鑑賞用王女は森の中で黒い獣に出会い、愛を紡ぐ

永江寧々

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後悔

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 使用人が起こしに来るいつもの時間にドアが開いた。
 目覚めは良いほうで使用人に声をかけられて起きることは少ない。今日もクラリッサは起きていた。寝起きのクラリッサを見ては『寝起きさえもお美しい』と言う使用人が今日は違う言葉を発した。

「キャァアアアアアッ!」

 屋敷中に響き渡るほどの悲鳴をクラリッサ専属の使用人数名が超音波のように発する。
 パジャマ姿のまま駆けつけた家族全員が驚きに目を見開いた。父親は目を見開くだけではなく真っ青になっている。

「何があった!? お、おおおおお前の大事な顔がこ、こんっこんなっこんなことになっているなんて!」

 今にも卒倒しそうな父親の悲鳴が鼓膜を突き破りそうなほど大きく、クラリッサは思わず頭を傾けて距離を取った。

「医者を呼べ!」

 慌てて駆け出した使用人が医師を呼びに走っていく。

「クラリッサ、何があった!? 何があったのか答えなさい!」

 虫刺されであればいい。それなら薬を乗れば治る。もしそうでないのならと不安になった。父親が最も危惧しているのはクラリッサの精神状態。鑑賞用として生きることを受け入れたクラリッサはあまり感情を乱すことがなく、ゲストにも家族にもいつも笑顔で接してきた。怒ることや泣くこともほとんどなかった。美しさを増す中で感情の乱れはその美しさに翳りを落とすことになる。それを避けたかった父親は自由を奪う代わりに極力穏やかに過ごせるよう一番広く眺めの良い部屋を与えた。クラリッサお気に入りの庭にいつでも降りられるよう階段も撤去しなかった。
 昨日は特段変わった様子はなかった。お気に入りの花が枯れたわけでもなく、デイジーとの接触もなかった。一人で散歩していたという報告も受けていないだけに瞼が腫れる理由が思い当たらない。

「何も……」
「嘘をつくんじゃない! そんなに目を腫らして何もないわけがないだろう! まさか話を読み聞かせてもらったのか!?」
「違います……」

 きょうだいが余計なことをしたのではないかと振り返って子供たちを見るが、全員揃ってかぶりを振る。怪しいと眉を寄せる父親にクラリッサが否定をすると顔がクラリッサに戻った。

「……全然、眠れなくて……お父様に教えていただいたように羊を数えていたけど……どうしてか涙が出てきて、止まらなくなって……」

 もう涙は出てこない。いつからこんなに嘘をつくことになれたのだろうと顔を両手で覆いながらぼんやりと考える。

「お、お待たせしました!」

 息を切らせながらやってきた医者を見て父親が大声を上げた。

「精神科医を呼んでこい!!」

 今まで必要なかった医者を呼べとの命に来たばかりの医師は自分の知り合いで最も優秀である精神科医を呼びに部下と共に走った。

「クラリッサ、何が辛いんだい?」

 どんなに怒っていてもクラリッサにかける声だけは優しい。

「何も辛くなどありません」
「クラリッサ、本当のことを言いなさい。パーティーに出るのが辛いなら暫くは控えよう」

 父親自身、妻にパーティーの回数が多すぎると言われていたため自覚はあった。クラリッサを少し休ませてと言われ反発していたが、こうして涙を流したと本人から聞くと妻が正しかったのだと眉を下げる。
 当たり前になっていたパーティーへの出席。日常的に行われることにクラリッサはついに無自覚に追い込まれていたのだと反省さえした。
 だが、その判断を鼻で笑う者がいた。

「それしかすることないのに辛いなんてある? ありえないんだけど」

 デイジーだ。

「デイジー、やめなさい」

 クラリッサのことになると何かと突っかかるデイジーに父親の口調も少しキツくなる。

「だってお姉様は何もしてないじゃない。椅子に座ってニコニコしてるだけ。そんなので疲れるわけないじゃない。学校に行くわけでもないし、勉強やテストを受けるわけでもない。友達付き合いだってないし、婚約者だって勝手に見つけられることもない。なのに辛いの?」
「お前にはわからない辛さがあるんだ」

 差別的に感じたその発言にカッとなったデイジーが思いきりドアを叩いた。

「椅子に座ってニコニコしてればいいだけのくせに辛いなんて笑わせないでよ! チヤホヤされる日々に辛いことがあるなら私たちは地獄を生きてるのね! チヤホヤされない日々なんだもの! 弱音なんか吐いてんじゃないわよ!」
「デイジー!!」
「父上ッ!」

 怒りをぶつけるデイジーに振り上げた手を下ろそうとしたのをエヴァンが掴んで止めた。
 以前も一度デイジーの頬をぶっている。カッとなったからといって親でも子に手を上げていいわけではない。ましてやデイジーの心に寄り添ったことがない父親にその権利はないとエヴァンは思っている。

「完璧な笑顔を見せびらかすしか能がないんだからそれぐらいやりなさいよね! 誰よりも楽な人生生きてるでしょ!」
「デイジーいい加減にしろ! クラリッサに謝りなさい! デイジーッ!」

 怒鳴りながら部屋に戻るデイジーの背中に父親が怒声をぶつけるが、デイジーが足を止めることはなかった。

「デイジーには俺から話しておくから父上はデイジーに何も言わないでくれ」
「…………しっかり言っておけ。謝るようにもな」

 今回のことはデイジーが悪いことはエヴァンもわかっている。自分たちが泣き腫らした目をしていても父親は医者も精神科医も呼びはしないだろう。目を冷やしておけと命じるだけで学校にだって行かせるだろうことが容易に想像できてしまうだけにデイジーも腹が立ったのだ。
 しかし、だからといってクラリッサに口撃したのはマズかった。当たるのなら父親に当たれば父親もそこまで怒りはしなかっただろう。
 家族全員がデイジーを反抗期と呼んでいる。

「ウォレン、言ってくれ」
「え!? 兄さんが行くって……」
「俺の手柄にはしない。お前が言ったって言うさ。デイジーが素直に話を聞くのはお前だけだ。頼んだぞ」
「え!?」
「ボクも行く」

 小声で頼み、肩を叩いて行ってしまった兄に戸惑っているとロニーがウォレンの手を握って笑顔を見せる。一人じゃないなら当たり散らしも酷くないだろうと放っておくこともできないためロニーの手を握り返してデイジーの部屋へと向かった。

 それから三十分ほどで精神科医が滝汗を流しながらやってきたが、クラリッサは何も答えなかった。
 患者から応えてもらえないのではお手上げだと国王に振り返るも険しい顔を見せるだけで許可は出ない。

「最近、何か自分の中で変化はありませんでしたか? 楽しいことや退屈なことなど」
「……いいえ」
「では、ストレスを感じられたことは?」
「……いいえ」

 何を聞いても同じことの繰り返し。

「クラリッサ、本当のことを言ってくれてかまわないぞ? 辛いときは辛いと言っておくれ。お前にはいつも我慢させてきた。それが間違いだったんだ。すまない、全ては私の責任だ」

 枕に頭を乗せ、目の上には氷嚢。熱を持った瞼を氷が冷やしていく。
 何がそんなに悲しかったのか自分でもわからない。怖かったのか、悲しかったのか、辛かったのか──どれにせよ今まで持ったことがない感情だった。

「クラリッサ、大丈夫か……?」

 心配する小さな声が耳元で聞こえる。小石が頬に当たったような感覚にクラリッサが片手を上げる。それをぎゅっと握る父親の勘違いにいつもなら苦笑するのだが、今日はそんな元気もない。

「疲れているので一人にしてください」
「では、何かあったときのために使用人を残して──」
「誰も残さないで。部屋の中にもドアの前にも」

 ハッキリと告げられた言葉に父親はそれ以上強引には出られず、医者も使用人も引かせてドアを閉じた。

「全員出てった」

 アイレの声に氷嚢を外して起き上がり、ゆっくり目を開けると痛々しいものを見る目を向けるアイレが映る。

「目、腫れてる」
「昨日泣いちゃったの。皆、私の顔見て悲鳴を上げたの。酷いわよね」

 無理して笑おうとするクラリッサの前にポンッと音を立てて小瓶が出てきた。

「これは?」
「あの山にある薬草から作った薬。どんな怪我にも効く万能薬なんだ。ダークエルフの住処にあるから普段は取らせてもらえないけどエイベルが持っていけって言ってくれたから作れた」
「そう……」

 その名前を聞くだけで呼吸をすることさえ苦しくなりそうだった。

「これ塗ればすぐ治るぜ。一瞬で治るからさ、塗ってよ」
「そんな素晴らしい物、受け取れないわ。これは目を冷やしてれば治るって言われたから大丈夫。もしものときにあなたたちが使って」
「いいからクラリッサが使えって。使うまでオイラずっとここにいるからな!」

 蓋を開けると中に入っているのは緑色の粘着質な液体。これを目に塗って大丈夫だろうかと思うが、アイレが持ってきてくれた物だからと信用して瞼の上に塗布する。
 スーッとした清涼感があり、それが馴染むまで目を閉じていると清涼感がなくなった頃には瞼の重さが引いているのを感じた。目を開ければしっかりと開く。

「……泣いてなかったって言ってもいい?」
「いいよ。オイラ黙ってるから」

 優しい返事に微笑むとゆっくりと長い息を吐き出しながら再び枕に頭を沈めるクラリッサの顔をアイレが覗き込み、心配そうに見つめる。

「エイベルがさ──」
「アイレ、エイベルの話はしないで」
「あ、でも、エイベルが──」
「アイレ」

 あのあと、あの場で何があったのかは知らない。エイベルや他のダークエルフがどうしたのかも知らない。アイレが無事であるなら問題は起こらなかったということ。それがわかっただけでいい。今はエイベルについて耳にしたくはなかった。
 あの冷たい瞳、声、口調……思い出すだけで胸が抉られる。

「お願い」

 静かなお願いにアイレは口を開きかけてやめた。

「……じゃあ、オイラ今日は帰るよ。寂しくなったら呼べよな。オイラ、いつでもここに来るからさからさ」
「ありがとう」

 アイレが姿を消してすぐ、クラリッサは眠りについた。水の中に沈んでいくような感覚──いや、泥の中。重たいものに纏わりつかれ、沈んでいくような錯覚。だがそれを怖いとは思わなかった。

(どこまで落ちていくのかしら)

 どこまでだっていい。何も思い出さず、何も感じない場所まで行けるのならどこまでだって落ちていく。

「……ん……」

 どのくらい沈んでいたのか、目を覚ますと明るかった外は既に真っ暗だった。
 使用人は何度か足を運んだのだろう。火のついた蝋燭が部屋の隅に置かれ、サイドテーブルには水が置かれていた。

「はあ……」

 コップ一杯の水を飲み干し、大きく息を吐き出したクラリッサだが、妙に息が詰まりそうな感覚にベッドから出てテラスに続くガラス戸を開ける。さっきまでベッドの中にいた身体は熱く、コンクリートの床がひんやりとして気持ちいい。

「…………」

 森のほうからキラッと光ったのが見えた。合図だ。会えるという──会ってもいいという合図。あれをするのはエイベルだけ。昨日散々仲間と遊んだから今日は人間の女と遊ぼうと思っているのだろうか。それとも昨日勝手に森へ行ったお説教だろうか。
 どっちでもいい。どっちだろうと関係ないとクラリッサはいつものように手を振り返すこともせず、部屋へと戻って鍵を閉めた。

 
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