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恋しい感情

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 エイベルが合図を送ってもクラリッサが合図を送らなければ森には連れて行かないのは暗黙のルールだった。互いのタイミングが合えば連れて行く。なかなか合わない日もこれまでにあった。しかし、今回はそれがあまりにも長すぎることにエイベルは苛立っていた。

「捌いておけ」

 狩りで得た獲物を火を囲む仲間に投げつけるように放ると苛立ちを隠さないまま大木へと腰掛ける。
 苛立っているときのエイベルには触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに誰も近寄らないし、話しかけもしない。恐ろしくて誰も声をかけられないのだ。
 少し前まではずいぶんと機嫌がよかったのにと仲間も彼が抱える苛立ちの理由がわからず困惑している。

「なぜこっちを見ない……!」

 多いときは毎日でも会えていたのに急に来なくなってしまった。テラスには出ているが、合図はしない。クラリッサが暇人だとは思っていないし、あの父親の下にいれば嫌でもパーティーに駆り出されてしまう。そんな忙しさの中にいる相手を自分の欲望で振り回すつもりはないと思っていたその感情が苛立ちへと変わるのは早かった。
 クラリッサが森のほうを見なくなったのだ。クラリッサがテラスに出る度に合図を送ってもクラリッサはそれに気付かないふりをしていた。まるでダークエルフの存在など忘れてしまったかのように。
 なぜ急にそんなことをし始めたのかがわからないエイベルは戸惑いと苛立ちで毎日機嫌が悪かった。
 大木に腰掛けながらテラスを見る目つきは獲物を狙う獣そのもの。

(あなたって黒猫見たいね)

 猫の愛らしさもか弱さもないが、クラリッサがそう思っているのなら悪くはないと思った。
 しばらくあの声を聞いていない。
 疲れたと言って寄りかかってくるあの頼りない肩を抱きたい。
 あの絹糸のように柔らかな髪を撫でたい。
 陶器のように滑らかな頬を撫でて、果実のように瑞々しい唇を貪りたい。
 あの香り、あの温もり、あの声、あの笑顔……全てが恋しかった。

「妹と話す時間など昼間だけでいいだろう……」

 寝る直前までリズの恋バナに付き合っている会話が聞こえる。クラリッサが溺愛している妹の一人。クラリッサはいつも聞き役に徹し、自らのことは何も話さない。何もないのだから話すことがないのは当然で、ダークエルフのことを話せないのも当然だが、エイベルの胸はモヤついていた。自分のことを話してほしいとは思わない。それが火種になるのは目に見えているからだ。だが、妹との会話の中で「キスとかダンスとかしたいって思わないの?」と妹が聞くことに対してクラリッサは「リズは?」と答えずに問いかけてしまうことがなぜだか妙に嫌だった。
 リズは自分が質問したことに質問で返されると自分が質問したのも忘れて答えてしまう。だから話を少しズラすには質問で返すのが一番だとクラリッサはわかっている。
 ダークエルフのことは話せない。頭ではわかっていても、何も話さないのは自分との関係が相手の中に残っていないように感じて嫌だった。

「リズ様、お時間です」
「えー! もうちょっとだけー!」
「いけません。時間厳守です。旦那様に制限されてしまいますよ?」
「ぶー……」
「ふふっ、また明日ね」
「おやすみー」
「おやすみなさい」

 妹が帰った。今日こそは出てくるのではないかと期待してしまう。誰かに執着することも何かを心から欲することもなかったのに、クラリッサに出会ってから知らない感情が増え始めた。
 気が付けば彼女のことを考えていて、彼女に触れたいと思い、彼女と過ごした日々を思い出すだけで笑顔になれた。
 彼女が欲しい。自分だけの物にしたい。そんな欲望が沸々と込み上げるのを感じていた。
 だが、そんな期待も虚しく、クラリッサはその日もテラスに出ることはなかった。
 何日も何日も待った。でもテラスへ出るクラリッサの姿はない。久しぶりに姿を確認しても必ず誰かと一緒にいる。元気にしていることはわかっても触れることはできない。声を聞いて、笑顔が見られるだけ。そんなものはエイベルにとってなんの意味もなかった。触れられなければ意味がないのに、クラリッサはエイベルが見ているとわかっていながらそれに応えようとしない。あえて無視をしていることが更にエイベルを苛立たせた。

「アイレ!!」

 突然怒声を響かせるエイベルに仲間が驚きに肩を跳ねさせる。なぜ怒っているのか、ではなく、なぜ妖精なんかを呼ぶのかと疑問はあるが、誰も問いかけようとはしなかった。触らぬ神に祟りなし、は継続中。

「なに?」

 ポンッと音を立てて目の前に現れた小さな存在。それを睨みつけながらエイベルがテラスを指差して言った。

「クラリッサにどういうつもりか聞いてこい」

 呆れたように肩を竦めるアイレは宙であぐらを掻く。

「それが人に物を頼む態度なわけ?」
「お前は何様のつもりだ?」

 周りのダークエルフはエイベルの気迫に怯えてアイレにやめろと手を振っているが、アイレはそれを無視する。

「それはこっちの台詞。オイラはダークエルフじゃないし、ダークエルフの奴隷でもない。エイベルの言うことに答える義務もないし、オイラたちを見下してくる奴の言葉を聞いてやる義理もないんだぜ」
「…………」

 エイベルが言い返さなかったのはアイレにとって意外だったが、そこで甘やかす気はなかった。

「クラリッサに話聞いてきてほしけりゃ、それなりの態度で頼めよ」
「おい! 妖精のくせにお前、エイベルにそんな口利いてもいいと思って──」

 見下している妖精の態度に我慢ならないダークエルフが声を張って詰め寄ろうとするのをエイベルが手で止める。
 それを見てフンッと鼻を鳴らすアイレ。

「……お前は、クラリッサがなぜ来なくなったか知っているか?」

 心臓が飛び出るかと思うほどドキッとしたが、アイレは「知らない」と答えた。あれから何十回と自問を繰り返した話。最低だと怒ることもできたし、クラリッサが聞いていたと言うこともできた。だが、アイレにはどうすべきかわからず、今この瞬間も答えが出ていないため言えなかった。

「……頼む。クラリッサの様子を見てきてくれ。なぜ、合図に答えないのかを……聞いてきてくれ」

 立ち上がって腰を折ったエイベルが静かな声で妖精にお願いを口にする。それだけでも驚きなのに、内容はまさかの人間の機嫌伺い。驚きを隠せない仲間たちはそれぞれに顔を見合わせて頬を抓り合う。誰一人として痛みを感じなかった者はおらず、ヒリヒリと痛む頬を押さえながらその光景を見守っていた。

「……なんで、クラリッサが気になんの?」

 遊び相手がいなくなるからか?と喉元まで出かかって飲み込み、口から出たのは別の言葉。

「……アイツと……クラリッサといると落ち着くんだ。あからさまに避けている理由が知りたい」

 どこか物悲しげに聞こえる声色にアイレはそれ以上何も言えなかった。
 アイレも姿こそ見せなかったが、近くでクラリッサを観察していたため心配はしている。クラリッサにとってエイベルがどういう存在か知っていたからこそ、あの発言がいかにショックだったか理解はできるし、クラリッサの今の行動も納得していた。納得していないのは何も知らないエイベルだけ。
 あんなことを言っていたのだから協力してやる義理はないと突き放すことも考えたが、エイベルの様子にそうはできなかった。

「……わかったよ、エイベル。オイラが聞いてきてやる」
「感謝する」

 妖精に感謝したダークエルフは過去を何千と遡ってもいないだろう。それがダークエルフの長が妖精に感謝を口にした。驚きと、少しの失望が仲間の表情に宿っていた。
 クラリッサがなぜそんなことをしているのか知ることさえできれば、前のときと同じように説明しようと思っていた。もし何か誤解があったのだとしたらクラリッサにわかりやすいように説明すれば解決すると。
 アイレの声が聞こえる。接触に成功したのだ。あとはクラリッサに理由さえ聞けば……と思っていたエイベルの耳に届いた「さよなら、エイベル」の言葉にエイベルは心臓が止まったような感覚に陥った。そして世界の時間が止まってしまったように感じた。
 想像もしていなかった別れの言葉に頭がついていかない。なぜ、という言葉が頭の中を回り続けている。
 
「…………は…………」

 絞り出すように出てきたのは声か音か──エイベルはあまりの衝撃にしばらく動けないでいた。
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