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イベリス復活編

リングデール家3

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 食事を終えたイベリスとウォルフは離れで寛いでいた。夜はいつもマシロも一緒に寝ていたため庭で一人では寝かせられないと言って、もう使われなくなった離れならマシロも入っていいとアーマンが許可した。
 使わないからといって掃除を怠ることはなく、毎日掃除が入っているためピカピカ。ベッドは長さが足りないからと床で寝ることにしたウォルフはマシロの隣に毛布を敷く。

「床に寝て大丈夫?」
「獣人は床で寝ることをなんとも思いませんし、慣れたもんですよ」
「身体が痛かったらいつでもこっちに来ていいからね」
「ありがとうございます」

 イベリスの髪は母親が丁寧に乾かしたためウォルフの仕事はなくなった。マッサージでもしようかと言ったのだが、大丈夫だと断られた。

「サプライズが誕生日パーティーなんてビックリしちゃった」
「まさにサプライズですね」
「でも嬉しい。十七歳の誕生日は魔女さんの家で過ごしたから」
「だいぶ過ぎてしまったけど、あなたの誕生日を祝えて嬉しいです」
「私も嬉しい」

 十七回目の誕生日だからとウェディングケーキさながらの物が運ばれてくるのを見たときは言葉が出てこなかった。『なんだこれ』『どういうことだ』『何故これなんだ』『これが誕生日ケーキ?』と頭に浮かぶ言葉は全て困惑。これは家のシェフではなく有名なパティシエに頼んだと言い、父親は『本当に注文していたのか』と驚いていた。父親にとってもサプライズとなったケーキに母親だけが満足げだった。
 耳が聞こえなくても嬉しいことはたくさんあった。テロスでしてもらったサプライズ。あれに勝るものは二度とないのではないかと思うほど素晴らしいものだった。皆がいた。両親もいて、サーシャにウォルフ、アイゼン、ファーディナンド、使用人の皆。皆が笑顔で、幸せそうで、イベリス自身も楽しかった。
 今日の誕生日パーティーだって素晴らしいサプライズではあった。両親が考えに考え抜いてくれたお祝い。幸せでないはずがない。歌というものを初めて聴き、イベリスはそれまでケーキのろうそくを吹き消す前のリズムしか知らなかったが、今回は歌も聴けた。ああ、きっとあの場はとても賑やかだったのだろうと少し羨ましくなってしまった。

(もう贅沢病にかかってる)

 欲ばかり出てしまうことに苦笑する。

「ケーキ、とっても美味しかった」
「信じられないほど甘かったですけどね。歯が溶けるかと思いました」

 ウォルフは実家で出る蜜漬けも好きではなく、今回のチョコレートケーキもワンカット食べて終わった。イベリスは皿に盛られたケーキではなく飾りなどに手を伸ばして怒られながらも満腹になるまで食べ続けた。

「ウォルフとマシロを紹介できて嬉しい」

 マシロのことは窓越しに紹介し、二人はマシロに手を振っていた。可愛い犬だと言ってくれた。二人も犬は好きだ。ただ、残念にもアレルギーというだけ。撫でたいと子供のように駄々をこねる母親の姿を見てとても嬉しくなった。

「明日は何をしましょうか?」
「リンウッドの家に行くわ」

 ずっと決めていたのだろう。即答したイベリスにウォルフは黙って頷いた。仕方がないこととはいえ、ロベリアの肖像画をイベリスだと嘘をついた自分をリンウッドは認めないだろう。
 自分はただついていくだけ。そう決めて、その日は眠りについた。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 母親の見送りを受けて二人でリンウッドの家に向かう。とても優しい人たちだと彼の両親について話していると彼の家の前に業者らしき人たちが入っているのが見えた。家財道具などを運び出している光景にイベリスが慌てて駆け出した。

〈おばさま!〉
「イベリス、あなた……テロスに行ったんじゃ……」

 ひどく驚いた顔をするリンウッドの母親に何をしているのか問いかけた。

〈引っ越すの?〉

 貴族はあちこちに別荘を持ってはいるが、あまり引っ越しはしない。そこに自分の理想の住まいを建てるからだ。それなのに彼女は確かに引っ越しと手話をした。

〈ええ。もっと静かな場所に引っ越そうと思って〉
〈いいの? リンウッドのお墓はここにあるんでしょう?〉
〈あの子は土の下で眠っているだけで、魂までそこにあるわけじゃない。だからいいのよ。彼の魂はいつも私たちと共にあるから〉
〈ごめんなさい。私がもっとちゃんとリンウッドに手紙を書いていたら……〉
〈イベリス、どうか気に病まないで。これは誰が悪いとかじゃない。誰かがもっとこうしてたら、なんてないの。あの子が自分で選んだ末路だから。あの子は自分であなたと別れることを選び、後悔し、精神を病み、あなたを追いかけ……死んでしまった。それだけのことよ〉

 息子の死を“それだけのこと”と言う母親ではなかった。変わっていく息子に精神的に疲弊している部分もあったのだろう。どこか客観的に、どこか他人事として一線を引いた状態でいようと思っているのかもしれない。きっともう、流す涙もないほど泣きすぎただろうから。
 実際、彼女の顔には疲れが見える。笑っていても誤魔化せないほどの疲れが。

〈……ごめんなさい、おばさま〉
〈謝らないで、イベリス。あの子はようやく楽になったの。息子を失った悲しみは大きいけれど、安心もしているの。だって彼はもう、苦しむことがないんだから〉

 母親には見えていた未来だった。死んだ息子が立派な棺に入れられてテロスから帰ってきたとき、悲しみよりも怒りが込み上げた。バカ息子と何度も棺を叩いて泣いた。だが、怒りが終わると心は穏やかなもので、「もう苦しまなくていいんだね」と声をかけた。
 一目惚れしてからずっとイベリスに夢中だった。イベリスのために生きていると言っても過言ではないほどに全ての行動理由にイベリスがあった。いつか結婚できたらいいと自分たちも思っていたし、婚約したと聞いたときは大喜びした。
 しかし、婚約してから全てが変わり始めた。イベリスを汚したくない。嫌われたくない。自分じゃ相応しくない。もっと相応しい男にならなくては──焦りと恐怖が混ざり始めた。その次にイベリスの周りには自分だけでいい。周りの人間が邪魔だ。イベリスを誰の目にも届かない場所に匿っておかないと──そんなことを言い始めた。怒りだ。
 怒りを表に出す子ではなかったため、その変化に驚き、心配は増えゆくばかりだった。
 自ら婚約破棄をしたと聞いてからは心配なんて言葉では表現できないほどの感情に親も呑み込まれ始めた。いつか、最悪の結末を迎えるのではないかと心の片隅に覚悟を置いていたほど、息子は変わり、そして、親の予想どおりの結末を迎えた。それは悲しみと怒りと、そして、大きな安堵をもたらした。

〈あなたにトラウマを植え付けたことだけが申し訳なくて……本当にごめんなさい。許してもらえることじゃないとわかってる。でも、私たちには謝ることしかできないの。ごめんなさい〉
〈謝らないで。リンウッドは死ぬ直前、とても穏やかな顔をしていたの。笑ってた。私がよく知るリンウッドの笑顔だった。私はあの笑顔をずっと覚えておくわ。誰よりも私に優しくしてくれた彼をずっとずっと覚えてるから。絶対に忘れない。彼が私を深く愛してくれていたことも全部、覚えてるから〉

 ありがとうと頭を告げる彼女にイベリスは何度も頷いた。

「あなたがイベリスの夫ね。どうか、イベリスをよろしくね」
「はい」

 彼女の記憶はイベリスは皇妃になったのではなくテロスに嫁いでいることになっている。何故、人によって違うのかはわからないが、今の状況がとても悲しいとイベリスは思った。
 イベリスが他の男に嫁いだから息子はおかしくなり、自ら死を選んだ。人物が変わっただけで物語は変わっていない。それでも、悲しみが苦しみとなって胸を襲う。

〈お元気で〉
〈あなたも〉

 涙を流すリンウッドの母親と抱き合い、父親に手を振り、遠くの地へと移る二人を見送った。墓参りに行く許可をもらい、ウォルフと共に霊園へと向かう。
 よく手入れされた美しい霊園。入り口で花を買い、教えてもらった墓の場所へ向かうと【リンウッド・ヘイグ】と書いた墓があった。両親の名もまだ刻まれていない真新しい墓の前にイベリスが花を置く。しゃがんで、墓に触れる。

「リンウッド、おはよう。あなたがいなくなってからここに来るまでに随分と時間が経っちゃった。ごめんなさい。あなたのことだからきっとずっとずっと待ってたよね。覚えてる? 待ち合わせしようって言って、私が日にちを一日間違えて覚えてて、あなたを三時間も待たせた日のこと。朝からすごい雨で、真っ暗な空が何度も光ってた。私は外を見ながら明日は晴れるといいな、なんてのんきに思ってたの。帰ってきたお父様があなたと一緒だったのを見て失神しそうになったのよ。動いたらすれ違いになるんじゃないかと思うと動けなかったってあなたは雨の中、ガタガタ震えながら三時間ずっと待ってくれてた。お父様が乗りなさいと言ってもここで私を待つって言って乗ろうとしなかったのよね。あなたは昔からそう。私のことになると誰の言うことも聞かなくなって……すぐ自分を犠牲に、する……」

 穏やかだった声が震え、視界が滲む。リンウッドとは良い思い出があり過ぎて、一晩では語り尽くせないほど素晴らしい人間だった。

「自分のために生きてよかったのよ。そこに私を入れてくれるだけでよかったの。私のために生きるんじゃなくて、あなたの人生を生きてくれてよかったのに……」

 できないとわかっている。彼はいつも言っていた。

『僕の人生はイベリスのものだ。君に恋をしたあの日から僕は君のために生きるって決めたんだ。だから僕は君の傍にいる。後ろでもいい。何があっても君の味方だから、君はなんの心配もしなくていいんだよ。笑ってて。僕は君の笑顔を見れたらその日一日を幸せでいられるみたい。君の笑顔は僕を幸せにしてくれる。だから僕は僕の全てを使って君を幸せにする』

 耳が聞こえないハンデはあまりにも大きくて、令嬢たちから差別を受けた。誘われない、話してもらえない、手話を真似して大笑い。悲しくて痛くてたまらなかった子供時代を乗り越えられたのはリンウッドがいてくれたから。
 リンウッドも強い男ではなかった。ウォルフのように屈強な男ではないし、むしろいじめられっ子に見えるタイプ。気が強いほうではなく、頭の中で言い返すだけで実際は飲み込んでしまうタイプだったのだが、イベリスのこととなると相手が令嬢だろうと店主だろうと関係なく立ち向かっていった。いつも彼が前に立って守ってくれるヒーローだった。
 でも、そんな彼を怖いと思うことがあった。あまりにも『君のためなら』と言うから、いつか、何かがキッカケで死を選んでしまうのではないかと危惧することがあったから。

『君のためなら命だって惜しくない』
『君のためなら死ねる』
『君が死ねと言えば僕は喜んで死ぬよ』

 困るからやめてと言うとそれ以降言うことはなかったが、あれは冗談ではなく本心だった。命さえも預ける相手の信頼を勝ち取る努力をしたわけじゃないのに何故彼はここまで自分を愛してくれるのだろう。疑問はあった。でも聞けなかった。怖かったから。

「もっと早く、耳が聞こえるようになってたら、あなたの最後の言葉もわかったのに。ごめんね」

 墓に刻まれた名前を指でなぞりながら涙を流す。愛おしい名前。両親の次に手話を覚えてくれた人。おかしくなるほどの愛情を持っていた人。少し弱くて、すごく脆くて、誰よりも優しかった人。
 もう会えないことが寂しくてならない。彼の声を聞いてみたかった。会いたい。

「リンウッド、あなたに会いたい……」

 静かに溢れた言葉が風に乗って流れていく。よく晴れた空の下、悲しみの涙を流すイベリスの背をウォルフがそっと撫でた。どう声をかけていいかわからない。死ねば終わり。もう二度と会うことも手紙を書くこともできないのに、それがわかっていながらも絶望を前に彼は理性を失った。いや、自らそうするだけの理性はあった。むしろ理性的ですらあったのかもしれない。
 誰よりも愛していた女性を自ら悲しませてどうするという怒りと苦しみから解放されるためには死を選ぶのが一番早いことを理解しているだけに責めることもできなかった。
 背中を震わせて泣くイベリスの後ろでウォルフは目を閉じ、静かに祈っていた。
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