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イベリス復活編
ありがとうを伝えに3
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「で?」
ドンッと効果音が付きそうな横柄な態度をウォルフに向けるベンジャミンからは明らかな敵意が感じられる。イベリスが自分の大好物が並んだテーブルの上の光景に目を奪われている間に向けられる敵意にどう対応すべきか笑顔のまま考えていた。
「何がでしょう?」
今日は感謝を伝えに来たのだから応戦はなし。当たり前のようにハグをしたベンジャミンに腹が立たないわけではないが、気持ちはわかる。婚約者がいるのに他の男とハグをした、という驚きと苛立ちを感じた。だが、すぐに気持ちは落ち着いた。別大陸の別の国に住まう二人はこれから続く人生の中であと何回会えるかわからない。これが最後になるかもしれない。誕生日だからと王子が気軽に会いにいくわけにはいかない。伯爵令嬢であるイベリスが会いに行く分には構わないが、そうそう気軽に行ける距離でもない。母になれば余計に。
これから毎日一緒に未来を歩いていく自分が嫉妬丸出しで敵対するわけにはいかない。それはあまりにも情けなく、惨めで失礼だと思い至った。
「なんでお前がイベリスと婚約することになったんだ? お前は騎士じゃなかったか?」
「それはイベリスから聞いたほうがよろしいかと」
「イベリス……だと……」
婚約者なのだから呼び捨てにしても何もおかしくはないのだが、グラキエスで会ったときは確かに敬称を付けて呼んでいただけに関係が変わったのだとわかりやすすぎる事態に動揺する。
「食べましょう」
「そうだな。好きなだけ食べてくれ」
ハチミツとバターが染み込んだ焼きたての半円のパンを一つ、ベンジャミンがイベリスの皿に置く。カトラリーを手にスッと入れたナイフが柔らかなパンを切っていく。待ちきれないと下唇を噛みながら一口サイズに切ったそれをまず目で楽しんだあと、開いた口にそっと運んだ。
「ッ!?」
じゅわっと溢れるバターの濃厚さとハチミツの甘さに目を閉じ、感動に震えながら噛み締めて飲み込む。ベンジャミンから教えてもらったパンで、ずっと食べたいと思っていた念願のハチミツバターパン。
「美味いか?」
「とっても美味しい!」
「今日のメニューに加えた甲斐があった」
「ありがとう! すごく嬉しいしすごく美味しいしすごく感動してる!」
「喉に詰まらせないようにな」
慈愛に満ちた目を向けるベンジャミンにイベリスも笑顔を返す。良くしてくれた人に笑顔と感謝を返すのは当たり前なのだが、イベリスはどうにも相手を喜ばせすぎることがウォルフの悩みの種になりつつある。
耳が聞こえないからこそ目一杯の愛情を注いできた両親のおかげで明るく育ったのはいいが、どうにも王族たちはこうした明るさに弱い傾向にある気がしてならない。王族ではない自分も同じであるため断言はできないが。
「イベリス、何故彼を婚約者に選んだんだ? 彼は貴族ではないだろう?」
「ええ、彼は騎士の一家なの」
「なのに彼を婚約者に選んだのか?」
「だって関係ないもの」
この選択がまるで当たり前のことであるかのように答えたイベリスにキョトンとしたのはウォルフだった。
「騎士とか貴族とか王族とか関係ない。ルールなんて知らない。彼は私のヒーローだもの。どんなときも傍にいて、支えて、励まして、笑わせてくれた。これからもきっとそう。今までずっと支えてもらった分、今度は私が支えたいの」
「そうか」
羨ましいと思った。自分はそうしたくてもできない距離にいて、関係性だったから。毎日を共に過ごした彼が選ばれるのは至極当然のこと。何故、なんて質問するほうがみっともない。
だが、ベンジャミンの顔に苦笑は浮かばなかった。わかっていたのだ。彼がどれほどイベリスを想っていたか。その想いを隠すことなく伝えたのだろう。自分は手紙でこっそり伝えられる立場にいながらそうしようとはしなかった。嫌われるのが怖かったから。臆病者に待つ結末など指を咥えて羨ましそうに見つめることだけ。いつかは誰かのものになるとわかっていた。ただ、それが自分であればいいと努力してもいないのに得る、都合の良い未来を思い描いていた。
「彼はどういう人なんだ?」
「優しい人よ、とっても」
「僕より?」
「ふふっ、私はまだあなたの優しい所を全部知ってるわけじゃないから比べられないけど、この先のことを何も心配しないでいられるぐらいには優しいの」
「頼り甲斐はあるか?」
「ええ、とっても。それは世界中の人に自慢できるぐらいよ」
「獣人族か」
「白狼のね」
「それなら問題なさそうだな。強そうだ」
「とっても」
ふわふわのオムレツに舌鼓を打ちながら何度も何度も頷く。美味しいからか、それともウォルフについてか。どちらであっても笑顔を見せるだろうし、頷くだろう。
でもこれはきっとウォルフについてだ。隣に座るウォルフを見る目が物語っている。
「伯爵令嬢の婚約者にしては品がないのが欠点だな」
「あら、大口で食べるの可愛いのに」
「僕にはわからんな」
「たくさんの食事があっという間に消えちゃうのが面白くて大好きなの」
「そうか」
眩しいほど輝いて見えるその笑顔に、ああ……敵わないな、と思った。比べるほうがおかしい。自分は一国の王子というだけで他には何も持っていない。過去の愚かな振る舞いによる悪評。剣の腕があるわけでも武術を使えるわけでもない。どちらかといえば貧相なほうだ。魔法も使えなければ獣人族でもない。危機が迫ったとき、自分はイベリスを守れるだろうか。心配させないほど強く逞しく。
ベンジャミンが自嘲する。
無理に決まっている。できるはずがない。自分ではきっとこの笑顔を守り続けることはできない。きっといつかどこかで曇らせると思う。そのとき後悔したところで遅いのだ。
「これが運命というんだろうな」
「そうだったらいいな」
「えー! 断言してくださいよ。俺とあなたは運命なんだからー!」
「そうなの?」
「そうでしょ!?」
女の前で男が拗ねるなど情けないとベンジャミンは思うが、イベリスはそんな様子さえも愛おしそうに見ている。頬に手を伸ばして撫でるとそのまま親指で彼の口周りについていた汚れを拭いてやる。その指をウォルフが舐めたあと、ナフキンで拭く。
「舐める意味あった?」
「つい」
そう言って笑い合う二人を見ているとベンジャミンの心はゆっくりながらに整理を始める。わかっていたことだ。自分の夢は叶わないと。両親に好きな人がいると言って縁談を断っていたのも無駄な足掻きだと。だけど、それでも手紙を読むたびに想うことをやめられず、想いは募る一方だったから。
「お前たちは仲が良いな」
「だって運命の相手ですから。ねー?」
「そうなの?」
「ちょっ! 同意してってば!」
賑やかなまま終わった昼食会。夕食はもっと豪華だった。肉がたくさん出てきたことに喜んだのはイベリスよりもウォルフのほうで、ガツガツと野生さを感じさせる食べ方にベンジャミンは少し引いていた。そんなベンジャミンを見てイベリスが笑い、「考え直すのもありだぞ」と小声で告げるも耳が良いウォルフには筒抜けで、もがもが言いながら反論するもわからず声を荒げていた。
あっという間に過ぎてしまう時間が惜しくて、ベンジャミンもイベリスも口を動かしっぱなしだった。
王子には仕事があるからと約束したのは一泊だけ。ベンジャミンはベッドの中でそれを後悔していた。
一睡もできず朝を迎えたが眠気はない。城の前に停まった馬車の前でベンジャミンは三十分以上前からそこで待っていた。イベリスの瞳のような空の色を見つめながら一人、ずっと考えていた。なんと言って別れるべきだろうと。
手紙に書いていたように言うべきなのか。それとも──……
「ベンジャミン」
うだうだと考えていると三十分など三十分などあっという間に過ぎてしまったらしく、用意を済ませたイベリスが手を振りながら寄ってきた。
夢ではない。イベリスの声が名前を呼ぶ。その幸せを噛み締めながら手を上げる。
「待ってくれてたの?」
「当たり前だ」
「外で待ってなくてよかったのに」
「散歩がてらだ」
「一緒に散歩したかったのに」
「次の機会にな」
大きく頷いたイベリスに手を伸ばして頭を撫でようとするも拳に変えて下ろした。婚約者ある身だ。馴れ馴れしく触るべきではない。自分を戒めてポケットに手を突っ込み、再度イベリスの前に手を出した。
「コイン?」
開いた手の中に入っていたコインに首を傾げるもそれを傾けるため慌てて両手を出すとその上にコインが落ちる。
「装飾品よりコインをもらったほうが嬉しいんだろう?」
「そうだけど……」
「お前がリーダスに来た記念だ。コレクションに加えてくれ」
「嬉しい! ありがとう!」
まだコレクションできるほどの硬貨は集まってはいない。あちこち旅をしながら集めていきたいと思っている。あくまでも夢として書いていたことだが、ベンジャミンは覚えてくれていた。満面の笑みを浮かべるイベリスに頷きを返すとウォルフが胸に手を当てて頭を下げた。
なんだと怪訝な顔をするベンジャミンに頭を下げたまま感謝を告げる。
「ベンジャミン王子、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしていないが、それは婚約者としてのマウントか?」
「まさか! そんなつもりはありません! ただ、本当に、ベンジャミン王子には直接お礼を言いたかったんです」
「冗談だ。なんの礼かわからないけど、受け取っておく」
あまりグダグダ話すのもみっともないと長話するつもりもないため二人のために馬車のドアを開ける。
「ベンジャミン、また会いましょうね」
「もちろんだ。会いに行くし、会いに来てくれ」
「ええ。約束よ」
差し出された小指を小指で絡め取って上下に揺らす。ここで永遠のさよならではない。またいつか会える。その気があればいつだって会えるのだ。それなのに今生の別れのように寂しくて仕方ない。
ダメだとわかっている。するべきではないとわかっているが、ベンジャミンはたまらずイベリスを抱きしめた。
「世界中の誰よりも幸せでいるんだぞ。僕のたった一つの願いだ」
「ありがとう、ベンジャミン。あなたは私の大好きな友達よ、ずっとね」
その言葉だけで充分だった。
「気をつけてな」
「ありがとう!」
馬車の窓を開けて見えなくなるまで手を振り続け、ありがとうを言い続けたイベリスにベンジャミンも手を振り続けた。
泣いてしまいそうなほど胸が痛い。でも、ベンジャミンは笑っていた。イベリスがとても幸せそうに笑っていたから。もう二度と、あの声が聞けなくとも、笑顔が見れなくてもいい。だって彼女はどこにいても彼が一緒ならきっと笑っているだろうと確信を得られたから。それは胸の痛みを掻き消すほどの大きな感情をベンジャミンに与えた。だから笑顔で見送れる。
「さよなら、僕の初恋」
風に揺れた木がザアッと大きな音を立て、ベンジャミンの言葉を風に乗せて飛ばす。それはイベリスに届くことはないが、ベンジャミンはとても幸せだった。
ドンッと効果音が付きそうな横柄な態度をウォルフに向けるベンジャミンからは明らかな敵意が感じられる。イベリスが自分の大好物が並んだテーブルの上の光景に目を奪われている間に向けられる敵意にどう対応すべきか笑顔のまま考えていた。
「何がでしょう?」
今日は感謝を伝えに来たのだから応戦はなし。当たり前のようにハグをしたベンジャミンに腹が立たないわけではないが、気持ちはわかる。婚約者がいるのに他の男とハグをした、という驚きと苛立ちを感じた。だが、すぐに気持ちは落ち着いた。別大陸の別の国に住まう二人はこれから続く人生の中であと何回会えるかわからない。これが最後になるかもしれない。誕生日だからと王子が気軽に会いにいくわけにはいかない。伯爵令嬢であるイベリスが会いに行く分には構わないが、そうそう気軽に行ける距離でもない。母になれば余計に。
これから毎日一緒に未来を歩いていく自分が嫉妬丸出しで敵対するわけにはいかない。それはあまりにも情けなく、惨めで失礼だと思い至った。
「なんでお前がイベリスと婚約することになったんだ? お前は騎士じゃなかったか?」
「それはイベリスから聞いたほうがよろしいかと」
「イベリス……だと……」
婚約者なのだから呼び捨てにしても何もおかしくはないのだが、グラキエスで会ったときは確かに敬称を付けて呼んでいただけに関係が変わったのだとわかりやすすぎる事態に動揺する。
「食べましょう」
「そうだな。好きなだけ食べてくれ」
ハチミツとバターが染み込んだ焼きたての半円のパンを一つ、ベンジャミンがイベリスの皿に置く。カトラリーを手にスッと入れたナイフが柔らかなパンを切っていく。待ちきれないと下唇を噛みながら一口サイズに切ったそれをまず目で楽しんだあと、開いた口にそっと運んだ。
「ッ!?」
じゅわっと溢れるバターの濃厚さとハチミツの甘さに目を閉じ、感動に震えながら噛み締めて飲み込む。ベンジャミンから教えてもらったパンで、ずっと食べたいと思っていた念願のハチミツバターパン。
「美味いか?」
「とっても美味しい!」
「今日のメニューに加えた甲斐があった」
「ありがとう! すごく嬉しいしすごく美味しいしすごく感動してる!」
「喉に詰まらせないようにな」
慈愛に満ちた目を向けるベンジャミンにイベリスも笑顔を返す。良くしてくれた人に笑顔と感謝を返すのは当たり前なのだが、イベリスはどうにも相手を喜ばせすぎることがウォルフの悩みの種になりつつある。
耳が聞こえないからこそ目一杯の愛情を注いできた両親のおかげで明るく育ったのはいいが、どうにも王族たちはこうした明るさに弱い傾向にある気がしてならない。王族ではない自分も同じであるため断言はできないが。
「イベリス、何故彼を婚約者に選んだんだ? 彼は貴族ではないだろう?」
「ええ、彼は騎士の一家なの」
「なのに彼を婚約者に選んだのか?」
「だって関係ないもの」
この選択がまるで当たり前のことであるかのように答えたイベリスにキョトンとしたのはウォルフだった。
「騎士とか貴族とか王族とか関係ない。ルールなんて知らない。彼は私のヒーローだもの。どんなときも傍にいて、支えて、励まして、笑わせてくれた。これからもきっとそう。今までずっと支えてもらった分、今度は私が支えたいの」
「そうか」
羨ましいと思った。自分はそうしたくてもできない距離にいて、関係性だったから。毎日を共に過ごした彼が選ばれるのは至極当然のこと。何故、なんて質問するほうがみっともない。
だが、ベンジャミンの顔に苦笑は浮かばなかった。わかっていたのだ。彼がどれほどイベリスを想っていたか。その想いを隠すことなく伝えたのだろう。自分は手紙でこっそり伝えられる立場にいながらそうしようとはしなかった。嫌われるのが怖かったから。臆病者に待つ結末など指を咥えて羨ましそうに見つめることだけ。いつかは誰かのものになるとわかっていた。ただ、それが自分であればいいと努力してもいないのに得る、都合の良い未来を思い描いていた。
「彼はどういう人なんだ?」
「優しい人よ、とっても」
「僕より?」
「ふふっ、私はまだあなたの優しい所を全部知ってるわけじゃないから比べられないけど、この先のことを何も心配しないでいられるぐらいには優しいの」
「頼り甲斐はあるか?」
「ええ、とっても。それは世界中の人に自慢できるぐらいよ」
「獣人族か」
「白狼のね」
「それなら問題なさそうだな。強そうだ」
「とっても」
ふわふわのオムレツに舌鼓を打ちながら何度も何度も頷く。美味しいからか、それともウォルフについてか。どちらであっても笑顔を見せるだろうし、頷くだろう。
でもこれはきっとウォルフについてだ。隣に座るウォルフを見る目が物語っている。
「伯爵令嬢の婚約者にしては品がないのが欠点だな」
「あら、大口で食べるの可愛いのに」
「僕にはわからんな」
「たくさんの食事があっという間に消えちゃうのが面白くて大好きなの」
「そうか」
眩しいほど輝いて見えるその笑顔に、ああ……敵わないな、と思った。比べるほうがおかしい。自分は一国の王子というだけで他には何も持っていない。過去の愚かな振る舞いによる悪評。剣の腕があるわけでも武術を使えるわけでもない。どちらかといえば貧相なほうだ。魔法も使えなければ獣人族でもない。危機が迫ったとき、自分はイベリスを守れるだろうか。心配させないほど強く逞しく。
ベンジャミンが自嘲する。
無理に決まっている。できるはずがない。自分ではきっとこの笑顔を守り続けることはできない。きっといつかどこかで曇らせると思う。そのとき後悔したところで遅いのだ。
「これが運命というんだろうな」
「そうだったらいいな」
「えー! 断言してくださいよ。俺とあなたは運命なんだからー!」
「そうなの?」
「そうでしょ!?」
女の前で男が拗ねるなど情けないとベンジャミンは思うが、イベリスはそんな様子さえも愛おしそうに見ている。頬に手を伸ばして撫でるとそのまま親指で彼の口周りについていた汚れを拭いてやる。その指をウォルフが舐めたあと、ナフキンで拭く。
「舐める意味あった?」
「つい」
そう言って笑い合う二人を見ているとベンジャミンの心はゆっくりながらに整理を始める。わかっていたことだ。自分の夢は叶わないと。両親に好きな人がいると言って縁談を断っていたのも無駄な足掻きだと。だけど、それでも手紙を読むたびに想うことをやめられず、想いは募る一方だったから。
「お前たちは仲が良いな」
「だって運命の相手ですから。ねー?」
「そうなの?」
「ちょっ! 同意してってば!」
賑やかなまま終わった昼食会。夕食はもっと豪華だった。肉がたくさん出てきたことに喜んだのはイベリスよりもウォルフのほうで、ガツガツと野生さを感じさせる食べ方にベンジャミンは少し引いていた。そんなベンジャミンを見てイベリスが笑い、「考え直すのもありだぞ」と小声で告げるも耳が良いウォルフには筒抜けで、もがもが言いながら反論するもわからず声を荒げていた。
あっという間に過ぎてしまう時間が惜しくて、ベンジャミンもイベリスも口を動かしっぱなしだった。
王子には仕事があるからと約束したのは一泊だけ。ベンジャミンはベッドの中でそれを後悔していた。
一睡もできず朝を迎えたが眠気はない。城の前に停まった馬車の前でベンジャミンは三十分以上前からそこで待っていた。イベリスの瞳のような空の色を見つめながら一人、ずっと考えていた。なんと言って別れるべきだろうと。
手紙に書いていたように言うべきなのか。それとも──……
「ベンジャミン」
うだうだと考えていると三十分など三十分などあっという間に過ぎてしまったらしく、用意を済ませたイベリスが手を振りながら寄ってきた。
夢ではない。イベリスの声が名前を呼ぶ。その幸せを噛み締めながら手を上げる。
「待ってくれてたの?」
「当たり前だ」
「外で待ってなくてよかったのに」
「散歩がてらだ」
「一緒に散歩したかったのに」
「次の機会にな」
大きく頷いたイベリスに手を伸ばして頭を撫でようとするも拳に変えて下ろした。婚約者ある身だ。馴れ馴れしく触るべきではない。自分を戒めてポケットに手を突っ込み、再度イベリスの前に手を出した。
「コイン?」
開いた手の中に入っていたコインに首を傾げるもそれを傾けるため慌てて両手を出すとその上にコインが落ちる。
「装飾品よりコインをもらったほうが嬉しいんだろう?」
「そうだけど……」
「お前がリーダスに来た記念だ。コレクションに加えてくれ」
「嬉しい! ありがとう!」
まだコレクションできるほどの硬貨は集まってはいない。あちこち旅をしながら集めていきたいと思っている。あくまでも夢として書いていたことだが、ベンジャミンは覚えてくれていた。満面の笑みを浮かべるイベリスに頷きを返すとウォルフが胸に手を当てて頭を下げた。
なんだと怪訝な顔をするベンジャミンに頭を下げたまま感謝を告げる。
「ベンジャミン王子、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしていないが、それは婚約者としてのマウントか?」
「まさか! そんなつもりはありません! ただ、本当に、ベンジャミン王子には直接お礼を言いたかったんです」
「冗談だ。なんの礼かわからないけど、受け取っておく」
あまりグダグダ話すのもみっともないと長話するつもりもないため二人のために馬車のドアを開ける。
「ベンジャミン、また会いましょうね」
「もちろんだ。会いに行くし、会いに来てくれ」
「ええ。約束よ」
差し出された小指を小指で絡め取って上下に揺らす。ここで永遠のさよならではない。またいつか会える。その気があればいつだって会えるのだ。それなのに今生の別れのように寂しくて仕方ない。
ダメだとわかっている。するべきではないとわかっているが、ベンジャミンはたまらずイベリスを抱きしめた。
「世界中の誰よりも幸せでいるんだぞ。僕のたった一つの願いだ」
「ありがとう、ベンジャミン。あなたは私の大好きな友達よ、ずっとね」
その言葉だけで充分だった。
「気をつけてな」
「ありがとう!」
馬車の窓を開けて見えなくなるまで手を振り続け、ありがとうを言い続けたイベリスにベンジャミンも手を振り続けた。
泣いてしまいそうなほど胸が痛い。でも、ベンジャミンは笑っていた。イベリスがとても幸せそうに笑っていたから。もう二度と、あの声が聞けなくとも、笑顔が見れなくてもいい。だって彼女はどこにいても彼が一緒ならきっと笑っているだろうと確信を得られたから。それは胸の痛みを掻き消すほどの大きな感情をベンジャミンに与えた。だから笑顔で見送れる。
「さよなら、僕の初恋」
風に揺れた木がザアッと大きな音を立て、ベンジャミンの言葉を風に乗せて飛ばす。それはイベリスに届くことはないが、ベンジャミンはとても幸せだった。
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