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イベリス復活編
恋人としてはじめての
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「挨拶だけのつもりが、食事もお風呂もお世話になってしまってすみません」
「何言ってんだい! そのまま帰すつもりなんてなかったよ」
大きなテーブルの上に並ぶ山盛りの料理があっという間になくなっていくのを見て唖然とし、大浴場かと思うほど巨大なお風呂に入って、風呂上がりのデザートまで食べた。
完全に宿泊する流れとなってしまったことに申し訳ないと謝るイベリスに母親が笑う。
「だからって食わせすぎ」
「ガツガツ食べるお前たちと違って美味しいって味わってくれる子は貴重なんだよ。可愛いお嫁ちゃんだしね」
「あー! 頬擦りしすぎ! 俺だってまだそこまでしてないのに!」
家族がザワつく中、祖父だけが「ほれみろ、根性なしじゃろうが」と言うも「黙りな、クソジジイ」と飛んできたことで口を閉じる。
「仕方ないだろ! 結ばれたばっかりなんだから!」
「時間があったらもう手を出してるみたいな言い方は本人の前ですべきじゃないんじゃない?」
「あ……ち、違うんです! そういうことじゃなくて! 大事にします! 絶対に大事にしますから! 待ては得意だし、いつまででも待てますから気負わないでくださいね!?」
「ふふっ、ありがとう。大丈夫よ」
それはどっちの意味なのだろう。言い訳しないで大丈夫、なのか、いつでも大丈夫、なのか。できれば後者であってほしいと願っているとニヤつく家族の顔が視界に入った。
「も、もう寝るから! おやすみ!」
「あ、わ、わ。お、おやすみなさい」
背中を押されながら挨拶をしてウォルフの自室へと向かう最中、母親の愉快そうな声が飛んできた。
「おやすみ。狼には気をつけなよー」
「うるさい!!」
ドア越しでも聞こえる笑い声に大きな溜息をつきながら床に腰掛け、イベリスにはクッションを用意した。
「これ。このクッションの中に俺の抜け毛が詰め込まれてるんです」
「前に言ってたやつ?」
「はい」
「ふわっふわ!」
「そうでしょうそうでしょう。イベリス様への愛がたくさん詰まってるんです」
「毛じゃなくて?」
「毛ですけどぉ、イベリス様がふわふわだって喜んでくれた毛がたくさん詰まってるので、ここに詰まってるのは俺の毛というよりは愛かなって」
イベリスが知るクッションよりもだいぶ柔らかく、ふわふわ。クッションというより飾り枕にしたほうがいいのではないかと思うほど押した感覚は柔らかい。以前、グラキエスに来たときに触ってほしいと言っていたが時間がなく、できなかったが今日は違う。今日はここにイベリスを連れ入っても問題ない。そういう関係になったのだとニヤつきに口元が緩む。
「あ、座ってください」
「いいの? 潰れない?」
「もちろんですよ! 狼の毛はしっかりしてますからイベリス様が座っても潰れることはありません」
その上に腰掛けるイベリスが着ているパジャマはウォルフの子供時代の物。それさえも少し大きい。自分のシャツを着させようとしたのだが、襟回りが大きすぎて肩からずり落ちるばかりだったため諦めた。
イベリスが自分の家で自分の子供時代のパジャマを着ている光景を見られる日が来るなんて思っていなかったウォルフは目に焼き付けるように見ている。
ふわふわだと感動したように何度か小さく尻で跳ねる姿に余計な想像をしては慌ててかぶりを振ってそれを振り払う。
「ウォルフ」
「は、はい!」
「ありがとう」
唐突な感謝にキョトンとするもすぐに笑顔になる。
「イベリス様はごめんなさいとありがとうが口癖ですね」
「誰でもそうだと思うけど」
「言えない人間はたくさんいますよ。従者がして当たり前の貴族は特に。でもイベリス様はいつもごめんなさいとありがとうを口にする。ごめんなさいのほうが多かったかなー」
「そんなに多かったかな?」
「たぶんですけど」
なにそれ、と笑うイベリスの横に腰掛けて天井を見上げる。
「イベリス様が俺の部屋にいるなんて変な感じです」
「どんな感じ?」
「そりゃもう感無量で。でも信じられなくて……だけど嬉しい、かな」
イベリスも同じ気持ちだった。ファーディナンドと結婚したのにウォルフと一緒にいる時間のほうがずっと長くて、それはこれからも変わらない。変わったのは互いの関係性。
彼の家族に歓迎されて、彼の匂いがする部屋にいて、二人きりで過ごしているこの時間がとても不思議で、そしてとても嬉しかった。
「大きなベッドね」
「寝転んでください」
立ち上がってクッション片手にベッドに乗るとこれまた柔らかい。
「大きいし柔らかい」
「うちのベッドは全員このサイズですよ」
「ふふっ、なんだか巨人の世界に入り込んだみたい」
城のベッドも大きかったが、ウォルフのはそれ以上。二メートルを超える獣人が寝ても余裕があるベッドはイベリスにとって床も同然。三回寝返りを打ってもまだベッドがある。
「マシロはこっちな」
余っている毛布を床に敷いてやってそこを叩くと上に乗って丸くなる。賢い犬だと頭を撫でてベッドに上がった。
「イベリス様はこっちがいいんですよね?」
「ええ」
「本当はドア側は良くないんですよ。犯人が入って来たときに一番に犠牲になるから」
「でも窓側だって犯人が入る場所よ」
イベリスは城でもドア側を選んでいた。窓側は圧迫感があって好きじゃないと言い、ここでもドア側に寝転んでいる。下を覗き込んでマシロを撫で、誰だと頭を上げるマシロにおやすみを告げた。
「獣人族の家に泥棒に入ろうってバカはいないですけどね」
「引っ掻かれちゃうから?」
「噛みつきもしますから」
それだけで済むはずはなく、悲惨とも呼べる状態で外に放り出される。朝になれば泥棒に入った家の前で地面から顔だけ出し、目の前には【私はこの家に泥棒に入って住民の安全を脅かしました】と書かれた看板が立てられる。それを目撃した住民はその場で雪玉を作り、犯人の顔目掛けて投げつけるのだ。それがグラキエス。
でも獣人の家に入る者はいない。入ったとしても母親が騎士である父親よりも先に飛び出してボコボコにしてしまうだろうから。ハーゲンベルクの妻は強すぎると有名だった。
「お腹いっぱいで幸せ」
「明日そう言ってやってください。すごく喜びますから」
「私ね、あのパイのシロップ漬けが大好きなの」
「俺は歯が溶けそうであんまり好きじゃないです」
「ウォルフはとってもキレイな歯をしてるものね」
「へへっ、自慢です」
カチカチと鳴らして歯を見せるウォルフの頬に触れるイベリスの手に自ら擦り寄る。久しぶりに二人きりの空間。誰も邪魔は入らない。自分たちは恋人で、結婚も近いはず。
「イベリス様、恋人同士ってどれぐらいでキスするもんですか?」
あまりにも率直な聞き方に目を瞬かせるもウォルフの顔は真剣そのもの。どう答えたものかと迷うイベリスの手をウォルフが握る。その手の熱さにイベリスも緊張してしまう。
「それは……完全に個人差があるものじゃないかしら?」
「じゃあ、付き合ったばかりの恋人たちがキスをしてもおかしくはないってことですよね?」
キスをしたのは初めてではない。以前もグラキエスでキスをした。あれは一方的なものでイベリスの許可を得てはいなかった。拒まれなかったことが救いで、あれを一生の思い出にしようとさえ思っていたが、今はあれが一生の思い出ではなく増やせる立場にある。
丸出しの下心を隠そうともせず、全面に押し出すウォルフの顔には「キスがしたい」と太文字でハッキリと書いてあった。それがおかしくて可愛くて、つい笑ってしまったイベリスが両手を伸ばすのに合わせて彼女の顔横に腕を置く。目を閉じるイベリスの頬は少し赤みがかっていてキレイだと思った。自分の物なのだと込み上げる喜びに呼吸が止まりそうになる。
「キス、しますね」
今よりもっと意識してほしくて宣言した。柔らかな髪に指を絡ませ、ゆっくり唇を重ねるとイベリスの腕が首に回る。恋人同士なのだから当然だが、従者としての時間が長かっただけに受け入れてもらえることの喜びをいちいち味わってしまう。
柔らかな唇を味わうように何度も啄んでいく。甘噛みしたくすらある。狼としての本能が疼き出すのを抑え込みながらも理性ある男としてさっと身を起こすことができない。
小さいが、確実に聞こえるリップ音がイベリスの羞恥を高める。
「ちょ、ちょっと待ってウォルフ!」
何度も啄まれるせいでいつ呼吸をしていいのかがわからなくなり、苦しさに耐えきれず胸を押し離すことでようやく止まった。
「ウォル……」
お預けをくらった子犬ではなく、獲物を前に我慢の限界である獣の目をするウォルフにゾクッと身体を震わせる。恐怖か、それとも興味か。わからない感情に小さく身体を震わせた。
「あ、あのね、皆いるから……」
獣人族は耳も鼻も良い。さすがに彼の実家で致すというのは抵抗があり、ダメだとかぶりを振って明確な意思表示を見せると耳もないのに耳が下がった幻覚が見えた。
「す、すみません。暴走してました」
「二人の家で、ね?」
この瞬間、早く居住地を決めて家を買おうと心に誓った。
「明日はどうする?」
「イベリス様の思うままに行動しましょう。もうどこにだって行けるんです。どこに行って何をしてもいいんですから」
ロベリアと似ている。ロベリアなのではないかと後ろ指さされるようにヒソヒソと話す国民はいない。グラキエスはフローラリア以外と親交を持っていないため他国に詳しい者は少ない。ここにいればイベリスはイベリスとして生きられる。帰らなければと思うことも、もうすぐだと不安になることもない。彼女の言動全てに自由がある。
ウォルフの言葉に嬉しそうに微笑んだイベリスが欠伸を漏らす。
「今日はもう寝ましょうか。明日、雪遊びをしましょう。サーシャじゃできないことですよ」
「すぐそうやってサーシャを引き合いに出すのは良くないのよ?」
「つい癖で」
「その癖は直さなきゃダメ」
「はい」
優しい注意に生返事だけしてイベリスに毛布をかける。ウォルフの毛のような柔らかさに包まれるとあっという間に睡魔に落ちていく。
疲れていないはずがない。城から消えて、魔女の家で暮らして、再会して、涙した。聞こえる喜び、話せる楽しさを知り、それと同時に、リンウッドといた頃から聞こえていたかったと十七年間の人生を振り返っただろう。
自我を持ったときから周りと違うことを実感し、成長するたびに痛いほど思い知らされた聞こえない障害の弊害。孤立の寂しさ。人がいる喜び。失う悲しみ。
十七年間の短い人生で彼女は平凡な人生を生きてきた大人よりもずっと濃い人生を送ってきた。良くも悪くも。
(今この世界で生きてる人間の中で絶望を味わったことがある奴ってどのぐらいいるんだろ……)
一度でも味わいたくないものをイベリスはこの一年で何度も味わってきた。もう二度と傷つかなくていいように自分の全てで守りたい。
(でも、守られ続けるのは好きじゃないんだろうな。過保護って言われそうだし)
既に寝息を立てているイベリスの寝顔を見ながら思いを馳せる。守りたい気持ちはあれど、イベリスは自らの足で歩みたがる。支えるぐらいがちょうどいいのだろう。前や後ろではなく隣を歩いてほしがる彼女のために自分ができる最善の行動をこれから探していく必要がある。
それは決して嫌なことではなく、むしろ幸せなことだ。彼女の隣を歩き、彼女が喜ぶ方法を考えながら生きられるのだから。従者だからではなく、彼女の恋人として騎士として。
「あ……職、どうしよ……」
当たり前のことだが、働けばイベリスを家に一人にする時間が出てくる。このままグラキエスで騎士をするのは簡単だが、イベリスは世界を見たがっている。ここにはない音が世界には存在する。穏やかなところから始めて、耳が、脳が慣れた頃に賑やかなところへ移動するのも良いだろう。しかし、そのためには金が必要。金はない。働くしかない。
「世知辛いな……」
何十年も騎士として働き続けている父親を尊敬する。厳格な父親だが、立派な大黒柱。仕事について文句を言ったことは一度もない。自分もいつか子供にそう思われたい。いや、厳格にはなれないだろうから子供と同じ目線で居続けた父親として尊敬してほしい。
「頑張りますからね」
夢の中へと潜っているイベリスの額に口付けるとそのまま振れるだけのキスをしてカーテンを開けた。
「あ……」
同時にカーテンを開けたお隣さんの姿に二人は同時に声を漏らした。
「何言ってんだい! そのまま帰すつもりなんてなかったよ」
大きなテーブルの上に並ぶ山盛りの料理があっという間になくなっていくのを見て唖然とし、大浴場かと思うほど巨大なお風呂に入って、風呂上がりのデザートまで食べた。
完全に宿泊する流れとなってしまったことに申し訳ないと謝るイベリスに母親が笑う。
「だからって食わせすぎ」
「ガツガツ食べるお前たちと違って美味しいって味わってくれる子は貴重なんだよ。可愛いお嫁ちゃんだしね」
「あー! 頬擦りしすぎ! 俺だってまだそこまでしてないのに!」
家族がザワつく中、祖父だけが「ほれみろ、根性なしじゃろうが」と言うも「黙りな、クソジジイ」と飛んできたことで口を閉じる。
「仕方ないだろ! 結ばれたばっかりなんだから!」
「時間があったらもう手を出してるみたいな言い方は本人の前ですべきじゃないんじゃない?」
「あ……ち、違うんです! そういうことじゃなくて! 大事にします! 絶対に大事にしますから! 待ては得意だし、いつまででも待てますから気負わないでくださいね!?」
「ふふっ、ありがとう。大丈夫よ」
それはどっちの意味なのだろう。言い訳しないで大丈夫、なのか、いつでも大丈夫、なのか。できれば後者であってほしいと願っているとニヤつく家族の顔が視界に入った。
「も、もう寝るから! おやすみ!」
「あ、わ、わ。お、おやすみなさい」
背中を押されながら挨拶をしてウォルフの自室へと向かう最中、母親の愉快そうな声が飛んできた。
「おやすみ。狼には気をつけなよー」
「うるさい!!」
ドア越しでも聞こえる笑い声に大きな溜息をつきながら床に腰掛け、イベリスにはクッションを用意した。
「これ。このクッションの中に俺の抜け毛が詰め込まれてるんです」
「前に言ってたやつ?」
「はい」
「ふわっふわ!」
「そうでしょうそうでしょう。イベリス様への愛がたくさん詰まってるんです」
「毛じゃなくて?」
「毛ですけどぉ、イベリス様がふわふわだって喜んでくれた毛がたくさん詰まってるので、ここに詰まってるのは俺の毛というよりは愛かなって」
イベリスが知るクッションよりもだいぶ柔らかく、ふわふわ。クッションというより飾り枕にしたほうがいいのではないかと思うほど押した感覚は柔らかい。以前、グラキエスに来たときに触ってほしいと言っていたが時間がなく、できなかったが今日は違う。今日はここにイベリスを連れ入っても問題ない。そういう関係になったのだとニヤつきに口元が緩む。
「あ、座ってください」
「いいの? 潰れない?」
「もちろんですよ! 狼の毛はしっかりしてますからイベリス様が座っても潰れることはありません」
その上に腰掛けるイベリスが着ているパジャマはウォルフの子供時代の物。それさえも少し大きい。自分のシャツを着させようとしたのだが、襟回りが大きすぎて肩からずり落ちるばかりだったため諦めた。
イベリスが自分の家で自分の子供時代のパジャマを着ている光景を見られる日が来るなんて思っていなかったウォルフは目に焼き付けるように見ている。
ふわふわだと感動したように何度か小さく尻で跳ねる姿に余計な想像をしては慌ててかぶりを振ってそれを振り払う。
「ウォルフ」
「は、はい!」
「ありがとう」
唐突な感謝にキョトンとするもすぐに笑顔になる。
「イベリス様はごめんなさいとありがとうが口癖ですね」
「誰でもそうだと思うけど」
「言えない人間はたくさんいますよ。従者がして当たり前の貴族は特に。でもイベリス様はいつもごめんなさいとありがとうを口にする。ごめんなさいのほうが多かったかなー」
「そんなに多かったかな?」
「たぶんですけど」
なにそれ、と笑うイベリスの横に腰掛けて天井を見上げる。
「イベリス様が俺の部屋にいるなんて変な感じです」
「どんな感じ?」
「そりゃもう感無量で。でも信じられなくて……だけど嬉しい、かな」
イベリスも同じ気持ちだった。ファーディナンドと結婚したのにウォルフと一緒にいる時間のほうがずっと長くて、それはこれからも変わらない。変わったのは互いの関係性。
彼の家族に歓迎されて、彼の匂いがする部屋にいて、二人きりで過ごしているこの時間がとても不思議で、そしてとても嬉しかった。
「大きなベッドね」
「寝転んでください」
立ち上がってクッション片手にベッドに乗るとこれまた柔らかい。
「大きいし柔らかい」
「うちのベッドは全員このサイズですよ」
「ふふっ、なんだか巨人の世界に入り込んだみたい」
城のベッドも大きかったが、ウォルフのはそれ以上。二メートルを超える獣人が寝ても余裕があるベッドはイベリスにとって床も同然。三回寝返りを打ってもまだベッドがある。
「マシロはこっちな」
余っている毛布を床に敷いてやってそこを叩くと上に乗って丸くなる。賢い犬だと頭を撫でてベッドに上がった。
「イベリス様はこっちがいいんですよね?」
「ええ」
「本当はドア側は良くないんですよ。犯人が入って来たときに一番に犠牲になるから」
「でも窓側だって犯人が入る場所よ」
イベリスは城でもドア側を選んでいた。窓側は圧迫感があって好きじゃないと言い、ここでもドア側に寝転んでいる。下を覗き込んでマシロを撫で、誰だと頭を上げるマシロにおやすみを告げた。
「獣人族の家に泥棒に入ろうってバカはいないですけどね」
「引っ掻かれちゃうから?」
「噛みつきもしますから」
それだけで済むはずはなく、悲惨とも呼べる状態で外に放り出される。朝になれば泥棒に入った家の前で地面から顔だけ出し、目の前には【私はこの家に泥棒に入って住民の安全を脅かしました】と書かれた看板が立てられる。それを目撃した住民はその場で雪玉を作り、犯人の顔目掛けて投げつけるのだ。それがグラキエス。
でも獣人の家に入る者はいない。入ったとしても母親が騎士である父親よりも先に飛び出してボコボコにしてしまうだろうから。ハーゲンベルクの妻は強すぎると有名だった。
「お腹いっぱいで幸せ」
「明日そう言ってやってください。すごく喜びますから」
「私ね、あのパイのシロップ漬けが大好きなの」
「俺は歯が溶けそうであんまり好きじゃないです」
「ウォルフはとってもキレイな歯をしてるものね」
「へへっ、自慢です」
カチカチと鳴らして歯を見せるウォルフの頬に触れるイベリスの手に自ら擦り寄る。久しぶりに二人きりの空間。誰も邪魔は入らない。自分たちは恋人で、結婚も近いはず。
「イベリス様、恋人同士ってどれぐらいでキスするもんですか?」
あまりにも率直な聞き方に目を瞬かせるもウォルフの顔は真剣そのもの。どう答えたものかと迷うイベリスの手をウォルフが握る。その手の熱さにイベリスも緊張してしまう。
「それは……完全に個人差があるものじゃないかしら?」
「じゃあ、付き合ったばかりの恋人たちがキスをしてもおかしくはないってことですよね?」
キスをしたのは初めてではない。以前もグラキエスでキスをした。あれは一方的なものでイベリスの許可を得てはいなかった。拒まれなかったことが救いで、あれを一生の思い出にしようとさえ思っていたが、今はあれが一生の思い出ではなく増やせる立場にある。
丸出しの下心を隠そうともせず、全面に押し出すウォルフの顔には「キスがしたい」と太文字でハッキリと書いてあった。それがおかしくて可愛くて、つい笑ってしまったイベリスが両手を伸ばすのに合わせて彼女の顔横に腕を置く。目を閉じるイベリスの頬は少し赤みがかっていてキレイだと思った。自分の物なのだと込み上げる喜びに呼吸が止まりそうになる。
「キス、しますね」
今よりもっと意識してほしくて宣言した。柔らかな髪に指を絡ませ、ゆっくり唇を重ねるとイベリスの腕が首に回る。恋人同士なのだから当然だが、従者としての時間が長かっただけに受け入れてもらえることの喜びをいちいち味わってしまう。
柔らかな唇を味わうように何度も啄んでいく。甘噛みしたくすらある。狼としての本能が疼き出すのを抑え込みながらも理性ある男としてさっと身を起こすことができない。
小さいが、確実に聞こえるリップ音がイベリスの羞恥を高める。
「ちょ、ちょっと待ってウォルフ!」
何度も啄まれるせいでいつ呼吸をしていいのかがわからなくなり、苦しさに耐えきれず胸を押し離すことでようやく止まった。
「ウォル……」
お預けをくらった子犬ではなく、獲物を前に我慢の限界である獣の目をするウォルフにゾクッと身体を震わせる。恐怖か、それとも興味か。わからない感情に小さく身体を震わせた。
「あ、あのね、皆いるから……」
獣人族は耳も鼻も良い。さすがに彼の実家で致すというのは抵抗があり、ダメだとかぶりを振って明確な意思表示を見せると耳もないのに耳が下がった幻覚が見えた。
「す、すみません。暴走してました」
「二人の家で、ね?」
この瞬間、早く居住地を決めて家を買おうと心に誓った。
「明日はどうする?」
「イベリス様の思うままに行動しましょう。もうどこにだって行けるんです。どこに行って何をしてもいいんですから」
ロベリアと似ている。ロベリアなのではないかと後ろ指さされるようにヒソヒソと話す国民はいない。グラキエスはフローラリア以外と親交を持っていないため他国に詳しい者は少ない。ここにいればイベリスはイベリスとして生きられる。帰らなければと思うことも、もうすぐだと不安になることもない。彼女の言動全てに自由がある。
ウォルフの言葉に嬉しそうに微笑んだイベリスが欠伸を漏らす。
「今日はもう寝ましょうか。明日、雪遊びをしましょう。サーシャじゃできないことですよ」
「すぐそうやってサーシャを引き合いに出すのは良くないのよ?」
「つい癖で」
「その癖は直さなきゃダメ」
「はい」
優しい注意に生返事だけしてイベリスに毛布をかける。ウォルフの毛のような柔らかさに包まれるとあっという間に睡魔に落ちていく。
疲れていないはずがない。城から消えて、魔女の家で暮らして、再会して、涙した。聞こえる喜び、話せる楽しさを知り、それと同時に、リンウッドといた頃から聞こえていたかったと十七年間の人生を振り返っただろう。
自我を持ったときから周りと違うことを実感し、成長するたびに痛いほど思い知らされた聞こえない障害の弊害。孤立の寂しさ。人がいる喜び。失う悲しみ。
十七年間の短い人生で彼女は平凡な人生を生きてきた大人よりもずっと濃い人生を送ってきた。良くも悪くも。
(今この世界で生きてる人間の中で絶望を味わったことがある奴ってどのぐらいいるんだろ……)
一度でも味わいたくないものをイベリスはこの一年で何度も味わってきた。もう二度と傷つかなくていいように自分の全てで守りたい。
(でも、守られ続けるのは好きじゃないんだろうな。過保護って言われそうだし)
既に寝息を立てているイベリスの寝顔を見ながら思いを馳せる。守りたい気持ちはあれど、イベリスは自らの足で歩みたがる。支えるぐらいがちょうどいいのだろう。前や後ろではなく隣を歩いてほしがる彼女のために自分ができる最善の行動をこれから探していく必要がある。
それは決して嫌なことではなく、むしろ幸せなことだ。彼女の隣を歩き、彼女が喜ぶ方法を考えながら生きられるのだから。従者だからではなく、彼女の恋人として騎士として。
「あ……職、どうしよ……」
当たり前のことだが、働けばイベリスを家に一人にする時間が出てくる。このままグラキエスで騎士をするのは簡単だが、イベリスは世界を見たがっている。ここにはない音が世界には存在する。穏やかなところから始めて、耳が、脳が慣れた頃に賑やかなところへ移動するのも良いだろう。しかし、そのためには金が必要。金はない。働くしかない。
「世知辛いな……」
何十年も騎士として働き続けている父親を尊敬する。厳格な父親だが、立派な大黒柱。仕事について文句を言ったことは一度もない。自分もいつか子供にそう思われたい。いや、厳格にはなれないだろうから子供と同じ目線で居続けた父親として尊敬してほしい。
「頑張りますからね」
夢の中へと潜っているイベリスの額に口付けるとそのまま振れるだけのキスをしてカーテンを開けた。
「あ……」
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