいなかった。ましてや笑いかけてくれる人なんて。
こんなに汚い頭を躊躇なく撫でてくれる大きな手を思い出しながらディルはまた少し泣きたくなった。
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