鑑賞用王女は森の中で黒い獣に出会い、愛を紡ぐ

永江寧々

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本当の気持ち

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 夜、クラリッサは迎えに来てもらうことは拒んだ。エイベルと話し合う決意はしたが、熱を感じる覚悟はできていない。きっと触れたら、触れられたら泣いてしまうから自らの足で向かうことにした。
 妖精のストールで身を包み、森の中へと入っていく。
 思い出すのはあの光景、あの会話──……

「……ふー……」
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」

 エイベルがいる場所までもう少しなのに、近くなればなるほど足は動かなくなってしまう。立ち止まってしまったクラリッサにアイレが声をかけ、その度にクラリッサは笑顔を見せる。緊張している。当然だ。あんな会話を聞いてしまったのだから何事もなかったかのように平気な顔で会いに行けるわけがない。
 それでも会わなければ、話を聞かなければ一生解決しない胸のモヤつきを今日晴らしたかった。彼と過ごした時間を素晴らしい思い出として残すために。

「クラリッサ」
「エイベル……」

 ストールを外せば気配に気付いたエイベルが近付いてきて名前を呼ぶ。ずっと聞きたかった声が名前を呼んだ。それだけでクラリッサは目頭が熱くなるのを感じた。涙は見せないと決めてやってきたのに、たった一度、名前を呼ばれただけで涙が出そうになってしまう。震える息を鼻から吐き出すことで滲みそうになる涙を逃していつもの場所へと上がっていく。差し出された手に一瞬の戸惑いを見せたが、すぐにその手を握って大木までのエスコートを受けた。
 懐かしく感じる自分の癒しの場所。自ら手放した空間。もう一度来られるとは思っていなかっただけに、クラリッサはこの匂いを忘れてしまわないようにとここの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「…………」
「…………」

 久しぶりに顔を合わせたことに緊張し、何から話せばいいのか互いにわからず、時間は有限だとわかっていながら二人は暫く黙りこんでいた。

「……あの日……」

 先に話し始めたエイベルの言葉にクラリッサがビクッと肩を跳ねさせる。大袈裟な反応をするつもりはなかったのに身体は勝手に反応してしまう。

「来ていたんだってな。アイレから聞いた」

 ここに来て初めての嫌な思い出。エイベルに纏わりついていた女たちに笑われたこととは比にならないほど嫌な思い出。

「……これ、アイレたちが編んでくれたストールなの。私が来たの、わからなかったでしょ?」
「ああ」
「いつも食べ物をくれるお礼だって、こんなに素晴らしい物をくれたのよ。これを見せれば妖精はすごいんだって認めるんじゃないかって思って、あなたとの約束を破って自分から会いに言ったら……ふふっ、驚いた顔が見たかっただけなのにね」

 胸の中には悲しい感情が溢れているのにクラリッサはどうしても笑顔を浮かべてしまう。

「クラリッサ、俺は──」
「何も知らない女は操りやすくてよかった?」

 飛んできた言葉にエイベルの息が詰まる。
 意地悪な問いかけだとわかっている。わざわざこんな聞き方をしてしまう意地の悪い感情が腹の底で渦巻いていて、それが怒りなのかなんなのかがわからなかった。

「クラリッサ、今更何を聞いたところで全て言い訳に聞こえてしまうだろう。だが、どうか最後まで聞いてほしい。そしてお前の感情も余すことなく受け入れる。だから、どうか、すぐに去るのだけはやめてくれないか……」

 ずっと聞きたかったことが聞ける。それが良かろうと悪かろうと本人から聞くことが現実となる。悪夢の中で言い放たれた氷刃のように冷たく鋭い言葉は彼の言葉ではないのだ。
 何があろうと聞く。それだけはクラリッサも覚悟を決めていた。

「一つだけ約束して。優しい嘘はつかないって」
「わかった」

 静かに了承するエイベルにとってはここが正念場。言葉を間違えなければ以前のように戻れるかもしれないと淡い期待を抱いていた。優しい嘘など必要ないと肺にある空気を全て吐き切ってから語り始めた。

「ダークエルフの間にキスの挨拶など存在しない。あれは俺がついた嘘だった」
「そう……」
「鑑賞用王女が自らの足で森に入ってきた。何も知らない無垢な王女に何か教えることができれば面白いと思ったんだ。大事に大事に育てられてきた王女を汚したくなって……それがキスだった」

 憎い人間が、自分たちを苦しめている人間の、あのいけ好かない王が溺愛している娘がダークエルフによって汚されたと知れば絶望するだろうと思ってのことだったと明らかにした言葉はクラリッサを容赦なく傷つける。これが自分に一目惚れしたから、キスがしたかったから何も知らない女に嘘を教えたとかであればクラリッサも悪い気はしなかった。悪夢だけではなく、現実までもこんなに残酷なのかと傷ついているのに笑顔は消えない。

「顎を上げればお前は甘えるように腕を回してくるようになり、そんなことはお前の……」

 突然止まった言葉にクラリッサが顔を向けるとエイべるは見つめていた手のひらを拳に変える。

「エイベル?」

 何を言いかけたのかと言葉を待っていると弱々しい視線が向けられた。

「お前の…………夫、となる……男でも、教えられんことだと思うと優越感に浸れた」

 夫になる男は自分ではないとわかっている。会話は全て聞こえている。クラリッサが見合いを済ませたことも知っている。決まったことは変えられないし、クラリッサが変えようと思っていないこともわかっている。それはきっとあの事件がなくとも起こる悲劇。それを一生知られずに終わりたかったが、知られてしまった以上は嘘をつくことはしたくなかった。

「私にキスしたかったわけじゃないって、こと?」
「初めは鑑賞用王女をどうしてやろうと思っていたが、次第に挨拶などどうでもよくなった。お前は俺に聞いたことがあるだろう、これも挨拶なのかと」
「だってずっとキスするんだもの」
「したくなければしない。したいと思ったからしたんだ」

 そんな言葉で心が軽くなってしまう自分を笑うクラリッサはもうどうでもいいと思った。彼がどう思っていようと、仲間にどう話そうと彼と過ごした時間が幸せであったことは消えない。ここに来れば癒されたこと、疲れが吹き飛んだこと、幸せだったことは永遠に残る。あの甘いキスは彼がしたくてしたもの。それがわかっただけでクラリッサは幸せだった。

「ありがとう、エイベル」

 立ち上がるクラリッサの手を掴んだエイベルに振り返ると縋り付く子供のような目をしていた。

「まだ、行かないでくれ」

 アイレはずっとエイベルが落ち込んでいると言っていた。それは自分を慰めるための言葉だと思っていたが違った。離れていた間、エイベルもずっとこんな表情で過ごしていたのだ。あの日、聞かれてしまったことを後悔してずっと元気なく過ごしていたのかもしれない──そう思うと無性に嬉しかった。

「あなたとの約束を破ったからいけなかったの。もう二度と勝手には入らないって約束したのに、破ってごめんなさい」

 全くだ、とは返ってこない。いつもの調子ではないエイベルに調子は狂うが、クラリッサは握られる手の熱さに大木に腰掛け直した。
 手を握り、互いに少し動かして指を絡める。長い指がクラリッサの手の甲を優しく撫で、クラリッサはそのくすぐったさを感じながら肩に頭を預けた。

「婚約者が決まったんだな」

 静かな声にクラリッサが頷く。

「お前はそれでいいのか?」
「ええ」

 晴れやかな声にエイベルは開きかけた口を閉じた。

「のんびりした人よ。媚びないし、適当で、楽そう」
「一生囚われたま間でいるつもりか?」
「そのうち解放されるわ。子供が生まれればお役御免。そしたら外にも出られると思う」

 父親の関心がなくなるまで我慢すれば、と思っていることがエイベルは悲しかった。生まれた瞬間から女神の生まれ変わりだと言われ、物心つく頃には既に父親の言いなりの人形と化し、今は家族の平和を守るために人形で居続けることを選んでいる。自分の自由などこの世にあるとは思っていないのだ。

「やる気のない奴だったな」
「見てたの?」
「聞こえてきたんだ」

 どんな思いでいたのだろうと少し気にはなったが、素直には言わない気がして聞かなかった。

「でも、良いことを言う人だったわ」
「そうだな……」

 エイベルにもちゃんと聞こえていた言葉。それを否定しないことが嬉しかった。

「私の代ではムリでも……いつか、分かり合える日が来るといいなって思ったわ。人間も、ダークエルフも、過去のことは過去のこととして受け止めて、憎み合わずに生きられたら……きっとお互い、今よりずっと幸せになれるはずだもの」

 それを現実にするのはクラリッサの兄か、その息子か、孫か──そしてエイベルの意識改革が必要。でもエイベルのことに関してはあまり心配していなかった。今、隣に座っているエイベルはそれを望んでいるように感じたから。
 エイベルだけが変わっても意味はないが、エイベルなら仲間にちゃんと話せるのではないかと信じている。

「……この……」
「え?」

 胸を押さえながら呟くエイベルに首を傾げる。

「この気持ちがなんなのかわからないんだ。お前が他の男の物になると考えると胸が痛い。お前にこうして触れる男が俺以外にもできると思うと胸が張り裂けそうだ……。お前が愛を告げる男が俺ではないのだと思うと気が狂いそうになる。マグマのようにドロドロとした感情が溢れ出る。その全てが俺であればいいのにと願わずにはいられないんだ」

 なぜ“嫉妬”という感情が出るのか、クラリッサは知っている。エイベルに会うまでは知らなかった感情だ。それをエイベルが知っているということがクラリッサの胸をザワつかせる。

「これが、人間の言う……愛、か?」

 クラリッサの心臓がドクンと大きな音を立てる。できれば聞きたくなかった。聞いてしまうと気持ちが捨てられなくなってしまうから。
 答える前に滲む涙を止めなくては。目いっぱいに溜まる前になんとかしなければと思えば思うほど、クラリッサの瞳には涙が溜まっていく。
 それが溢れるのに時間はかからなかった。
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