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初めての命令

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 イベリスの日常は何も変わらなかった。離婚証明書は相変わらず机の引き出しの中にあって、そこには鍵がかかっている。鍵の隠し場所はサーシャもウォルフも知らない。
 朝起きて、夫に挨拶をして、マシロを撫でて、朝食。定期的に離婚を求めるファーディナンドを無視してサーシャとウォルフと合流。マシロの散歩をしながら今日の予定を立てる。

〈そういえば、テロスに来てから街に下りたのって一回だけだわ〉
「スケートリンク以来ですね」
「買い物に行きたいですか? 行きたいならお連れしますよ」
「陛下の許可が必要なのよ。簡単に行けるように言わないで」
「離婚したがってんだから別にいいだろ。イベリス様を城に閉じ込めておく理由がない」
「離婚する意思があるからこそイベリス様に何かあったら陛下が気に病むんでしょうが。そんなこともわからないの?」
「わかるわけねぇだろ。そんなことで気に病むぐらいならもっと早くにそうしてる」

 ファーディナンドに直接反論するわけではないが、ウォルフの皇帝嫌いは日に日に強くなっている。サーシャは呆れるだけでもう気にしないと決めているため肩を竦めて終わるのだが、三人でこうして散歩をしていると必ず口論になり、イベリスだけが苦笑祭りを開催することになる。

(仲良くするどころか険悪になっていってる気がする)

 今まで何度も仲良くしてとお願いしてきたわけだが、一緒に過ごしていく間にいつか叶うだろうと思っていたのはウォルフがサーシャに友好的であったから。今のウォルフはどちらかといえば攻撃的。それに対して怒りも見せないサーシャは必要以上にウォルフと絡まないと決めているせいか以前より冷たい反応を見せている。サーシャの声色は知らないが、目の前に表示されるウォルフの言葉を読むからには優しい言い方ではないのだろうと想像がつく。
 城から百メートルほど離れた場所にある森林の中を歩く間も二人は何かしらずっと言い合っていた。

〈いい加減にして!!〉

 ついぞ我慢の限界が訪れたイベリスが振り向いて地面をダンッと踏むとマシロが二人を見て唸る。唸られたのは初めてで、イベリスの怒りを感じ取ったが故に二人へ同じように怒りを向けた。

〈今日はとっても良い天気なの! 風! 太陽! 青空! マシロ! これだけ完璧に揃ってる散歩日和なのにどうしてさっきからずっとずっとずーっと喧嘩してるの!? 喧嘩するようなことある!? 誰のための喧嘩!? なんのための喧嘩!? もう諦めてるから仲良くしてとは言わないけど、せめて喧嘩しないで!!〉

 イベリスの手話も二人はすっかり読み取れるようになった。

「すみません」
「申し訳ございません」

 同時に頭を下げる前、二人が睨み合ったのを見た。

〈大好きな二人が喧嘩ばっかりなんて寂しいよ〉
「お前のせいだぞ」
「アンタでしょ」

 もう一度謝る二人がまた睨み合ったのを見て二人の腕を両側からパンッと叩いた。暴力を受けたのは初めてで、驚きを隠せない二人は何度も目を瞬かせながらイベリスを見るとこれでもかというほど眉を寄せ、見たことのない表情を浮かべている。そこら辺のチンピラでも今時そんな顔はしないのにとウォルフは笑ってしまいそうになるのを唇を引っ込めることでなんとか防ぐ。

〈喧嘩するほど仲が良いって言うけど嘘だってあなたたちが証明してくれた。喧嘩するけど仲良くない。ずっと一緒にいるのにどうして仲が悪くなる一方なの? 何が問題なの?〉
「問題はサーシャにあります」
「そうやってすぐに人のせいにするアンタの性格が問題なんでしょ」
「事実だろ」
〈やめて!!〉

 変わったことがあるといえばこれぐらいだ。イベリスはサーシャもウォルフも大好きで、二人もイベリスが大好きだが、二人は互いを嫌っている。最近では憎んでいるようにさえ見えるほど溝が深くなっていた。
 互いに深く関わらないで一線引いていたのが、ある日その一線をどちらかが超えてしまったが故に戦争が始まった感が強い。
 二人のあまりの険悪さにイベリスはここ数日ずっと考えていた。

〈二人一緒にいるから喧嘩するのよね。だから考えたんだけど、交代制にするっていうのはどう?〉
「私はそれでも──」
「俺は嫌です」
「は?」

 ガラの悪いサーシャが前に出るもウォルフはチラッと見るだけで視線はすぐイベリスに向く。

「俺は騎士としてここに立っています。イベリス様をお守りするためにここにいるんです。交代制はありえません」
〈二人が喧嘩してると私の心が疲れちゃう。私の心は守ってくれないの? そこまでは騎士の役目じゃない?〉
「よし、サーシャ。停戦だ。注意や指摘は穏やかに、喧嘩越しにならないようにしよう。あくまでも紳士的に、だ」
「私はずっとそうしてる」
「お前のそういう言い方が嫌いなんだよ。もっと柔和にできないのか? イベリス様が聞こえないからって好き放題言いやがって。ま、所詮は侍女だからしゃーねぇけど。言語表示の魔法かけてもらえなかったもんな」
〈ウォルフ、言い過ぎだって自覚ある?〉
「あります。すみません」

 ウォルフの口も随分と汚くなってきた。気に食わない相手にはとことん噛み付くスタイルにかぶりを振る。
 二人は水と油。何百回混ぜようと混ざり合わない。同じ場所にいることはできても分離したままでどうしようもない。

〈仲良くできない理由は?〉

 今月でテロスにやってきて十ヶ月。自分が消えても二人は残る。ウォルフはグラキエスに戻ると言っていたが、サーシャは帰るつもりがないため残るだろう。同郷で、ましてや隣人だった者同士。仲良くなれとは言わないが、せめて穏やかに会話できるぐらいにはなってほしい。少し前まではちゃんと出来ていたのだから。

「……サーシャの全てが気に入らないんです」

 魔女が関連しているということは言わないでおいた。それはサーシャもわかっている。魔女と契約していると知ればイベリスはきっと困惑して普通の態度では接してくれないと予想しているから。自分のためではないとわかっていてもこの場で暴露されないことをありがたいと思う。

〈サーシャは?〉
「私は他人が嫌いです。彼だけが特別というわけではなく、イベリス様以外を受け入れるつもりはありませんので」

 サーシャはもともとそういう性格だと聞いている。仕事はできるが同僚からの評判は良くないと。イベリスも彼女と出会ったばかりの頃は怖そうだと思っていたが、接してみてその意見はガラリと変わった。サーシャが侍女で良かったと心から思えるほど好きになった。
 水と油はどんなに混ぜても混ざらない。それでもイベリスは考えた。
 パンッと手を叩いてその場で人差し指を立てて視線を集める。

〈二人で何か楽しいことを考えて〉

 唐突な命令に二人が同時にキョトンとする。

〈私のことが大好きな二人は私のためにとっても楽しいことを提案してくれるのよね? すごく楽しみ!〉

 それだけ言うとイベリスはウォルフの手からリードを取ってマシロと城へ向かって歩き出した。
 残された二人はポカンと口を開け、悪意なき顔で互いを見る。

「楽しいことって?」
「イベリス様が喜ぶこと、でしょ」

 木々の隙間から差し込む木漏れ日を受けながら二人は同時に同じ方向へと首を傾げる。これまでイベリスが自分のために何かしてくれと頼んだことはない。楽しいことはいつも提案だったから。
 一方的に言いつけて去っていったイベリスが何を考えているのか読み解くことはできず、困惑するものの、二人は向き合った。

「お前が拒んでも俺はやるぞ」
「拒むわけないでしょ。イベリス様が楽しみにしてるんだから完璧に仕上げる。言っとくけど、いい加減なことしたら全部砕くから」
「こっちの台詞だわ」

 まだ何をするかも決まっていないが、二人の考えは同じだった。
 十ヶ月が経った今、イベリスが消えるまで残り二ヶ月。イベリスもそれがわかっていて甘えているのではないかとウォルフは思っていた。それなら絶対に成功させなければならない。これも自分に出来る絶対のこと。

「俺は獣化するだけでイベリス様に喜んでもらえるけどな」
「そうね。いつもどおりにガッカリされるでしょうけど」

 言い方こそ気に入らないものの、返す言葉もない。

「今日の夜、街に出るぞ」
「は? どうして街まで出なきゃいけないのよ」
「お前は俺を部屋に入れたくないし、俺の部屋にも入りたくない。俺も同じ。ならどこで話す? 使用人二人が談話室使うなんてそれこそ怪しまれるだけだろ。街の酒場じゃ誰も他人なんざ気にしてもない。何かを話し合うには一番良いんだよ」

 ウォルフと二人で話し合っているところを他の使用人に見られるのは避けたいサーシャにとっては良い提案だった。街まで降りるという面倒な移動はあるが、そう遠くはないだけに嫌な顔は見せなかった。

「メモ帳とペンと金だけは忘れるなよ」
「アンタこそ財布忘れたって言ったら酒場で働かせるから」

 二人は一旦停戦することにした。イベリスがあそこまで言うぐらいだから自分たちの喧嘩は目に余るほどだったのだろう。我慢させてしまっていたことを反省しながらも二人は左右に分かれて歩き、別々に城へと戻っていった。
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