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疑惑
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カフェに入った四人は奥にある個室に案内された。
イベリスとベンジャミンだけが笑顔を浮かべ、従者の二人は無表情。
〈今日は食べ物を粗末にしないでね?〉
〈あれ以来していない。僕も反省したんだ〉
いい子、と言って笑うだけでベンジャミンの表情はだらしないほど緩む。いい子と言ってもらえるのは自分かマシロだけだったのにと獣の特権であったはずの言葉が口だけかもしれないベンジャミンに使われた不満を表情に出すウォルフにイベリスは気付いていない。
〈ところで、聞きたいこととはなんだ?〉
〈リーダスも朝が来なかったのよね?〉
近隣諸国で起こっていることだと聞いていためリーダスもと問うと予想どおり、ベンジャミンが頷く。
〈聖女が来たことで朝が来た。闇が祓われた、というべきか〉
〈聖女はどのぐらい滞在してた?〉
〈二日目の朝には出て行ったな〉
一泊して次の朝にはリーダスを出たということ。
(目的はテロスだった?)
船の中でイーリスが言っていたことがわかれば疑問を持ち続けずに済んだのだろうが、ずっと喋っていたため唇を読むことさえできなかった。なんの目的があってそうしたのか。今すぐにでも聞きたいが、地下を開ければ飛び出す可能性があるためできないと言われているため提案もできないことがもどかしい。
〈聖女にもっと留まるよう引き留めなかったの?〉
〈引き留めていたな。だが、闇を祓えるのは自分だけだからと出て行ってしまった〉
〈リーダスの次はどこへ行くって?〉
〈場所は言ってなかったが、位置的にテロスだろうと。テロスにも聖女は来たか?〉
〈褐色肌の人?〉
〈そうだ。僕の好みではなかったが、美人だと皆が言っていた。僕はどちらかというと可愛い感じの女性がタイプなんだ〉
ふむ、と考え込むイベリスにベンジャミンの言葉は〈そうだ〉しか届いていない。
イーリスは幻術使いであって聖女ではなかった。これは間違いない。聖女であれば皇妃を誘拐する必要がない。歌で幻術をかけていたのだとしたら自分にだけ空がいつもどおりだったことに説明がつく。そして聖女でありたいイーリスにとって耳の聞こえない、幻術が効かない皇妃の存在が邪魔となり、誘拐したことも。
ただ、なぜテロスには一週間も滞在したのかが説明がつかない。
(ファーディナンドがタイプだったとか?)
ありえない話ではない。アルフローレンスと比較するのもおかしな話だが、ファーディナンドもそこそこ整った顔をしている。アルフローレンスが極端に整いすぎているだけのように思えるが。
イーリスはファーディナンドを良いと思っていた。だから一週間も滞在していた。
(でもそれならもっと滞在を決めてもおかしくないと思うんだけど……)
滞在を長引かせれば皇妃がいつか怪しむかもしれない。皇帝に伝え、徐々に疑心が広がっていくとボロが出ると考えて自ら国を出る決断をした。だが、逃げたわけではない。あくまでも聖女のまま国を出て、次に戻るときは皇妃の遺体を持ち帰るつもりだったのかもしれない。マシロに噛まれたときのように──……
ハッとする。
(マシロは彼女が聖女じゃないとわかってた。嫌な感じがしていたから彼女を見つけるだけで唸り、私に触れようとしたから噛み付いた。マシロだけがわかってた……)
イベリスの瞳から大粒の涙が溢れる。
「イベリス!? ど、どうした!? どこか痛いのか!?」
「イベリス様?」
突然泣き出した理由はウォルフにもわからない。イベリスは考えすぎるところがあるため何か考えていたのは間違いないだろう。トラウマか、と心配し、背中を撫でるとかぶりを振る。
〈マシロに会いたい……〉
その言葉にウォルフが眉を下げ、ベンジャミンは首を傾げる。
「マシロとは?」
「陛下がイベリス様に贈られた犬です。イベリス様が我が子のように愛情を注いでいた犬なのですが……」
「いなくなったのか?」
「……聖女に噛みつき、処分となりました」
ああ……と同情の声を漏らすベンジャミンはペンを握ったままどう言葉をかけるべきか迷っていた。
国を闇から救った救世主に噛み付いた犬はどこの国でも処分対象となるだろう。リーダスでも同じ対処をしたはず。仕方ないと言葉は浮かぶが、書くことはできない。イベリスがその判断にどれほど心を挫かれたか、挫かれているのかが容易に想像がつくから。
「聖女が犬を蹴ったとかではないのか?」
「目撃した使用人の話では、マシロを洗っていたイベリス様の肩に触れようとした手に噛み付いたそうです」
「目撃者がいたのであれば確かか……」
もしかすると幻術でそう見せられていただけで、実際はマシロに何かしたのではないかという疑惑もあるが、ベンジャミンには伝えない。聖女が死んだ今、それを証明するのは不可能であり、アルフローレンスが言ったように全てウォルフの憶測に過ぎなくないという結果にしかならなくなったのだから。
「王子の目に聖女はどんな女性として映りましたか?」
「僕は彼女を見たとき、なんだか少し嫌な感じがしたんだ。何が、というわけではない。あくまでもなんとなく、だ。だが、聖女というわりには彼女には神々しさがないと思った。清らかさもな」
それにはウォルフも同意見だった。歌は格別に上手かった。滑らかで、耳心地の良い声が皆を聞き惚れさせていた。しかし、本人には確かに神々しさも清らかさもなかった。偏見からものを言えば『娼館で踊り子をしている女』に見えたぐらいだ。
「……これは、あくまでも私の憶測でしかないことを念頭に置いてお聞きください」
神妙な顔をするウォルフにベンジャミンが頷く。
「あの女は聖女ではなかった可能性があります」
「聖女ではない? だったらなんだと言うんだ?」
怪訝な顔をするベンジャミンにウォルフは告げる気がなかった真実を告げる。
「幻術使い」
ベンジャミンと従者が同時にハッとした表情を浮かべ、見合わせた。
「何か引っかかっていたことでも?」
「これもまた、なんとなくでしかないが……僕もなんとなくそんな感じがしていたんだ」
「広場で歌によって闇を払った彼女の歌声をベンジャミン王子はあまり好きではないとおっしゃった。そのとき、ベンジャミン様はまさか幻術使いではないだろうな、と疑心を露わにされた」
「何故幻術使いだと?」
「言っただろう、なんとなくだと」
だが、と続けるベンジャミンが向かいに座るイベリスがテーブルに伏せて泣いている様子を見て眉を下げながら髪を撫でる。
思い出すのは闇を祓った瞬間の聖女の顔。
「お前、幻術を受けたことは?」
「ありません。今回が初めてです」
「僕は過去に二度、幻術を受けたことがある。そのとき必ずザラっとしたものを感じた」
「ザラっと?」
「あの感覚を表現するのは難しい。ザラっとなのか、ザアッとなのか……」
ああ、と答えが見つかったようにパチンと指を鳴らした。
「蓄音機が故障してザーッと不快な音を出すときがあるだろう。あの音波を肌で受けた感じだ。聖女の歌を耳にしたとき、僕はあの感覚を思い出した。だが、聖女と名乗る女が幻術使いとは思わんだろう。国の財産を奪っていったのであればまだしも、何も奪わず、あくまでも聖女として振る舞っていた。疑うには僕の感覚だけでは不十分すぎるから誰にも言いはしなかったが……」
自分だけが疑ったわけではないのならウォルフの憶測はきっと当たっている。
ウォルフはベンジャミンがただの幼稚な王子ではないことに気付いた。甘やかされて生きているが、働く頭脳は持っている。イベリスを見つめるその瞳も、髪を撫でる優しい手つきも不快だが、ファーディナンドが触れているのを見るよりずっとマシだった。
彼が夫であれば苦労しただろうが死ぬことはない。
「僕が新しい犬を贈ってやることもできるが、他の犬など望みもしないだろうしな……」
「どんなにそっくりな犬でもマシロの代わりにはなりません。イベリス様は犬を飼いたいのではなく、マシロに会いたいのです」
確かに、と頷く。イベリスと文通ができなくなって他の令嬢と文通を始めたところでそれはイベリスの代わりにはならない。
ふと、ベンジャミンが眉を寄せてウォルフを見た。
「ファーディナンド皇帝は何を考えているんだ?」
「なんのことですか?」
「僕はすごく怒っている」
「さっきまで怒ってなかったのに?」
「今思い出して腹を立てているんだ。イベリスをなんだと思っているのか、一度直に話をしなければならないと考えている。アポを取ってくれ」
あまりに突然のことになんなんだと思いながらも察しはついた。
「怒りの原因はイベリス様がロベリア元皇妃に似ていることですか?」
「僕は彼女にも良い印象を抱いていなかった。どこか聖女と似ているとさえ思う」
「性悪女だと?」
「そこまでは言っていないが、彼女については聖女と称する者もいるだけに僕が持った印象とは違い過ぎて不思議でならなかった」
ありのまま生きているからこそ本能的な何かが働くのかもしれないとベンジャミンを見ながら考え込む。イーリスの件もあり、ベンジャミンの言葉を疑う理由はない。
これは親交のないグラキエスでだからこそ話せること。
ロベリアに良い印象を持っていないという人間に会ったのは初めてだ。テロスは共に働いている使用人も国民もロベリアを愛していた。グラキエスに住んでいたウォルフはロベリアを知らない。だから実際にどういう人間だったのか、今更知ることもできない。もしロベリアが幻術を使って自分をよく見せていたのだとしたら、と考えないわけではないが、だとすればあまりにも膨大な魔力量を所持していたことになる。テロスの国民全員を洗脳していたことになるのだから。
テロスには魔力を持たない者が多いだけに彼女が幻術使いであった場合、都合が良かったのかもしれないと考えたが、すぐにかぶりを振った。
(それこそ憶測でしかないだろ。だけど……)
考えることは山のように出ていく。その全てが憶測でしかなく、確認しようのないもの。
「イベリス、マグマコーヒーが来たぞ。見ろ、グツグツだ」
揺れ起こす優しい手に顔を上げたイベリスが涙を拭って運ばれてきたケーキとコーヒーを見る。
「食欲がなければムリに食べる必要はありませんからね」
〈僕が食べてやってもいい。僕はお腹が空いているからお前の分も食べられるぞ。だからもったいないとムリはするな〉
差し出された紙を見て微笑むイベリスがフォークを手に取る。
何故、彼女は幸せになれないだろう。まるで幸せになることが許されていないかのように辛い物語の中でもがいている。他人のために犠牲になる必要などないというのに、彼女は何を考えているのか。ウォルフはそれも疑問だった。
〈この上澄みだけを飲むらしいぞ。下の粉は飲んではいけないんだ〉
〈苦い〉
舌を出してオエッと顔に出すイベリスを子供だと笑うベンジャミンのこんなに優しい笑顔を従者は初めて見た。その驚きが隠せず、目を疑っている。
あの何をするにもやる気がない、わがままでどうしようもなかった王子が毎日手紙を待ち、机に向かう姿は国王である父親でさえ信じられないと目を疑っていた。
彼女とここで会えてよかった。また少し大人になったように見えた王子に従者はどこか誇らしげだった。
イベリスとベンジャミンだけが笑顔を浮かべ、従者の二人は無表情。
〈今日は食べ物を粗末にしないでね?〉
〈あれ以来していない。僕も反省したんだ〉
いい子、と言って笑うだけでベンジャミンの表情はだらしないほど緩む。いい子と言ってもらえるのは自分かマシロだけだったのにと獣の特権であったはずの言葉が口だけかもしれないベンジャミンに使われた不満を表情に出すウォルフにイベリスは気付いていない。
〈ところで、聞きたいこととはなんだ?〉
〈リーダスも朝が来なかったのよね?〉
近隣諸国で起こっていることだと聞いていためリーダスもと問うと予想どおり、ベンジャミンが頷く。
〈聖女が来たことで朝が来た。闇が祓われた、というべきか〉
〈聖女はどのぐらい滞在してた?〉
〈二日目の朝には出て行ったな〉
一泊して次の朝にはリーダスを出たということ。
(目的はテロスだった?)
船の中でイーリスが言っていたことがわかれば疑問を持ち続けずに済んだのだろうが、ずっと喋っていたため唇を読むことさえできなかった。なんの目的があってそうしたのか。今すぐにでも聞きたいが、地下を開ければ飛び出す可能性があるためできないと言われているため提案もできないことがもどかしい。
〈聖女にもっと留まるよう引き留めなかったの?〉
〈引き留めていたな。だが、闇を祓えるのは自分だけだからと出て行ってしまった〉
〈リーダスの次はどこへ行くって?〉
〈場所は言ってなかったが、位置的にテロスだろうと。テロスにも聖女は来たか?〉
〈褐色肌の人?〉
〈そうだ。僕の好みではなかったが、美人だと皆が言っていた。僕はどちらかというと可愛い感じの女性がタイプなんだ〉
ふむ、と考え込むイベリスにベンジャミンの言葉は〈そうだ〉しか届いていない。
イーリスは幻術使いであって聖女ではなかった。これは間違いない。聖女であれば皇妃を誘拐する必要がない。歌で幻術をかけていたのだとしたら自分にだけ空がいつもどおりだったことに説明がつく。そして聖女でありたいイーリスにとって耳の聞こえない、幻術が効かない皇妃の存在が邪魔となり、誘拐したことも。
ただ、なぜテロスには一週間も滞在したのかが説明がつかない。
(ファーディナンドがタイプだったとか?)
ありえない話ではない。アルフローレンスと比較するのもおかしな話だが、ファーディナンドもそこそこ整った顔をしている。アルフローレンスが極端に整いすぎているだけのように思えるが。
イーリスはファーディナンドを良いと思っていた。だから一週間も滞在していた。
(でもそれならもっと滞在を決めてもおかしくないと思うんだけど……)
滞在を長引かせれば皇妃がいつか怪しむかもしれない。皇帝に伝え、徐々に疑心が広がっていくとボロが出ると考えて自ら国を出る決断をした。だが、逃げたわけではない。あくまでも聖女のまま国を出て、次に戻るときは皇妃の遺体を持ち帰るつもりだったのかもしれない。マシロに噛まれたときのように──……
ハッとする。
(マシロは彼女が聖女じゃないとわかってた。嫌な感じがしていたから彼女を見つけるだけで唸り、私に触れようとしたから噛み付いた。マシロだけがわかってた……)
イベリスの瞳から大粒の涙が溢れる。
「イベリス!? ど、どうした!? どこか痛いのか!?」
「イベリス様?」
突然泣き出した理由はウォルフにもわからない。イベリスは考えすぎるところがあるため何か考えていたのは間違いないだろう。トラウマか、と心配し、背中を撫でるとかぶりを振る。
〈マシロに会いたい……〉
その言葉にウォルフが眉を下げ、ベンジャミンは首を傾げる。
「マシロとは?」
「陛下がイベリス様に贈られた犬です。イベリス様が我が子のように愛情を注いでいた犬なのですが……」
「いなくなったのか?」
「……聖女に噛みつき、処分となりました」
ああ……と同情の声を漏らすベンジャミンはペンを握ったままどう言葉をかけるべきか迷っていた。
国を闇から救った救世主に噛み付いた犬はどこの国でも処分対象となるだろう。リーダスでも同じ対処をしたはず。仕方ないと言葉は浮かぶが、書くことはできない。イベリスがその判断にどれほど心を挫かれたか、挫かれているのかが容易に想像がつくから。
「聖女が犬を蹴ったとかではないのか?」
「目撃した使用人の話では、マシロを洗っていたイベリス様の肩に触れようとした手に噛み付いたそうです」
「目撃者がいたのであれば確かか……」
もしかすると幻術でそう見せられていただけで、実際はマシロに何かしたのではないかという疑惑もあるが、ベンジャミンには伝えない。聖女が死んだ今、それを証明するのは不可能であり、アルフローレンスが言ったように全てウォルフの憶測に過ぎなくないという結果にしかならなくなったのだから。
「王子の目に聖女はどんな女性として映りましたか?」
「僕は彼女を見たとき、なんだか少し嫌な感じがしたんだ。何が、というわけではない。あくまでもなんとなく、だ。だが、聖女というわりには彼女には神々しさがないと思った。清らかさもな」
それにはウォルフも同意見だった。歌は格別に上手かった。滑らかで、耳心地の良い声が皆を聞き惚れさせていた。しかし、本人には確かに神々しさも清らかさもなかった。偏見からものを言えば『娼館で踊り子をしている女』に見えたぐらいだ。
「……これは、あくまでも私の憶測でしかないことを念頭に置いてお聞きください」
神妙な顔をするウォルフにベンジャミンが頷く。
「あの女は聖女ではなかった可能性があります」
「聖女ではない? だったらなんだと言うんだ?」
怪訝な顔をするベンジャミンにウォルフは告げる気がなかった真実を告げる。
「幻術使い」
ベンジャミンと従者が同時にハッとした表情を浮かべ、見合わせた。
「何か引っかかっていたことでも?」
「これもまた、なんとなくでしかないが……僕もなんとなくそんな感じがしていたんだ」
「広場で歌によって闇を払った彼女の歌声をベンジャミン王子はあまり好きではないとおっしゃった。そのとき、ベンジャミン様はまさか幻術使いではないだろうな、と疑心を露わにされた」
「何故幻術使いだと?」
「言っただろう、なんとなくだと」
だが、と続けるベンジャミンが向かいに座るイベリスがテーブルに伏せて泣いている様子を見て眉を下げながら髪を撫でる。
思い出すのは闇を祓った瞬間の聖女の顔。
「お前、幻術を受けたことは?」
「ありません。今回が初めてです」
「僕は過去に二度、幻術を受けたことがある。そのとき必ずザラっとしたものを感じた」
「ザラっと?」
「あの感覚を表現するのは難しい。ザラっとなのか、ザアッとなのか……」
ああ、と答えが見つかったようにパチンと指を鳴らした。
「蓄音機が故障してザーッと不快な音を出すときがあるだろう。あの音波を肌で受けた感じだ。聖女の歌を耳にしたとき、僕はあの感覚を思い出した。だが、聖女と名乗る女が幻術使いとは思わんだろう。国の財産を奪っていったのであればまだしも、何も奪わず、あくまでも聖女として振る舞っていた。疑うには僕の感覚だけでは不十分すぎるから誰にも言いはしなかったが……」
自分だけが疑ったわけではないのならウォルフの憶測はきっと当たっている。
ウォルフはベンジャミンがただの幼稚な王子ではないことに気付いた。甘やかされて生きているが、働く頭脳は持っている。イベリスを見つめるその瞳も、髪を撫でる優しい手つきも不快だが、ファーディナンドが触れているのを見るよりずっとマシだった。
彼が夫であれば苦労しただろうが死ぬことはない。
「僕が新しい犬を贈ってやることもできるが、他の犬など望みもしないだろうしな……」
「どんなにそっくりな犬でもマシロの代わりにはなりません。イベリス様は犬を飼いたいのではなく、マシロに会いたいのです」
確かに、と頷く。イベリスと文通ができなくなって他の令嬢と文通を始めたところでそれはイベリスの代わりにはならない。
ふと、ベンジャミンが眉を寄せてウォルフを見た。
「ファーディナンド皇帝は何を考えているんだ?」
「なんのことですか?」
「僕はすごく怒っている」
「さっきまで怒ってなかったのに?」
「今思い出して腹を立てているんだ。イベリスをなんだと思っているのか、一度直に話をしなければならないと考えている。アポを取ってくれ」
あまりに突然のことになんなんだと思いながらも察しはついた。
「怒りの原因はイベリス様がロベリア元皇妃に似ていることですか?」
「僕は彼女にも良い印象を抱いていなかった。どこか聖女と似ているとさえ思う」
「性悪女だと?」
「そこまでは言っていないが、彼女については聖女と称する者もいるだけに僕が持った印象とは違い過ぎて不思議でならなかった」
ありのまま生きているからこそ本能的な何かが働くのかもしれないとベンジャミンを見ながら考え込む。イーリスの件もあり、ベンジャミンの言葉を疑う理由はない。
これは親交のないグラキエスでだからこそ話せること。
ロベリアに良い印象を持っていないという人間に会ったのは初めてだ。テロスは共に働いている使用人も国民もロベリアを愛していた。グラキエスに住んでいたウォルフはロベリアを知らない。だから実際にどういう人間だったのか、今更知ることもできない。もしロベリアが幻術を使って自分をよく見せていたのだとしたら、と考えないわけではないが、だとすればあまりにも膨大な魔力量を所持していたことになる。テロスの国民全員を洗脳していたことになるのだから。
テロスには魔力を持たない者が多いだけに彼女が幻術使いであった場合、都合が良かったのかもしれないと考えたが、すぐにかぶりを振った。
(それこそ憶測でしかないだろ。だけど……)
考えることは山のように出ていく。その全てが憶測でしかなく、確認しようのないもの。
「イベリス、マグマコーヒーが来たぞ。見ろ、グツグツだ」
揺れ起こす優しい手に顔を上げたイベリスが涙を拭って運ばれてきたケーキとコーヒーを見る。
「食欲がなければムリに食べる必要はありませんからね」
〈僕が食べてやってもいい。僕はお腹が空いているからお前の分も食べられるぞ。だからもったいないとムリはするな〉
差し出された紙を見て微笑むイベリスがフォークを手に取る。
何故、彼女は幸せになれないだろう。まるで幸せになることが許されていないかのように辛い物語の中でもがいている。他人のために犠牲になる必要などないというのに、彼女は何を考えているのか。ウォルフはそれも疑問だった。
〈この上澄みだけを飲むらしいぞ。下の粉は飲んではいけないんだ〉
〈苦い〉
舌を出してオエッと顔に出すイベリスを子供だと笑うベンジャミンのこんなに優しい笑顔を従者は初めて見た。その驚きが隠せず、目を疑っている。
あの何をするにもやる気がない、わがままでどうしようもなかった王子が毎日手紙を待ち、机に向かう姿は国王である父親でさえ信じられないと目を疑っていた。
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