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グラキエスの両陛下

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「ミュゲット皇妃! お久しぶりでございます」

 胸に手を当てながら頭を下げるウォルフに皇妃と呼ばれた女性が微笑む。見惚れるほど美しい女性にイベリスが瞬きを繰り返す。

「テロスの皇妃、ようこそお越しくださいました」
〈イベリスです〉
「中へどうぞ。会話する手段を持ってなくてごめんなさいね。すぐに紙とペンを用意するわね」

 テロスの城とはまた違った雰囲気。雪国らしい白を基調とした城の中は不思議と暖かい。凍っていた氷がじんわりと溶けていくような感覚。雪国であることを疑いたくなる暖かさに辺りを見回すも大きな暖炉があるわけではない。コートを必要としないほど暖かい理由がわからず、ウォルフの服を軽く引っ張った。

〈どうしてお城の中はこんなに暖かいの?〉
〈陛下がミュゲット様のために太陽の石を入手したんです。それによって暖炉が必要ないぐらい暖かくなったとか〉
〈太陽の石?〉
〈その名のとおり、太陽を思わせる石なんです。非常に高温で手にするのも難しいのですが、グラキエスの皇帝陛下はサーシャと同じ氷使いでして。なんでも、太陽の石を氷で包むことによって中和させることに成功したそうです〉
〈皇帝陛下は寒がりなの?〉
〈南国育ちのミュゲット皇妃のためですよ〉
〈素敵! 愛ね!〉
〈ええ。陛下はミュゲット様のために生きておられるようなものですから〉

 ファーディナンドがロベリアのために生きているように?と浮かんだ言葉は飲み込んだ。夫婦なのだから互いのために生きるのは当然。まるでそれが特別であるかのように聞く必要はない。

(皇帝になったら皇妃を溺愛しなきゃいけないルールがあるとか?)

 ありえない。ルールに縛られて愛しているわけではないとかぶりを振る。
 前を歩くミュゲットのピンと伸びた背筋。薄着だが品のあるドレス。スズランの髪飾り。全てが彼女のために用意された物。彼女のために皇帝が用意した物。品があって美しい。まるで彼女そのもの。

〈とてもキレイな人ね〉
〈フローラリアの妖精と呼ばれたお方です〉
〈素敵な呼び方ね。彼女に合ってる〉

 この気品は絵には残せないだろう。正確に表現できる画家はいないのではないかと思わせるほど美しい。今まで世界で最も美しい女性は母親だと思っていたし、それはこの瞬間も変わっていないが、ミュゲットの美しさはそれに匹敵するほどで。感嘆の溜息が溢れてしまう。

〈フローラリアって?〉
〈最南端にある小島らしいのですが、それはそれはとても美しい島だとかで〉
〈行ってみたい!〉
〈いいですよ。俺が責任持ってお連れします〉

 約束だと小指を結ぶ。振り返ったミュゲットがその光景を見て一瞬だけ目を見開くもすぐに微笑んだ。あらあらと声を漏らして。それに対してウォルフが「違う」「そうじゃない」「誤解」の三言を繰り返すも「はいはい」と返ってくるだけ。絶対に誤解してると眉を寄せるもドアの前でミュゲットが立ち止まったことによって表情が変わる。

〈アルフローレンス皇帝陛下の執務室です〉

 ミュゲットが三回ノックすると中から「入れ」の声が聞こえる。久しぶりに聞く冷たい声。中が凍っているのではないかと思うほど冷たく聞こえる。ウォルフはこの声がずっと苦手だった。だが今は不思議と懐かしさすら感じ、怯えはない。

「ミュゲット、アポも取らぬ不躾な人間をお前が直々に迎えに行ってやる必要がどこにあったのか、余が納得できるよう説明せよ」
「皇妃として他国の皇妃を出迎えるのは至極当然のことだと思うんだけど」
「それは正式訪問であった場合だ」
「あなたも皇帝として出迎えるべきだったのよ」
「余は多忙を極めている。テロスなどという名前も知らぬ国の皇妃が来ただけで何故余がわざわざ出迎えねばならん」
「私を膝に座らせて仕事をするぐらいだから余裕があるんだと思ってた」

 いったいなんの鳥の羽根かわからない長い羽根ペンは台座に戻っており、机の上で頬杖をついている時点で仕事はしていないと言っているようなもの。
 立ち上がったアルフローレンスもまた背が高い。近くまで来たミュゲットの腰を抱いて額にキスをした。ミュゲット同様に顔が整った美しい男。
 他国の皇妃は出迎えずとも妻のことは同じ部屋にいても迎えに行く。

〈見た目よりずっと甘い人なのね〉
〈ミュゲット様がグラキエスに来るまでは冷酷な人間だったので、今は人が変わりすぎて怖いと皆言ってます〉
「なんだ、あれは?」
「手話よ。彼女は耳が聞こえないの」
「耳が聞こえぬ女に皇妃が務まるのか?」

 呆れた顔で身体を離すとミュゲットはそのまま左側にあるドアを開けて奥の部屋へと三人を招き入れる。
 賓客の中でも更に特別な相手、主にアルフローレンスの兄を通す部屋として使う場所を開放し、お茶の用意を頼んだ。

「ごめんなさいね、性格と口が悪いの」
「陛下は相変わらずのようですね」

 三人に座るよう促すとミュゲットはアルフローレンスの机から紙とペンを持ってきた。
 ミュゲットに無礼を働かないかの監視のために入ってきたアルフローレンスがドカッとソファーに腰掛け、足を組む。

「テロスの皇妃は病死したのではなかったか?」
「こちらはイベリス・リングデール元伯爵令嬢。今は結婚されてイベリス・キルヒシュ皇妃となられました」
「テロスの皇帝は死んだ妻の代わりを探したか。哀れだな」
「アル、言葉に気をつけて」

 注意を受けてもアルフローレンスに反省はなく、訂正もしなかった。哀れと口にしながらも同情の目を向けるわけでもなく、感情一つ乗っていない表情をイベリスに向ける。人形のように美しい顔だが、やはり冷たさを感じるその表情に見られる恐怖にビクッと肩が跳ねる。

「ウォルフ」
「はい」
「何用だ?」
「あー……挨拶?に来ました。船が嵐に巻き込まれて、流されて、ここまで来たので、一応は挨拶ぐらいしておかなきゃいけないかなと思いまして。グラキエスの騎士がまさか陛下に挨拶もなしに街をウロつくなんて失礼じゃないですか。」
「余に二度、同じことを言わせるつもりか?」

 アルフローレンスがこの世で最も嫌いなのは二度手間。二度同じことを繰り返すことに最も強い苛立ちを感じる。それはミュゲットが相手でもそうだ。最愛の妻相手にさえ苛立ちを感じることをただの騎士がして許されるはずがない。
 嘘が見抜かれていることに気付いたウォルフがもう一度「あー」と声を漏らして頭を掻いた。それを見たミュゲットがペンを握って紙に字を書く。

〈よかったら、女だけで話をしませんか?〉

 アルフローレンスを怖いと感じるイベリスにとってミュゲットのその誘いは嬉しいものだった。すぐに頷くイベリスに頷き返して立ち上がり、「賓客室に行ってる」と夫に伝えるも手を掴まれる。

「アル、お客様の前よ。子供みたいなことはやめて」
「俺から離れる際の行動は教えたはずだが?」
「お客様の前だって言ったでしょ」
「関係ない。俺とお前の間で交わしたルールだ。反故にするつもりか?」

 いつの間にルールになったんだと思いながらもゴネられると面倒であり客人の前で彼のみっともない姿をこれ以上見せてはいけないと諦め、イベリスに「ごめんなさいね」と苦笑を見せてから夫の頬にキスをした──つもりだった。頬に触れる直前にアルフローレンスが顔を動かしたせいで唇にキスをすることになった。
 いつもならここで軽く頬を摘んで引っ張ったりするのだが、客人の前。皇妃が皇帝の頬を引っ張るのは品位に欠ける行動。アルフローレンスはミュゲットがそう考えるとわかっていて、あえてそうした。

「ごめんなさいね。行きましょうか」

 妻より夫のほうが強い愛を見せる。客人の前だろうと関係ない横暴さだが、イベリスは不快にはならなかった。むしろその愛はとても微笑ましく見えた。
 リンウッドも手を繋ぐのが好きだった。だが、必ず『手を繋いでもいいかな?』と聞き、勝手に行動を取るようなことはしなかった。ファーディナンドともリンウッドとも違うタイプは新鮮。
 ジッとこちらを見る皇帝の視線にサーシャは気付いていたが、あえて気付かぬふりをして部屋を出た。
 ミュゲットのあとをついて向かったのは豪華な賓客室。部屋の中央に置かれたガラスの丸テーブル。その周りを囲む一人がけのソファーが四つ。その一つの側にサーシャが立ち、イベリスが座る。
 すぐにティーセットを持ってきた使用人が部屋に入り、テーブルにセットする。
 ミュゲットもソファーに腰掛け、置かれたばかりのティーカップをテーブルの端にズラして紙とペンを目の前に置いた。

〈どこかへ公務に行く予定だったのかしら?〉

 差し出された紙を覗き込み、イベリスがかぶりを振ってペンを借りるもサーシャを見上げる。

〈どこまで話していいの?〉

 親交国ではないため皇妃誘拐を話していいのかわからないイベリスの問いかけにサーシャも考える。

〈あまり詳細に話すべきではないかと〉

 頷き、紙に綴った言葉にミュゲットが目を通す。

〈私の失敗で船に乗ることになってしまったんです。そしたら嵐に巻き込まれて、サーシャのおかげで船の大破は免れたのですが、グラキエスの近くまで流されていました〉

 ペンと紙を別に用意してくれるよう使用人に伝えると慌てて持ってきてくれた。自分の分を先にイベリスの前に置き、あとから持ってきてもらった分を自分の前に置く。

〈ファーディナンド皇帝はとても心配しているでしょうね〉

 知らせなければとサーシャを見ると手紙を出しておくと言い、使用人に場所を借りたいと頼んでその場を離れた。

〈私、リンベル出身なんです〉
〈あら、そうなの? リンベルってここから南東に行ったところじゃない?〉
〈そうです〉
〈リンベルからテロスまで嫁ぐなんて……〉

 そう書いて苦笑するミュゲットと同じことを思ったため問いかけた。

〈ミュゲット皇妃は最南端から最北端に嫁いだんですよね?〉

 嫁いだ、というのが正しいのかわからないミュゲットは苦笑を続けながら一応、頷いた。
 それからイベリスの顔を少しの間見つめたあと、ペンを走らせる。

〈少し、立ち入ったことを聞いてもいいかしら?〉

 イベリスが頷く。

〈あなたなら幸せな結婚を叶えられたと思うんだけど、どうして彼からの求婚を拒まなかったの?〉

 それはイベリスとファーディナンドが恋愛結婚ではないことを知っているような言葉だった。
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