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ロベリア復活
ボートの上で
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「ねえ、ボートに乗りに行きましょうよ」
「仕事がある」
「そう言うと思ってランチパックを用意させたの。昼休憩はボートの上でしましょ」
話が通じないのはいつものこと。用意周到な妻に従うのは逆らうと面倒だからで、一日のほとんどを執務室で過ごすため逃げられない。
昼になり、ペンを取り上げられたことで午前中の業務終了。そのまま手を引かれて池まで歩いていく。
「暑いな」
「そう? 爽やかだと思うけど」
汗をかくほど暑くはないが、日差しが暑い。池まで歩く道中に燦々と降り注ぐ太陽光が恨めしい。
「あ……」
立ち止まったロベリアがボートが池の真ん中にあることに気付いて桟橋に上がる。その存在に気付いた休憩中の使用人が慌ててボートを漕いで戻ってきた。
「誰の許可を得てボートに乗ったの?」
「俺が許可しているんだ」
「私のためのボートでしょ?」
「違う」
行け、と使用人に顎をしゃくって指示すると頭を下げて去っていく。それもまたロベリアは気に入らない。
自分が生きていた頃には浮かんでいなかったボート。生き返ったら浮かんでいた。これもパレードと同じで自分のために浮かべられた物だと思っていただけに即答で否定が入ると不機嫌を顔に出す。
「使用人にも息抜きが必要だと考えて浮かべたんだ」
実際はよく思い出せない。きっとこれもあの少女の提案だったのだろう。ロベリアが生きていた頃に思い付かなかったことを新しい妻を得たからといって浮かぶはずがないのだから。
専用という考えがないこともあって少女がそう仕向けたように思い、言葉にした。
「私専用にして」
「毎日乗るわけじゃない物を専用にする必要はない」
「私に使用人と同じ物に乗れって言うの?」
「問題あるか?」
「私は皇妃よ?」
「俺は皇帝だが、このボートに乗る。お前はどうする?」
今や少しのことで対立関係に陥る状態。それでもロベリアは相変わらず傍を離れようとしない。まるで具現化したように丸見えになっている彼女の下心にファーディナンドは嫌悪するようになっていた。
皇妃らしくあれと心掛けるよう言ってきたのは自分なだけにそれを忠実に守り、国民から愛される皇妃となってくれたことに感謝はしているが、復活してからのロベリアを愛していると思った瞬間はほとんどない。
先にボートに乗って手を差し出す顔は試しているようにも見え、不満げな顔のままその手を取ってボートに乗った。
「ハンカチは敷いてくれないの?」
「俺がハンカチを持っていると思うか?」
「エチケットでしょ」
「貴族のな。俺は皇帝だ」
出発する前にサーシャがポケットからハンカチを取り出して敷く。その様子を横目で見て「ね? 普通はこうするの」と嫌味を言った。ファーディナンドは何も答えず、ボートを出し、サーシャはそのまま頭を下げて見送る。
「侍女を変えてほしいの」
「サーシャは優秀だ」
ロベリアが眉を顰める。
「どうしてって理由を聞いてはくれないの?」
「愛想がないからとでも言うんだろう」
昔のファーディナンドなら自分が不満を口にすると必ず理由を聞いてくれた。そして同調し、願いを叶えてくれた。今のファーディナンドはそうじゃない。まるでわがままな子供を躾けるかのように甘やかさなくなってしまった。
「ダメなの? 日々を心穏やかに過ごしていくためには愛想は必要なことよ」
「侍女は皇妃の機嫌取りのためにいるわけではない」
「そうかしら? 皇妃の世話係なんだから愛想は必要でしょ。でも、サーシャはあまりにも愛想がなさすぎる」
「そのハンカチを敷いてくれたのは誰だ? サーシャだろう。俺よりも立派に気遣いができる」
「そんなの皇妃の侍女として当然のことでしょ」
当然だと言い放ってしまうロベリアに溜息をつきたくなる。与えられたことがなかった愛というものに溺れ、その心地良さを失いたくないがために甘やかし続けた結果がこれなのだと自責の念に駆られながら背を丸めて膝の上で頬杖をつく。
〈サーシャはなんでも出来て当たり前なんじゃない。なんでも出来るのはサーシャが努力したからよ。それを当たり前だなんて言わないで〉
少女の言葉が浮かんでくる。サーシャは少女の侍女でもあった。サーシャが完璧であることを軽々しく当然だとでも言ったのだろう。それに対して少女は怒った。ロベリアとはどこまでも正反対な少女は皇帝である夫に注意していた。だからこそ惹かれたのかもしれない。わがままではなく、むしろこちらが間違っていると指摘してくるその真っ直ぐさに。
(今更そんなこと思ってどうする。彼女はもういない。俺が殺したんだ。俺の身勝手さが少女の命を奪った……)
後悔しない日はない。きっと、全て思い出す日が来たら死にたくなるのだろう。この城の中には少女の痕跡がいくつか残っている。ボート、マシロ、食事の変化、シェフの記憶の中でティータイムの回数が増えていたこと、パレードの予定、リンウッド・ヘイグの墓。少女の名前と顔はまだ出てこないが、少女は確かにここで生きていたことが伝わってくる。
(どんな少女だったのだろう)
きっと自分のことは恨みながら消えていっただろう。最低だ、許さないと恨み言を言いながら。今となっては謝ることも後悔を口にすることもできない。口にすることなど許されもしないだろう。こんなはずじゃなかった、で済まされることではないのだから。
(ウォルフと恋をしていたのか?)
ウォルフの記憶の中には胸が暖かくなるものがあったと言っていた。『この人のことが好きなんだって思う自分がいた記憶があります。だけど、恋人にはなってなかった……気もします。だから片思いで終わったのかもしれませんが、それでも好きで居続けたんだなって感じてるんです』と。相手から返ってくるものがあったから胸が暖かくなるのだ。
自分にはそんな暖かなものは流れてこないため、きっと自分は完全な片想いだったのだろう。
(それもそうか)
当然だと苦笑しながらも柔らかなものへと変わっていくその表情を見たロベリアがパンッと目の前で手を叩いて意識を戻させる。
「なんだ……?」
あからさまに不快な顔をする彼は自分が愛した夫とは程遠く、最近はロベリアも彼に苛立ちを感じるようになった。
「何を考えてたの?」
「午後の仕事内容についてだ」
ファーディナンドは嘘をつき、ロベリアはそれを嘘だと見抜いた。
「仕事のことを考えてただけのわりには随分と優しい顔をするのね」
「テロスの変わっていく未来を思うと楽しくてな」
「愛しい妻とのランチデートではそんな顔しないのに不思議よね。他に女でもいるのかしら?」
「監視するように執務室に居座っている妻からの言葉とは思えんな。どこにそんな時間があるのか教えてほしいぐらいだ」
こんな言い合いをしながらもファーディナンドは少女とこういう風に言い合ったことはあるのだろうかとそんなことを考えている。ボートを浮かべて二人でランチデートをしたことはあるのだろうか。太陽が暑いと文句を言い、月夜を見上げて話をし、のんびりと二人の時間を過ごしていたことがあればと都合の良い思い出を望んでいる。
「ッ! 何をするんだ」
サンドイッチが入っているのだろう袋を投げつけられた衝撃に驚き、思わず睨むとロベリアが涙を滲ませていた。四年前なら慌てて抱きしめて何度も謝っていただろうが、食べ物を投げつけるという行為に苛立ってそうしようという考えすら起こらない。
「私と一緒にいるのがそんなに楽しくない?」
「怒っている相手といて楽しめると思うか?」
「そうさせてるのはあなたでしょ! 二人でいるのに上の空。他の女のこと考えてるのバレバレなんだから!」
否定しない夫に腹を立て、前に身を乗り出して胸を叩くとボートが揺れる。
「やめろ。転覆する」
「やめるのはそっちでしょ! 妻の私が目の前にいるのに他の女のこと考えるってどういうことよ! あなたは私のものでしょ! どうして私じゃなくて他の女のこと考えて微笑むわけ!?」
「やめろ! ロベリア!」
「もううんざりよ! この浮気者!! 最低!! ろくでなし!! 地獄に落ちろ!!」
「いい加減に──!!」
ファーディナンドがロベリアの腕を掴んだ拍子に強く揺れたボートが転覆した。大きな音を立てて噴水のように水を跳ね上げた光景をサーシャは冷ややかに見ており、ロベリアが池の中から顔を出したのに合わせて慌てて駆け寄るフリをした。池の水をロベリアがいる手前まで凍らせてロベリアを引き上げる。突然の転覆で水を飲んだのか何度も勢いよく咳き込むロベリアの背中を撫でながらも内心呆れている。
「大丈夫ですか?」
「アンタにはこれが大丈夫に見えるの!? そんなわけないでしょ!」
一応の声かけへの返事がこれだ。心配して駆け寄った他の使用人たちも苦い顔をして見ている。ロベリアの本性を知らないのは彼女を慕う国民だけ。
「早くタオル持ってきなさいよ!!」
誰も持ってこようとしないタオルを自ら要求するとサーシャが徒歩でリネン室に向かう。
遅れて上がってきたファーディナンドは張りつく前髪を掻き上げて溜息をついてロベリアの前を通りすぎようとした。それを許さんと言わんばかりにロベリアが服を掴む。
「私を無視してどこ行くつもり!?」
「風呂だ」
「池に落ちた妻をどうしてすぐに助けようとしないのよ!」
「お前は泳げるだろう」
「水を飲んだの! 溺れてた可能性だってあった!!」
「サーシャは氷魔法が使える。問題ない」
もはや愛情の欠片も感じられず、氷のように冷たい視線を向けてくるファーディナンドにロベリアは怒りで頭の血管が切れそうだった。生き返ってからというもの、望んでいた以前のような生活は送れず我慢ばかり。ファーディナンドに求婚されてから死ぬまでずっと幸せだったのに、それが幻であったかのように存在しなくなっている。
「私が死ねばよかったと思ってるのね」
「とんだ被害妄想だ。俺を悪者にして楽しいか?」
「溺れてたかもしれない妻を放置したってことはそういうことでしょ! 他に女がいるから私に愛情を示さなくなった!」
「間違いに気付いただけだ。俺はお前を甘やかしすぎたと反省している」
「最愛の妻を甘やかすのは夫の使命じゃない!」
「違う」
即答での否定に「あーそう!!」と大声を出した。
「言い訳するならすればいいわ! 私を裏切って愛人を作ってるなんて国民が知ったらどう思うかしらね!」
「皇帝に愛人がいることは何もおかしなことではない」
「でも妻を──」
「妻であることを愛されて当然の権利として振るうな。最近のお前の言動は願いを叶えてもらえず駄々を捏ねている子供と同じだ。そんな女をどうやって愛せと言うんだ」
「妻を愛さない夫のほうが問題なのよ!!」
一度目を閉じて小さな溜息を吐いたあと、目を開いたファーディナンドが向けた視線からは軽蔑すら感じ取れるものだった。
「お前にはもう、うんざりだ」
声色も相まって愛想が尽きたと伝えたことに使用人は驚きを隠せなかった。足を動かしてロベリアの手を引き剥がし、そのまま歩いていく背中に叫ばれようとも早口と甲高い声では誰の耳にも奇声としか感じられない。
一度も振り向くことなく城へと戻ったファーディナンドは自分の進むべき道が見えていない情けなさを嘆いていた。
「仕事がある」
「そう言うと思ってランチパックを用意させたの。昼休憩はボートの上でしましょ」
話が通じないのはいつものこと。用意周到な妻に従うのは逆らうと面倒だからで、一日のほとんどを執務室で過ごすため逃げられない。
昼になり、ペンを取り上げられたことで午前中の業務終了。そのまま手を引かれて池まで歩いていく。
「暑いな」
「そう? 爽やかだと思うけど」
汗をかくほど暑くはないが、日差しが暑い。池まで歩く道中に燦々と降り注ぐ太陽光が恨めしい。
「あ……」
立ち止まったロベリアがボートが池の真ん中にあることに気付いて桟橋に上がる。その存在に気付いた休憩中の使用人が慌ててボートを漕いで戻ってきた。
「誰の許可を得てボートに乗ったの?」
「俺が許可しているんだ」
「私のためのボートでしょ?」
「違う」
行け、と使用人に顎をしゃくって指示すると頭を下げて去っていく。それもまたロベリアは気に入らない。
自分が生きていた頃には浮かんでいなかったボート。生き返ったら浮かんでいた。これもパレードと同じで自分のために浮かべられた物だと思っていただけに即答で否定が入ると不機嫌を顔に出す。
「使用人にも息抜きが必要だと考えて浮かべたんだ」
実際はよく思い出せない。きっとこれもあの少女の提案だったのだろう。ロベリアが生きていた頃に思い付かなかったことを新しい妻を得たからといって浮かぶはずがないのだから。
専用という考えがないこともあって少女がそう仕向けたように思い、言葉にした。
「私専用にして」
「毎日乗るわけじゃない物を専用にする必要はない」
「私に使用人と同じ物に乗れって言うの?」
「問題あるか?」
「私は皇妃よ?」
「俺は皇帝だが、このボートに乗る。お前はどうする?」
今や少しのことで対立関係に陥る状態。それでもロベリアは相変わらず傍を離れようとしない。まるで具現化したように丸見えになっている彼女の下心にファーディナンドは嫌悪するようになっていた。
皇妃らしくあれと心掛けるよう言ってきたのは自分なだけにそれを忠実に守り、国民から愛される皇妃となってくれたことに感謝はしているが、復活してからのロベリアを愛していると思った瞬間はほとんどない。
先にボートに乗って手を差し出す顔は試しているようにも見え、不満げな顔のままその手を取ってボートに乗った。
「ハンカチは敷いてくれないの?」
「俺がハンカチを持っていると思うか?」
「エチケットでしょ」
「貴族のな。俺は皇帝だ」
出発する前にサーシャがポケットからハンカチを取り出して敷く。その様子を横目で見て「ね? 普通はこうするの」と嫌味を言った。ファーディナンドは何も答えず、ボートを出し、サーシャはそのまま頭を下げて見送る。
「侍女を変えてほしいの」
「サーシャは優秀だ」
ロベリアが眉を顰める。
「どうしてって理由を聞いてはくれないの?」
「愛想がないからとでも言うんだろう」
昔のファーディナンドなら自分が不満を口にすると必ず理由を聞いてくれた。そして同調し、願いを叶えてくれた。今のファーディナンドはそうじゃない。まるでわがままな子供を躾けるかのように甘やかさなくなってしまった。
「ダメなの? 日々を心穏やかに過ごしていくためには愛想は必要なことよ」
「侍女は皇妃の機嫌取りのためにいるわけではない」
「そうかしら? 皇妃の世話係なんだから愛想は必要でしょ。でも、サーシャはあまりにも愛想がなさすぎる」
「そのハンカチを敷いてくれたのは誰だ? サーシャだろう。俺よりも立派に気遣いができる」
「そんなの皇妃の侍女として当然のことでしょ」
当然だと言い放ってしまうロベリアに溜息をつきたくなる。与えられたことがなかった愛というものに溺れ、その心地良さを失いたくないがために甘やかし続けた結果がこれなのだと自責の念に駆られながら背を丸めて膝の上で頬杖をつく。
〈サーシャはなんでも出来て当たり前なんじゃない。なんでも出来るのはサーシャが努力したからよ。それを当たり前だなんて言わないで〉
少女の言葉が浮かんでくる。サーシャは少女の侍女でもあった。サーシャが完璧であることを軽々しく当然だとでも言ったのだろう。それに対して少女は怒った。ロベリアとはどこまでも正反対な少女は皇帝である夫に注意していた。だからこそ惹かれたのかもしれない。わがままではなく、むしろこちらが間違っていると指摘してくるその真っ直ぐさに。
(今更そんなこと思ってどうする。彼女はもういない。俺が殺したんだ。俺の身勝手さが少女の命を奪った……)
後悔しない日はない。きっと、全て思い出す日が来たら死にたくなるのだろう。この城の中には少女の痕跡がいくつか残っている。ボート、マシロ、食事の変化、シェフの記憶の中でティータイムの回数が増えていたこと、パレードの予定、リンウッド・ヘイグの墓。少女の名前と顔はまだ出てこないが、少女は確かにここで生きていたことが伝わってくる。
(どんな少女だったのだろう)
きっと自分のことは恨みながら消えていっただろう。最低だ、許さないと恨み言を言いながら。今となっては謝ることも後悔を口にすることもできない。口にすることなど許されもしないだろう。こんなはずじゃなかった、で済まされることではないのだから。
(ウォルフと恋をしていたのか?)
ウォルフの記憶の中には胸が暖かくなるものがあったと言っていた。『この人のことが好きなんだって思う自分がいた記憶があります。だけど、恋人にはなってなかった……気もします。だから片思いで終わったのかもしれませんが、それでも好きで居続けたんだなって感じてるんです』と。相手から返ってくるものがあったから胸が暖かくなるのだ。
自分にはそんな暖かなものは流れてこないため、きっと自分は完全な片想いだったのだろう。
(それもそうか)
当然だと苦笑しながらも柔らかなものへと変わっていくその表情を見たロベリアがパンッと目の前で手を叩いて意識を戻させる。
「なんだ……?」
あからさまに不快な顔をする彼は自分が愛した夫とは程遠く、最近はロベリアも彼に苛立ちを感じるようになった。
「何を考えてたの?」
「午後の仕事内容についてだ」
ファーディナンドは嘘をつき、ロベリアはそれを嘘だと見抜いた。
「仕事のことを考えてただけのわりには随分と優しい顔をするのね」
「テロスの変わっていく未来を思うと楽しくてな」
「愛しい妻とのランチデートではそんな顔しないのに不思議よね。他に女でもいるのかしら?」
「監視するように執務室に居座っている妻からの言葉とは思えんな。どこにそんな時間があるのか教えてほしいぐらいだ」
こんな言い合いをしながらもファーディナンドは少女とこういう風に言い合ったことはあるのだろうかとそんなことを考えている。ボートを浮かべて二人でランチデートをしたことはあるのだろうか。太陽が暑いと文句を言い、月夜を見上げて話をし、のんびりと二人の時間を過ごしていたことがあればと都合の良い思い出を望んでいる。
「ッ! 何をするんだ」
サンドイッチが入っているのだろう袋を投げつけられた衝撃に驚き、思わず睨むとロベリアが涙を滲ませていた。四年前なら慌てて抱きしめて何度も謝っていただろうが、食べ物を投げつけるという行為に苛立ってそうしようという考えすら起こらない。
「私と一緒にいるのがそんなに楽しくない?」
「怒っている相手といて楽しめると思うか?」
「そうさせてるのはあなたでしょ! 二人でいるのに上の空。他の女のこと考えてるのバレバレなんだから!」
否定しない夫に腹を立て、前に身を乗り出して胸を叩くとボートが揺れる。
「やめろ。転覆する」
「やめるのはそっちでしょ! 妻の私が目の前にいるのに他の女のこと考えるってどういうことよ! あなたは私のものでしょ! どうして私じゃなくて他の女のこと考えて微笑むわけ!?」
「やめろ! ロベリア!」
「もううんざりよ! この浮気者!! 最低!! ろくでなし!! 地獄に落ちろ!!」
「いい加減に──!!」
ファーディナンドがロベリアの腕を掴んだ拍子に強く揺れたボートが転覆した。大きな音を立てて噴水のように水を跳ね上げた光景をサーシャは冷ややかに見ており、ロベリアが池の中から顔を出したのに合わせて慌てて駆け寄るフリをした。池の水をロベリアがいる手前まで凍らせてロベリアを引き上げる。突然の転覆で水を飲んだのか何度も勢いよく咳き込むロベリアの背中を撫でながらも内心呆れている。
「大丈夫ですか?」
「アンタにはこれが大丈夫に見えるの!? そんなわけないでしょ!」
一応の声かけへの返事がこれだ。心配して駆け寄った他の使用人たちも苦い顔をして見ている。ロベリアの本性を知らないのは彼女を慕う国民だけ。
「早くタオル持ってきなさいよ!!」
誰も持ってこようとしないタオルを自ら要求するとサーシャが徒歩でリネン室に向かう。
遅れて上がってきたファーディナンドは張りつく前髪を掻き上げて溜息をついてロベリアの前を通りすぎようとした。それを許さんと言わんばかりにロベリアが服を掴む。
「私を無視してどこ行くつもり!?」
「風呂だ」
「池に落ちた妻をどうしてすぐに助けようとしないのよ!」
「お前は泳げるだろう」
「水を飲んだの! 溺れてた可能性だってあった!!」
「サーシャは氷魔法が使える。問題ない」
もはや愛情の欠片も感じられず、氷のように冷たい視線を向けてくるファーディナンドにロベリアは怒りで頭の血管が切れそうだった。生き返ってからというもの、望んでいた以前のような生活は送れず我慢ばかり。ファーディナンドに求婚されてから死ぬまでずっと幸せだったのに、それが幻であったかのように存在しなくなっている。
「私が死ねばよかったと思ってるのね」
「とんだ被害妄想だ。俺を悪者にして楽しいか?」
「溺れてたかもしれない妻を放置したってことはそういうことでしょ! 他に女がいるから私に愛情を示さなくなった!」
「間違いに気付いただけだ。俺はお前を甘やかしすぎたと反省している」
「最愛の妻を甘やかすのは夫の使命じゃない!」
「違う」
即答での否定に「あーそう!!」と大声を出した。
「言い訳するならすればいいわ! 私を裏切って愛人を作ってるなんて国民が知ったらどう思うかしらね!」
「皇帝に愛人がいることは何もおかしなことではない」
「でも妻を──」
「妻であることを愛されて当然の権利として振るうな。最近のお前の言動は願いを叶えてもらえず駄々を捏ねている子供と同じだ。そんな女をどうやって愛せと言うんだ」
「妻を愛さない夫のほうが問題なのよ!!」
一度目を閉じて小さな溜息を吐いたあと、目を開いたファーディナンドが向けた視線からは軽蔑すら感じ取れるものだった。
「お前にはもう、うんざりだ」
声色も相まって愛想が尽きたと伝えたことに使用人は驚きを隠せなかった。足を動かしてロベリアの手を引き剥がし、そのまま歩いていく背中に叫ばれようとも早口と甲高い声では誰の耳にも奇声としか感じられない。
一度も振り向くことなく城へと戻ったファーディナンドは自分の進むべき道が見えていない情けなさを嘆いていた。
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