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イベリス復活編
想像以上に
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目を覚ましたとき、ウォルフの身体はベッドの上だった。身体を包み込むような柔らかなベッド。見知らぬ天井。知らない匂い。どこだ、ここはと目だけで確認すると起き上がった瞬間、全身に無数の針が刺さったような痛みが走る。
「ガアッ!!」
思わず吠えた。
「ガアッて、獣人属って感じね」
聞き覚えのある声に顔を向けると魔女が立っていた。いや、浮いている。
イベリスよりも幼く見える少女だが、彼女は数千年の時を生きているという。この姿も仮だろう。この皮が剥がれればきっとシワだらけの老婆だと想像すると不気味で仕方ない。
「驚かないの?」
「驚いてる。驚きすぎて冷静なんだ。もうすぐ出口ってとこで襲われたから。ああ、もうダメだって思ったし」
意識を失う寸前までの記憶は暗闇のままで美しい森は見ていない。辿り着けなかった後悔と迎えに行くと誓った約束を反故にしてしまった申し訳なさでいっぱいだった。
それなのに目の前には魔女がいて、全身はミイラのように包帯だらけ。
「あら、あなたは森を抜けたのよ」
「嘘だ。俺は出口の近くで魔獣に乗っかられて喰われたはず……」
「じゃあここは天国で私は魔女じゃなくて天使ってこと? やめてよ。反吐が出る」
天使のほうが魔女よりは良いだろうというツッコミはしないでおいた。ここで余計なことを言うと間違いなく傷口を抉られる。いや、包帯を外して塩を塗り込まれる。
「じゃあもう意識がない状態で抗ったのね。私の可愛いペットがズタボロだったもの。それも五体全員。森を抜けてすぐ気絶しなかったのはあなたとグラキエスの皇帝ぐらいよ」
「気絶しなかった……?」
「最終的には気絶した。でも小屋の前まで自分で歩いてきたのよ。お利口ね」
完全に意識はなく、何があっても辿り着くという意思だけで身体を動かしていた。あと少しを阻む魔獣たちを跳ね除け、あと一歩、もう一歩とズタボロの身体を引きずりながら行ったのかもしれない。何があっても足は止めない。必ず辿り着くと、それだけはイベリスと別れる前から自分に誓っていた。
滲む涙を瞬きを多くすることで誤魔化し、大きく息を吐き出す。
「イベリス様は……」
狭い古屋の中、イベリスがいれば匂いでわかる。あの砂糖菓子のような甘い匂いがしない。消されていない。絶対に生きていると胸に抱いていた希望が砕けていく。ベッドの上で拳を握り、唇を噛むウォルフを見ながら魔女がふわふわと飛んできたクッキーが入った瓶の中から一枚取り出して食べた。
「叶えてほしい願いがあったのよね? 叶えてあげる。あなたの願いは?」
仲良しこよしの世間話をするつもりはないのか、ここに辿り着いた本題に入る。ウォルフにとってもそのほうが楽で、迷いはなかった。
「イベリス・リングデールの耳を聞こえるようにしてくれ」
は?と魔女が言う。
「会いたい、とかじゃないの?」
「そんなことにたった一度の願いを使いたくない。会うか、彼女の耳が聞こえるようにするかだったら後者を選ぶ。俺はそのためにここに来たんだ」
わかりやすいほどの呆れ顔で「呆れた」と言い放つ魔女が笑う。ウォルフも笑う。呆れるほどのバカだと自分でも思う。姿はなくとも、魂はあるのではないかとまだ望みを捨てきれないのだから。もし魂があるのなら次に生まれ変わったら万が一にも同じ運命を辿らせないようにと願いをかけた。
「イベリス・リングデールは死んだのよ? 魂の生まれ変わりもない。それなのに耳が聞こえるように、なんて意味のない願い事してどうするの?」
わかっている。匂いがしない。彼女のあの愛おしい匂いが。わかっていても、魔女ならその匂いを消すことができるはずだと藁にもすがる思いで願った。
「アンタは世界で一番の性悪魔女だから親切丁寧に本当のことなんて言わない。彼女を隠してるんだろ?」
「私が? なんのために?」
「彼女が可愛すぎて隠したくなった、とか」
「呆れた。人間っていつもそう。信じたいものだけを信じるのよね」
「だって、そうじゃなきゃ……アンタが俺を助ける理由がない」
魔女の言うとおり、信じたいからそう言っているだけ。でも、信じたい。魔女が自分で言う“気まぐれ”を。
「もし、仮に、私がイベリスを隠してるとして、あの子の耳が聞こえるようになったらどこぞのイケメン御曹司とでも結婚するんじゃない?」
「彼女が幸せになれるならそれでいい」
「……バカって言われない?」
「一度だけ言われたことがある」
真っ白な紙に大きく書かれたバーカの言葉。それすら懐かしく、目を細める。
「でしょうね」
「叶えてくれるか? どんな条件でものむ」
「何があってもあなたと結ばれない運命となっても?」
「彼女が幸せに生きられるなら結ばれなくてもいい。俺は彼女に会って、自分との幸せじゃなくて、人の幸せだけを祈れるようになった。彼女を幸せにするのは俺がいいし、俺じゃなきゃ絶対に嫌だけど……彼女が幸せになれる道に俺は必要ないなら、渋々、受け入れる」
笑顔で語るそれに強がりが混ざっているのはわかるが、ほとんど本音。欲のない人間ほどつまらない生き物はない。かといって欲望のままに生きる人間も見飽きた。どんな人間でも三千年も生きている魔女にとっては面白みのないもの。
やれやれとかぶりを振りながら後ろを向いた魔女を目で追う。大釜があり、中の液体がグツグツと音を立てている。何故そっちを見るのか。別に意味なんてないのかもしれない。ただ見ただけなのかもしれない。それなのにウォルフは期待してしまう。イベリスが生きていると願いが希望に変わるのだ。
ウォルフの心臓がドクンと大きく心臓が跳ねる。そのまま異常な速さで脈を打つ。まるで終焉の森に入ったばかりのときのように。でもあのときとは違う。
「だって。どうする?」
他の誰かに話しかけるような言葉のあとに聞こえてきた足音。男のそれではない。これは女の足音。ウォルフの身体が動く。ほんの少し身体を動かすだけで悶絶するほどの痛みが走るというのに、表情を変えることなくベッドから降りようとする。
近付いてくる足音にウォルフの足がベッドから出て床に着く。ごくりと喉が鳴る。これは期待ではない。希望でもない。願いであり光。一筋なんて僅かなものではなく確かなもの。
開きっぱなしのドアのすぐ傍で足音が止まった。
「イベリス様」
確かな思いで名前を呼んだ。すると一斉に花が開いたように小屋中に広がった砂糖菓子のような甘い匂い。ああ……これだ……。喉が震える。
立ち上がろうとしたウォルフの視界にひょこっと顔を出した少女の姿にまるで時間が止まったように固まった。涙だけが頬を伝う。
「イベリス、様……」
会いたかった。死んでも会いに行くつもりだった。一歩動けば香りがする。この世で最も愛おしい香り。この匂いが光となって導いてくれた。両手を伸ばすと寄ってきてくれるその小さな身体を待ちきれず、痛みなど存在しないかのように飛び出して勢いよく抱き締めた。
「やっぱり生きてた! 愛してる! あなたを愛してるんですッ」
別れる前にも伝えた言葉だが、もう一度伝えたかった言葉が溢れてくる。
「魔女がこれからあなたの耳を聞こえるようにしてく──」
「私でいいの?」
耳を疑った。耳は誰よりも良い。十キロ先の音だって聞き分けることができる。こんなゼロ距離の音を聞き間違えるはずないのに、その声に、ゆっくりと肩を押し離す手が震えている。目が合うとイベリスが微笑んだ。
「声が……」
「変?」
サーシャと話していた。イベリスの声はきっととても美しいだろうと。想像どおり。いや、想像以上だ。
景色がわからなくなるほど何度もかぶりを振り続ける。
「変なんて……そんな……とても……美しい声ですよ。だって、あなたの声なんだから。あなたの声……ッ」
もっと正確に、ハッキリと伝えなければならないのにキュッと絞まった喉では上手く言葉が出てこない。でもイベリスにはそれで充分だった。彼は泣き虫だ。でも彼の涙は特別で、いつも自分のために泣いてくれた。今もそう。
いつもは笑って抱きしめるが、今日はイベリスも耐えきれなかった。大粒の涙がボロボロと零れ溢れていく。
「彼女がね、ここに連れてきてくれてすぐ、魔法で治してくれたの。優しいでしょ」
「聞こえない相手と話すのがメンドーだったからよ。紙に書くだけでも煩わしいのに手話なんてもってのほか」
「ふふっ、素直じゃないよね」
愛らしい笑い声。彼女は喉に障害を負っているわけではなく、未発達が故に声が出せなかっただけ。だから声が出せたらどんな音色だろうとずっと想像していた。とても愛らしい声なのだろうと。
こちらを見て頭を下げようとしたウォルフに「騎士って主人以外に頭を下げるものなの? 私だったらそんな犬いらないけど」と言うも、頭を下げる姿に呆れる。
「主人を救ってくれた恩人への感謝だ」
「感謝に価値なんてないからいらない」
感謝されることを嫌う者を見るのは初めてで目を瞬かせるも魔女らしさにもう一度感謝を伝えようとはしなかった。それよりもウォルフにはもう一度言わなければならないことがあった。
「イベリス様、もう一度──」
「私でいいの?」
幸せで震えることがあるなんて知らなかった。嬉しくてたまらない。もう一度強く抱きしめると小さな笑い声が聞こえてくる。
「あなたで、とか、あなたが、とかじゃない。あなたじゃなきゃダメなんです」
「変な人」
以前は抱きしめていると会話ができなかった。一方的に言葉を伝えるだけ。でも今は違う。こうして抱きしめていても会話ができる。紙に書いた思い出もある。手話も覚えた。けれど、やっぱり声が聞ける喜びがある。明るい声に涙が止まらない。
「あなたこそ、そう聞くってことは俺でいいってことですか?」
「泣き虫さんの傍には涙を拭ってあげる人が必要だもの」
「俺は王子様にはなれませんし、獣人だから一般的な成人男性とは違うとこもたくさんあります」
「そんなの、私は耳が聞こえなくて周りと違うところがたくさんあったのにあなたは気にしなかったじゃない。私も同じよ」
恋愛小説のような愛を望んでいた相手に獣人族である自分が与えられる物は少ない。伯爵令嬢に見合う家柄ではないし、貴族のマナーも知らない。粗暴でヤキモチ妬きで独占欲が強い。全部隠していただけで本当はアルフローレンスがミュゲットに向けているような感情を持っているのだ。恋人になればどこまで抑えられるかわからない。一歩間違えればリンウッドと同じになるかもしれない。それがウォルフの不安だった。
「あなたはいつだって私のヒーローだった。助けに来てくれた。支えてくれた。笑わせてくれた。怒ってくれた。泣いてくれた。約束してくれた。守ってくれた。そんな素敵な人が王子様じゃなかったらどんな人が王子様だっていうの? あなたは間違いなく私の王子様よ」
その言葉が不安は杞憂でしかなかったと教えてくれる。嗚咽が漏れそうになるほど涙がこぼれる。しゃがみ込んで泣くウォルフの大きな身体をイベリスが抱きしめて笑う。
「約束守ってくれてありがとう」
「あなたの騎士ですから」
かっこ悪い泣き顔だとわかっていても顔を上げ、イベリスを見て笑顔を見せた。
「砂時計を……あ……」
魔獣に乗られて壊れてしまったのだろう。辺りを見回すもどこにもないことに肩を落とすと身体を離したイベリスが奥から砂時計を持ってきた。
「咥えてたよ」
「割れずに?」
「うん」
魔女が直してくれたとわかるが、ウォルフはあえて言わなかった。あれだけの魔獣に乗っかられて無事であるはずがない。それでもイベリスの気遣いが嬉しくて、笑顔でそれを受け取った。
「あなたと過ごした過去があって、あなたを迎えに来た今がある」
無骨な指が砂時計のガラスを軽く叩き、目を細めるウォルフの横顔を見ている。サーッと落ちていく金色の砂は何度見てもその美しさに目を奪われる。これは絶対にイベリスに持っていてほしいと店で見つけた瞬間からずっと思っていた。
「あとは、あなたと刻んでいく未来が欲しいです」
この砂時計のように、過去も現在も、未来さえも手に入れたい。彼女との未来しか欲しくない。両手で差し出す砂時計を見つめるイベリスが苦笑したら、と考えると少し不安ではあるが、視線を逸らすことはしない。
「耳が聞こえるようになったから、これから私、すっごく重たいかもしれないよ? あれがしたい。あそこに行きたい。あれ買ってってどこでも言い続けるかも」
「いいです。なんでも言えばいいんです。俺が全部叶えるって言ったでしょ。あなたの願いを叶えるのは俺の役目なんですから」
「聞こえないほうが可愛かったなーって思うかも」
意地悪をしている笑みにイベリスだと実感する。この悪戯めいた笑みが好きだった。耳が聞こえなくても声が出せなくても明るい彼女が好きだった。思わないってわかっているくせにと少し拗ねた顔を見せると今度はイベリスがウォルフを抱きしめる。その小さな身体を包み込むように両腕を回して抱きしめ返すとウォルフの表情に満面の笑みがこぼれる。
「思うわけないじゃないですか。だって俺はあなたじゃなきゃダメなんですから。あなた以外欲しくない。白狼の番は生涯に一人だけ。死別しても再度探すことはないんです。俺の人生のたった一人の運命の相手は絶対にあなたなんです。だから……あなたの人生に俺の人生を乗せてもいいですか?」
ちょっとくどいかと自分で思った言葉にイベリスはすぐに頷いた。身体を離して差し出す砂時計を見る。
「よろしくお願いします」
両手で受け取った砂時計の中の金色の砂が輝きを放ちながら落ちていくのを愛おしげに見つめては耳に押し当てて砂が落ちる僅かな音を拾う。その姿さえも愛おしく、涙をこぼしながら満面の笑みを浮かべた。
「ガアッ!!」
思わず吠えた。
「ガアッて、獣人属って感じね」
聞き覚えのある声に顔を向けると魔女が立っていた。いや、浮いている。
イベリスよりも幼く見える少女だが、彼女は数千年の時を生きているという。この姿も仮だろう。この皮が剥がれればきっとシワだらけの老婆だと想像すると不気味で仕方ない。
「驚かないの?」
「驚いてる。驚きすぎて冷静なんだ。もうすぐ出口ってとこで襲われたから。ああ、もうダメだって思ったし」
意識を失う寸前までの記憶は暗闇のままで美しい森は見ていない。辿り着けなかった後悔と迎えに行くと誓った約束を反故にしてしまった申し訳なさでいっぱいだった。
それなのに目の前には魔女がいて、全身はミイラのように包帯だらけ。
「あら、あなたは森を抜けたのよ」
「嘘だ。俺は出口の近くで魔獣に乗っかられて喰われたはず……」
「じゃあここは天国で私は魔女じゃなくて天使ってこと? やめてよ。反吐が出る」
天使のほうが魔女よりは良いだろうというツッコミはしないでおいた。ここで余計なことを言うと間違いなく傷口を抉られる。いや、包帯を外して塩を塗り込まれる。
「じゃあもう意識がない状態で抗ったのね。私の可愛いペットがズタボロだったもの。それも五体全員。森を抜けてすぐ気絶しなかったのはあなたとグラキエスの皇帝ぐらいよ」
「気絶しなかった……?」
「最終的には気絶した。でも小屋の前まで自分で歩いてきたのよ。お利口ね」
完全に意識はなく、何があっても辿り着くという意思だけで身体を動かしていた。あと少しを阻む魔獣たちを跳ね除け、あと一歩、もう一歩とズタボロの身体を引きずりながら行ったのかもしれない。何があっても足は止めない。必ず辿り着くと、それだけはイベリスと別れる前から自分に誓っていた。
滲む涙を瞬きを多くすることで誤魔化し、大きく息を吐き出す。
「イベリス様は……」
狭い古屋の中、イベリスがいれば匂いでわかる。あの砂糖菓子のような甘い匂いがしない。消されていない。絶対に生きていると胸に抱いていた希望が砕けていく。ベッドの上で拳を握り、唇を噛むウォルフを見ながら魔女がふわふわと飛んできたクッキーが入った瓶の中から一枚取り出して食べた。
「叶えてほしい願いがあったのよね? 叶えてあげる。あなたの願いは?」
仲良しこよしの世間話をするつもりはないのか、ここに辿り着いた本題に入る。ウォルフにとってもそのほうが楽で、迷いはなかった。
「イベリス・リングデールの耳を聞こえるようにしてくれ」
は?と魔女が言う。
「会いたい、とかじゃないの?」
「そんなことにたった一度の願いを使いたくない。会うか、彼女の耳が聞こえるようにするかだったら後者を選ぶ。俺はそのためにここに来たんだ」
わかりやすいほどの呆れ顔で「呆れた」と言い放つ魔女が笑う。ウォルフも笑う。呆れるほどのバカだと自分でも思う。姿はなくとも、魂はあるのではないかとまだ望みを捨てきれないのだから。もし魂があるのなら次に生まれ変わったら万が一にも同じ運命を辿らせないようにと願いをかけた。
「イベリス・リングデールは死んだのよ? 魂の生まれ変わりもない。それなのに耳が聞こえるように、なんて意味のない願い事してどうするの?」
わかっている。匂いがしない。彼女のあの愛おしい匂いが。わかっていても、魔女ならその匂いを消すことができるはずだと藁にもすがる思いで願った。
「アンタは世界で一番の性悪魔女だから親切丁寧に本当のことなんて言わない。彼女を隠してるんだろ?」
「私が? なんのために?」
「彼女が可愛すぎて隠したくなった、とか」
「呆れた。人間っていつもそう。信じたいものだけを信じるのよね」
「だって、そうじゃなきゃ……アンタが俺を助ける理由がない」
魔女の言うとおり、信じたいからそう言っているだけ。でも、信じたい。魔女が自分で言う“気まぐれ”を。
「もし、仮に、私がイベリスを隠してるとして、あの子の耳が聞こえるようになったらどこぞのイケメン御曹司とでも結婚するんじゃない?」
「彼女が幸せになれるならそれでいい」
「……バカって言われない?」
「一度だけ言われたことがある」
真っ白な紙に大きく書かれたバーカの言葉。それすら懐かしく、目を細める。
「でしょうね」
「叶えてくれるか? どんな条件でものむ」
「何があってもあなたと結ばれない運命となっても?」
「彼女が幸せに生きられるなら結ばれなくてもいい。俺は彼女に会って、自分との幸せじゃなくて、人の幸せだけを祈れるようになった。彼女を幸せにするのは俺がいいし、俺じゃなきゃ絶対に嫌だけど……彼女が幸せになれる道に俺は必要ないなら、渋々、受け入れる」
笑顔で語るそれに強がりが混ざっているのはわかるが、ほとんど本音。欲のない人間ほどつまらない生き物はない。かといって欲望のままに生きる人間も見飽きた。どんな人間でも三千年も生きている魔女にとっては面白みのないもの。
やれやれとかぶりを振りながら後ろを向いた魔女を目で追う。大釜があり、中の液体がグツグツと音を立てている。何故そっちを見るのか。別に意味なんてないのかもしれない。ただ見ただけなのかもしれない。それなのにウォルフは期待してしまう。イベリスが生きていると願いが希望に変わるのだ。
ウォルフの心臓がドクンと大きく心臓が跳ねる。そのまま異常な速さで脈を打つ。まるで終焉の森に入ったばかりのときのように。でもあのときとは違う。
「だって。どうする?」
他の誰かに話しかけるような言葉のあとに聞こえてきた足音。男のそれではない。これは女の足音。ウォルフの身体が動く。ほんの少し身体を動かすだけで悶絶するほどの痛みが走るというのに、表情を変えることなくベッドから降りようとする。
近付いてくる足音にウォルフの足がベッドから出て床に着く。ごくりと喉が鳴る。これは期待ではない。希望でもない。願いであり光。一筋なんて僅かなものではなく確かなもの。
開きっぱなしのドアのすぐ傍で足音が止まった。
「イベリス様」
確かな思いで名前を呼んだ。すると一斉に花が開いたように小屋中に広がった砂糖菓子のような甘い匂い。ああ……これだ……。喉が震える。
立ち上がろうとしたウォルフの視界にひょこっと顔を出した少女の姿にまるで時間が止まったように固まった。涙だけが頬を伝う。
「イベリス、様……」
会いたかった。死んでも会いに行くつもりだった。一歩動けば香りがする。この世で最も愛おしい香り。この匂いが光となって導いてくれた。両手を伸ばすと寄ってきてくれるその小さな身体を待ちきれず、痛みなど存在しないかのように飛び出して勢いよく抱き締めた。
「やっぱり生きてた! 愛してる! あなたを愛してるんですッ」
別れる前にも伝えた言葉だが、もう一度伝えたかった言葉が溢れてくる。
「魔女がこれからあなたの耳を聞こえるようにしてく──」
「私でいいの?」
耳を疑った。耳は誰よりも良い。十キロ先の音だって聞き分けることができる。こんなゼロ距離の音を聞き間違えるはずないのに、その声に、ゆっくりと肩を押し離す手が震えている。目が合うとイベリスが微笑んだ。
「声が……」
「変?」
サーシャと話していた。イベリスの声はきっととても美しいだろうと。想像どおり。いや、想像以上だ。
景色がわからなくなるほど何度もかぶりを振り続ける。
「変なんて……そんな……とても……美しい声ですよ。だって、あなたの声なんだから。あなたの声……ッ」
もっと正確に、ハッキリと伝えなければならないのにキュッと絞まった喉では上手く言葉が出てこない。でもイベリスにはそれで充分だった。彼は泣き虫だ。でも彼の涙は特別で、いつも自分のために泣いてくれた。今もそう。
いつもは笑って抱きしめるが、今日はイベリスも耐えきれなかった。大粒の涙がボロボロと零れ溢れていく。
「彼女がね、ここに連れてきてくれてすぐ、魔法で治してくれたの。優しいでしょ」
「聞こえない相手と話すのがメンドーだったからよ。紙に書くだけでも煩わしいのに手話なんてもってのほか」
「ふふっ、素直じゃないよね」
愛らしい笑い声。彼女は喉に障害を負っているわけではなく、未発達が故に声が出せなかっただけ。だから声が出せたらどんな音色だろうとずっと想像していた。とても愛らしい声なのだろうと。
こちらを見て頭を下げようとしたウォルフに「騎士って主人以外に頭を下げるものなの? 私だったらそんな犬いらないけど」と言うも、頭を下げる姿に呆れる。
「主人を救ってくれた恩人への感謝だ」
「感謝に価値なんてないからいらない」
感謝されることを嫌う者を見るのは初めてで目を瞬かせるも魔女らしさにもう一度感謝を伝えようとはしなかった。それよりもウォルフにはもう一度言わなければならないことがあった。
「イベリス様、もう一度──」
「私でいいの?」
幸せで震えることがあるなんて知らなかった。嬉しくてたまらない。もう一度強く抱きしめると小さな笑い声が聞こえてくる。
「あなたで、とか、あなたが、とかじゃない。あなたじゃなきゃダメなんです」
「変な人」
以前は抱きしめていると会話ができなかった。一方的に言葉を伝えるだけ。でも今は違う。こうして抱きしめていても会話ができる。紙に書いた思い出もある。手話も覚えた。けれど、やっぱり声が聞ける喜びがある。明るい声に涙が止まらない。
「あなたこそ、そう聞くってことは俺でいいってことですか?」
「泣き虫さんの傍には涙を拭ってあげる人が必要だもの」
「俺は王子様にはなれませんし、獣人だから一般的な成人男性とは違うとこもたくさんあります」
「そんなの、私は耳が聞こえなくて周りと違うところがたくさんあったのにあなたは気にしなかったじゃない。私も同じよ」
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「あなたはいつだって私のヒーローだった。助けに来てくれた。支えてくれた。笑わせてくれた。怒ってくれた。泣いてくれた。約束してくれた。守ってくれた。そんな素敵な人が王子様じゃなかったらどんな人が王子様だっていうの? あなたは間違いなく私の王子様よ」
その言葉が不安は杞憂でしかなかったと教えてくれる。嗚咽が漏れそうになるほど涙がこぼれる。しゃがみ込んで泣くウォルフの大きな身体をイベリスが抱きしめて笑う。
「約束守ってくれてありがとう」
「あなたの騎士ですから」
かっこ悪い泣き顔だとわかっていても顔を上げ、イベリスを見て笑顔を見せた。
「砂時計を……あ……」
魔獣に乗られて壊れてしまったのだろう。辺りを見回すもどこにもないことに肩を落とすと身体を離したイベリスが奥から砂時計を持ってきた。
「咥えてたよ」
「割れずに?」
「うん」
魔女が直してくれたとわかるが、ウォルフはあえて言わなかった。あれだけの魔獣に乗っかられて無事であるはずがない。それでもイベリスの気遣いが嬉しくて、笑顔でそれを受け取った。
「あなたと過ごした過去があって、あなたを迎えに来た今がある」
無骨な指が砂時計のガラスを軽く叩き、目を細めるウォルフの横顔を見ている。サーッと落ちていく金色の砂は何度見てもその美しさに目を奪われる。これは絶対にイベリスに持っていてほしいと店で見つけた瞬間からずっと思っていた。
「あとは、あなたと刻んでいく未来が欲しいです」
この砂時計のように、過去も現在も、未来さえも手に入れたい。彼女との未来しか欲しくない。両手で差し出す砂時計を見つめるイベリスが苦笑したら、と考えると少し不安ではあるが、視線を逸らすことはしない。
「耳が聞こえるようになったから、これから私、すっごく重たいかもしれないよ? あれがしたい。あそこに行きたい。あれ買ってってどこでも言い続けるかも」
「いいです。なんでも言えばいいんです。俺が全部叶えるって言ったでしょ。あなたの願いを叶えるのは俺の役目なんですから」
「聞こえないほうが可愛かったなーって思うかも」
意地悪をしている笑みにイベリスだと実感する。この悪戯めいた笑みが好きだった。耳が聞こえなくても声が出せなくても明るい彼女が好きだった。思わないってわかっているくせにと少し拗ねた顔を見せると今度はイベリスがウォルフを抱きしめる。その小さな身体を包み込むように両腕を回して抱きしめ返すとウォルフの表情に満面の笑みがこぼれる。
「思うわけないじゃないですか。だって俺はあなたじゃなきゃダメなんですから。あなた以外欲しくない。白狼の番は生涯に一人だけ。死別しても再度探すことはないんです。俺の人生のたった一人の運命の相手は絶対にあなたなんです。だから……あなたの人生に俺の人生を乗せてもいいですか?」
ちょっとくどいかと自分で思った言葉にイベリスはすぐに頷いた。身体を離して差し出す砂時計を見る。
「よろしくお願いします」
両手で受け取った砂時計の中の金色の砂が輝きを放ちながら落ちていくのを愛おしげに見つめては耳に押し当てて砂が落ちる僅かな音を拾う。その姿さえも愛おしく、涙をこぼしながら満面の笑みを浮かべた。
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