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黒い獣
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キスをしたことがないわけではない。
幼いきょうだいの間でキスがブームとなっていたときにされたことがある。
だが、今回はそれとは別物。唇が一瞬触れるだけのものではなく、しっかりと重ねるキスは初めて。
相手の薄い唇が重なっているだけなのに心臓が起こす異常な動きに思わず胸元の服を鷲掴みにした。
「……はあッ」
それほど長い時間ではなかったものの、クラリッサの体感時間では一時間ほど経過していた。
ただ唇を重ねていただけなのになぜこんなにもクラクラするのだろうかと眩暈さえ感じている。
唇を離された際に出た色気のない吐息を恥じることも忘れて肩で呼吸を繰り返していた。
尻餅をつきたくなるほどの疲労を感じている。まるでパーティー直後の感覚。
「お前の唇は甘いな。蜂蜜か?」
「え、ええ……。寝る前にはいつも蜂蜜を塗って寝るので……」
王侯貴族の間で流行っているリップケア法だ。
「民は貧困に喘げど王女様は贅沢三昧と」
「モノレスに貧困者はいないわ。国はとても豊かだもの」
「……イリオリスの子供はイリオリスか。外の世界に興味がない王女様にはそう見えるのだろう」
バカにされているとわかるが、反論はしない。クラリッサは外の世界に興味がないわけではなく知らないだけ。
知っているとムキになることはできないし、嘘をつくこともできない。
「で、ダークエルフの挨拶はどうだった?」
「胸がドキドキしてる。エルフは皆、随分と挨拶に時間をかけるのね」
「そうだな」
ダークエルフは人間に見えるが人間ではないと父親は言っていた。種族が違えば挨拶も違うと納得する一方で、唇が長く触れ合う感覚に胸が高鳴っている。
「あなたの瞳の色、とてもキレイね。ガーネッティアみたい」
暗闇の中で見えるのは赤い瞳だけ。それでもその燃えるような赤がとても美しく見えた。
クラリッサの例えを男は鼻で笑い飛ばす。
「宝石に例えるとは光栄だ。血のような色だと言ってかまわないんだぞ」
「血はこんなに輝いていないもの」
発光しているように見える赤い瞳を血の色だとは思わなかった。
笑顔を見せるクラリッサを男はただ真っ直ぐ見つめ、もう一度鼻で笑い飛ばす。
「気持ち悪いぐらい完璧な笑顔だな」
一瞬だけ、クラリッサの動きが止まった。そしてすぐに片手で頬を押さえる。
「私もそう思う。皆、この笑顔が美しいって言ってくれるけど、角度まで計算された笑顔のどこが美しいのか……私にもわからない」
毎日鏡を見てはそう思う。鏡の中の自分と向き合って笑顔のレッスンを受け続けた。教師が手を叩くと笑顔を作り、手を叩くと笑顔を消すの繰り返し。完璧な笑顔が瞬時に作れるよう何千回もレッスンを受け続けた。
誰もがこの笑顔を美しいと言う。兄たちでさえも。父親など客がいなくとも絶賛する。その笑顔こそ宝石以上の価値があるのだと。
価値など欲しくはない。親として子を財産だと言ってくれればそれでよかった。差別なく育ててくれればよかった。今となってはそんな抗議もできないほど決まりきった人生を歩んでいる。
「気持ち悪いって言ってくれたのはあなたが初めて」
「気持ち悪いと言われて喜んだのもお前が初めてだ」
「……ふふっ、確かにそうね。悪い言葉なのよね。でも、嬉しかったのは本当よ」
「そう思ったから言ったまでだ」
「ありがとう、本当のことを言ってくれて」
ずっと誰かに言ってほしかった。笑顔を作っていることを知っている家族ではなく、何も知らない他人に言ってもらいたかった。
クラリッサにとって褒め言葉は受け取るには重たすぎる。子供時代からずっとそんな状態が続いている。
「挨拶をしてもらえたということは私は受け入れてもらえたの?」
「……どうだろうな」
「でも挨拶をしてくれたでしょう?」
「下手な挨拶では誰も受け入れないだろう」
「でも教えてくれたのはあなたよ?」
「あんなもの子供の挨拶だ」
「大人の挨拶は?」
ただの純粋な疑問だった。パーティーで挨拶に来るのは九割が男性だが、時折、少女がやってきて挨拶をしてくれる。辿々しいカーテシーが愛らしくて見ているだけで癒される瞬間。淑女たちのスマートな挨拶とは違う。
だからダークエルフの挨拶にも違いがあるのかと問いかけたのだが、クラリッサはすぐに後悔した。
「酸欠になるなよ」
「ッ!?」
再び唇が重なったが、今度は触れるだけの優しいものではなかった。ぬるりとした感触が唇を這い、驚きに小さく息を吸ったことで開いた隙間からそれが滑り込んでくる。指ではない厚みのある熱を持った物がクラリッサの舌に触れた。指の時と同じで舌を引っ込めるが、狭い口内では大した抵抗にはならず、あっという間に捉えられ、まるで生き物のように動き回る。
「んッ…」
勝手に鼻から抜ける吐息に混ざった小さな声。
どのぐらいそうしていただろうか。唇が離れると二人の間に銀糸が引き、顔を離すとプツリと切れた。
「これが大人の挨拶──っと……」
目が回っているような感覚に陥ったクラリッサは身体に力が入らずその場に崩れ落ちそうになった。男が胸の下に腕を通したことで支え、なんとか膝が地面にぶつからずに済んだ。
「たったあれだけで腰を抜かしたのか?」
「力が……入らないの……」
「手のかかる……」
呆れたように息を吐いた男がクラリッサを軽々と肩に担ぎ上げる。
色気もない抱き方だが、身体に力の入らないクラリッサは抵抗せず大人しくしている。
「家まで送ってやる」
「あ、でも、そんなの……」
「王女がダークエルフに抱えられて帰ってきたのが見つかれば大問題になるだろうな」
「黙って出てきてるから」
「なら歌でも歌いながら帰るか」
男が歩く度に足が土を蹴る音、木の枝や葉を踏む音がする。自分が歩いているときにはそんな音は気にならなかった。
ランプもないのに灯りが道を照らしている不思議な空間に舞い上がっていた。そして男の声が聞こえて緊張に代わり、当たり前にある音には気付かなかった。
屋敷の庭には葉っぱ一枚だって落ちてはいない。草も伸びてはいない。クラリッサが歩いて万が一にでも葉で足を怪我しないようにと命令が出されているためだ。
当たり前にある音が当たり前に感じられる森の中をクラリッサはこの短時間でとても好きになった。
だからもう一度訪れたいと思った。
「そんなのダメ。絶対にダメ。バレたら監視がついてもう二度と此処に来れなくなっちゃう」
「再来訪の許可は出していないぞ」
「でも挨拶は覚えたもの」
「俺がしてやっただけで、お前は受けていただけだ。挨拶は返していない」
「だって、初めてだったもの。上手くできるはずがないわ。誰だって初めてのことは失敗するでしょう?」
クラリッサの言葉に男が笑う。
「次はもっと上手くやれると?」
「私、覚えは良いほうなの」
「それはそれは、一流の教育を受けている王女様は違うという自慢か?」
「いいえ、私の才能の自慢よ」
「これはこれは、失礼しました」
自我が芽生えたその日から始まり、今日まで続いている教育。物覚えが悪ければここまで完璧にはやれていない。それがクラリッサの自信に繋がっている。それを冗談めいた言い方をするクラリッサに男が愉快そうに肩を揺らす振動がクラリッサの身体に伝わってくる。
「ここからは歩いて帰るわ」
「歩けるのか?」
「でもあなたに送ってもらうわけにはいかないの。お父様はどうしてかダークエルフを快く思っていないし」
「嫌っているとハッキリ言えばいい」
「そうね、嫌ってる。お父様は私のためならなんだってする人よ。だから、ここでいい。入り口まで送ってくれてありがとう」
だが、男はクラリッサの言葉を無視して入口から外へ出た。
「私の話、聞いてた?」
「ああ、エルフは耳が良いからな」
「じゃあ──」
「舌を噛みちぎりたくなければ口を閉じて掴まっていろ」
「え──ッ!?」
どういう意味かと聞く間もなく身体が宙に浮いたような感覚に襲われた。まるで兎が飛び跳ねているかのように何度か飛んだだけでクラリッサの部屋のテラスに到着した。
「着いたぞ。歌を歌わなかったせいでバレなかったな」
テラスに置いてある椅子の上にそっと下ろされたクラリッサは何がなんだかわからない状況に目を瞬かせて呆然としている。
「あ、ありがと……」
お礼を言わなければと顔を上げたクラリッサはようやく見えた男の顔に目を奪われた。
「どうした? ダークエルフの醜さに驚いたか?」
どこが醜いと言うのか。クラリッサは男から目が離せないまま静かにかぶりを振る。
「あなた、とても美人なのね」
背中まである銀色の髪が月明かりによって輝く銀糸に見える。月明かりを背に影を落とす中に存在する赤い瞳。想像よりもずっと端正な顔立ちをしている男だった。
一目見て美しいと思った。
「……男に美人とは言わないだろう」
「でも美しい人のことを美人と言うんでしょう? じゃああなたも美人で間違いないと思うんだけど……違う?」
リズから聞いた美人の意味。
『美しい人って書いて美人なの。ねえは美しい人だから美人って言われるんだよ』
そう教えられはしてもクラリッサはまだ美人だと思う男性に会ったことがなかっただけに男性に美人と使うのはこれが初めて。
「俺の肌の色を見て何も思わないのか?」
「黒いのね」
「ここまで黒いと醜いだろう」
「どうして? 庭師の肌も真っ黒よ?」
「これは日焼けじゃない。生まれつきだ」
「ダークチョコレートみたいとは思ったけど、それが醜いなんてヒドい言葉になる理由はないわ」
庭師は毎日外に出て花や草木の手入れをしているため焼けて真っ黒。生まれつき何色だったのかもわからないぐらい真っ黒に焼けている。
相手の肌は黒人がいないこの国では珍しいほど黒いが、クラリッサはその肌をキレイだと思った。
手を伸ばして腕に腕に触れると思ったよりもずっと滑らかな肌をしている。自分の肌ともきょうだいの肌とも違う触り心地に何度か撫でると手首を掴まれた。
「女が男の肌に何度も触れるのは誘ってる合図だって知ってるか?」
「今日はもう夜も遅いからお誘いはできないわ」
「遅いからこそ、だろ?」
掴んだ手首から指先へと滑る男の手がクラリッサの指先を捉えて軽く絡め、低めで色気のある声で囁くように小声を使って問いかけた。
それが何を意味するのかわかるだろうと言わんばかりの表情が色っぽい。それを見上げながらクラリッサは頬を朱に染めるのではなく、眉を下げてかぶりを振った。
「もし、ダークエルフにもお茶を嗜む習慣があるのなら今度、一緒にお茶をしましょう? こっそりお茶を持っていくわ。それからお茶菓子も」
なんの話だと言いたげに眉を寄せる男の手が離れた。
「断り方としては随分とつまらん言い方だな」
「ごめんなさい。でも私、今はもう眠ってることになってるし、お茶を持ってきてもらうと心配かけちゃうから……」
「一体なんの話をしているんだ?」
「お茶のお誘いの話でしょう?」
予想外の反応に思わず手で額を覆って呆れ顔を見せる男にクラリッサは不思議そうな顔を見せる。
「外見は特級品でも中身はお子ちゃまか。残念な王女様だな」
「すごいストレートに言うのね」
「事実だろう?」
「ええ、そうね、事実だわ。この世界のことも何も知らないんだもの。十歳の弟のほうがずっと豊富な知識を持ってる。私は外見にしか価値を持たない王女なの」
バカにされているとわかっても悔しくないのはなぜだろうとクラリッサは不思議だった。
外見ばかりを褒められることには贅沢にも辟易としていた中で本当のことを遠慮なく言ってもらえるとスッキリする。
家族の中で唯一クラリッサをバカにするデイジーの言い方は強すぎて傷つくこともあるが、褒められるよりはいいと思っていた。だから男の言葉も同じ。
「あなたの名前を教えてくれる? 私の名前は──」
「クラリッサ」
男が名を呼んだことに驚いた。
「私の名前を知ってるの?」
「この国で鑑賞用王女の名を知らぬ者はいないだろう」
「それもそうね。でもダークエルフにまで知ってもらえてるなんて光栄だわ」
「話してみたらガッカリするような女だったと言いふらしておく」
「そうして。期待されるのはもう飽きちゃった」
「うんざりと言えばいいだろう」
クラリッサとて言葉を選びたいわけではない。大声でもう嫌だと叫びたいときもあれば、うるさいと怒って部屋に篭りたくなることもある。
自分は完璧な人間として育ったわけではなく、完璧な人間を演じているだけ。それも笑顔が完璧なだけの人間を。皆が理想とする鑑賞用王女であり続けるために笑顔のレッスンも時間のかかるお手入れも欠かさない。
でも誰もその努力を認めてはくれない。誰もが完璧な笑顔を浮かべる王女を見てそれがありのままの姿であるかのように見ている。
正直“うんざり”だった。
だが、一度使ってしまえばどこかでボロを出してしまいそうで使わないようにしていた。
誰も気付いてはくれなかったクラリッサの心を見透かしたような言葉をくれる男を少しの間、黙って見つめていると男は何も言わずに付き合ってくれた。
「うんざり、してる」
「だろうな」
誰も聞いていない夜の中で吐き出した言葉に男が笑う。
「言っちゃった」
「言ったな」
「あなたが言えって言ったのよ」
「俺は言えばいいと言っただけだ。命令はしていない。言ったのはお前の意思だ」
「……ふふっ、そうね。私の意思で言ったの。今日は私、生まれて初めて自分の意思で動いたわ。言いつけを破って森へ行った。ダークエルフに会った。うんざりだって口にした。全部私の意思よ」
嬉しくてたまらなかった。ずっと命令通りに動いてきた人形だった自分が意思を持って行動した。
クラリッサは今、子供のようにハシャぎたかった。両手を上げて飛び跳ねて大きな声を出す。でも実際は両手で口元を隠して笑うだけ。だが、その笑顔はいつもの完璧な笑顔とは違って、クラリッサ本来の笑顔だった。
「また、あなたに会いに行ってもいい?」
「バレるぞ」
「私は言いつけを破ったことはないの。誰も私が夜に家を抜け出して森に行ってるなんて想像もしないはずよ」
「悪い王女様だな」
「私もそう思う。でも、知っちゃったんだもの、自分の意思で行動する楽しさを。だからまた会いに行くわ。私の意思で」
「なら俺の許可は必要なさそうだな」
その言葉はもう許可が出たようなものだと受け取ったクラリッサがお礼を口にする。
夜はいつも退屈な時間を過ごしていた。ホットミルクを飲んで、温まった身体が冷めないようにベッドに潜る。眠れるまで数を数えるか、脳が疲れるまでうんざりするパーティーの様子を思い出し、眠くなったら眠る。
それが今日から変わるのだと笑って男を見上げるとまた唇が重なった。
「俺の首に腕を回せ」
少し唇を離した状態で言われた通りに腕を回すと男の手が腰に回って引き寄せられ、唇が深く重なる。
「さっきも挨拶したのに……」
軽めのものだったが、身体に軽い電気が走ったような感覚があった。今も手がピリピリとしているようで首から離した手を軽く握って下ろす。
「別れの挨拶だ」
クラリッサから離れて手すりに立った男が振り返る。
「エイベルだ。次はそう呼べ」
「あ……」
クラリッサが何かを言う前に男は去っていった。
黒い影が森の中へと消えたあと、あのときと同じでキラッ光ったのが見えた。
「エイベル」
男の名はエイベル。黒い獣と呼ばれる美しいダークエルフ。
それが知れただけでクラリッサは嬉しかった。
幼いきょうだいの間でキスがブームとなっていたときにされたことがある。
だが、今回はそれとは別物。唇が一瞬触れるだけのものではなく、しっかりと重ねるキスは初めて。
相手の薄い唇が重なっているだけなのに心臓が起こす異常な動きに思わず胸元の服を鷲掴みにした。
「……はあッ」
それほど長い時間ではなかったものの、クラリッサの体感時間では一時間ほど経過していた。
ただ唇を重ねていただけなのになぜこんなにもクラクラするのだろうかと眩暈さえ感じている。
唇を離された際に出た色気のない吐息を恥じることも忘れて肩で呼吸を繰り返していた。
尻餅をつきたくなるほどの疲労を感じている。まるでパーティー直後の感覚。
「お前の唇は甘いな。蜂蜜か?」
「え、ええ……。寝る前にはいつも蜂蜜を塗って寝るので……」
王侯貴族の間で流行っているリップケア法だ。
「民は貧困に喘げど王女様は贅沢三昧と」
「モノレスに貧困者はいないわ。国はとても豊かだもの」
「……イリオリスの子供はイリオリスか。外の世界に興味がない王女様にはそう見えるのだろう」
バカにされているとわかるが、反論はしない。クラリッサは外の世界に興味がないわけではなく知らないだけ。
知っているとムキになることはできないし、嘘をつくこともできない。
「で、ダークエルフの挨拶はどうだった?」
「胸がドキドキしてる。エルフは皆、随分と挨拶に時間をかけるのね」
「そうだな」
ダークエルフは人間に見えるが人間ではないと父親は言っていた。種族が違えば挨拶も違うと納得する一方で、唇が長く触れ合う感覚に胸が高鳴っている。
「あなたの瞳の色、とてもキレイね。ガーネッティアみたい」
暗闇の中で見えるのは赤い瞳だけ。それでもその燃えるような赤がとても美しく見えた。
クラリッサの例えを男は鼻で笑い飛ばす。
「宝石に例えるとは光栄だ。血のような色だと言ってかまわないんだぞ」
「血はこんなに輝いていないもの」
発光しているように見える赤い瞳を血の色だとは思わなかった。
笑顔を見せるクラリッサを男はただ真っ直ぐ見つめ、もう一度鼻で笑い飛ばす。
「気持ち悪いぐらい完璧な笑顔だな」
一瞬だけ、クラリッサの動きが止まった。そしてすぐに片手で頬を押さえる。
「私もそう思う。皆、この笑顔が美しいって言ってくれるけど、角度まで計算された笑顔のどこが美しいのか……私にもわからない」
毎日鏡を見てはそう思う。鏡の中の自分と向き合って笑顔のレッスンを受け続けた。教師が手を叩くと笑顔を作り、手を叩くと笑顔を消すの繰り返し。完璧な笑顔が瞬時に作れるよう何千回もレッスンを受け続けた。
誰もがこの笑顔を美しいと言う。兄たちでさえも。父親など客がいなくとも絶賛する。その笑顔こそ宝石以上の価値があるのだと。
価値など欲しくはない。親として子を財産だと言ってくれればそれでよかった。差別なく育ててくれればよかった。今となってはそんな抗議もできないほど決まりきった人生を歩んでいる。
「気持ち悪いって言ってくれたのはあなたが初めて」
「気持ち悪いと言われて喜んだのもお前が初めてだ」
「……ふふっ、確かにそうね。悪い言葉なのよね。でも、嬉しかったのは本当よ」
「そう思ったから言ったまでだ」
「ありがとう、本当のことを言ってくれて」
ずっと誰かに言ってほしかった。笑顔を作っていることを知っている家族ではなく、何も知らない他人に言ってもらいたかった。
クラリッサにとって褒め言葉は受け取るには重たすぎる。子供時代からずっとそんな状態が続いている。
「挨拶をしてもらえたということは私は受け入れてもらえたの?」
「……どうだろうな」
「でも挨拶をしてくれたでしょう?」
「下手な挨拶では誰も受け入れないだろう」
「でも教えてくれたのはあなたよ?」
「あんなもの子供の挨拶だ」
「大人の挨拶は?」
ただの純粋な疑問だった。パーティーで挨拶に来るのは九割が男性だが、時折、少女がやってきて挨拶をしてくれる。辿々しいカーテシーが愛らしくて見ているだけで癒される瞬間。淑女たちのスマートな挨拶とは違う。
だからダークエルフの挨拶にも違いがあるのかと問いかけたのだが、クラリッサはすぐに後悔した。
「酸欠になるなよ」
「ッ!?」
再び唇が重なったが、今度は触れるだけの優しいものではなかった。ぬるりとした感触が唇を這い、驚きに小さく息を吸ったことで開いた隙間からそれが滑り込んでくる。指ではない厚みのある熱を持った物がクラリッサの舌に触れた。指の時と同じで舌を引っ込めるが、狭い口内では大した抵抗にはならず、あっという間に捉えられ、まるで生き物のように動き回る。
「んッ…」
勝手に鼻から抜ける吐息に混ざった小さな声。
どのぐらいそうしていただろうか。唇が離れると二人の間に銀糸が引き、顔を離すとプツリと切れた。
「これが大人の挨拶──っと……」
目が回っているような感覚に陥ったクラリッサは身体に力が入らずその場に崩れ落ちそうになった。男が胸の下に腕を通したことで支え、なんとか膝が地面にぶつからずに済んだ。
「たったあれだけで腰を抜かしたのか?」
「力が……入らないの……」
「手のかかる……」
呆れたように息を吐いた男がクラリッサを軽々と肩に担ぎ上げる。
色気もない抱き方だが、身体に力の入らないクラリッサは抵抗せず大人しくしている。
「家まで送ってやる」
「あ、でも、そんなの……」
「王女がダークエルフに抱えられて帰ってきたのが見つかれば大問題になるだろうな」
「黙って出てきてるから」
「なら歌でも歌いながら帰るか」
男が歩く度に足が土を蹴る音、木の枝や葉を踏む音がする。自分が歩いているときにはそんな音は気にならなかった。
ランプもないのに灯りが道を照らしている不思議な空間に舞い上がっていた。そして男の声が聞こえて緊張に代わり、当たり前にある音には気付かなかった。
屋敷の庭には葉っぱ一枚だって落ちてはいない。草も伸びてはいない。クラリッサが歩いて万が一にでも葉で足を怪我しないようにと命令が出されているためだ。
当たり前にある音が当たり前に感じられる森の中をクラリッサはこの短時間でとても好きになった。
だからもう一度訪れたいと思った。
「そんなのダメ。絶対にダメ。バレたら監視がついてもう二度と此処に来れなくなっちゃう」
「再来訪の許可は出していないぞ」
「でも挨拶は覚えたもの」
「俺がしてやっただけで、お前は受けていただけだ。挨拶は返していない」
「だって、初めてだったもの。上手くできるはずがないわ。誰だって初めてのことは失敗するでしょう?」
クラリッサの言葉に男が笑う。
「次はもっと上手くやれると?」
「私、覚えは良いほうなの」
「それはそれは、一流の教育を受けている王女様は違うという自慢か?」
「いいえ、私の才能の自慢よ」
「これはこれは、失礼しました」
自我が芽生えたその日から始まり、今日まで続いている教育。物覚えが悪ければここまで完璧にはやれていない。それがクラリッサの自信に繋がっている。それを冗談めいた言い方をするクラリッサに男が愉快そうに肩を揺らす振動がクラリッサの身体に伝わってくる。
「ここからは歩いて帰るわ」
「歩けるのか?」
「でもあなたに送ってもらうわけにはいかないの。お父様はどうしてかダークエルフを快く思っていないし」
「嫌っているとハッキリ言えばいい」
「そうね、嫌ってる。お父様は私のためならなんだってする人よ。だから、ここでいい。入り口まで送ってくれてありがとう」
だが、男はクラリッサの言葉を無視して入口から外へ出た。
「私の話、聞いてた?」
「ああ、エルフは耳が良いからな」
「じゃあ──」
「舌を噛みちぎりたくなければ口を閉じて掴まっていろ」
「え──ッ!?」
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「あ、ありがと……」
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どこが醜いと言うのか。クラリッサは男から目が離せないまま静かにかぶりを振る。
「あなた、とても美人なのね」
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一目見て美しいと思った。
「……男に美人とは言わないだろう」
「でも美しい人のことを美人と言うんでしょう? じゃああなたも美人で間違いないと思うんだけど……違う?」
リズから聞いた美人の意味。
『美しい人って書いて美人なの。ねえは美しい人だから美人って言われるんだよ』
そう教えられはしてもクラリッサはまだ美人だと思う男性に会ったことがなかっただけに男性に美人と使うのはこれが初めて。
「俺の肌の色を見て何も思わないのか?」
「黒いのね」
「ここまで黒いと醜いだろう」
「どうして? 庭師の肌も真っ黒よ?」
「これは日焼けじゃない。生まれつきだ」
「ダークチョコレートみたいとは思ったけど、それが醜いなんてヒドい言葉になる理由はないわ」
庭師は毎日外に出て花や草木の手入れをしているため焼けて真っ黒。生まれつき何色だったのかもわからないぐらい真っ黒に焼けている。
相手の肌は黒人がいないこの国では珍しいほど黒いが、クラリッサはその肌をキレイだと思った。
手を伸ばして腕に腕に触れると思ったよりもずっと滑らかな肌をしている。自分の肌ともきょうだいの肌とも違う触り心地に何度か撫でると手首を掴まれた。
「女が男の肌に何度も触れるのは誘ってる合図だって知ってるか?」
「今日はもう夜も遅いからお誘いはできないわ」
「遅いからこそ、だろ?」
掴んだ手首から指先へと滑る男の手がクラリッサの指先を捉えて軽く絡め、低めで色気のある声で囁くように小声を使って問いかけた。
それが何を意味するのかわかるだろうと言わんばかりの表情が色っぽい。それを見上げながらクラリッサは頬を朱に染めるのではなく、眉を下げてかぶりを振った。
「もし、ダークエルフにもお茶を嗜む習慣があるのなら今度、一緒にお茶をしましょう? こっそりお茶を持っていくわ。それからお茶菓子も」
なんの話だと言いたげに眉を寄せる男の手が離れた。
「断り方としては随分とつまらん言い方だな」
「ごめんなさい。でも私、今はもう眠ってることになってるし、お茶を持ってきてもらうと心配かけちゃうから……」
「一体なんの話をしているんだ?」
「お茶のお誘いの話でしょう?」
予想外の反応に思わず手で額を覆って呆れ顔を見せる男にクラリッサは不思議そうな顔を見せる。
「外見は特級品でも中身はお子ちゃまか。残念な王女様だな」
「すごいストレートに言うのね」
「事実だろう?」
「ええ、そうね、事実だわ。この世界のことも何も知らないんだもの。十歳の弟のほうがずっと豊富な知識を持ってる。私は外見にしか価値を持たない王女なの」
バカにされているとわかっても悔しくないのはなぜだろうとクラリッサは不思議だった。
外見ばかりを褒められることには贅沢にも辟易としていた中で本当のことを遠慮なく言ってもらえるとスッキリする。
家族の中で唯一クラリッサをバカにするデイジーの言い方は強すぎて傷つくこともあるが、褒められるよりはいいと思っていた。だから男の言葉も同じ。
「あなたの名前を教えてくれる? 私の名前は──」
「クラリッサ」
男が名を呼んだことに驚いた。
「私の名前を知ってるの?」
「この国で鑑賞用王女の名を知らぬ者はいないだろう」
「それもそうね。でもダークエルフにまで知ってもらえてるなんて光栄だわ」
「話してみたらガッカリするような女だったと言いふらしておく」
「そうして。期待されるのはもう飽きちゃった」
「うんざりと言えばいいだろう」
クラリッサとて言葉を選びたいわけではない。大声でもう嫌だと叫びたいときもあれば、うるさいと怒って部屋に篭りたくなることもある。
自分は完璧な人間として育ったわけではなく、完璧な人間を演じているだけ。それも笑顔が完璧なだけの人間を。皆が理想とする鑑賞用王女であり続けるために笑顔のレッスンも時間のかかるお手入れも欠かさない。
でも誰もその努力を認めてはくれない。誰もが完璧な笑顔を浮かべる王女を見てそれがありのままの姿であるかのように見ている。
正直“うんざり”だった。
だが、一度使ってしまえばどこかでボロを出してしまいそうで使わないようにしていた。
誰も気付いてはくれなかったクラリッサの心を見透かしたような言葉をくれる男を少しの間、黙って見つめていると男は何も言わずに付き合ってくれた。
「うんざり、してる」
「だろうな」
誰も聞いていない夜の中で吐き出した言葉に男が笑う。
「言っちゃった」
「言ったな」
「あなたが言えって言ったのよ」
「俺は言えばいいと言っただけだ。命令はしていない。言ったのはお前の意思だ」
「……ふふっ、そうね。私の意思で言ったの。今日は私、生まれて初めて自分の意思で動いたわ。言いつけを破って森へ行った。ダークエルフに会った。うんざりだって口にした。全部私の意思よ」
嬉しくてたまらなかった。ずっと命令通りに動いてきた人形だった自分が意思を持って行動した。
クラリッサは今、子供のようにハシャぎたかった。両手を上げて飛び跳ねて大きな声を出す。でも実際は両手で口元を隠して笑うだけ。だが、その笑顔はいつもの完璧な笑顔とは違って、クラリッサ本来の笑顔だった。
「また、あなたに会いに行ってもいい?」
「バレるぞ」
「私は言いつけを破ったことはないの。誰も私が夜に家を抜け出して森に行ってるなんて想像もしないはずよ」
「悪い王女様だな」
「私もそう思う。でも、知っちゃったんだもの、自分の意思で行動する楽しさを。だからまた会いに行くわ。私の意思で」
「なら俺の許可は必要なさそうだな」
その言葉はもう許可が出たようなものだと受け取ったクラリッサがお礼を口にする。
夜はいつも退屈な時間を過ごしていた。ホットミルクを飲んで、温まった身体が冷めないようにベッドに潜る。眠れるまで数を数えるか、脳が疲れるまでうんざりするパーティーの様子を思い出し、眠くなったら眠る。
それが今日から変わるのだと笑って男を見上げるとまた唇が重なった。
「俺の首に腕を回せ」
少し唇を離した状態で言われた通りに腕を回すと男の手が腰に回って引き寄せられ、唇が深く重なる。
「さっきも挨拶したのに……」
軽めのものだったが、身体に軽い電気が走ったような感覚があった。今も手がピリピリとしているようで首から離した手を軽く握って下ろす。
「別れの挨拶だ」
クラリッサから離れて手すりに立った男が振り返る。
「エイベルだ。次はそう呼べ」
「あ……」
クラリッサが何かを言う前に男は去っていった。
黒い影が森の中へと消えたあと、あのときと同じでキラッ光ったのが見えた。
「エイベル」
男の名はエイベル。黒い獣と呼ばれる美しいダークエルフ。
それが知れただけでクラリッサは嬉しかった。
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第四学年になった秋に、15歳になると検討が始まる『相性結婚』の通知が届き、宮廷で魔術師をしているらしい男と婚約する事になった。
顔合わせで会ったその日に、向こうは「鞍替えしても良い」「制度は虫よけ程度にしか使うつもりがない」と言い、あまり乗り気じゃない上に、なんだかただの宮廷魔術師でもなさそうだ。
他にも途中で転入してきた3人もなんだか変なやつばっかりで。
こんな感じだし、制度はそろそろ撤廃されそうだし。アカデミーを卒業したら制度の通りに結婚するのだろうか。
これは、薬術の魔女と呼ばれる薬以外にほとんど興味のない(無自覚)少女と、何でもできるが周囲から認められず性格が歪んでしまった魔術師の男が制度によって出会い、互いの関係が変化するまでのお話。
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