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番外編
if story〜ファーディナンド〜2
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テーブルを挟んでソファーに腰掛け、筆談しながらイベリスは思った。
人はすぐには変われない。かといって悪いままではない。変わろうと必死が故に滑って転んで失敗する。今のファーディナンドはそれに近い。
〈俺は、何をすればいい?〉
〈何をするべきだと思う?〉
〈わからないから聞いてるんだ〉
〈わからないなら考えるべきじゃない?〉
彼はずっとこうして生きてきたんだと知ったのはつい最近のこと。仕事で忙しそうにしている姿は何度も見てきたが、困った様子は一度も見たことがない。仕事ができる人間と誰もが思うほどの働きぶりだった。でも、土台がない真っ白な状態から何かを生み出そうとすると途端に思考力が弱まってしまうらしい。
〈お前がしたいことはなんだ?〉
〈あなたがしたいことは?〉
〈俺はお前がしたいことに付き合う〉
〈私はあなたが提案することに従うわ〉
〈イベリス……〉
困った顔をしてもイベリスは甘やかさない。彼は自分で考えることが苦手で、仕事ができていたのは皇帝がすべき仕事だったから、というだけ。
両親から言われたことだけを真面目にやる子供時代を過ごし、ロベリアと出会ってからはロベリアの言うことにだけ従っていた男は自ら考える力が養われなかった。まだ十代の子供ではない。彼はもうすぐ三十歳を迎える完全な成人男性。
未来の心配をしなくて良くなったイベリスは皇妃としての仕事をアイゼンに教えてもらいながら少しずつ始めている。国が開催する催しを一年分確認していて疑問に思うことがあった。
〈ロベリアが亡くなってから催しは全て同じで、新しいことは何もしてない〉
〈伝統を守っている〉
〈聞こえはいいけど、考えなかっただけじゃない?〉
〈こういうのはロベリア担当だったんだ〉
〈あなたは一緒に考えなかったの?〉
〈こういうのは女のほうがよくわかるとロベリアが……〉
ジトッとした目で見るイベリスを見るのが気まずくて視線を逸らすも向かいから聞こえる息を吐き出す音にすぐさま視線を戻した。
〈あなたって意外と言い訳がましいのね〉
ショックを受けたような顔をする相手を見てもイベリスは言葉を変えない。ペンでメモ帳をトントンと叩きながら物言いたげに見るもファーディナンドはイベリスの感情が読めない。下手なことを言えば怒らせる気がして発言を躊躇している。
〈あなたは人と一緒に何かをするのが苦手よね?〉
〈そんなことはない。パーティーのことはちゃんと参加した〉
〈ええ、あれは素晴らしいサプライズだったし、最高の思い出よ。思い出すたびに感動してるし、感謝もしてる。でも、あれの大部分はサーシャとウォルフが考えてくれたの。あなたは参加しただけ〉
強い言い方に思わず眉が下がる。良い働きをしたと思っていたのだが、振り返ってみると自分で考えたのは一つだけ。土台があったからできたことであって、真っ白な状態から始まっていればきっとアイゼンを頼っていただろう。
〈女のほうが得意とか、伝統を守ってるとかじゃなくて、あなたはテロスの皇帝として国民がもっとテロスを愛せるようにしなきゃ。この国は良い。陛下は国民のことを考えてくれてる。テロスに生まれてよかったって思ってもらいたいと思わない?〉
〈思、う……〉
言われたことだけをやっていれば認められる人生は楽だ。誰に叱られることもなく、よくできたと褒めてもらえるかもしれない。幼少期の彼はそういう人生は歩めなかったが、少なくともロベリアに出会ってからは言われたことをやっていれば褒められた。ロベリアが甘え、それを叶えれば感謝もされる。彼女といる時間は麻薬のようで心地良かっただろう。ロベリアも言葉で甘やかせば彼が言うことを聞くとわかっていたから際限なく言葉にし続けた。
依存とも呼べる二人の関係性にピリオドが打たれたのはもう五年も前。この一年、イベリスも必要以上に彼と接することはしなかったし、仕事について口を出すこともなかったため何も考えなかったが、ここで生きていくと決めた以上は知らぬ存ぜぬは通せない。
〈ロベリアに言われたからこれからも女である私に任せるの?〉
〈催しを考えるのは好きだろう? 池にボートを浮かべたり、スケートをしたり──〉
〈それは私がしたかったこと〉
〈国民は実際、スケートを喜んでいたと聞いた。これからも──〉
イベリスから更に大きなため息が溢れた。トントントントンと指先でテーブルを叩き続けること十三回。苛立っているのが明確に伝わってくる。
〈リンウッドはちゃんと話し合ってくれる人だった〉
〈ッ!? 俺とリンウッドは別人だ〉
〈でも男でしょ?〉
何が言いたいのかわかったファーディナンドに返す言葉はない。ロベリアがやってきたことを女だからと言うなら自分もそうすると中身が成長しきれていないファーディナンドに子供にするような対応をすることにしたのだ。
〈私、あなたと一度だってちゃんと話し合ったことがない。ここからあなたと始めようと思ってるのにどうしてあなたは話し合いから逃げるの?〉
叱られた子供のように俯いてしまったファーディナンドにもう一度テーブルを叩いて顔を上げさせる。気まずそうな表情に雄々しさはなく、情けなさ全開。マシロだってそんな顔はしないと呆れなのかおかしさなのかわからない笑いが溢れる。それに少し安堵したファーディナンドが小さく溢した。
〈……無能だと思われたくなかった……〉
呆れだとわかった。
〈あなたが仕事以外は無能なことはもう知ってる〉
〈え……〉
どこに驚くことがあるのか。仕事はできる。仕事はしている。でもその他のことは何もできない。皇帝なのだから当然なのだろうが、彼は間違いなく無能だとイベリスは思っていた。
〈あなたってイエスマンよね〉
〈イエスマン……〉
〈私はイエスが欲しいんじゃない。あなたと話し合って未来を作っていきたいって思ってる〉
〈俺はお前が──〉
〈私が、あなたの、提案に乗るの。あなたは乗っかる側じゃない〉
数秒考えたあと、わかったと返事はしたが、どこか不安げ。白い紙を渡し、自分のやりたいことをなんでも書けと言われれば子供たちは紙を埋め尽くすほど書くだろう。ファーディナンドはそうではない。したいことは何か。まずそこから考えなければならない。浮かんだとしてもこれは独りよがりなのではないかと考える。時間ばかりが過ぎてしまい、時間になっても何も書けていない白紙を出すタイプ。間違いを書くぐらいなら、という考えはわからないでもないが、皇帝がそれではテロスの未来はない。
〈私がしたいことを聞いてくれるのは嬉しい。一人で勝手に決められるのは寂しいし、つまらないもの。でも、任せっぱなしにされるのも寂しい。私はまだ自分を皇妃とは言えないけど、これからしっかり、できる仕事をして、自分を皇妃だって言えるようになったらもっと色々なことを考えたいと思ってるの。だからそれまでは皇帝であるあなたがちゃんと先頭に立って考えて〉
自分がどれほど皇妃だと言ったところでイベリスが頷かないことはわかっている。ここで「いや……」と言葉にすれば怒るか呆れるかのどちらかを見せることも。
ファーディナンドは傲慢だが、小心者だ。それはイベリスも知っている。いつだったか、ウォルフが言ってた。
『テロスの皇帝とグラキエスの皇帝はとてもよく似ていると思います。傲慢で、異常なまでに妻を愛してる。でも決定的に違うのは、心の強さだと思います』
『心の強さ?』
『グラキエスの皇帝は妻のことしか考えないんです。周りにどう思われようと構わない。自分が決めたことは妻が相手でも譲らない。それが他人の死に直結しようとも関係ない。それを貫けるんです。妻が泣こうとも。でもテロスの皇帝はそうじゃない。彼も妻を愛していたけれど、妻に嫌われるのを怖がっていた。皇帝であることに彼はプレッシャーを感じてるような気もしますし、意外と小心者なのかなと』
確かにグラキエスの皇帝は妻に注意を受けても黙らないこともあった。我を通すタイプだと思った。ファーディナンドは違う。愛を失うのが怖くてロベリアの言うことをなんでも聞いていた。でもそれは一般的な感情だとイベリスは思う。誰かを失うのは怖いし辛い。
(あなたは一生、罪の意識を背負って生きるんでしょうね)
最低な男の妻として生きる道を選んだことが正しいかどうかはわからない。これからどうなるのかもわからない。でも、後悔の渦の中で溺れ続けている彼に手を差し伸べたかった。彼が与えてくれたもので自分は間違いなく幸せな一年を過ごせた。ウォルフ、サーシャ、マシロ。全て彼が与えてくれたものだ。幸せを願って与えてくれたものではなくても、幸せに慣れたのは事実だから。
一人で罪を背負って生きろ、と言い放つことはできなかった。
今の彼はまるで子供と一緒。親に嫌われないように、叱られないように伺い続ける哀れな子供。
(自分がされそうになったことを考えるとバカな選択なのかもしれないけど)
どうしても放ってはおけなかった。
〈イベリス?〉
トントンとテーブルを指先で叩いた動きに顔を上げると少し頼りない顔でこちらを見る彼を見て笑ってしまう。
〈これは宿題にしましょ〉
〈宿題?〉
〈そう。あなたへの宿題〉
〈……間違っていたら?〉
〈条例も慣習もない場所に正解はないのよ、ファーディナンド。あなたが国のため、民のためを思って一生懸命考えた楽しいことならきっとそれが正解を作っていくの〉
ゆっくり立ち上がったイベリスに合わせてサーシャがドアの側に向かう。見上げるファーディナンドはどこか不安げで、手を伸ばして髪にそっと触れた。
〈大丈夫。あなたならできるわ〉
その手の動きが何を言っているのかわかった。
優しく髪を撫でられるのはいつぶりか。こんなに優しく撫でられたことがあっただろうか。ロベリアはどうだったか。もう覚えていない。
「すまない、イベリス」
本当に。
〈三日後、宿題見せてね〉
頷くファーディナンドに頷き返して髪から手を離し、部屋を出て行った。
〈明日にしても良かったのでは?〉
サーシャはファーディナンドを許していない。目を合わせようともしないらしい。だからいつも言葉が刺々しくなってしまう。クスッと笑うイベリスが〈これでいいの〉と言うのにも不満を感じ、表情に出す。
〈あの反省は今だけかもしれませんよ〉
〈それはないと思う〉
〈何故言い切れるのですか?〉
〈だって、彼が大人になれるのはきっとおじいさんになった頃ぐらいだろうし〉
なんの根拠があってそう言っているのか。不思議そうにこちらを見るサーシャにイベリスは二ヒヒとでも言いそうな笑顔を見せる。
〈人は急に変われないし、大人にもなれない。彼は三十歳。まだまだ幼い子供だし、これからゆっくり時間をかけて大人になっていくからね〉
〈反抗期を迎えたらどうします?〉
〈教育していく。あなたも一緒だしね〉
〈お任せください〉
反抗期を迎えたファーディナンドなど想像できないが、あり得ない話ではない。いつか、本当にそんな日がやってくるかもしれない。それはそれで少し楽しみでもあった。
人はすぐには変われない。かといって悪いままではない。変わろうと必死が故に滑って転んで失敗する。今のファーディナンドはそれに近い。
〈俺は、何をすればいい?〉
〈何をするべきだと思う?〉
〈わからないから聞いてるんだ〉
〈わからないなら考えるべきじゃない?〉
彼はずっとこうして生きてきたんだと知ったのはつい最近のこと。仕事で忙しそうにしている姿は何度も見てきたが、困った様子は一度も見たことがない。仕事ができる人間と誰もが思うほどの働きぶりだった。でも、土台がない真っ白な状態から何かを生み出そうとすると途端に思考力が弱まってしまうらしい。
〈お前がしたいことはなんだ?〉
〈あなたがしたいことは?〉
〈俺はお前がしたいことに付き合う〉
〈私はあなたが提案することに従うわ〉
〈イベリス……〉
困った顔をしてもイベリスは甘やかさない。彼は自分で考えることが苦手で、仕事ができていたのは皇帝がすべき仕事だったから、というだけ。
両親から言われたことだけを真面目にやる子供時代を過ごし、ロベリアと出会ってからはロベリアの言うことにだけ従っていた男は自ら考える力が養われなかった。まだ十代の子供ではない。彼はもうすぐ三十歳を迎える完全な成人男性。
未来の心配をしなくて良くなったイベリスは皇妃としての仕事をアイゼンに教えてもらいながら少しずつ始めている。国が開催する催しを一年分確認していて疑問に思うことがあった。
〈ロベリアが亡くなってから催しは全て同じで、新しいことは何もしてない〉
〈伝統を守っている〉
〈聞こえはいいけど、考えなかっただけじゃない?〉
〈こういうのはロベリア担当だったんだ〉
〈あなたは一緒に考えなかったの?〉
〈こういうのは女のほうがよくわかるとロベリアが……〉
ジトッとした目で見るイベリスを見るのが気まずくて視線を逸らすも向かいから聞こえる息を吐き出す音にすぐさま視線を戻した。
〈あなたって意外と言い訳がましいのね〉
ショックを受けたような顔をする相手を見てもイベリスは言葉を変えない。ペンでメモ帳をトントンと叩きながら物言いたげに見るもファーディナンドはイベリスの感情が読めない。下手なことを言えば怒らせる気がして発言を躊躇している。
〈あなたは人と一緒に何かをするのが苦手よね?〉
〈そんなことはない。パーティーのことはちゃんと参加した〉
〈ええ、あれは素晴らしいサプライズだったし、最高の思い出よ。思い出すたびに感動してるし、感謝もしてる。でも、あれの大部分はサーシャとウォルフが考えてくれたの。あなたは参加しただけ〉
強い言い方に思わず眉が下がる。良い働きをしたと思っていたのだが、振り返ってみると自分で考えたのは一つだけ。土台があったからできたことであって、真っ白な状態から始まっていればきっとアイゼンを頼っていただろう。
〈女のほうが得意とか、伝統を守ってるとかじゃなくて、あなたはテロスの皇帝として国民がもっとテロスを愛せるようにしなきゃ。この国は良い。陛下は国民のことを考えてくれてる。テロスに生まれてよかったって思ってもらいたいと思わない?〉
〈思、う……〉
言われたことだけをやっていれば認められる人生は楽だ。誰に叱られることもなく、よくできたと褒めてもらえるかもしれない。幼少期の彼はそういう人生は歩めなかったが、少なくともロベリアに出会ってからは言われたことをやっていれば褒められた。ロベリアが甘え、それを叶えれば感謝もされる。彼女といる時間は麻薬のようで心地良かっただろう。ロベリアも言葉で甘やかせば彼が言うことを聞くとわかっていたから際限なく言葉にし続けた。
依存とも呼べる二人の関係性にピリオドが打たれたのはもう五年も前。この一年、イベリスも必要以上に彼と接することはしなかったし、仕事について口を出すこともなかったため何も考えなかったが、ここで生きていくと決めた以上は知らぬ存ぜぬは通せない。
〈ロベリアに言われたからこれからも女である私に任せるの?〉
〈催しを考えるのは好きだろう? 池にボートを浮かべたり、スケートをしたり──〉
〈それは私がしたかったこと〉
〈国民は実際、スケートを喜んでいたと聞いた。これからも──〉
イベリスから更に大きなため息が溢れた。トントントントンと指先でテーブルを叩き続けること十三回。苛立っているのが明確に伝わってくる。
〈リンウッドはちゃんと話し合ってくれる人だった〉
〈ッ!? 俺とリンウッドは別人だ〉
〈でも男でしょ?〉
何が言いたいのかわかったファーディナンドに返す言葉はない。ロベリアがやってきたことを女だからと言うなら自分もそうすると中身が成長しきれていないファーディナンドに子供にするような対応をすることにしたのだ。
〈私、あなたと一度だってちゃんと話し合ったことがない。ここからあなたと始めようと思ってるのにどうしてあなたは話し合いから逃げるの?〉
叱られた子供のように俯いてしまったファーディナンドにもう一度テーブルを叩いて顔を上げさせる。気まずそうな表情に雄々しさはなく、情けなさ全開。マシロだってそんな顔はしないと呆れなのかおかしさなのかわからない笑いが溢れる。それに少し安堵したファーディナンドが小さく溢した。
〈……無能だと思われたくなかった……〉
呆れだとわかった。
〈あなたが仕事以外は無能なことはもう知ってる〉
〈え……〉
どこに驚くことがあるのか。仕事はできる。仕事はしている。でもその他のことは何もできない。皇帝なのだから当然なのだろうが、彼は間違いなく無能だとイベリスは思っていた。
〈あなたってイエスマンよね〉
〈イエスマン……〉
〈私はイエスが欲しいんじゃない。あなたと話し合って未来を作っていきたいって思ってる〉
〈俺はお前が──〉
〈私が、あなたの、提案に乗るの。あなたは乗っかる側じゃない〉
数秒考えたあと、わかったと返事はしたが、どこか不安げ。白い紙を渡し、自分のやりたいことをなんでも書けと言われれば子供たちは紙を埋め尽くすほど書くだろう。ファーディナンドはそうではない。したいことは何か。まずそこから考えなければならない。浮かんだとしてもこれは独りよがりなのではないかと考える。時間ばかりが過ぎてしまい、時間になっても何も書けていない白紙を出すタイプ。間違いを書くぐらいなら、という考えはわからないでもないが、皇帝がそれではテロスの未来はない。
〈私がしたいことを聞いてくれるのは嬉しい。一人で勝手に決められるのは寂しいし、つまらないもの。でも、任せっぱなしにされるのも寂しい。私はまだ自分を皇妃とは言えないけど、これからしっかり、できる仕事をして、自分を皇妃だって言えるようになったらもっと色々なことを考えたいと思ってるの。だからそれまでは皇帝であるあなたがちゃんと先頭に立って考えて〉
自分がどれほど皇妃だと言ったところでイベリスが頷かないことはわかっている。ここで「いや……」と言葉にすれば怒るか呆れるかのどちらかを見せることも。
ファーディナンドは傲慢だが、小心者だ。それはイベリスも知っている。いつだったか、ウォルフが言ってた。
『テロスの皇帝とグラキエスの皇帝はとてもよく似ていると思います。傲慢で、異常なまでに妻を愛してる。でも決定的に違うのは、心の強さだと思います』
『心の強さ?』
『グラキエスの皇帝は妻のことしか考えないんです。周りにどう思われようと構わない。自分が決めたことは妻が相手でも譲らない。それが他人の死に直結しようとも関係ない。それを貫けるんです。妻が泣こうとも。でもテロスの皇帝はそうじゃない。彼も妻を愛していたけれど、妻に嫌われるのを怖がっていた。皇帝であることに彼はプレッシャーを感じてるような気もしますし、意外と小心者なのかなと』
確かにグラキエスの皇帝は妻に注意を受けても黙らないこともあった。我を通すタイプだと思った。ファーディナンドは違う。愛を失うのが怖くてロベリアの言うことをなんでも聞いていた。でもそれは一般的な感情だとイベリスは思う。誰かを失うのは怖いし辛い。
(あなたは一生、罪の意識を背負って生きるんでしょうね)
最低な男の妻として生きる道を選んだことが正しいかどうかはわからない。これからどうなるのかもわからない。でも、後悔の渦の中で溺れ続けている彼に手を差し伸べたかった。彼が与えてくれたもので自分は間違いなく幸せな一年を過ごせた。ウォルフ、サーシャ、マシロ。全て彼が与えてくれたものだ。幸せを願って与えてくれたものではなくても、幸せに慣れたのは事実だから。
一人で罪を背負って生きろ、と言い放つことはできなかった。
今の彼はまるで子供と一緒。親に嫌われないように、叱られないように伺い続ける哀れな子供。
(自分がされそうになったことを考えるとバカな選択なのかもしれないけど)
どうしても放ってはおけなかった。
〈イベリス?〉
トントンとテーブルを指先で叩いた動きに顔を上げると少し頼りない顔でこちらを見る彼を見て笑ってしまう。
〈これは宿題にしましょ〉
〈宿題?〉
〈そう。あなたへの宿題〉
〈……間違っていたら?〉
〈条例も慣習もない場所に正解はないのよ、ファーディナンド。あなたが国のため、民のためを思って一生懸命考えた楽しいことならきっとそれが正解を作っていくの〉
ゆっくり立ち上がったイベリスに合わせてサーシャがドアの側に向かう。見上げるファーディナンドはどこか不安げで、手を伸ばして髪にそっと触れた。
〈大丈夫。あなたならできるわ〉
その手の動きが何を言っているのかわかった。
優しく髪を撫でられるのはいつぶりか。こんなに優しく撫でられたことがあっただろうか。ロベリアはどうだったか。もう覚えていない。
「すまない、イベリス」
本当に。
〈三日後、宿題見せてね〉
頷くファーディナンドに頷き返して髪から手を離し、部屋を出て行った。
〈明日にしても良かったのでは?〉
サーシャはファーディナンドを許していない。目を合わせようともしないらしい。だからいつも言葉が刺々しくなってしまう。クスッと笑うイベリスが〈これでいいの〉と言うのにも不満を感じ、表情に出す。
〈あの反省は今だけかもしれませんよ〉
〈それはないと思う〉
〈何故言い切れるのですか?〉
〈だって、彼が大人になれるのはきっとおじいさんになった頃ぐらいだろうし〉
なんの根拠があってそう言っているのか。不思議そうにこちらを見るサーシャにイベリスは二ヒヒとでも言いそうな笑顔を見せる。
〈人は急に変われないし、大人にもなれない。彼は三十歳。まだまだ幼い子供だし、これからゆっくり時間をかけて大人になっていくからね〉
〈反抗期を迎えたらどうします?〉
〈教育していく。あなたも一緒だしね〉
〈お任せください〉
反抗期を迎えたファーディナンドなど想像できないが、あり得ない話ではない。いつか、本当にそんな日がやってくるかもしれない。それはそれで少し楽しみでもあった。
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