鑑賞用王女は森の中で黒い獣に出会い、愛を紡ぐ

永江寧々

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過去から現在に至るまで

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 今から二十二年前、モレノスに女の子が生まれた。初子が長男、次の子が次男と生まれ、女の子を欲していた父親にとっては念願の長女。目に入れても痛くないほど溺愛し、それは娘の成長と共に異常性を見せ始めた。
 誰もが『神々しく見えた』と言うほど赤ん坊の頃から美しさを帯びていた娘はモレノスの守り神である美の女神カロンの生まれ変わりだと信じられていた。泣いて眠って飲んでを繰り返すだけの赤ん坊をまるで神でも降臨したのような大騒ぎに今まで興味を持たなかったエイベルも久しぶりに外を見るようになった。

「ただの赤子が女神カロンの生まれ変わりだと信じているとは、やはり人間という生き物は愚かだな」
「イリオリス、だろ」
「ああ、そうだ。あの醜い父親から生まれた子供に美貌などあるはずないだろ。五年もすれば残念がることになる」

 ハッと鼻で笑うエイベルは受け継がれてきた話をきっかけに人間を憎むようになっていた。聞いたばかりの頃はそうでもなかったが、モレノスの王が代わり、契約を破らないために互いの長が出て契約の確認をした際、吐き捨てるように言われた『ダークエルフなどという醜悪な生き物がモレノスに存在していることだけが我が国唯一の恥だ』という言葉を聞いて嫌悪するようになった。
 小太りで傲慢さが顕現したような見目に醜悪だと言われたことがずっと許せないでいた。
 そんな男の遺伝子を持って生まれた赤子が女神カロンの生まれ変わりだと騒がれたことを嘲笑しては見てやろうとナニーが押す乳母車に乗せられて日光浴しているのを見たエイベルの表情から嘲笑が消えたのはその瞬間だった。

「レニス……」
「エイベル知らないのか? あの子の名前はクラリッサだってよ」

 笑いながら肩を抱いてきた仲間の身体を押し離しては親指を咥えながら宙に手を伸ばして何かを握ろうとしている赤子から目が話せなかった。
 名はもちろん知っていた。父親が何度も名を叫んでいたから嫌というほど記憶している。だが、エイベルはその赤ん坊がレニスという花に似ていると思った。白くて淡い光を放っているように見えたから。
 だが、すぐに頭を振って否定する。人間と同じ感性であってたまるかと。

「綺麗な子だよな。さすがは王女様ってとこか」

 王女だからというわけではない。もし本当にあの家の娘として生まれたのであれば父親の遺伝子というわけではなく、女神カロンの生まれ変わりというほうが信じられるだろうと思うほど美しかった。
 あの傲慢な父親に育てられればあの美しさも霞むほどのわがままな王女に育つのは目に見えており、五年もすれば父親と同じように卑しさが顔に出るかもしれないと再び嘲笑するが、五年が経つ頃にはクラリッサは既に出来上がっていると言っても過言ではなかった。

「レッスンの時間だぞ」
「はい」

 父親が五歳の子供に教えていたのは駆け回って遊ぶことでも、絵本を読み聞かせて想像力を培うことでもなく、笑顔の作り方だった。

「角度はこの位置です」
「こう?」
「上げすぎです。歯を見せて笑ってはいけません。頬のお肉も持ち上げない。唇を引くのは薄く、でもちゃんと微笑みとして受け取られるように笑うのです」

 五歳の子供にそんな芸当ができると思っている大人がおかしいのだと誰も気付かないことが異常だった。毎日毎日何時間も続くレッスン。五歳の子供が鏡の前に座って鏡の中の自分と見つめ合い、笑顔を見せ合う。ぎこちない笑顔を完璧な笑顔に変えるべく、付きっきりの大人に叱られ続ける。
 耐えられるはずがないのだ。

「もうやだッ! やりたくない! 笑顔なんかどうでもいい! やだやだやだやだッ!」

 レッスンが終わって部屋に戻り一人になると王女は泣き出す。当然だ。ベッドの上で何度も枕を叩いては掴んだ枕をベッドに叩きつける。きっと外にもその泣き声は聞こえていただろうが、誰も慰めに入ることはなかった。
 そして更に二年が経ち、七歳になったクラリッサはマナーを覚えるようになった。女神カロンの生まれ変わりはどんなときでも完璧な美しさを身につけていなければならない。完璧な笑顔も仕草もマナーも作り物ではなく本人の物として得ていることが大事なのだと父親はなんでもレッスンに取り入れた。
 増えれば増えるだけ子供に負担がかかることをわかっていながらそうしていたのか、自分の欲望を満たすためなら子供の苦労などどうでもいいと考えていたのか、子供には辛すぎるスケジュールを慈悲もなく続けさせた。
 レッスン中は泣かず、部屋に帰ってから泣きじゃくる。それでもクラリッサは妹ができてから泣く回数を減らした。

「おねえさま?」

 姉の泣き声を聞いて心配した妹がノックもなく急に入ってくることがあるからだ。五歳の妹には泣いていないと誤魔化しはきかない。七歳にして妹二人、弟一人がいると泣き辛くなってしまったのだ。でも辛くはなかった。きょうだいと過ごしている時間だけは辛いことは何もなかったから。
 部屋で泣いていると妹たちが心配するからといつしかテラスに出て泣くようになったことでエイベルはその顔をよく見るようになった。

「泣き虫な王女様だな」

 寝ても覚めても泣き声を聞いているような気がして苦笑よりも笑みが溢れた。
 エイベルは赤子を育てることがない。時折、頼まれて抱っこするぐらいで子育ての経験は一度だってない。だから子供が泣いているとどうすればいいのかわからなかった。わかったところで森から出られないエイベルにできることは何もなく、ただその泣き顔を見て泣き声を聞いていることしかできなかった。

「誰か助けて……」

 幼くして救いを求める小さな身体を抱きしめてやりたくなったこともあった。
 そして年々、人形として形成されていくのをずっと見ていた。
 傲慢な父親に似ると思っていた容姿は父親が誘拐してきた子供だと聞いても驚かないほど美しさを増していき、エイベルもその成長を毎日見守り続けていた。
 食べないクッキーを砕いて皿ごとテラスの手すりの上に置いておくと鳥が食べに来る。そして自由に飛び立っていく姿をいつも羨ましそうに見ていたのを知っている。テラスから見える城下町を見つめる切ない眼差しを知っている。
 十五歳になる頃には既に完璧さを手に入れたクラリッサが部屋やテラスでこぼしていた愚痴もエイベルだけが聞いていた。
 その場にいるだけで男が膝をつき、願えば何でも叶う。願わなくとも手に入る、どんな入手困難な物だって。
 人を魅了することのみに特化した人間として成長した王女は純粋で清らかで尊い存在だが、それと同時に親の命に従って生きるしかできない哀れな存在と化していた。
 親に言われるがままに生きてきたことで手に入れたのは誰もが見惚れるほどの美しさと【鑑賞用王女】という不名誉な称号。

 そんな王女が森へとやってきた。自らの足で、興味を持ってやってきたのだ。無視する理由はなく、エイベルは自ら迎えに行った。
 赤ん坊の頃から見てきた人間がこれほどまでに大きく成長していることに感動すら覚えた。間近で見る王女は森の中から見ているよりもずっと光を纏っているように見え、触れたくなった。だが、触れる理由などないから挨拶と嘘をついてキスをした。
 己が家系が抱える歴史も知らない王女に嘘を信じ込ませるのは簡単で、そこに罪悪感など微塵も感じなかった。自立型のエルフの女にはいないタイプだから飽きるまで遊んでやろうと思っていたのに、気が付けば王女がテラスに出て合図を待っているのを待つようになった。
 なぜ俺が……そう思いながらも王女のことを考える時間は日に日に増えるばかりで、それがなぜかと感情が追いつくだけでこんなにも違うのだと知ったときには変えられない運命の上に立っていた。

 王女が庭に出れば香りがする。人間の匂いの中にある彼女特有の甘い香り。嗅げば恋しくなる。
 夜になれば光を求めて森を見つめるのではないかと手に負えない期待をしている自分がいる。それも夜になれば砕かれ、現実を知る。
 罰が下ったのだ。人間が過去に何をしたのか忘れて人間なんかを愛してしまったから──

 そんな止まない後悔の中にいても時は走ることをやめない。エイベルにとっては一日が過ぎただけの、半日かもしれない時間の流れで人間は一年、歳を取る。その度にクラリッサのの笑顔が疲弊していくのがわかった。心が摩耗している。見なければいいのに見ずにはいられない。変わらず美しい笑顔を見せるクラリッサだが、美しいだけ。そこに自分が見たあの無邪気な笑顔はなかった。
 あれだけ泣くのを堪えていたのに、夜、一人になると泣くようになった。
 眩しいほど輝いていた宝石は、年数と共にその輝きを徐々に徐々に失っていく。
 昨日のことのように思い出せる笑い合った日々、甘い匂いと甘い笑顔、初めてキスをした日に感じた柔らかな唇と愛おしさ、無意識に見せたはにかんだ表情──全て自分のものにしたかった。
 許されるのなら、幼い頃に救いを求めていたクラリッサにできなかったことを、今すぐにでも駆け出して抱き抱え、森へと連れ去りたい気持ちでいっぱいだったエイベルだが、できなかった。彼女がそれを望んでいないのだ。
 王女でありながら商品としてしか親に愛してもらえない自分を哀れに思いたくはないのだろう。
 愛しているから自慢したいのだと信じたい彼女をムリヤリ連れ去ることはできない。彼女が選んだのは夢の逃避行ではなく、辛い現実だったのだから。

 彼女が必要としているのは心から愛している男ではなく偽りの愛をくれる親だった──そう自分に言い聞かせなければならないほど、エイベルは深くクラリッサを愛していた。
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