154 / 190
イベリス復活編
リングデール家3
しおりを挟む
食事を終えたイベリスとウォルフは離れで寛いでいた。夜はいつもマシロも一緒に寝ていたため庭で一人では寝かせられないと言って、もう使われなくなった離れならマシロも入っていいとアーマンが許可した。
使わないからといって掃除を怠ることはなく、毎日掃除が入っているためピカピカ。ベッドは長さが足りないからと床で寝ることにしたウォルフはマシロの隣に毛布を敷く。
「床に寝て大丈夫?」
「獣人は床で寝ることをなんとも思いませんし、慣れたもんですよ」
「身体が痛かったらいつでもこっちに来ていいからね」
「ありがとうございます」
イベリスの髪は母親が丁寧に乾かしたためウォルフの仕事はなくなった。マッサージでもしようかと言ったのだが、大丈夫だと断られた。
「サプライズが誕生日パーティーなんてビックリしちゃった」
「まさにサプライズですね」
「でも嬉しい。十七歳の誕生日は魔女さんの家で過ごしたから」
「だいぶ過ぎてしまったけど、あなたの誕生日を祝えて嬉しいです」
「私も嬉しい」
十七回目の誕生日だからとウェディングケーキさながらの物が運ばれてくるのを見たときは言葉が出てこなかった。『なんだこれ』『どういうことだ』『何故これなんだ』『これが誕生日ケーキ?』と頭に浮かぶ言葉は全て困惑。これは家のシェフではなく有名なパティシエに頼んだと言い、父親は『本当に注文していたのか』と驚いていた。父親にとってもサプライズとなったケーキに母親だけが満足げだった。
耳が聞こえなくても嬉しいことはたくさんあった。テロスでしてもらったサプライズ。あれに勝るものは二度とないのではないかと思うほど素晴らしいものだった。皆がいた。両親もいて、サーシャにウォルフ、アイゼン、ファーディナンド、使用人の皆。皆が笑顔で、幸せそうで、イベリス自身も楽しかった。
今日の誕生日パーティーだって素晴らしいサプライズではあった。両親が考えに考え抜いてくれたお祝い。幸せでないはずがない。歌というものを初めて聴き、イベリスはそれまでケーキのろうそくを吹き消す前のリズムしか知らなかったが、今回は歌も聴けた。ああ、きっとあの場はとても賑やかだったのだろうと少し羨ましくなってしまった。
(もう贅沢病にかかってる)
欲ばかり出てしまうことに苦笑する。
「ケーキ、とっても美味しかった」
「信じられないほど甘かったですけどね。歯が溶けるかと思いました」
ウォルフは実家で出る蜜漬けも好きではなく、今回のチョコレートケーキもワンカット食べて終わった。イベリスは皿に盛られたケーキではなく飾りなどに手を伸ばして怒られながらも満腹になるまで食べ続けた。
「ウォルフとマシロを紹介できて嬉しい」
マシロのことは窓越しに紹介し、二人はマシロに手を振っていた。可愛い犬だと言ってくれた。二人も犬は好きだ。ただ、残念にもアレルギーというだけ。撫でたいと子供のように駄々をこねる母親の姿を見てとても嬉しくなった。
「明日は何をしましょうか?」
「リンウッドの家に行くわ」
ずっと決めていたのだろう。即答したイベリスにウォルフは黙って頷いた。仕方がないこととはいえ、ロベリアの肖像画をイベリスだと嘘をついた自分をリンウッドは認めないだろう。
自分はただついていくだけ。そう決めて、その日は眠りについた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の見送りを受けて二人でリンウッドの家に向かう。とても優しい人たちだと彼の両親について話していると彼の家の前に業者らしき人たちが入っているのが見えた。家財道具などを運び出している光景にイベリスが慌てて駆け出した。
〈おばさま!〉
「イベリス、あなた……テロスに行ったんじゃ……」
ひどく驚いた顔をするリンウッドの母親に何をしているのか問いかけた。
〈引っ越すの?〉
貴族はあちこちに別荘を持ってはいるが、あまり引っ越しはしない。そこに自分の理想の住まいを建てるからだ。それなのに彼女は確かに引っ越しと手話をした。
〈ええ。もっと静かな場所に引っ越そうと思って〉
〈いいの? リンウッドのお墓はここにあるんでしょう?〉
〈あの子は土の下で眠っているだけで、魂までそこにあるわけじゃない。だからいいのよ。彼の魂はいつも私たちと共にあるから〉
〈ごめんなさい。私がもっとちゃんとリンウッドに手紙を書いていたら……〉
〈イベリス、どうか気に病まないで。これは誰が悪いとかじゃない。誰かがもっとこうしてたら、なんてないの。あの子が自分で選んだ末路だから。あの子は自分であなたと別れることを選び、後悔し、精神を病み、あなたを追いかけ……死んでしまった。それだけのことよ〉
息子の死を“それだけのこと”と言う母親ではなかった。変わっていく息子に精神的に疲弊している部分もあったのだろう。どこか客観的に、どこか他人事として一線を引いた状態でいようと思っているのかもしれない。きっともう、流す涙もないほど泣きすぎただろうから。
実際、彼女の顔には疲れが見える。笑っていても誤魔化せないほどの疲れが。
〈……ごめんなさい、おばさま〉
〈謝らないで、イベリス。あの子はようやく楽になったの。息子を失った悲しみは大きいけれど、安心もしているの。だって彼はもう、苦しむことがないんだから〉
母親には見えていた未来だった。死んだ息子が立派な棺に入れられてテロスから帰ってきたとき、悲しみよりも怒りが込み上げた。バカ息子と何度も棺を叩いて泣いた。だが、怒りが終わると心は穏やかなもので、「もう苦しまなくていいんだね」と声をかけた。
一目惚れしてからずっとイベリスに夢中だった。イベリスのために生きていると言っても過言ではないほどに全ての行動理由にイベリスがあった。いつか結婚できたらいいと自分たちも思っていたし、婚約したと聞いたときは大喜びした。
しかし、婚約してから全てが変わり始めた。イベリスを汚したくない。嫌われたくない。自分じゃ相応しくない。もっと相応しい男にならなくては──焦りと恐怖が混ざり始めた。その次にイベリスの周りには自分だけでいい。周りの人間が邪魔だ。イベリスを誰の目にも届かない場所に匿っておかないと──そんなことを言い始めた。怒りだ。
怒りを表に出す子ではなかったため、その変化に驚き、心配は増えゆくばかりだった。
自ら婚約破棄をしたと聞いてからは心配なんて言葉では表現できないほどの感情に親も呑み込まれ始めた。いつか、最悪の結末を迎えるのではないかと心の片隅に覚悟を置いていたほど、息子は変わり、そして、親の予想どおりの結末を迎えた。それは悲しみと怒りと、そして、大きな安堵をもたらした。
〈あなたにトラウマを植え付けたことだけが申し訳なくて……本当にごめんなさい。許してもらえることじゃないとわかってる。でも、私たちには謝ることしかできないの。ごめんなさい〉
〈謝らないで。リンウッドは死ぬ直前、とても穏やかな顔をしていたの。笑ってた。私がよく知るリンウッドの笑顔だった。私はあの笑顔をずっと覚えておくわ。誰よりも私に優しくしてくれた彼をずっとずっと覚えてるから。絶対に忘れない。彼が私を深く愛してくれていたことも全部、覚えてるから〉
ありがとうと頭を告げる彼女にイベリスは何度も頷いた。
「あなたがイベリスの夫ね。どうか、イベリスをよろしくね」
「はい」
彼女の記憶はイベリスは皇妃になったのではなくテロスに嫁いでいることになっている。何故、人によって違うのかはわからないが、今の状況がとても悲しいとイベリスは思った。
イベリスが他の男に嫁いだから息子はおかしくなり、自ら死を選んだ。人物が変わっただけで物語は変わっていない。それでも、悲しみが苦しみとなって胸を襲う。
〈お元気で〉
〈あなたも〉
涙を流すリンウッドの母親と抱き合い、父親に手を振り、遠くの地へと移る二人を見送った。墓参りに行く許可をもらい、ウォルフと共に霊園へと向かう。
よく手入れされた美しい霊園。入り口で花を買い、教えてもらった墓の場所へ向かうと【リンウッド・ヘイグ】と書いた墓があった。両親の名もまだ刻まれていない真新しい墓の前にイベリスが花を置く。しゃがんで、墓に触れる。
「リンウッド、おはよう。あなたがいなくなってからここに来るまでに随分と時間が経っちゃった。ごめんなさい。あなたのことだからきっとずっとずっと待ってたよね。覚えてる? 待ち合わせしようって言って、私が日にちを一日間違えて覚えてて、あなたを三時間も待たせた日のこと。朝からすごい雨で、真っ暗な空が何度も光ってた。私は外を見ながら明日は晴れるといいな、なんてのんきに思ってたの。帰ってきたお父様があなたと一緒だったのを見て失神しそうになったのよ。動いたらすれ違いになるんじゃないかと思うと動けなかったってあなたは雨の中、ガタガタ震えながら三時間ずっと待ってくれてた。お父様が乗りなさいと言ってもここで私を待つって言って乗ろうとしなかったのよね。あなたは昔からそう。私のことになると誰の言うことも聞かなくなって……すぐ自分を犠牲に、する……」
穏やかだった声が震え、視界が滲む。リンウッドとは良い思い出があり過ぎて、一晩では語り尽くせないほど素晴らしい人間だった。
「自分のために生きてよかったのよ。そこに私を入れてくれるだけでよかったの。私のために生きるんじゃなくて、あなたの人生を生きてくれてよかったのに……」
できないとわかっている。彼はいつも言っていた。
『僕の人生はイベリスのものだ。君に恋をしたあの日から僕は君のために生きるって決めたんだ。だから僕は君の傍にいる。後ろでもいい。何があっても君の味方だから、君はなんの心配もしなくていいんだよ。笑ってて。僕は君の笑顔を見れたらその日一日を幸せでいられるみたい。君の笑顔は僕を幸せにしてくれる。だから僕は僕の全てを使って君を幸せにする』
耳が聞こえないハンデはあまりにも大きくて、令嬢たちから差別を受けた。誘われない、話してもらえない、手話を真似して大笑い。悲しくて痛くてたまらなかった子供時代を乗り越えられたのはリンウッドがいてくれたから。
リンウッドも強い男ではなかった。ウォルフのように屈強な男ではないし、むしろいじめられっ子に見えるタイプ。気が強いほうではなく、頭の中で言い返すだけで実際は飲み込んでしまうタイプだったのだが、イベリスのこととなると相手が令嬢だろうと店主だろうと関係なく立ち向かっていった。いつも彼が前に立って守ってくれるヒーローだった。
でも、そんな彼を怖いと思うことがあった。あまりにも『君のためなら』と言うから、いつか、何かがキッカケで死を選んでしまうのではないかと危惧することがあったから。
『君のためなら命だって惜しくない』
『君のためなら死ねる』
『君が死ねと言えば僕は喜んで死ぬよ』
困るからやめてと言うとそれ以降言うことはなかったが、あれは冗談ではなく本心だった。命さえも預ける相手の信頼を勝ち取る努力をしたわけじゃないのに何故彼はここまで自分を愛してくれるのだろう。疑問はあった。でも聞けなかった。怖かったから。
「もっと早く、耳が聞こえるようになってたら、あなたの最後の言葉もわかったのに。ごめんね」
墓に刻まれた名前を指でなぞりながら涙を流す。愛おしい名前。両親の次に手話を覚えてくれた人。おかしくなるほどの愛情を持っていた人。少し弱くて、すごく脆くて、誰よりも優しかった人。
もう会えないことが寂しくてならない。彼の声を聞いてみたかった。会いたい。
「リンウッド、あなたに会いたい……」
静かに溢れた言葉が風に乗って流れていく。よく晴れた空の下、悲しみの涙を流すイベリスの背をウォルフがそっと撫でた。どう声をかけていいかわからない。死ねば終わり。もう二度と会うことも手紙を書くこともできないのに、それがわかっていながらも絶望を前に彼は理性を失った。いや、自らそうするだけの理性はあった。むしろ理性的ですらあったのかもしれない。
誰よりも愛していた女性を自ら悲しませてどうするという怒りと苦しみから解放されるためには死を選ぶのが一番早いことを理解しているだけに責めることもできなかった。
背中を震わせて泣くイベリスの後ろでウォルフは目を閉じ、静かに祈っていた。
使わないからといって掃除を怠ることはなく、毎日掃除が入っているためピカピカ。ベッドは長さが足りないからと床で寝ることにしたウォルフはマシロの隣に毛布を敷く。
「床に寝て大丈夫?」
「獣人は床で寝ることをなんとも思いませんし、慣れたもんですよ」
「身体が痛かったらいつでもこっちに来ていいからね」
「ありがとうございます」
イベリスの髪は母親が丁寧に乾かしたためウォルフの仕事はなくなった。マッサージでもしようかと言ったのだが、大丈夫だと断られた。
「サプライズが誕生日パーティーなんてビックリしちゃった」
「まさにサプライズですね」
「でも嬉しい。十七歳の誕生日は魔女さんの家で過ごしたから」
「だいぶ過ぎてしまったけど、あなたの誕生日を祝えて嬉しいです」
「私も嬉しい」
十七回目の誕生日だからとウェディングケーキさながらの物が運ばれてくるのを見たときは言葉が出てこなかった。『なんだこれ』『どういうことだ』『何故これなんだ』『これが誕生日ケーキ?』と頭に浮かぶ言葉は全て困惑。これは家のシェフではなく有名なパティシエに頼んだと言い、父親は『本当に注文していたのか』と驚いていた。父親にとってもサプライズとなったケーキに母親だけが満足げだった。
耳が聞こえなくても嬉しいことはたくさんあった。テロスでしてもらったサプライズ。あれに勝るものは二度とないのではないかと思うほど素晴らしいものだった。皆がいた。両親もいて、サーシャにウォルフ、アイゼン、ファーディナンド、使用人の皆。皆が笑顔で、幸せそうで、イベリス自身も楽しかった。
今日の誕生日パーティーだって素晴らしいサプライズではあった。両親が考えに考え抜いてくれたお祝い。幸せでないはずがない。歌というものを初めて聴き、イベリスはそれまでケーキのろうそくを吹き消す前のリズムしか知らなかったが、今回は歌も聴けた。ああ、きっとあの場はとても賑やかだったのだろうと少し羨ましくなってしまった。
(もう贅沢病にかかってる)
欲ばかり出てしまうことに苦笑する。
「ケーキ、とっても美味しかった」
「信じられないほど甘かったですけどね。歯が溶けるかと思いました」
ウォルフは実家で出る蜜漬けも好きではなく、今回のチョコレートケーキもワンカット食べて終わった。イベリスは皿に盛られたケーキではなく飾りなどに手を伸ばして怒られながらも満腹になるまで食べ続けた。
「ウォルフとマシロを紹介できて嬉しい」
マシロのことは窓越しに紹介し、二人はマシロに手を振っていた。可愛い犬だと言ってくれた。二人も犬は好きだ。ただ、残念にもアレルギーというだけ。撫でたいと子供のように駄々をこねる母親の姿を見てとても嬉しくなった。
「明日は何をしましょうか?」
「リンウッドの家に行くわ」
ずっと決めていたのだろう。即答したイベリスにウォルフは黙って頷いた。仕方がないこととはいえ、ロベリアの肖像画をイベリスだと嘘をついた自分をリンウッドは認めないだろう。
自分はただついていくだけ。そう決めて、その日は眠りについた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の見送りを受けて二人でリンウッドの家に向かう。とても優しい人たちだと彼の両親について話していると彼の家の前に業者らしき人たちが入っているのが見えた。家財道具などを運び出している光景にイベリスが慌てて駆け出した。
〈おばさま!〉
「イベリス、あなた……テロスに行ったんじゃ……」
ひどく驚いた顔をするリンウッドの母親に何をしているのか問いかけた。
〈引っ越すの?〉
貴族はあちこちに別荘を持ってはいるが、あまり引っ越しはしない。そこに自分の理想の住まいを建てるからだ。それなのに彼女は確かに引っ越しと手話をした。
〈ええ。もっと静かな場所に引っ越そうと思って〉
〈いいの? リンウッドのお墓はここにあるんでしょう?〉
〈あの子は土の下で眠っているだけで、魂までそこにあるわけじゃない。だからいいのよ。彼の魂はいつも私たちと共にあるから〉
〈ごめんなさい。私がもっとちゃんとリンウッドに手紙を書いていたら……〉
〈イベリス、どうか気に病まないで。これは誰が悪いとかじゃない。誰かがもっとこうしてたら、なんてないの。あの子が自分で選んだ末路だから。あの子は自分であなたと別れることを選び、後悔し、精神を病み、あなたを追いかけ……死んでしまった。それだけのことよ〉
息子の死を“それだけのこと”と言う母親ではなかった。変わっていく息子に精神的に疲弊している部分もあったのだろう。どこか客観的に、どこか他人事として一線を引いた状態でいようと思っているのかもしれない。きっともう、流す涙もないほど泣きすぎただろうから。
実際、彼女の顔には疲れが見える。笑っていても誤魔化せないほどの疲れが。
〈……ごめんなさい、おばさま〉
〈謝らないで、イベリス。あの子はようやく楽になったの。息子を失った悲しみは大きいけれど、安心もしているの。だって彼はもう、苦しむことがないんだから〉
母親には見えていた未来だった。死んだ息子が立派な棺に入れられてテロスから帰ってきたとき、悲しみよりも怒りが込み上げた。バカ息子と何度も棺を叩いて泣いた。だが、怒りが終わると心は穏やかなもので、「もう苦しまなくていいんだね」と声をかけた。
一目惚れしてからずっとイベリスに夢中だった。イベリスのために生きていると言っても過言ではないほどに全ての行動理由にイベリスがあった。いつか結婚できたらいいと自分たちも思っていたし、婚約したと聞いたときは大喜びした。
しかし、婚約してから全てが変わり始めた。イベリスを汚したくない。嫌われたくない。自分じゃ相応しくない。もっと相応しい男にならなくては──焦りと恐怖が混ざり始めた。その次にイベリスの周りには自分だけでいい。周りの人間が邪魔だ。イベリスを誰の目にも届かない場所に匿っておかないと──そんなことを言い始めた。怒りだ。
怒りを表に出す子ではなかったため、その変化に驚き、心配は増えゆくばかりだった。
自ら婚約破棄をしたと聞いてからは心配なんて言葉では表現できないほどの感情に親も呑み込まれ始めた。いつか、最悪の結末を迎えるのではないかと心の片隅に覚悟を置いていたほど、息子は変わり、そして、親の予想どおりの結末を迎えた。それは悲しみと怒りと、そして、大きな安堵をもたらした。
〈あなたにトラウマを植え付けたことだけが申し訳なくて……本当にごめんなさい。許してもらえることじゃないとわかってる。でも、私たちには謝ることしかできないの。ごめんなさい〉
〈謝らないで。リンウッドは死ぬ直前、とても穏やかな顔をしていたの。笑ってた。私がよく知るリンウッドの笑顔だった。私はあの笑顔をずっと覚えておくわ。誰よりも私に優しくしてくれた彼をずっとずっと覚えてるから。絶対に忘れない。彼が私を深く愛してくれていたことも全部、覚えてるから〉
ありがとうと頭を告げる彼女にイベリスは何度も頷いた。
「あなたがイベリスの夫ね。どうか、イベリスをよろしくね」
「はい」
彼女の記憶はイベリスは皇妃になったのではなくテロスに嫁いでいることになっている。何故、人によって違うのかはわからないが、今の状況がとても悲しいとイベリスは思った。
イベリスが他の男に嫁いだから息子はおかしくなり、自ら死を選んだ。人物が変わっただけで物語は変わっていない。それでも、悲しみが苦しみとなって胸を襲う。
〈お元気で〉
〈あなたも〉
涙を流すリンウッドの母親と抱き合い、父親に手を振り、遠くの地へと移る二人を見送った。墓参りに行く許可をもらい、ウォルフと共に霊園へと向かう。
よく手入れされた美しい霊園。入り口で花を買い、教えてもらった墓の場所へ向かうと【リンウッド・ヘイグ】と書いた墓があった。両親の名もまだ刻まれていない真新しい墓の前にイベリスが花を置く。しゃがんで、墓に触れる。
「リンウッド、おはよう。あなたがいなくなってからここに来るまでに随分と時間が経っちゃった。ごめんなさい。あなたのことだからきっとずっとずっと待ってたよね。覚えてる? 待ち合わせしようって言って、私が日にちを一日間違えて覚えてて、あなたを三時間も待たせた日のこと。朝からすごい雨で、真っ暗な空が何度も光ってた。私は外を見ながら明日は晴れるといいな、なんてのんきに思ってたの。帰ってきたお父様があなたと一緒だったのを見て失神しそうになったのよ。動いたらすれ違いになるんじゃないかと思うと動けなかったってあなたは雨の中、ガタガタ震えながら三時間ずっと待ってくれてた。お父様が乗りなさいと言ってもここで私を待つって言って乗ろうとしなかったのよね。あなたは昔からそう。私のことになると誰の言うことも聞かなくなって……すぐ自分を犠牲に、する……」
穏やかだった声が震え、視界が滲む。リンウッドとは良い思い出があり過ぎて、一晩では語り尽くせないほど素晴らしい人間だった。
「自分のために生きてよかったのよ。そこに私を入れてくれるだけでよかったの。私のために生きるんじゃなくて、あなたの人生を生きてくれてよかったのに……」
できないとわかっている。彼はいつも言っていた。
『僕の人生はイベリスのものだ。君に恋をしたあの日から僕は君のために生きるって決めたんだ。だから僕は君の傍にいる。後ろでもいい。何があっても君の味方だから、君はなんの心配もしなくていいんだよ。笑ってて。僕は君の笑顔を見れたらその日一日を幸せでいられるみたい。君の笑顔は僕を幸せにしてくれる。だから僕は僕の全てを使って君を幸せにする』
耳が聞こえないハンデはあまりにも大きくて、令嬢たちから差別を受けた。誘われない、話してもらえない、手話を真似して大笑い。悲しくて痛くてたまらなかった子供時代を乗り越えられたのはリンウッドがいてくれたから。
リンウッドも強い男ではなかった。ウォルフのように屈強な男ではないし、むしろいじめられっ子に見えるタイプ。気が強いほうではなく、頭の中で言い返すだけで実際は飲み込んでしまうタイプだったのだが、イベリスのこととなると相手が令嬢だろうと店主だろうと関係なく立ち向かっていった。いつも彼が前に立って守ってくれるヒーローだった。
でも、そんな彼を怖いと思うことがあった。あまりにも『君のためなら』と言うから、いつか、何かがキッカケで死を選んでしまうのではないかと危惧することがあったから。
『君のためなら命だって惜しくない』
『君のためなら死ねる』
『君が死ねと言えば僕は喜んで死ぬよ』
困るからやめてと言うとそれ以降言うことはなかったが、あれは冗談ではなく本心だった。命さえも預ける相手の信頼を勝ち取る努力をしたわけじゃないのに何故彼はここまで自分を愛してくれるのだろう。疑問はあった。でも聞けなかった。怖かったから。
「もっと早く、耳が聞こえるようになってたら、あなたの最後の言葉もわかったのに。ごめんね」
墓に刻まれた名前を指でなぞりながら涙を流す。愛おしい名前。両親の次に手話を覚えてくれた人。おかしくなるほどの愛情を持っていた人。少し弱くて、すごく脆くて、誰よりも優しかった人。
もう会えないことが寂しくてならない。彼の声を聞いてみたかった。会いたい。
「リンウッド、あなたに会いたい……」
静かに溢れた言葉が風に乗って流れていく。よく晴れた空の下、悲しみの涙を流すイベリスの背をウォルフがそっと撫でた。どう声をかけていいかわからない。死ねば終わり。もう二度と会うことも手紙を書くこともできないのに、それがわかっていながらも絶望を前に彼は理性を失った。いや、自らそうするだけの理性はあった。むしろ理性的ですらあったのかもしれない。
誰よりも愛していた女性を自ら悲しませてどうするという怒りと苦しみから解放されるためには死を選ぶのが一番早いことを理解しているだけに責めることもできなかった。
背中を震わせて泣くイベリスの後ろでウォルフは目を閉じ、静かに祈っていた。
292
お気に入りに追加
871
あなたにおすすめの小説
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!
古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。
そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は?
*カクヨム様で先行掲載しております
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
お二人共、どうぞお幸せに……もう二度と勘違いはしませんから
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【もう私は必要ありませんよね?】
私には2人の幼なじみがいる。一人は美しくて親切な伯爵令嬢。もう一人は笑顔が素敵で穏やかな伯爵令息。
その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。
ある日のこと。病弱だった父が亡くなり、家を手放さなければならない
自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。
そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが――
※ 他サイトでも投稿中
途中まで鬱展開続きます(注意)

いくら政略結婚だからって、そこまで嫌わなくてもいいんじゃないですか?いい加減、腹が立ってきたんですけど!
夢呼
恋愛
伯爵令嬢のローゼは大好きな婚約者アーサー・レイモンド侯爵令息との結婚式を今か今かと待ち望んでいた。
しかし、結婚式の僅か10日前、その大好きなアーサーから「私から愛されたいという思いがあったら捨ててくれ。それに応えることは出来ない」と告げられる。
ローゼはその言葉にショックを受け、熱を出し寝込んでしまう。数日間うなされ続け、やっと目を覚ました。前世の記憶と共に・・・。
愛されることは無いと分かっていても、覆すことが出来ないのが貴族間の政略結婚。日本で生きたアラサー女子の「私」が八割心を占めているローゼが、この政略結婚に臨むことになる。
いくら政略結婚といえども、親に孫を見せてあげて親孝行をしたいという願いを持つローゼは、何とかアーサーに振り向いてもらおうと頑張るが、鉄壁のアーサーには敵わず。それどころか益々嫌われる始末。
一体私の何が気に入らないんだか。そこまで嫌わなくてもいいんじゃないんですかね!いい加減腹立つわっ!
世界観はゆるいです!
カクヨム様にも投稿しております。
※10万文字を超えたので長編に変更しました。
寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。
にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。
父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。
恋に浮かれて、剣を捨た。
コールと結婚をして初夜を迎えた。
リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。
ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。
結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。
混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。
もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと……
お読みいただき、ありがとうございます。
エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。
それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる