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ウォルフの家族2
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「紹介しろ」
肌にビリッとくる声にもう一度深呼吸してから祖父を見て口を開いた。
「彼女はテロスの皇妃、イベリス様だよ」
その説明にまず怪訝な表情を見せる。
「テロスと交流はないはずじゃが?」
「詳しいことは言えないけど、俺たちが乗った船が嵐に巻き込まれてグラキエスまで流されたんだ。グラキエスに来たのは偶然で、予定はなかった。船の修理が終わるまでの滞在だったし、実家に立ち寄るつもりもなかったけど、イベリス様がせっかくだから家族に会ったほうがいいって言ってくださって」
「テロスの皇帝はどうした?」
「聖女を偽った幻術使いによって混乱に陥ったテロスをまとめてるんだろうね」
尊敬の念すら感じない口調に厳しい顔つきへと変わる祖父から目を逸らす。あの目が幼い頃から苦手だった。グラキエスの人間はこぞってどこか冷たい目をしている。人の心を凍らせて恐怖に陥れるような、圧をかけて従わせるようなそんな目つきだ。
「彼女は耳が聞こえんようじゃな」
「あ、うん。生まれつきだって言ってた。でも、彼女はすごく明るいんだ。耳の聞こえない人が暗いってわけじゃないけど、彼女の明るさは底抜けだよ。優しくて、愛情豊かで。ご両親にたくさんの愛情を注がれて育ってこられたんだろうなって思う人だよ」
ウォルフの言葉は文字として表示されるため恥ずかしくなった。そんな立派な人間ではないのにウォルフはいつも大仰に褒めてくれる。少し俯いて唇を引っ込め、嬉しさで口元が緩みそうになるのを堪えるイベリスの視界に入るように祖父がトントンとテーブルを指で叩いた。
慌てて顔を上げるイベリスに向ける表情は先程と違い、とても柔和なもの。イベリスは手首から下げていたメモ帳をテーブルに置いて自己紹介を書いた。
〈イベリスと申します。お会いしてから五分以上経っているのに自己紹介もせずに申し訳ございません〉
メモ帳を差し出すと共に頭を下げるイベリスに祖父が苦笑する。皇妃に頭を下げられる経験など生きていて一度あるかないか。ない人間のほうが多いだろう。
「そう易々と頭を下げるのはやめなさいと伝えてくれ。彼女は貴族出身じゃろう」
「どうしてわかるの?」
皇妃なのだから皇族や王族出身の可能性のほうが高いのにと驚きながらイベリスの肩に手を添えて頭を上げさせる。
「簡単なことじゃ。王族や皇族は頭を下げることを教えられん。下げるなと教えられる。皇帝が一般市民から嫁を見つけるわけがないという先入観を持っての発言じゃがな」
「彼女は伯爵家のご令嬢だったんだ」
「立派な出だ」
優しく微笑む祖父に誇らしげに笑顔を見せるウォルフに紙とペンを持ってくるよう伝え、ちょうどお茶を運んできた母親が一緒に紙とペンも持ってきてくれた。
「皇妃様はこんなお菓子食べないかもしれないけど、今日のは自信作だから是非食べてもらいたいんだよ」
「お前というやつは……こんな庶民の菓子を出して恥ずかしくないのか!」
「全然。皇妃様だって人間だよ。おやつに庶民も貴族も皇族もないじゃないのさ」
「バカもん! お前たちが口にしたことがないだけで皇族御用達の菓子はそれはそれは──」
今度はウォルフがコーヒーテーブルを指で叩いて二人の意識を向けさせる。イベリスを見るよう顎で指すと二人は驚いた顔をしたあと、母親だけがニンマリと笑う。
どこからどう見ても食べたかったパイのシロップ漬け。目を輝かせ、ごくんと喉を鳴らすイベリスに母親は祖父に勝ち誇った笑みを向けた。
〈これ、食べてもいいの?〉
「もちろんです。お口に合えばいいんですけど」
〈絶対美味しい! お家に入った瞬間にわかったわ!〉
家中に広がっていた甘い匂い。ウォルフからすればまた作っているのか、という感じだったが、イベリスには恋しくてたまらない匂いだった。食べたいと思っていた矢先に出されたそれに口の中は涎でいっぱいになる。
母親もかなり背が高く、二メートルはないものの二メートル近くあるだろう。筋肉質であり、女性にしては短すぎるベリーショートがよく似合っている。
城で出されるよりも大きく、二倍はあるのではないかと思う量は、サーシャが見たら量を減らしてきそうだと一人笑いながら両手を合わせ、フォークを握った。
「お城で出るのとはちょっと違うかもしれないけどね」
「城のは上品な味付けだから」
「何故お前が知っておる」
「イベリス様は俺やサーシャにいつも自分のおやつを食べさせてくれるんだ。せっかく一緒にいるんだから一緒に食べようって」
イベリスの視界には確かにウォルフの言葉が表示されているが、認識されていなかった。器の中でシロップをたっぷりと吸ったパイに夢中になっている。フォークを刺して断面を見ると驚いたように口を開け、ウォルフに見せた。
〈見て! すごいたくさん入ってる!〉
「うちのは特に入ってます。ギュウギュウに」
「具沢山のが美味しいからね」
「それには賛成だけど」
こぼさないようにとウォルフが皿をイベリスの手の下に添えてシロップが服に垂れるのを防ぎながらその様子を見ていた。
大口を開けて一気に頬張ったイベリスに驚いたのは祖父。伯爵令嬢とは思えない食べ方だ。
「本当に伯爵令嬢か?」
「気取ってなくて可愛いだろ」
うむむ、と困惑に唸る祖父に笑っては一口噛むたびに幸せそうに目を細めるイベリスが自分の頬をポンポンと叩いた。
「美味しいって」
「そりゃそうさ! アタシの料理は世界で一番美味いんだからね!」
あっはっはっはっはっ!と大声で笑う豪快な母親に相変わらずだと肩を竦める。
イベリスは感動していた。城で出てくるシロップ漬けも大好物だが、これは別物と思うほどの美味さに目を瞬かせる。
木の実もナッツも贅沢すぎるほど入っている。前日から漬けられているのだろうパイ生地が余すことなくシロップを吸い上げ、噛むたびに溢れてくる。そこにナッツの歯応えと木の実の柔らかさと甘酸っぱさに腹の底から幸せを感じていた。心まで満たされる甘さに大きく息を吐き出す。
「おかわりたくさんある好きなだけ言いなね」
「食が細くて量は入らないんだ。回数は多いんだけどね」
「ならお土産にしようか」
「それは喜ぶと思う」
待ってな、と言ってキッチンへと引っ込んだ母親をイベリスが慌てて追いかける。
「イベリス様!?」
「お、どうした?」
差し出されたメモ帳に目を通すと母親が眉を寄せて笑う。
〈こんなに美味しいパイのシロップ漬けを食べたのは初めてです! すっごく美味しくて、幸せな気持ちになりました。ありがとうございます〉
ウォルフの母親は料理が好きだった。狩りも好きで、料理も好き。人として街で生きるか、野生として集落で生きるか迷った瞬間もあった。だが、集落では料理はしてもお菓子までは作らない。材料は手に入っても集落にはお菓子を焼く設備がないからだ。それを理由に街で暮らすことを選ぶぐらいにはお菓子作りが好きだった。ただ好きな物を作っているだけ。それで喜んでもらえるのは贅沢だとさえ思う。美味しいという言葉は何度聞いても飽きが来ない。調子に乗って作りすぎて呆れられる、または文句を言われるときもあるのだが、幸せな気持ちになると言われたのも、感謝されたのも初めてだった。
嬉しくてたまらない。だらしない顔になってしまいそうで、思わず眉間にしわを寄せたはいいものの、すぐに解けてしまう。
〈ッ!?〉
ガバッと勢いよく抱きしめられたその強さに目を見開く。
「なんて可愛い皇妃様なんだろうね! 嫁に迎えたいぐらいだよ!」
「ちょ、ちょっと母さんやめて! イベリス様が死んじゃうだろ!」
「手加減してるよ」
「絶対してないって!」
呼吸が出来なかったせいで解放されると咳き込んだ。慌てて背中をさすりながら母親にあっち行ってくれと犬を払うように手を動かす。
「大丈夫ですか? 母がすみません」
〈大丈夫〉
胸を撫でて笑うイベリスをそっと抱き上げるとそのままソファーへと戻り、ゆっくり下ろす。母親が持ってきた水が入ったグラスを差し出し、二回ほど喉を鳴らして飲んだイベリスが息を吐き出すのを見てホッとする。
孫の様子をジッと見ていた祖父が仙人のように伸びている顎ひげを挟むように撫でながら言った。
「お前の声だけは聞こえるなど、それはもはや愛なのではないか?」
どこか確信を得ているような言い方に苦笑を返す。
「言語表示の魔法がかかってるから俺の言葉が文字になって見えるからだよ。テロスの皇帝の言葉も見えてる」
「残念だ」
「本当に」
サラッと同意したウォルフに母親も祖父も驚いた。
「お前──……」
「父さんは?」
「集落に行ってる」
「ふーん」
自分で聞いておいてあまり興味なさげな返事をするウォルフをイベリスが見上げる。ニコッと笑顔を向けられるとイベリスも同じように笑う。家族のことは何も知らない。仲良くないのかと問いかけるのも失礼な気がしてやめておいた。
「嫁に来ないかって聞いてみておくれよ」
「皇妃ってことは皇帝と結婚してるってことだからね」
「そんなのどうとでもなるよ。別に愛し合ってるわけじゃないんだろ?」
どこでそんな情報を、とでも言いたげな息子の表情に母親が笑う。
「息子が召喚された国の情報を入手するのは母親としておかしな行動でもないと思うけどね?」
「そうかもだけど……」
「父さんの前でこんなこと言えば怒られるだろうけど、自分に正直に生きるんだよ」
何が言いたいのかはわかっている。だからこそ首を縦にも横にも触れなかった。
息子の瞳の奥が揺れていることに気付いた二人は再会したときのようにテンション高く追求はしなかった。
「ただし、中途半端な覚悟はダメだよ。迷って出す答えは悪路に進んで転ぶだけだ。わかるね?」
母親の目力の強さに何が言いたいのか理解したウォルフがこくんと頷く。
吹雪の中、右に進めばいいとわかっていたのに迷って左に行ってしまったことがあった。分かれ道で急に不安になったのだ。これでいいのか。本当に右だったか? 右で正しいのか? 本当は左だったんじゃ……と考えだすと右ではない気がして左に行った。その結果、道のない崖に足を滑らせ転落した。骨折した足はすぐに治ったが、右だと信じて行けば落ちずに済んだのにと父親からキツく責められた。
自分の判断を疑うな。疑うような生き方はするな。前を向け。目標を決めろ。立ち止まるな。振り返るな。進め──そう教わった。
わかっている。わかっているけど、シロップ漬けを食べては母親を見て幸せそうに笑うイベリスを横目で見ながらウォルフはまだ答えを出せないでいた。
肌にビリッとくる声にもう一度深呼吸してから祖父を見て口を開いた。
「彼女はテロスの皇妃、イベリス様だよ」
その説明にまず怪訝な表情を見せる。
「テロスと交流はないはずじゃが?」
「詳しいことは言えないけど、俺たちが乗った船が嵐に巻き込まれてグラキエスまで流されたんだ。グラキエスに来たのは偶然で、予定はなかった。船の修理が終わるまでの滞在だったし、実家に立ち寄るつもりもなかったけど、イベリス様がせっかくだから家族に会ったほうがいいって言ってくださって」
「テロスの皇帝はどうした?」
「聖女を偽った幻術使いによって混乱に陥ったテロスをまとめてるんだろうね」
尊敬の念すら感じない口調に厳しい顔つきへと変わる祖父から目を逸らす。あの目が幼い頃から苦手だった。グラキエスの人間はこぞってどこか冷たい目をしている。人の心を凍らせて恐怖に陥れるような、圧をかけて従わせるようなそんな目つきだ。
「彼女は耳が聞こえんようじゃな」
「あ、うん。生まれつきだって言ってた。でも、彼女はすごく明るいんだ。耳の聞こえない人が暗いってわけじゃないけど、彼女の明るさは底抜けだよ。優しくて、愛情豊かで。ご両親にたくさんの愛情を注がれて育ってこられたんだろうなって思う人だよ」
ウォルフの言葉は文字として表示されるため恥ずかしくなった。そんな立派な人間ではないのにウォルフはいつも大仰に褒めてくれる。少し俯いて唇を引っ込め、嬉しさで口元が緩みそうになるのを堪えるイベリスの視界に入るように祖父がトントンとテーブルを指で叩いた。
慌てて顔を上げるイベリスに向ける表情は先程と違い、とても柔和なもの。イベリスは手首から下げていたメモ帳をテーブルに置いて自己紹介を書いた。
〈イベリスと申します。お会いしてから五分以上経っているのに自己紹介もせずに申し訳ございません〉
メモ帳を差し出すと共に頭を下げるイベリスに祖父が苦笑する。皇妃に頭を下げられる経験など生きていて一度あるかないか。ない人間のほうが多いだろう。
「そう易々と頭を下げるのはやめなさいと伝えてくれ。彼女は貴族出身じゃろう」
「どうしてわかるの?」
皇妃なのだから皇族や王族出身の可能性のほうが高いのにと驚きながらイベリスの肩に手を添えて頭を上げさせる。
「簡単なことじゃ。王族や皇族は頭を下げることを教えられん。下げるなと教えられる。皇帝が一般市民から嫁を見つけるわけがないという先入観を持っての発言じゃがな」
「彼女は伯爵家のご令嬢だったんだ」
「立派な出だ」
優しく微笑む祖父に誇らしげに笑顔を見せるウォルフに紙とペンを持ってくるよう伝え、ちょうどお茶を運んできた母親が一緒に紙とペンも持ってきてくれた。
「皇妃様はこんなお菓子食べないかもしれないけど、今日のは自信作だから是非食べてもらいたいんだよ」
「お前というやつは……こんな庶民の菓子を出して恥ずかしくないのか!」
「全然。皇妃様だって人間だよ。おやつに庶民も貴族も皇族もないじゃないのさ」
「バカもん! お前たちが口にしたことがないだけで皇族御用達の菓子はそれはそれは──」
今度はウォルフがコーヒーテーブルを指で叩いて二人の意識を向けさせる。イベリスを見るよう顎で指すと二人は驚いた顔をしたあと、母親だけがニンマリと笑う。
どこからどう見ても食べたかったパイのシロップ漬け。目を輝かせ、ごくんと喉を鳴らすイベリスに母親は祖父に勝ち誇った笑みを向けた。
〈これ、食べてもいいの?〉
「もちろんです。お口に合えばいいんですけど」
〈絶対美味しい! お家に入った瞬間にわかったわ!〉
家中に広がっていた甘い匂い。ウォルフからすればまた作っているのか、という感じだったが、イベリスには恋しくてたまらない匂いだった。食べたいと思っていた矢先に出されたそれに口の中は涎でいっぱいになる。
母親もかなり背が高く、二メートルはないものの二メートル近くあるだろう。筋肉質であり、女性にしては短すぎるベリーショートがよく似合っている。
城で出されるよりも大きく、二倍はあるのではないかと思う量は、サーシャが見たら量を減らしてきそうだと一人笑いながら両手を合わせ、フォークを握った。
「お城で出るのとはちょっと違うかもしれないけどね」
「城のは上品な味付けだから」
「何故お前が知っておる」
「イベリス様は俺やサーシャにいつも自分のおやつを食べさせてくれるんだ。せっかく一緒にいるんだから一緒に食べようって」
イベリスの視界には確かにウォルフの言葉が表示されているが、認識されていなかった。器の中でシロップをたっぷりと吸ったパイに夢中になっている。フォークを刺して断面を見ると驚いたように口を開け、ウォルフに見せた。
〈見て! すごいたくさん入ってる!〉
「うちのは特に入ってます。ギュウギュウに」
「具沢山のが美味しいからね」
「それには賛成だけど」
こぼさないようにとウォルフが皿をイベリスの手の下に添えてシロップが服に垂れるのを防ぎながらその様子を見ていた。
大口を開けて一気に頬張ったイベリスに驚いたのは祖父。伯爵令嬢とは思えない食べ方だ。
「本当に伯爵令嬢か?」
「気取ってなくて可愛いだろ」
うむむ、と困惑に唸る祖父に笑っては一口噛むたびに幸せそうに目を細めるイベリスが自分の頬をポンポンと叩いた。
「美味しいって」
「そりゃそうさ! アタシの料理は世界で一番美味いんだからね!」
あっはっはっはっはっ!と大声で笑う豪快な母親に相変わらずだと肩を竦める。
イベリスは感動していた。城で出てくるシロップ漬けも大好物だが、これは別物と思うほどの美味さに目を瞬かせる。
木の実もナッツも贅沢すぎるほど入っている。前日から漬けられているのだろうパイ生地が余すことなくシロップを吸い上げ、噛むたびに溢れてくる。そこにナッツの歯応えと木の実の柔らかさと甘酸っぱさに腹の底から幸せを感じていた。心まで満たされる甘さに大きく息を吐き出す。
「おかわりたくさんある好きなだけ言いなね」
「食が細くて量は入らないんだ。回数は多いんだけどね」
「ならお土産にしようか」
「それは喜ぶと思う」
待ってな、と言ってキッチンへと引っ込んだ母親をイベリスが慌てて追いかける。
「イベリス様!?」
「お、どうした?」
差し出されたメモ帳に目を通すと母親が眉を寄せて笑う。
〈こんなに美味しいパイのシロップ漬けを食べたのは初めてです! すっごく美味しくて、幸せな気持ちになりました。ありがとうございます〉
ウォルフの母親は料理が好きだった。狩りも好きで、料理も好き。人として街で生きるか、野生として集落で生きるか迷った瞬間もあった。だが、集落では料理はしてもお菓子までは作らない。材料は手に入っても集落にはお菓子を焼く設備がないからだ。それを理由に街で暮らすことを選ぶぐらいにはお菓子作りが好きだった。ただ好きな物を作っているだけ。それで喜んでもらえるのは贅沢だとさえ思う。美味しいという言葉は何度聞いても飽きが来ない。調子に乗って作りすぎて呆れられる、または文句を言われるときもあるのだが、幸せな気持ちになると言われたのも、感謝されたのも初めてだった。
嬉しくてたまらない。だらしない顔になってしまいそうで、思わず眉間にしわを寄せたはいいものの、すぐに解けてしまう。
〈ッ!?〉
ガバッと勢いよく抱きしめられたその強さに目を見開く。
「なんて可愛い皇妃様なんだろうね! 嫁に迎えたいぐらいだよ!」
「ちょ、ちょっと母さんやめて! イベリス様が死んじゃうだろ!」
「手加減してるよ」
「絶対してないって!」
呼吸が出来なかったせいで解放されると咳き込んだ。慌てて背中をさすりながら母親にあっち行ってくれと犬を払うように手を動かす。
「大丈夫ですか? 母がすみません」
〈大丈夫〉
胸を撫でて笑うイベリスをそっと抱き上げるとそのままソファーへと戻り、ゆっくり下ろす。母親が持ってきた水が入ったグラスを差し出し、二回ほど喉を鳴らして飲んだイベリスが息を吐き出すのを見てホッとする。
孫の様子をジッと見ていた祖父が仙人のように伸びている顎ひげを挟むように撫でながら言った。
「お前の声だけは聞こえるなど、それはもはや愛なのではないか?」
どこか確信を得ているような言い方に苦笑を返す。
「言語表示の魔法がかかってるから俺の言葉が文字になって見えるからだよ。テロスの皇帝の言葉も見えてる」
「残念だ」
「本当に」
サラッと同意したウォルフに母親も祖父も驚いた。
「お前──……」
「父さんは?」
「集落に行ってる」
「ふーん」
自分で聞いておいてあまり興味なさげな返事をするウォルフをイベリスが見上げる。ニコッと笑顔を向けられるとイベリスも同じように笑う。家族のことは何も知らない。仲良くないのかと問いかけるのも失礼な気がしてやめておいた。
「嫁に来ないかって聞いてみておくれよ」
「皇妃ってことは皇帝と結婚してるってことだからね」
「そんなのどうとでもなるよ。別に愛し合ってるわけじゃないんだろ?」
どこでそんな情報を、とでも言いたげな息子の表情に母親が笑う。
「息子が召喚された国の情報を入手するのは母親としておかしな行動でもないと思うけどね?」
「そうかもだけど……」
「父さんの前でこんなこと言えば怒られるだろうけど、自分に正直に生きるんだよ」
何が言いたいのかはわかっている。だからこそ首を縦にも横にも触れなかった。
息子の瞳の奥が揺れていることに気付いた二人は再会したときのようにテンション高く追求はしなかった。
「ただし、中途半端な覚悟はダメだよ。迷って出す答えは悪路に進んで転ぶだけだ。わかるね?」
母親の目力の強さに何が言いたいのか理解したウォルフがこくんと頷く。
吹雪の中、右に進めばいいとわかっていたのに迷って左に行ってしまったことがあった。分かれ道で急に不安になったのだ。これでいいのか。本当に右だったか? 右で正しいのか? 本当は左だったんじゃ……と考えだすと右ではない気がして左に行った。その結果、道のない崖に足を滑らせ転落した。骨折した足はすぐに治ったが、右だと信じて行けば落ちずに済んだのにと父親からキツく責められた。
自分の判断を疑うな。疑うような生き方はするな。前を向け。目標を決めろ。立ち止まるな。振り返るな。進め──そう教わった。
わかっている。わかっているけど、シロップ漬けを食べては母親を見て幸せそうに笑うイベリスを横目で見ながらウォルフはまだ答えを出せないでいた。
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