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「ズタボロだな」

 戻ってきたウォルフにアルフローレンスが嘲笑を向ける。
 朝、出ていくときは意気揚々としていた白狼が傷だらけで帰ってきた。これは面白いと言わんばかりの表情を見せる皇帝に「スノークルスにやられました」と正直に白状すれば今度は呆れた表情へと変わる。

「やはりお前はマヌケだな」
「スノークルスが腹ばいになって雪の上を滑走するなんて聞いたことないです!」
「命知らずの狩人を捕獲すべく身につけたのだろうな」
「危うく殺されるとこでした……」
「獣如きに負けるような弱者からは騎士の称号を剥奪すべきか?」
「それだけはお許しください!」

 雪の上を腹で滑って追いかけてくるスノークルスの速さにウォルフは逃げきれなかった。最高時速70kmほどで走るのだが、腹で滑走するスノークルスは疲れを知らず、坂になれば更にスピードを上げるため、あっという間に追いつかれた。イベリスをサーシャに任せ、ウォルフは美しい雪原の中をスノークルスと取っ組み合いながら転げ回った。
 スノークルスに鋭い牙がなかったことだけが幸いだが、太く鋭い爪が厄介だった。大量の出血こそなかったが、太い爪にあちこち薄く皮膚を裂かれた。
 それでもなんとか撃退できたため、そのまま振り返らずに走って帰ってきたのだが、このざま。

〈大丈夫?〉
「大丈夫ですよ。全然大丈夫です。スノークルスの奴はボッコボコにしてやりましたから」

 ハンカチで出血がある部位を押さえてくれるイベリスに笑顔を向けるとまた嘲笑が聞こえてきた。

「スノークルス如きに勝つことはできずとも、女の前で強がることだけはできるのだな」
「アル、意地悪言わないの」
「奴を庇うのか? お前は余の妻だろう」
「妻は必ずしも夫の味方じゃない」
「妻は常に夫の味方であるべきだ」
「じゃあ意地悪しないことね。あなたが意地悪するなら私もあなたに意地悪する」

 気に入らないと言いたげにフンッと鼻を鳴らす夫に肩を竦めたあと、ミュゲットは三人に顔を向ける。

「スノークルスは今が繁殖期だから警戒心が強くなってたのね」
「グラキエスに生まれながらそんな情報もなかったのか?」
「私は集落生まれではないので」
「余の前で不貞腐れたところでお前が弱者であることは変わらんぞ」

 慰めの言葉一つ持たない彼は人の心をどこに置いてきたんだと問いたくなるのを堪えて眉を寄せながら黙っているとミュゲットがアルフローレンスに振り向いてニッコリ笑った。それが彼の余計なお喋り時間の終了の合図。

「傷口をキレイに洗って消毒なさい。テロスに帰る前にボロボロになるなんてダメよ」

 テロスに帰る日は否が応でもやってくる。返事をしないウォルフの代わりにサーシャが「修理完了次第、帰国致します」と発言する。横目で不機嫌そうに視線を送るもサーシャはミュゲットを見たまま気付いていないフリをした。

「皇妃を守って偉かったわね、ウォルフ」
「お褒めいただき光栄です」

 頭を下げて部屋を出た三人はまず医務室へと向かう。手当をしてもらい、少し休んでから三人で夕飯をとったのだが、イベリスは自分がスノークルスが見たいと言ったせいだと謝り、ウォルフは自分の情報不足だと謝り、サーシャはウォルフが悪いと責めた。
 サーシャとウォルフがギャアギャアと言い合うその声を聞くことはできないが、見ているだけでも賑やかだと思う光景がイベリスは好きだった。
 グラキエスに来てまで彼女に申し訳ないと暗い顔をさせたくない二人はイベリスの笑顔を見て安堵する。

〈イベリス様、お疲れではありませんか?〉
〈全然。すごく楽しかった〉
〈今度はスノークルスが穏やかなときを見計らって見に行きましょうね〉
〈ええ。とっても楽しみ〉

 イベリスがベッドに入ると二人の主従時間は終了。ウトウトし始めたのを見て、二人は小さく声をかけて部屋をあとにする。違う国でのいつもどおりの日常。

「これで良くねぇか? ここで、こうやって暮らすのがイベリス様にとっては一番良いんだよ」
「イベリス様はファーディナンド陛下の妻なのよ。ここで暮らす理由がない」
「殺される可能性があるってわかってるだろ? それなのにテロスに帰すってことは見殺しにするってことだぞ」

 足を止めたサーシャが怒気を含んだ声で問う。

「じゃあどうしろって言うの? イベリス様になんて説明するの? 説明できるの? あれが事実だって証拠はないのよ? あの娘がついた嘘かもしれない」
「嘘であそこまで言うか?」
「私たちはあの娘のことを何も知らない。母親を困らせるために言ったでまかせかもしれないじゃない」
「でもお前だって引っかかってただろ。イベリス様を妻として迎えておきながらイベリス様への愛情なんかこれっぽっちも持ち合わせてないみたいな陛下の反応とか命日での対応とか。一目惚れって求婚しておきながら、なんでイベリス様を傷つけるような言動を繰り返していたのか。その疑問はあの娘の発言で全て納得できたはずだ」
「でも証拠にはならない」
「なんで……ッ!」

 頑なにテロスに帰ろうとするサーシャに苛立ったウォルフは唇を噛み締めた。悔しい。理解ができない。何故イベリスの身の安全よりもファーディナンドの心配を優先するのか。あの話が本当だったらどうすると不安に駆られるウォルフとサーシャの間には温度差が生じている。

「お前はグラキエスに居たくないからイベリス様を帰そうとしてるんじゃないのか?」
「私が自分のためにそうしてるって言いたいの?」

 サーシャの怒気が強くなる。

「イベリス様のことを本当に心配しているならグラキエスにいたほうが良いってわかるだろ。でもお前はずっと頑なだ。お前が嫌だから──」

 パンッと乾いた音が廊下に響く。打たれた頬を押さえることなくウォルフが睨みつける。

「これは図星だからか?」
「……ごめんなさい。でも、私は自分がここに居たくないからテロスに帰ろうとしてるわけじゃない。そうすることが正しいから言ってるのよ」
「魔女にそうしろって言われたか?」
「ッ!?」

 あからさまに顔色が変わり、今まで見せたことがない表情を見せるサーシャにウォルフは拳を握る。

「事実かよ……!」
「な、に……」

 何故。どうして。その言葉がサーシャの頭の中をぐるぐると回り続ける。湧き上がっていた怒りが消え、今、彼女の中にあるのは混乱だけ。全身が、血管まで冷えていくのを感じる。嫌な汗が全身から噴き出すのを感じる。唇が震え、今にも歯がぶつかって鳴り出しそうだった。

「アルフローレンス陛下が教えてくれた。お前が魔女と契約してるって……」

 何故アルフローレンスにそれがわかる? 彼と魔女の契約は一度きりで、魔女は誰とも交流を持たないはず。魔女がアルフローレンスを気に入って交流を持とうとしても、ミュゲット以外はどうでもいいと考える彼がそれを受け入れるはずがない。たとえ脅されたとしても拒むはず。だから他者が魔女が誰と契約しているかなど知る術はないはずなのに、何故彼は魔女と契約しているなどとウォルフに告げたのか。
 
「イベリス様はファーディナンド皇帝陛下の妻よ。グラキエスに残ったほうが良いって判断も、あの娘の証言が真実だって判断もアンタの勝手な想像に過ぎない。グラキエスにイベリス様の居場所はない。アンタがグラキエスに居たいからそう言ってるだけでしょ」
「話を逸らすなよ」
「逸らしてない。イベリス様はテロスの皇妃だからテロスに戻るべきだと言ってるだけ。グラキエスの皇妃はミュゲット様で──」
「じゃあリンベルに行こう。イベリス様の故郷だ。そこなら戻ってもおかしくない。イベリス様の居場所がある」
「戻る理由がないでしょ」

 静かな声へと変わっていくことに若干の焦りと微塵の恐怖を感じながらも冷静に対応するサーシャだが、握っている拳の中には汗が溜まっている。
 ウォルフはサーシャが魔女と契約していることを確信としている。それがサーシャにも伝わっていた。

「イベリス様のご両親に伝えよう。噂は届いてるはずだ。なら、イベリス様がテロスで辛い目に遭っていることを伝えれば戻ってくることを拒んだりはしないだろう。むしろ歓迎するはずだ」
「二人は離婚してないのよ」
「幸せを願って送り出した娘が辛い目に遭ってることを知って、離婚してから帰ってこいと言うような親じゃない」
「彼女の両親のことなんて何も知らないでしょ」
「イベリス様を見ればわかるだろ」

 反論できなかった。耳が聞こえずとも卑屈にならず太陽のように明るいイベリスを育てた両親が厳格な人間であるはずがない。彼女同様に明るく、優しい人間に決まっている。
 ウォルフが言うように、事情を話せばきっとすぐにでも受け入れるだろう。抱きしめ、おかえりと言うかもしれない。だが、サーシャはそれでもウォルフの意見に同意しなかった。

「陛下は変わりつつあるわ」
「肖像画と写真を燃やしただけだろ。あんなもんパフォーマンスだ」
「パフォーマンスで取り返しのつかないことをするわけないでしょ。燃やした肖像画と写真はもう二度と戻ってこないのよ」
「そんなことはイベリス様を迎える前にしておくべきことだっただろ。燃やすまでに何ヶ月かかったんだよ。陛下はロベリアを取り戻すための器としてイベリス様を置いておきたいだけだ。逃さないために、ロベリアではなくお前を愛してるからそうするんだって思い込ませるためにやっただけだ。肖像画なんてなくても記憶に残ってるだろ。信じさせるためなら誰だってそうする」
「アンタは人を愛したことなんてないでしょ」
「お前もだろ」

 冷たい言い方に唇を噛むも反論はしない。

「とにかく、イベリス様がテロスに帰ると言っている以上、私たちはそれに従うだけ。従者とはそういうものよ。アンタは騎士で、私は侍女。それだけなんだから」

 ミュゲットが振り分けてくれた部屋に向かう道へと足を向けたサーシャの背中にウォルフが告げる。

「俺はイベリス様に真実を話す」
「ッ……アンタねぇ!!」
「お前のことも話そうか? 可能性として」
 
 胸ぐらを掴もうとした手が止まり、ウォルフの胸の前で拳へと変わる。そのまま殴ろうと振り上げるも震えるだけで振り下ろされることはなかった。
 握った拳はストンと落ち、そのままゆっくりと開かれる。
 ウォルフは敵視しているのかもしれない。いや、しているのだろう。彼は守るべき対象を守ろうとしている。騎士らしく、命懸けで。それを危ぶめようとする人間は誰であろうと許さない。そう思っているのだ。

「悪戯にイベリス様を傷つけたいならそうしなさいよ」

 それだけ言って去っていった。
 何かを全力で殴りつけたい気持ちを拳に変えるも怒りを深呼吸で吐き出し、ウォルフも部屋へと戻っていった。
 
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