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門出
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エイベルと別れてから一ヶ月が経ち、クラリッサはテラスに出てみた。森を見ても光は見えない。それから一週間連続でテラスで森を見てみたが、光はない。ああ、本当に終わりだったのだと改めて実感した。
頭ではわかっていても心はまだその納得についていかない。こんな人生でなければと考えても、この家に生まれなければ森には行けなかった。王女でなければエイベルは興味を持たなかった。自由のない人生だったからこそ彼を癒しに思ったのだ。人生が楽しければ彼を癒しと捉えただろうか? ただの友達のように思っただけかもしれない。心が苦しくなるほどの感情を持つことはなかっただろうと結局は納得する。
国中で行われたお祭り騒ぎが終わり、イベントは来年までお預けとなった今、クラリッサの日常は落ち着いて穏やかなものに戻った。相変わらず頻繁に開かれるパーティーに出席して人形のように一日中座ったまま同じ言葉を繰り返すだけの日々。きょうだいとの会話だけが心の拠り所だが、きょうだいも暇ではない。学校へ行って、帰ってきてからは宿題だ課題だとお茶に誘うには忙しく見える。だからクラリッサは部屋で過ごすことが多くなった。
「クラリッサ……」
部屋の隅に現れたアイレが今にも泣き出しそうな顔で声をかけるもクラリッサはいつものように歓迎はしない。
「クラリッサ、あのさ……」
「アイレ」
何かを言おうとしたアイレの言葉を遮って名前を呼べば、慌てて顔を上げてクラリッサを見た。
「アイレともお別れしないといけないの」
「……あ……」
なんでとは聞かない。アイレはこうなったのは全て自分のせいだと思っている。だからクラリッサの言葉にショックはあっても拒絶はしない。幼子のように泣き喚いて縋り付くこともしない。
何か言いたげに開いた唇をグッと噛み締めるアイレを見てクラリッサは正方形の缶を棚の上から取ってアイレの前に置いた。
「これは?」
「クッキーよ」
クラリッサが蓋を開けると見えた缶いっぱいのクッキー。いつも食べる一種類ではなく、柄も形も違う多種類のクッキーが入っている。
「クラリッサが食べるやつだろ?」
「いいえ、これはリズに買ってきてもらったの。毎日お話に付き合ってくれたお礼よ」
「そんなの……」
いつも一枚か二枚だったクッキーがたくさん入っているのは、ここに来ても一緒にお茶をすることはないと言われているようで悲しみにアイレの唇が震える。
わかっている。いつも自分が余計なことを言ってクラリッサを傷つけている。クラリッサはお願いを聞いてくれただけなのに、その結果がいつも最悪なものになってしまう。
エイベルにも話した。悪いのは自分だと。自分がクラリッサにこう言ったんだと説明したが、エイベルが耳を貸すことはなかった。
「私はもう、元の日常に戻らなきゃいけないの」
「でも、クラリッサは辛いんだろ? 父親に従うの嫌なんだろ!?」
「嫌だからって拒めることじゃないの。私には私の使命があるから、それに従って生きなきゃいけないのよ」
「でも、でもッ」
「これも持っていって」
クッキー缶の蓋を閉め、キャンディが入った缶を取ってその上に乗せた状態でアイレの前に差し出すとアイレは震える手を缶に添えて自分が持つ空間に移動させた。目の前で消えた缶に安堵して指先でアイレの頭を軽く撫でる。
「あなたと出会えて幸せだったわ」
「オイラ……」
嫌だと口からこぼれそうになるのを堪えて首を振り、腕で目元を擦って顔を上げたアイレが笑顔を見せる。
「オイラもだ! ここは居心地がよくて好きだった! クラリッサは優しいし、食べ物は美味いし、良い匂いがするし……ホント……好きだった!」
でも別れなければならない。自分がそれを望んでいなくともクラリッサが覚悟を決めたのだから泣き縋ってはいけないのだとアイレは精一杯の笑顔で別れることを決めた。
「皆で分けるよ! 一年分ぐらいありそうだ!」
「よかった」
「じゃあ、帰るよ」
「さようなら、アイレ」
いつもなら『またね』と言って別れていたが、今日はそうじゃない。今日は明日までの別れではなく、永遠の別れ。アイレはもうここには来てはいけないし、クラリッサと話すこともない。
クラリッサが笑顔を見せるからアイレも笑顔を見せる。
「さよなら!」
クラリッサがもっと残酷な人間であればアイレもここまで苦しくはなかった。クッキー缶なんかいらないと投げ捨てることもできたのに、もうクッキーを一緒に食べることも分けることもできないから妹に頼んで用意してくれたのだとアイレは森に帰って涙をこぼした。大粒の涙が一つ二つとこぼれていく。
アイレにとっても幸せな時間だった。それがなくなってしまうことを受け入れたくない。本当は嫌だと縋りつきたかった。何十回でも何百回でも謝るからここに来たいと言いたかった。でも、言えなかった。辛くないはずがないクラリッサにそうすることで余計に苦しませてしまうことがわかっていたから。
「ちゃんと……笑顔で、できたかな……」
泣いていなかっただろうか。笑えていただろうか。声は震えていなかっただろうか。
最後くらいはちゃんとしなければと必死に作った笑顔。クラリッサの記憶に残る最後の顔は笑顔が良かったからと笑顔を見せた。
クッキーなんかどうだっていい、キャンディもいらない。でももう会えないから、アイレは涙を拭いてレニスの咲く場所へと向かった。
「クラリッサ」
なんの力も持たない自分がクラリッサのためにしてやれることなどない。もしあるとすれば祈ることだけ。クラリッサが一日でも早く苦しみから解放されますようにと。
微笑みの意味を持つレイニの花弁に腰を下ろせばアイレは膝を抱えて丸くなり、レイニの中へと身体を落とした。柔らかな花弁はクラリッサの手のひらに乗ったときの感触によく似ている。レイニを贈って喜んでくれたこと、レイニを守ろうとしてくれたこと、ありがとうを言ってくれたこと──幸せな思い出に浸りながらレイニの中に涙を溜めて眠りについた。
それから一年、また一年と月日はあっという間に流れていった。
「寂しくなるわ」
「ホントに行っちゃうのー?」
「結婚するんだから当たり前でしょ」
今日は妹のデイジーが家を出る日。家を出て、王女の称号を捨て、愛する人と結婚する日。
結婚式は国の教会で小さな式を挙げると言っていた。クラリッサはそれに参列して祝ってやることはできないが、他のきょうだいが参列すると言っていたためあとで話を聞くことになっている。
一ヶ月前から寂しいを連呼し続けるリズを鬱陶しいと怒鳴るデイジーの大声も昨日は聞こえなかった。そして今日からはどんなに願おうと聞くことはできない。
「幸せになるのよ」
「そうだよ! リズ、学校の帰りにパン屋さん寄るからね! 泣いてるの見たらパン全部買い占めてお店閉めさせちゃうから!」
「それ意味ないだろ」
「ボクも行く!」
「皆でな。勝手には行かないんだぞ」
「うん!」
エヴァンは父親への義理立てで見送りには行かないと前日に話をしに来た。デイジーにも既に話したらしく「最初からわかってた」と呆れ顔で言われたと言っていた。
王位継承権一位を持っている身としてはあまり父親の怒りを買いたくないのだろうとエヴァンの気持ちはきょうだい全員が理解している。
「お姉さまの結婚式、ちゃんと国民としてお祝いするわ」
「お姉ちゃんとしては、妹としてお祝いしてくれたほうが嬉しいんだけど」
「でも私はもう王女じゃなくなるわけだから」
「王女じゃなくなっても妹であることは変わらないでしょ」
「そうだけど……」
愛しい愛しい妹のめでたい出発の日に涙は似合わないとデイジーの瞳からこぼれそうになる涙を指で拭ってやると「う~」と子供のような声を漏らしながら抱きついてきたのをクラリッサが受け止める。
「世界で一番幸せなお嫁さんにならないと怒るからね」
「お姉さまもよ。イルーゴ王子はとっても良い人だから心配してないけど、でもあのクソ親父がヘドロみたいに絡みついてお姉さまを離さないだろうから世界で一番幸せなんて言えないかもしれないけど、幸せになって」
「大丈夫、幸せになるわ」
あと三年もすれば結婚する。真っ白なドレスを着て、世界で一番豪華な結婚式に花嫁として出る。その先にある未来が明るいかどうかは想像するのはやめた。期待して思ったのと違えばショックを受けるし、期待していなければ悪くてもこんなものだと思えるからと。
この二年間でイルーゴ王子は何度かモレノスにやってきてはクラリッサときょうだいと話をしている。その度に父親は『イルーゴ王子と結婚すれば孫の心配はしなくていいな』と上機嫌に笑う。その意味が産むか産まないかではなく『美しい孫が生まれるかどうかの心配はしなくていい』と言っているのだろうとクラリッサは思っている。
父親を満足させられるのなら子供ぐらい何人だって産む。男の子ではなく女の子が先に産まれてくれれば終わりでいいのかもしれないとも考えている。
「デイジー、大好きよ」
「私も大好きよ。ずっとひどいこと言ってごめんなさい」
「もう謝らないって約束したでしょ。今日はあなたが幸せに向かう日なんだから謝罪なんて口にしないの」
「だってもう会えないから!」
父親は二度とデイジーにこの家の敷居を跨がせないと言った。家を出たら何があっても帰ってくるなと。それを了承した以上はデイジーに帰る家はない。ここから外へは出られないクラリッサとは二度と会えないことになるからと涙するデイジーにクラリッサは笑顔を見せる。
「もう二度と会えないから謝罪じゃなくてもっと良い言葉が聞きたいの」
「良い言葉って?」
「愛してる、とか」
涙を止めて目を瞬かせるデイジーにクラリッサが肩を揺らして笑う。
「愛してるわ、デイジー」
囁くクラリッサにまた涙するデイジーが何度も頷いてクラリッサの胸に顔を埋める。
「私も愛してる! ずっとずっと愛してるから! 忘れないで!」
「忘れるわけないでしょ。死ぬまで覚えてるわ」
「リズも愛してる! リズも愛してるんだから忘れないでよ!?」
「忘れない。そのキンキン声で言われると嫌でも脳に残るの」
「えへへ! じゃあ平気だね!」
「ボクも愛してるよ」
「俺もだ」
ダニエルとロニーが参加して抱き合うとデイジーが嗚咽をあげる。涙の別れはしたくないと我慢しても結局はムリだった。
「時間です」
待機していた使用人が声をかけ、それを合図に全員が離れた。使用人から旅行鞄を受け取って自分で持つのはデイジーがもう王女ではなくなるからで、その小さな鞄に詰め込まれているのは必要最低限の物だけ。ほとんどは父親に没収されてしまった。
「デイジー、これをあなたに」
「……いいの? 怒られるんじゃ……」
デイジーをもう一度抱きしめると同時に手に握らせた大粒の宝石がついたネックレス。赤子の握り拳ぐらいはあるだろう大粒の宝石は祖母から譲り受けた大事な宝物だということはデイジーも知っている。
焦るデイジーにクラリッサはニッコリ笑って頬に口付けた。
「私のお守りだったの。でも私は皆に守られてるからお守りは必要ないの。だからそれは外へ出るあなたを守るお守り。困ったら売りなさいっておばあさまも言ってたわ」
「売れないよ!!」
「シー……」
この家の使用人はすぐに告げ口をするため聞かれたくないと声を抑えさせるとそれを旅行鞄に強引にすぐしまわせた。
「姉としてしてあげられることがこれぐらいしかなくてごめんなさい」
「そんなことない! お姉さまはずっと守ってくれた! この結婚だってお姉さまが守ってくれたからできたことよ! こんな私を受け止めてくれた! じゅうぶんすぎるぐらいなのに……! 何もできなかったのは私のほうなのに!!」
自分の勘違いで愚行三昧だった日々がどれほどムダな時間だったか痛いほど噛み締めるデイジーの涙をハンカチで拭ってやれば出発前から涙で濡れる顔を見て笑うクラリッサにデイジーは目を閉じて涙を流す。
「あなたが妹で幸せだった」
「そんな……そんなこと……」
ないと否定したかった。でもできなかった。クラリッサが言ってくれることが嬉しくて、幸せで、デイジーはクラリッサの手を握って額に押し当てた。
「ありがとう」
その一言でクラリッサはじゅうぶんだった。
「お時間です。お急ぎください」
「うるさい」
急かす使用人に冷たい声で返事をしたデイジーがクラリッサのハンカチで涙を拭いてそのまま握って返さなかった。
行ってきますとは言わない。もう帰ってはこれないから。だから黙って門へと向かうデイジーを皆、門までは送らなかった。
門に近付くことが許されないクラリッサに合わせているのだ。そして門からこちらへは入ってこれない婚約者と余計な話をしないようにと釘も刺されている。
「どうか幸せに……」
門が開いたことで見えた青年は深々と長いお辞儀をこちらに向けてからデイジーが持つ荷物を持って一緒に坂を下っていった。
見えなくなるまで見送りながら心からの願いを風に乗せた。
頭ではわかっていても心はまだその納得についていかない。こんな人生でなければと考えても、この家に生まれなければ森には行けなかった。王女でなければエイベルは興味を持たなかった。自由のない人生だったからこそ彼を癒しに思ったのだ。人生が楽しければ彼を癒しと捉えただろうか? ただの友達のように思っただけかもしれない。心が苦しくなるほどの感情を持つことはなかっただろうと結局は納得する。
国中で行われたお祭り騒ぎが終わり、イベントは来年までお預けとなった今、クラリッサの日常は落ち着いて穏やかなものに戻った。相変わらず頻繁に開かれるパーティーに出席して人形のように一日中座ったまま同じ言葉を繰り返すだけの日々。きょうだいとの会話だけが心の拠り所だが、きょうだいも暇ではない。学校へ行って、帰ってきてからは宿題だ課題だとお茶に誘うには忙しく見える。だからクラリッサは部屋で過ごすことが多くなった。
「クラリッサ……」
部屋の隅に現れたアイレが今にも泣き出しそうな顔で声をかけるもクラリッサはいつものように歓迎はしない。
「クラリッサ、あのさ……」
「アイレ」
何かを言おうとしたアイレの言葉を遮って名前を呼べば、慌てて顔を上げてクラリッサを見た。
「アイレともお別れしないといけないの」
「……あ……」
なんでとは聞かない。アイレはこうなったのは全て自分のせいだと思っている。だからクラリッサの言葉にショックはあっても拒絶はしない。幼子のように泣き喚いて縋り付くこともしない。
何か言いたげに開いた唇をグッと噛み締めるアイレを見てクラリッサは正方形の缶を棚の上から取ってアイレの前に置いた。
「これは?」
「クッキーよ」
クラリッサが蓋を開けると見えた缶いっぱいのクッキー。いつも食べる一種類ではなく、柄も形も違う多種類のクッキーが入っている。
「クラリッサが食べるやつだろ?」
「いいえ、これはリズに買ってきてもらったの。毎日お話に付き合ってくれたお礼よ」
「そんなの……」
いつも一枚か二枚だったクッキーがたくさん入っているのは、ここに来ても一緒にお茶をすることはないと言われているようで悲しみにアイレの唇が震える。
わかっている。いつも自分が余計なことを言ってクラリッサを傷つけている。クラリッサはお願いを聞いてくれただけなのに、その結果がいつも最悪なものになってしまう。
エイベルにも話した。悪いのは自分だと。自分がクラリッサにこう言ったんだと説明したが、エイベルが耳を貸すことはなかった。
「私はもう、元の日常に戻らなきゃいけないの」
「でも、クラリッサは辛いんだろ? 父親に従うの嫌なんだろ!?」
「嫌だからって拒めることじゃないの。私には私の使命があるから、それに従って生きなきゃいけないのよ」
「でも、でもッ」
「これも持っていって」
クッキー缶の蓋を閉め、キャンディが入った缶を取ってその上に乗せた状態でアイレの前に差し出すとアイレは震える手を缶に添えて自分が持つ空間に移動させた。目の前で消えた缶に安堵して指先でアイレの頭を軽く撫でる。
「あなたと出会えて幸せだったわ」
「オイラ……」
嫌だと口からこぼれそうになるのを堪えて首を振り、腕で目元を擦って顔を上げたアイレが笑顔を見せる。
「オイラもだ! ここは居心地がよくて好きだった! クラリッサは優しいし、食べ物は美味いし、良い匂いがするし……ホント……好きだった!」
でも別れなければならない。自分がそれを望んでいなくともクラリッサが覚悟を決めたのだから泣き縋ってはいけないのだとアイレは精一杯の笑顔で別れることを決めた。
「皆で分けるよ! 一年分ぐらいありそうだ!」
「よかった」
「じゃあ、帰るよ」
「さようなら、アイレ」
いつもなら『またね』と言って別れていたが、今日はそうじゃない。今日は明日までの別れではなく、永遠の別れ。アイレはもうここには来てはいけないし、クラリッサと話すこともない。
クラリッサが笑顔を見せるからアイレも笑顔を見せる。
「さよなら!」
クラリッサがもっと残酷な人間であればアイレもここまで苦しくはなかった。クッキー缶なんかいらないと投げ捨てることもできたのに、もうクッキーを一緒に食べることも分けることもできないから妹に頼んで用意してくれたのだとアイレは森に帰って涙をこぼした。大粒の涙が一つ二つとこぼれていく。
アイレにとっても幸せな時間だった。それがなくなってしまうことを受け入れたくない。本当は嫌だと縋りつきたかった。何十回でも何百回でも謝るからここに来たいと言いたかった。でも、言えなかった。辛くないはずがないクラリッサにそうすることで余計に苦しませてしまうことがわかっていたから。
「ちゃんと……笑顔で、できたかな……」
泣いていなかっただろうか。笑えていただろうか。声は震えていなかっただろうか。
最後くらいはちゃんとしなければと必死に作った笑顔。クラリッサの記憶に残る最後の顔は笑顔が良かったからと笑顔を見せた。
クッキーなんかどうだっていい、キャンディもいらない。でももう会えないから、アイレは涙を拭いてレニスの咲く場所へと向かった。
「クラリッサ」
なんの力も持たない自分がクラリッサのためにしてやれることなどない。もしあるとすれば祈ることだけ。クラリッサが一日でも早く苦しみから解放されますようにと。
微笑みの意味を持つレイニの花弁に腰を下ろせばアイレは膝を抱えて丸くなり、レイニの中へと身体を落とした。柔らかな花弁はクラリッサの手のひらに乗ったときの感触によく似ている。レイニを贈って喜んでくれたこと、レイニを守ろうとしてくれたこと、ありがとうを言ってくれたこと──幸せな思い出に浸りながらレイニの中に涙を溜めて眠りについた。
それから一年、また一年と月日はあっという間に流れていった。
「寂しくなるわ」
「ホントに行っちゃうのー?」
「結婚するんだから当たり前でしょ」
今日は妹のデイジーが家を出る日。家を出て、王女の称号を捨て、愛する人と結婚する日。
結婚式は国の教会で小さな式を挙げると言っていた。クラリッサはそれに参列して祝ってやることはできないが、他のきょうだいが参列すると言っていたためあとで話を聞くことになっている。
一ヶ月前から寂しいを連呼し続けるリズを鬱陶しいと怒鳴るデイジーの大声も昨日は聞こえなかった。そして今日からはどんなに願おうと聞くことはできない。
「幸せになるのよ」
「そうだよ! リズ、学校の帰りにパン屋さん寄るからね! 泣いてるの見たらパン全部買い占めてお店閉めさせちゃうから!」
「それ意味ないだろ」
「ボクも行く!」
「皆でな。勝手には行かないんだぞ」
「うん!」
エヴァンは父親への義理立てで見送りには行かないと前日に話をしに来た。デイジーにも既に話したらしく「最初からわかってた」と呆れ顔で言われたと言っていた。
王位継承権一位を持っている身としてはあまり父親の怒りを買いたくないのだろうとエヴァンの気持ちはきょうだい全員が理解している。
「お姉さまの結婚式、ちゃんと国民としてお祝いするわ」
「お姉ちゃんとしては、妹としてお祝いしてくれたほうが嬉しいんだけど」
「でも私はもう王女じゃなくなるわけだから」
「王女じゃなくなっても妹であることは変わらないでしょ」
「そうだけど……」
愛しい愛しい妹のめでたい出発の日に涙は似合わないとデイジーの瞳からこぼれそうになる涙を指で拭ってやると「う~」と子供のような声を漏らしながら抱きついてきたのをクラリッサが受け止める。
「世界で一番幸せなお嫁さんにならないと怒るからね」
「お姉さまもよ。イルーゴ王子はとっても良い人だから心配してないけど、でもあのクソ親父がヘドロみたいに絡みついてお姉さまを離さないだろうから世界で一番幸せなんて言えないかもしれないけど、幸せになって」
「大丈夫、幸せになるわ」
あと三年もすれば結婚する。真っ白なドレスを着て、世界で一番豪華な結婚式に花嫁として出る。その先にある未来が明るいかどうかは想像するのはやめた。期待して思ったのと違えばショックを受けるし、期待していなければ悪くてもこんなものだと思えるからと。
この二年間でイルーゴ王子は何度かモレノスにやってきてはクラリッサときょうだいと話をしている。その度に父親は『イルーゴ王子と結婚すれば孫の心配はしなくていいな』と上機嫌に笑う。その意味が産むか産まないかではなく『美しい孫が生まれるかどうかの心配はしなくていい』と言っているのだろうとクラリッサは思っている。
父親を満足させられるのなら子供ぐらい何人だって産む。男の子ではなく女の子が先に産まれてくれれば終わりでいいのかもしれないとも考えている。
「デイジー、大好きよ」
「私も大好きよ。ずっとひどいこと言ってごめんなさい」
「もう謝らないって約束したでしょ。今日はあなたが幸せに向かう日なんだから謝罪なんて口にしないの」
「だってもう会えないから!」
父親は二度とデイジーにこの家の敷居を跨がせないと言った。家を出たら何があっても帰ってくるなと。それを了承した以上はデイジーに帰る家はない。ここから外へは出られないクラリッサとは二度と会えないことになるからと涙するデイジーにクラリッサは笑顔を見せる。
「もう二度と会えないから謝罪じゃなくてもっと良い言葉が聞きたいの」
「良い言葉って?」
「愛してる、とか」
涙を止めて目を瞬かせるデイジーにクラリッサが肩を揺らして笑う。
「愛してるわ、デイジー」
囁くクラリッサにまた涙するデイジーが何度も頷いてクラリッサの胸に顔を埋める。
「私も愛してる! ずっとずっと愛してるから! 忘れないで!」
「忘れるわけないでしょ。死ぬまで覚えてるわ」
「リズも愛してる! リズも愛してるんだから忘れないでよ!?」
「忘れない。そのキンキン声で言われると嫌でも脳に残るの」
「えへへ! じゃあ平気だね!」
「ボクも愛してるよ」
「俺もだ」
ダニエルとロニーが参加して抱き合うとデイジーが嗚咽をあげる。涙の別れはしたくないと我慢しても結局はムリだった。
「時間です」
待機していた使用人が声をかけ、それを合図に全員が離れた。使用人から旅行鞄を受け取って自分で持つのはデイジーがもう王女ではなくなるからで、その小さな鞄に詰め込まれているのは必要最低限の物だけ。ほとんどは父親に没収されてしまった。
「デイジー、これをあなたに」
「……いいの? 怒られるんじゃ……」
デイジーをもう一度抱きしめると同時に手に握らせた大粒の宝石がついたネックレス。赤子の握り拳ぐらいはあるだろう大粒の宝石は祖母から譲り受けた大事な宝物だということはデイジーも知っている。
焦るデイジーにクラリッサはニッコリ笑って頬に口付けた。
「私のお守りだったの。でも私は皆に守られてるからお守りは必要ないの。だからそれは外へ出るあなたを守るお守り。困ったら売りなさいっておばあさまも言ってたわ」
「売れないよ!!」
「シー……」
この家の使用人はすぐに告げ口をするため聞かれたくないと声を抑えさせるとそれを旅行鞄に強引にすぐしまわせた。
「姉としてしてあげられることがこれぐらいしかなくてごめんなさい」
「そんなことない! お姉さまはずっと守ってくれた! この結婚だってお姉さまが守ってくれたからできたことよ! こんな私を受け止めてくれた! じゅうぶんすぎるぐらいなのに……! 何もできなかったのは私のほうなのに!!」
自分の勘違いで愚行三昧だった日々がどれほどムダな時間だったか痛いほど噛み締めるデイジーの涙をハンカチで拭ってやれば出発前から涙で濡れる顔を見て笑うクラリッサにデイジーは目を閉じて涙を流す。
「あなたが妹で幸せだった」
「そんな……そんなこと……」
ないと否定したかった。でもできなかった。クラリッサが言ってくれることが嬉しくて、幸せで、デイジーはクラリッサの手を握って額に押し当てた。
「ありがとう」
その一言でクラリッサはじゅうぶんだった。
「お時間です。お急ぎください」
「うるさい」
急かす使用人に冷たい声で返事をしたデイジーがクラリッサのハンカチで涙を拭いてそのまま握って返さなかった。
行ってきますとは言わない。もう帰ってはこれないから。だから黙って門へと向かうデイジーを皆、門までは送らなかった。
門に近付くことが許されないクラリッサに合わせているのだ。そして門からこちらへは入ってこれない婚約者と余計な話をしないようにと釘も刺されている。
「どうか幸せに……」
門が開いたことで見えた青年は深々と長いお辞儀をこちらに向けてからデイジーが持つ荷物を持って一緒に坂を下っていった。
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