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意外性
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あと三十分もすれば空が白み始めるだろう頃、クラリッサは膝の上に頭を乗せて目を閉じるエイベルの長い髪を撫でながら浮かんでいた疑問を問いかけた。
「花を愛でないダークエルフでも花冠の作り方は知ってるのね?」
「嫌味か?」
「嫌味な言い方になったって私も思ったけど、意外で」
他に言い方はないのかと顔に書いたエイベルが目を開けることなく指差した方向に何があるかクラリッサは知っている。
「妖精が作ったの?」
「違う。作ったのは俺だ。奴らは編み方を教えただけだ」
ぶっきらぼうな言い方だが、クラリッサの表情はニヤつきと笑顔が混ざった表情へと変わり、エイベルはそれを薄めを開けて見ていた。
「なんだ、その顔は」
「教えてってお願いしたの?」
「頼んだだけだ」
「それはお願いって言うのよ」
「花を取らせてやった貸しを返させただけだ」
「でもアイレはダークエルフの道を通らずに着く道を知ってるって言ってたわ」
「危険な道を通らずに行けたんだ。事実、奴は許可を出したら安全な道を通って行った。貸しだろう」
きっとアイレたちにもそんな言い方をしたのだろうと容易に想像がつくが、アイレが言っていた『忙しい』はこのことだったのだと思うと不機嫌な顔でもなかったことから嫌な態度を取っていたわけでもないのではないかと思った。
「私のために妖精に頼んでくれたのね」
「……そうだ。だから感謝しろ。俺が自ら妖精に声をかけたんだぞ」
「ふふふっ、そうね。ありがとう。すごく嬉しい。感謝してる」
何度だって言いたくなる「私のために」という言葉。
「貴重な花なのに、いいの?」
「貴重だろうが咲いていたところでなんの意味もない花だ。どうでもいい」
愛でない花に価値はないと言った。だからエイベルはこれだけの数を気にせず摘んだ。
「持って帰るのはやめておけ」
「そうね……」
次、この花が見つかればただでは済まない。花冠を鳥が作るわけがないし、ましてやこれほど大きな物を運んでくるはずがない。クラリッサがいくら否定しようと怒ろうと父親はそれなりの手段を取るだろう。
この森はダークエルフの森だが、この国の敷地内にある以上はこの国の所有物でもある。国王が言えば森を潰すこともできるのではないかと最悪の事態が想像してしまえるだけにクラリッサもエイベルの意見に同意した。
「俺が保管しておいてやる。ここに来ればお前は花の王女様だ」
夜にしか森へは行けないから冠が光っている時間で良い。淡い光は目に優しく、視界の邪魔にはならず心地良い。
外すのが惜しいと感じてしまうほど一晩でクラリッサの宝物となった。だからこそ奪われないように置いていく。
「ふふっ、妖精にしてくれないの?」
「お前は王女だろう。王の女だ」
「ここには長しかいないって聞いたけど?」
「可愛げのない女はモテないぞ」
「この顔だから大丈夫。ご心配どうも」
可愛げがないと笑うエイベルの額に口付けを落とすとエイベルが起き上がる。
「別れの挨拶はしないつもりか?」
「それはおねだり?」
「問いかけだ」
「したそうな顔してるからそうなのかなって」
「嫁の貰い手はなさそうだな」
「もらってくれそうな人がいるから大丈夫」
「ほう、随分と物好きな男がいたものだ」
「そうね。すごく物好きな人よ。変わってる人。変な人。変人」
「是非会ってみたいものだ」
「今度鏡を持ってくるわ」
「減らず口は黙らせるに限るな」
顔が近付いてくると自然と目を閉じるようになった。目を閉じるべきか迷っていた女はもういない。キスというものにすっかり慣れてしまった。
軽く吸い付いて離すキスに小さく息を漏らすクラリッサにエイベルが笑う。それが悔しいもののクラリッサはエイベルほど慣れてはいない。
「今度、あなたの過去の恋愛を聞かせて」
「そんなものはない。家族という形がない時点でわかるだろう」
「恋愛に憧れたりしないの?」
「憧れていない人間が言うのか?」
それもそうかと納得して肩を竦めれば、頭上の空が白んできた。
別れの時間だ。
家族のことは愛していても、この時間は特別で帰りたくないと思ってしまう。
首に腕を回して抱きつけばエイベルの片腕が背中に回る。彼も同じように思ってくれていればいいのにと心の中で思うだけで口にはしない。
「送ってくださる?」
身体を離して立ち上がったクラリッサが差し出した手を下から取って握るエイベルが「喜んで」と言った。そのまま抱き上げて帰るまで三秒もかからない。別れの時間としてはあまりにも短いものだが、クラリッサにとってはちょうどいい。早いからこそ縋り付かずにいられるのだ。
「ありが……ッ!?」
いつも通りテラスに降ろされた際、クラリッサの耳に届いたパキッと何かが壊れる音。一瞬で全身に緊張が走る。まだ明け方、誰も起きてはいないはず。庭を通れるのは庭師だけで、庭師が通るのは別ルート。整備のために通ることはあっても事前に通告がされる。それも明け方ではなく昼間。明け方に行動しても庭での物音で万が一にでもクラリッサを起こさないようにと明け方は別の場所で仕事をしているはず。となればいるのは家族。父親なら血濡れたように真っ赤になって怒鳴り散らしながらすぐに出てくるはずだが、その気配はない。
「誰……?」
帰ってと無言で手でエイベルの胸を押せばエイベルは物音も立てずにその場を離れた。
静かに階段を降りていき、物音がしたほうへゆっくりと歩いていく。
あれは確かに小枝を踏んだ音。間違いなくそこに誰かがいる。声をかけても出てこないのはエイベルの姿を見てしまったからではないかと吐きそうなほど緊張していた。
もしデイジーだったら父親に黙ってはいないだろう。リズもきっと喋ってしまう。もし見られたのだとしてもウォレンならきっと黙っていてくれる。エヴァンと母親は……わからない。ダニエルとロニーが起きている可能性は低く、その二人である心配はしていないが……妹だった場合を考えると息を吸うことさえしんどくなる。
「出てきて。お願い」
耐えられないと声をかけるも物音はしない。もうすぐ角に着く。そこを覗き込む勇気があるだろうかと気を抜けば今にも崩れ落ちそうなほど震える足を一歩ずつ踏み出して角まで来た。覗けばきっとそこにいるだろう。
「……誰?」
名前を呼ぶことは考えた。デイジーかリズかと。だが、それをすると最初から何かを疑っていたと思われるかもしれない。なぜあのとき自分の名前を呼んだんだと問われると返す言葉に困ってしまう。デイジー相手なら特に。だからもう一度、震えた声で小さめに問いかけた。
(お願い。早く出てきて。お願い!)
頭の中で三つ数えることにした。もう一歩、角を覗くために踏み出す一歩のためのカウントダウン。その間に出てきてくれないかと祈りながら数えていると「ニャ~」と愛らしい声が聞こえた。
「え……?」
角から出てきたのは庭でよく見かける猫だった。
「あなた……だったの?」
ニャーと鳴きながら擦り寄ってくる猫に安堵してか、クラリッサはその場に崩れ落ちた。
信じられないほど手が震えている。信じられないほど心臓が音を立てている。荒い呼吸を繰り返し、目には涙が滲んだ。
「もう……びっくりするじゃない」
遠慮なく膝の上に乗ってきた猫を撫でると顎へと顔を擦り寄せてくる。大勢が暮らす屋敷の庭を自由に闊歩するだけあってよく人馴れしている猫は特にロニーが可愛がっている。
「ロニーが起きるの待ってるの?」
「ニャア」
「そう。でもロニーはまだ起きないからもう少し待っててあげて」
もうこのまま地面に寝転んで四肢を投げ出してしまいたい気持ちさえあった。そんな姿を見られれば父親に何を言われるかわからない。今日は猫がいたから庭に降りていてもそれが理由になるため早くも取らなければと焦ることはないが、立ちあがろうにもできないことに焦った。
「お兄様」
上を見上げるとエヴァンの部屋の窓が開いている。既に起きているのだろう。
「クラリッサ!?」
聞こえるはずのない声が聞こえたと不思議そうな顔で窓から顔を出したエヴァンが庭で座り込んでいる妹の姿に驚いてテラスから階段を伝って下りてきた。
角部屋であるクラリッサとエヴァンの部屋にだけついている階段が役に立ったとホッと息を吐きだす。
「こんな時間にどうしたんだ!? ここで何をしてるんだ!?」
膝に乗っている猫を見るが、こんな時間にここで猫の相手をしている不自然さに声を上げるエヴァンに慌てて静かにしてとジェスチャーで伝える。ハッとして口を押さえるエヴァンが周りを見渡してから目の前にしゃがんで猫を撫でた。
「まさか猫のためにここに?」
「今日は早く目が覚めてしまってテラスに出てたら物音がしたから気になって……」
クラリッサの嘘にエヴァンが盛大なため息を吐き出す。
「これが昼間なら俺は大声でお前を怒鳴ってる。不審者だったらどうするんだってな」
「ごめんなさい。でも猫でした」
猫を軽く持ち上げて見せる様子に呆れながらも安堵して今度はクラリッサの頭を撫でた。
「部屋に帰れ。まだ早い」
「ええ……そうなんだけど……」
歯切れの悪い反応にエヴァンが「どうした?」と声をかける。
「ずっとこうしてたら足が痺れちゃって……立てないの。部屋まで連れて帰ってくれませんか?」
できればこういうときは笑ってほしいが、エヴァンは呆れ顔のまま。エイベルならここでニヤついて嫌味の一つでも言うだろうが、彼はエイベルではない。
「猫のために足を痺れさせて、その結果、兄に部屋まで運ばせるのか?」
「ダメ?お願い」
甘えた言い方をするとエヴァンが黙る。クラリッサに甘えられることなど普通に生活していれば経験することなどない。家族でも、だ。それが今こうして甘えられている状況で断るほどエヴァンは厳しい男ではない。兄として妹に甘えられるのは悪くないと思っている。それがクラリッサなら尚更に。
猫を下ろしてそっと抱き上げると近くなる顔にエヴァンが固まる。
クラリッサは血の繋がった妹で、十九年間一緒に過ごしてきた家族だが、見飽きることはなく何千回でも見惚れてしまう。
「お兄様?」
「あ、ああああああ! よし、行くぞ!」
実の妹に見惚れてどうするとハッとする度に思うが、エヴァンはこの美しさには抗えない。
リズも相当な美しさではあるものの、子供っぽさが勝って見惚れることはないだけに複雑な心境だった。リズが大人びたら見惚れるのだろうかと自分の軽さにため息が出る。
「やはり護衛騎士をつけてはどうだ?」
「外に出られないのに?」
「何かあったときのために必要だろう。リズは二人もつけてる。一人もらえ」
「あの子たちはリズの護衛騎士ですから」
「二人もいらないだろう」
「リズの護衛は一人じゃ大変ってことですよ」
「まあ、確かにな」
クラリッサの部屋に続く階段を上がりながら護衛騎士の話になるもクラリッサには無縁の話。以前も一度そういう話になったが、父親は『必要ない』の一言で終わった。
万が一にでもクラリッサが護衛騎士と恋に落ちるのを避けたいのだろう。クラリッサの美しさは既婚者さえも惹き寄せるだけに安全策は護衛騎士をつけないことだった。
「運んでくれてありがとうございます」
「いえいえ、王女様のお役に立てて何よりです」
仰々しいお辞儀に笑うともう一度頭を撫でられた。
「父上とはどうするつもりだ?」
「……いつも通りに戻ります」
「また許すのか?」
「いいえ、まさか。そこはいつも通りとはいきませんから」
にっこりと完璧な笑顔を見せるクラリッサの言い方にエヴァンは嫌な予感がした。
「花を愛でないダークエルフでも花冠の作り方は知ってるのね?」
「嫌味か?」
「嫌味な言い方になったって私も思ったけど、意外で」
他に言い方はないのかと顔に書いたエイベルが目を開けることなく指差した方向に何があるかクラリッサは知っている。
「妖精が作ったの?」
「違う。作ったのは俺だ。奴らは編み方を教えただけだ」
ぶっきらぼうな言い方だが、クラリッサの表情はニヤつきと笑顔が混ざった表情へと変わり、エイベルはそれを薄めを開けて見ていた。
「なんだ、その顔は」
「教えてってお願いしたの?」
「頼んだだけだ」
「それはお願いって言うのよ」
「花を取らせてやった貸しを返させただけだ」
「でもアイレはダークエルフの道を通らずに着く道を知ってるって言ってたわ」
「危険な道を通らずに行けたんだ。事実、奴は許可を出したら安全な道を通って行った。貸しだろう」
きっとアイレたちにもそんな言い方をしたのだろうと容易に想像がつくが、アイレが言っていた『忙しい』はこのことだったのだと思うと不機嫌な顔でもなかったことから嫌な態度を取っていたわけでもないのではないかと思った。
「私のために妖精に頼んでくれたのね」
「……そうだ。だから感謝しろ。俺が自ら妖精に声をかけたんだぞ」
「ふふふっ、そうね。ありがとう。すごく嬉しい。感謝してる」
何度だって言いたくなる「私のために」という言葉。
「貴重な花なのに、いいの?」
「貴重だろうが咲いていたところでなんの意味もない花だ。どうでもいい」
愛でない花に価値はないと言った。だからエイベルはこれだけの数を気にせず摘んだ。
「持って帰るのはやめておけ」
「そうね……」
次、この花が見つかればただでは済まない。花冠を鳥が作るわけがないし、ましてやこれほど大きな物を運んでくるはずがない。クラリッサがいくら否定しようと怒ろうと父親はそれなりの手段を取るだろう。
この森はダークエルフの森だが、この国の敷地内にある以上はこの国の所有物でもある。国王が言えば森を潰すこともできるのではないかと最悪の事態が想像してしまえるだけにクラリッサもエイベルの意見に同意した。
「俺が保管しておいてやる。ここに来ればお前は花の王女様だ」
夜にしか森へは行けないから冠が光っている時間で良い。淡い光は目に優しく、視界の邪魔にはならず心地良い。
外すのが惜しいと感じてしまうほど一晩でクラリッサの宝物となった。だからこそ奪われないように置いていく。
「ふふっ、妖精にしてくれないの?」
「お前は王女だろう。王の女だ」
「ここには長しかいないって聞いたけど?」
「可愛げのない女はモテないぞ」
「この顔だから大丈夫。ご心配どうも」
可愛げがないと笑うエイベルの額に口付けを落とすとエイベルが起き上がる。
「別れの挨拶はしないつもりか?」
「それはおねだり?」
「問いかけだ」
「したそうな顔してるからそうなのかなって」
「嫁の貰い手はなさそうだな」
「もらってくれそうな人がいるから大丈夫」
「ほう、随分と物好きな男がいたものだ」
「そうね。すごく物好きな人よ。変わってる人。変な人。変人」
「是非会ってみたいものだ」
「今度鏡を持ってくるわ」
「減らず口は黙らせるに限るな」
顔が近付いてくると自然と目を閉じるようになった。目を閉じるべきか迷っていた女はもういない。キスというものにすっかり慣れてしまった。
軽く吸い付いて離すキスに小さく息を漏らすクラリッサにエイベルが笑う。それが悔しいもののクラリッサはエイベルほど慣れてはいない。
「今度、あなたの過去の恋愛を聞かせて」
「そんなものはない。家族という形がない時点でわかるだろう」
「恋愛に憧れたりしないの?」
「憧れていない人間が言うのか?」
それもそうかと納得して肩を竦めれば、頭上の空が白んできた。
別れの時間だ。
家族のことは愛していても、この時間は特別で帰りたくないと思ってしまう。
首に腕を回して抱きつけばエイベルの片腕が背中に回る。彼も同じように思ってくれていればいいのにと心の中で思うだけで口にはしない。
「送ってくださる?」
身体を離して立ち上がったクラリッサが差し出した手を下から取って握るエイベルが「喜んで」と言った。そのまま抱き上げて帰るまで三秒もかからない。別れの時間としてはあまりにも短いものだが、クラリッサにとってはちょうどいい。早いからこそ縋り付かずにいられるのだ。
「ありが……ッ!?」
いつも通りテラスに降ろされた際、クラリッサの耳に届いたパキッと何かが壊れる音。一瞬で全身に緊張が走る。まだ明け方、誰も起きてはいないはず。庭を通れるのは庭師だけで、庭師が通るのは別ルート。整備のために通ることはあっても事前に通告がされる。それも明け方ではなく昼間。明け方に行動しても庭での物音で万が一にでもクラリッサを起こさないようにと明け方は別の場所で仕事をしているはず。となればいるのは家族。父親なら血濡れたように真っ赤になって怒鳴り散らしながらすぐに出てくるはずだが、その気配はない。
「誰……?」
帰ってと無言で手でエイベルの胸を押せばエイベルは物音も立てずにその場を離れた。
静かに階段を降りていき、物音がしたほうへゆっくりと歩いていく。
あれは確かに小枝を踏んだ音。間違いなくそこに誰かがいる。声をかけても出てこないのはエイベルの姿を見てしまったからではないかと吐きそうなほど緊張していた。
もしデイジーだったら父親に黙ってはいないだろう。リズもきっと喋ってしまう。もし見られたのだとしてもウォレンならきっと黙っていてくれる。エヴァンと母親は……わからない。ダニエルとロニーが起きている可能性は低く、その二人である心配はしていないが……妹だった場合を考えると息を吸うことさえしんどくなる。
「出てきて。お願い」
耐えられないと声をかけるも物音はしない。もうすぐ角に着く。そこを覗き込む勇気があるだろうかと気を抜けば今にも崩れ落ちそうなほど震える足を一歩ずつ踏み出して角まで来た。覗けばきっとそこにいるだろう。
「……誰?」
名前を呼ぶことは考えた。デイジーかリズかと。だが、それをすると最初から何かを疑っていたと思われるかもしれない。なぜあのとき自分の名前を呼んだんだと問われると返す言葉に困ってしまう。デイジー相手なら特に。だからもう一度、震えた声で小さめに問いかけた。
(お願い。早く出てきて。お願い!)
頭の中で三つ数えることにした。もう一歩、角を覗くために踏み出す一歩のためのカウントダウン。その間に出てきてくれないかと祈りながら数えていると「ニャ~」と愛らしい声が聞こえた。
「え……?」
角から出てきたのは庭でよく見かける猫だった。
「あなた……だったの?」
ニャーと鳴きながら擦り寄ってくる猫に安堵してか、クラリッサはその場に崩れ落ちた。
信じられないほど手が震えている。信じられないほど心臓が音を立てている。荒い呼吸を繰り返し、目には涙が滲んだ。
「もう……びっくりするじゃない」
遠慮なく膝の上に乗ってきた猫を撫でると顎へと顔を擦り寄せてくる。大勢が暮らす屋敷の庭を自由に闊歩するだけあってよく人馴れしている猫は特にロニーが可愛がっている。
「ロニーが起きるの待ってるの?」
「ニャア」
「そう。でもロニーはまだ起きないからもう少し待っててあげて」
もうこのまま地面に寝転んで四肢を投げ出してしまいたい気持ちさえあった。そんな姿を見られれば父親に何を言われるかわからない。今日は猫がいたから庭に降りていてもそれが理由になるため早くも取らなければと焦ることはないが、立ちあがろうにもできないことに焦った。
「お兄様」
上を見上げるとエヴァンの部屋の窓が開いている。既に起きているのだろう。
「クラリッサ!?」
聞こえるはずのない声が聞こえたと不思議そうな顔で窓から顔を出したエヴァンが庭で座り込んでいる妹の姿に驚いてテラスから階段を伝って下りてきた。
角部屋であるクラリッサとエヴァンの部屋にだけついている階段が役に立ったとホッと息を吐きだす。
「こんな時間にどうしたんだ!? ここで何をしてるんだ!?」
膝に乗っている猫を見るが、こんな時間にここで猫の相手をしている不自然さに声を上げるエヴァンに慌てて静かにしてとジェスチャーで伝える。ハッとして口を押さえるエヴァンが周りを見渡してから目の前にしゃがんで猫を撫でた。
「まさか猫のためにここに?」
「今日は早く目が覚めてしまってテラスに出てたら物音がしたから気になって……」
クラリッサの嘘にエヴァンが盛大なため息を吐き出す。
「これが昼間なら俺は大声でお前を怒鳴ってる。不審者だったらどうするんだってな」
「ごめんなさい。でも猫でした」
猫を軽く持ち上げて見せる様子に呆れながらも安堵して今度はクラリッサの頭を撫でた。
「部屋に帰れ。まだ早い」
「ええ……そうなんだけど……」
歯切れの悪い反応にエヴァンが「どうした?」と声をかける。
「ずっとこうしてたら足が痺れちゃって……立てないの。部屋まで連れて帰ってくれませんか?」
できればこういうときは笑ってほしいが、エヴァンは呆れ顔のまま。エイベルならここでニヤついて嫌味の一つでも言うだろうが、彼はエイベルではない。
「猫のために足を痺れさせて、その結果、兄に部屋まで運ばせるのか?」
「ダメ?お願い」
甘えた言い方をするとエヴァンが黙る。クラリッサに甘えられることなど普通に生活していれば経験することなどない。家族でも、だ。それが今こうして甘えられている状況で断るほどエヴァンは厳しい男ではない。兄として妹に甘えられるのは悪くないと思っている。それがクラリッサなら尚更に。
猫を下ろしてそっと抱き上げると近くなる顔にエヴァンが固まる。
クラリッサは血の繋がった妹で、十九年間一緒に過ごしてきた家族だが、見飽きることはなく何千回でも見惚れてしまう。
「お兄様?」
「あ、ああああああ! よし、行くぞ!」
実の妹に見惚れてどうするとハッとする度に思うが、エヴァンはこの美しさには抗えない。
リズも相当な美しさではあるものの、子供っぽさが勝って見惚れることはないだけに複雑な心境だった。リズが大人びたら見惚れるのだろうかと自分の軽さにため息が出る。
「やはり護衛騎士をつけてはどうだ?」
「外に出られないのに?」
「何かあったときのために必要だろう。リズは二人もつけてる。一人もらえ」
「あの子たちはリズの護衛騎士ですから」
「二人もいらないだろう」
「リズの護衛は一人じゃ大変ってことですよ」
「まあ、確かにな」
クラリッサの部屋に続く階段を上がりながら護衛騎士の話になるもクラリッサには無縁の話。以前も一度そういう話になったが、父親は『必要ない』の一言で終わった。
万が一にでもクラリッサが護衛騎士と恋に落ちるのを避けたいのだろう。クラリッサの美しさは既婚者さえも惹き寄せるだけに安全策は護衛騎士をつけないことだった。
「運んでくれてありがとうございます」
「いえいえ、王女様のお役に立てて何よりです」
仰々しいお辞儀に笑うともう一度頭を撫でられた。
「父上とはどうするつもりだ?」
「……いつも通りに戻ります」
「また許すのか?」
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にっこりと完璧な笑顔を見せるクラリッサの言い方にエヴァンは嫌な予感がした。
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