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二十五歳の誕生日

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 一年、また一年が過ぎ、クラリッサは二十五歳になった。
 最近、クラリッサは庭に出ることが多くなり、庭に出て何度も森を見つめる彼女と目が合うことが増えたとエイベルは思っていた。実際はエイベルがそう思っているだけで、クラリッサはエイベルと目が合っているとは思っていない。人間の目は森の中にいる人物を確認できるほど良くはないから。
 二十五歳になっても美しさを保つクラリッサだが、もう十九歳の頃の輝きはない。それは彼女の輝く魅力の一つであった純粋さがなくなってしまったからだろう。
 何も教えられなくてもわかることはある。字が書けなくても本が読めなくても彼女は賢い人間だ。人間が持つドス黒い欲望がどれほど汚いものかを知ってしまったのだ。父親の愛情とはなんだったのかを。
 まるでもうすぐ消えてしまう蝋燭の火のように彼女の笑顔は弱くなっていった。それでもまだ利用価値はあると父親は判断した。輝く眩しい笑顔から儚げな笑顔へと変わっただけ。だから父親は娘にこう伝える。「お前は美しい。私の宝だ。お前が傍にいてくれるだけで私は長生きできそうだ」と。
 彼女はそれを心から喜べるほど純粋ではなくなった。
 二十五歳の誕生日にもらった言葉を昔なら「また言ってる」と笑えたのだろうが、クラリッサはもうそれに笑うことはない。

「そろそろ孫が見たいな。お前に似た美しい孫を」

 これ以上、美しさに翳りが出る前にと孫を欲する父親の考えが手に取るようにわかる。それでもその言葉に縋り付くことしかできない彼女はまたこうして素晴らしいドレスに身を包み、その滑らかな髪に似合う王冠をかぶって笑顔を作って見せる。
 大人には大人の美しさがあると言うが、誰もその裏を見ようとはしない。どれほどの努力があるのか、どれほどの犠牲があるのかなど考えもしないのだ。
 美人ではないことにコンプレックスを抱く者はいても、美人であることにコンプレックスを抱く者はいない。
 しかし彼女は違う。この容姿のせいでいろんなものを犠牲にしてきた。知識を得ること、恋をすること、嫌だと主張すること、自由を手にすること、家族揃って笑顔で食事をすること、純粋に愛されること──全て彼女が犠牲にしてきたものだ。

「イルーゴ王子に連絡しておかなければな。彼の美しさはお前には勝てんが世界でも屈指の美青年と名高いからな、お前と彼の子供ならさぞ美しい子が生まれるだろう」 

 あと一時間もすればイルーゴ王子もここに到着してクラリッサの誕生日を祝うだろう。大きな花束を抱えて祝いに行くと手紙が来たのは一ヶ月前。彼は嘘をつくような人間ではないためきっと今日は驚くほど大きな花束を抱えてくることだろう。
 でも、クラリッサが欲しい花は色とりどりの花が集まった花束ではなく淡い光を放つ一輪の花。それをくれる者はもういない。手放してしまったのだ。宝石が散りばめられた王冠よりもずっと貴重な冠を用意してくれた彼を、あの愛情を、全てを否定して手放してしまった。
 あの日に戻れるなら自分で自分を殴っている。鏡の中の自分に頭突きをくらせて怒鳴るだろうが、どんなに後悔しても時は巻き戻らない。

「……私……もう、結婚しても、いいの?」

 クラリッサの口から出た「もう」は「もう結婚するのか」ではなく「もう結婚してもいいのか」だった。
 この言葉にクラリッサ自身驚いた。ああ、自分はずっと愛情ではなく解放を望んでいたのだとわかったから。

「ああ、いいとも! だが、向こうに婿に来てもらうぞ。お前がいなければ私は寂しくて死んでしまうからな。いつまでもその美しさを私に見せておくれ」

 娘の心情も知らずに笑う父親の笑顔をクラリッサは冷めた気持ちで見ていた。いつも見ていた笑顔なのに、二十五年間ずっと見てきた笑顔なのに、その笑顔は今、吐き気がするほど汚く見える。こんなに歪んだ笑みではなかったはずなのに、なぜだろうと考えるが、答えはとっくに出ている。

(今度は娘じゃなくて孫に期待してるのね)

 自分が完全に老いて引退してしまう前に孫を自慢したい。必ず美しい子が生まれると確信があるから娘を結婚させることを選んだ。鑑賞用王女として世界中から人気を博していた自慢の娘が老いたと言われてしまう前に孫を産ませ、娘は引っ込ませる算段なのだろうと父親の考えが透けて見えた。

「泣くな泣くな。化粧が崩れてしまうだろう」

 こぼれ落ちる涙に慌てて差し出されたハンカチで涙を拭うも止まらない。五年前から何かある度に泣くクラリッサに父親が呆れ始めているのは確かで、その度に父親は怒るばかり。なぜ泣くのか聞いたことは一度もなく、過去には医者を呼んで精神病ではないかと疑ったことまであった。

「しかし、イルーゴ王子との結婚をそんなに望んでいたとは知らなかった」

 娘の言葉の意味を勘違いする父親に愛想笑いする気にもなれず、クラリッサは涙を止めるのに必死なフリをして答えなかった。

「さ、お前が化粧を直したらパーティーだ。今日はお前が主役だからな! 年々、美しさを増していくお前の姿を見せてやりなさい」

 返事はしなかった。最近のクラリッサに増えたことだ。デイジーはもういない。脅される理由はない。ウォレンは結局、花売りの娘とは上手くいかず未だに婚約者はできていない。父親も探す気がないのだ。リズについては婚約者を決めようとしているが、リズが拒んでいる。だからクラリッサが反抗しようと父親は怖くないが、デイジーが家を出てからの父親は上機嫌で、ここ数年ずっと父親の機嫌が良かっただけに契約を反故にして荒れるのが煩わしいとクラリッサは反抗する気も起きないでいた。
 結婚すれば反抗だなんだと考えなくていい。ただ、子供のことには口を出す覚悟はあった。自分と同じ末路は辿らせない。父親の自慢のための玩具にはさせないと。三ヶ月前、イルーゴが来た日にそんな話をして、イルーゴは『いいと思いますよ』と言ってくれた。だから反抗は子供を産んでからだと決めている。

「イルーゴ王子が婿に来られるなんてすごいことですよ!」
「あの美しさが毎日拝めるなんて信じられません!」

 使用人たちは毎日喜びの声を上げている。ここで働いているだけで毎日イルーゴに会えるのだからそんな夢のような話はないと。彼女たちの喜びにもクラリッサは笑顔で反応することはしない。昔は尽くしてくれる彼女たちにも笑顔で接することができたのだが、彼女たちが時折見せる汚さがクラリッサを冷めさせた。

「さ、できましたよ! 会場へ向かいましょう。もうすぐイルーゴ王子も到着されますよ!」

 五歳の誕生日は嬉しかった。目を奪われるほど煌びやかな会場に数えきれないほどのゲスト。そこに集う人間全員が自分の誕生日を祝うためにいるのだと言われて、全員が口を揃えて美人だ可愛いだと言ってくれることで幸せを感じていた。
 十歳の誕生日もまだ嬉しかった。妹や弟と一緒にパーティーに出ては見上げるほど大きなケーキに一番に手を伸ばす。そして妹たちと分け合って食べる幸せ。数えるのも大変な量のプレゼント。幸せだった。
 十五歳の誕生日はもう幸せとは感じていなかった。耳をすまさなくても聞こえてくる【鑑賞用王女】の感想。自分のことを言っているのだと嫌でもわかる。純粋に見られているのではなく美術品を見るように隅から隅まで視線を這わせる人間に嫌悪さえ感じるようになった。デイジーが反抗するようになり、ケーキは見上げるだけで食べることは許されず、プレゼントも自分で開けることはなくなった。
 二十歳の誕生日はよく覚えていない。思い出そうとすると思い出したくないことまで思い出してしまうから。良い思い出も辛い思い出も合わさって感情が乱れてしまう。五年経った今でも。
 そして二十五歳の誕生日を迎える今日、クラリッサは鏡の中の自分に微笑みかける。幼い頃から練習して作り上げた完璧な笑顔を浮かべることはもうできない。浮かべようとしても何かが違ってしまっているのだ。この誕生日パーティーが終わればすぐにでも結婚式の話に切り替わり、あっという間に進んでいくだろう。父親に任せていれば全て完璧に行われる。ドレスのデザインもティアラもどうだっていいと投げやりに考えているのは十九歳の頃に味わった幸せ以上のものはもう手に入らないから。
 椅子から立ち上がると使用人がドアを開ける。会場へと続く赤い絨毯の上を歩いて煌びやかな世界へと向かっているはずなのに、クラリッサの心境は処刑台へと向かっているような気分だった。
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