亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

文字の大きさ
上 下
62 / 190

聖女9

しおりを挟む
 イベリスは昨日から笑うようになった。だがそれはウォルフがくっついているからであって、マシロがいなくなった傷が癒えたからではない。
 獣化して傍にいるウォルフに不満はあれど、アイゼン曰く、獣人族というのは獣化しているときが一番能力が上がっているという。護衛として雇ったため能力は高いほうがいい。
 文句を言うに言えない状況に我慢しながら冷静に声をかけた。
 
「イベリス、聖女が帰るそうだ。見送りに行くぞ」

 獣のまま丸まっているウォルフにもたれかかりながら本を読むイベリスが立ち上がる。差し出した手を握られることはなく、イベリスの手はウォルフの顔を撫でた。

(本当に一週間で帰るとは思わなかった。絶対に何かと理由をつけて延長するって思ってたのに……昨日の事件で身の危険を感じたってことかしら?)

 その存在の希少性から命を狙われることも多い聖女にとって毒殺未遂は恐怖だっただろう。自分は良いことをしているつもりでも他者からすればそれが気に入らないということもある。
 廊下に出て外を見ると聖女は既に噴水の前にいた。

〈引き留めなくてよかったの?〉

 メモ帳から顔を上げるとファーディナンドが首を傾げる。

「引き留める理由があるか?」
〈聖女がいてもらうだけでテロスに箔が付くし、国民も安心するとか〉
「テロスは帝国だ。それだけで箔は付いている。国民の安堵は聖女ではなく皇帝である俺がもたらすべきだ。今回は情けなくも国民に安心をもたらすことができなかったがな」

 ふーんと心の中で返事をしながら長い階段を降りて一階まで行き、今度は少し急であるためファーディナンドの手を借りながら外の階段を下りていく。
 聖女の前まで歩くと手を離し、ニコッと微笑む。

「皇妃様に何事もなくてよかったです」
「皇妃に何もなくてよかったと」

 垂直に立てた手を左手の甲にトンッと下ろして同時に頭を下げると感謝の手話だとファーディナンドが通訳する。

「一週間の滞在は短くも充実した日々でした。陛下直々にたくさんのお話を聞かせていただき、感謝しております」
「みっともない食事会になってすまなかったな」
「とんでもない。被害がなかったのは何よりです」
「また近くに来ることがあれば寄るといい。そなたならいつでも歓迎だ」
「ありがとうございます」

 深く頭を下げた聖女を見送りに大勢の国民が城門前に集まっている。振り返って手を振るだけで歓声が起こる。イベリスが国民の顔を順番に見ようとも目が合うことはなかった。名ばかりの皇妃より国を救った聖女。
 手話か筆談でなければ会話ができないこともあって、幼い頃から少し避けられがちだった。大人になってからもそれはあまり変わらず、会話してくれるのは下心がある者だけ。
 皇妃になったから好かれるわけではない。ロベリアは皇妃として努力していたから好かれていたのであって、同じ顔でも別人というのはファーディナンドより国民のほうがわかっていると肩を竦めたくなった。

「聖女様、歌ってください!」

 一人の男が発した声にそれに賛成するような拍手が起こる。困ったように笑う聖女だが、二人を見て「いいですか?」と問いかけ、ファーディナンドが許可を出した。
 胸に手を当て、深呼吸をしてからゆっくりと口を開けた聖女が歌いだす。歌声が目に見えたならシルクのように滑らかな物だろうとファーディナンドは思う。美しいと感嘆の息を漏らす国民たちと一緒になって耳を澄ませ、その歌声に酔いしれる。

(歌声ってどんなものなのかしら。歌ってどんなものなのかしら? 涙を流すほど感動するもの? 恍惚とするほど美しいもの?)

 目の前の光景と一つになれないのはイベリスだけ。涙を流してありがたがっているように見える者。恍惚とした表情を浮かべる者。目を閉じて天を仰ぐ者と様々。自分だけが違う世界にいるような疎外感。慣れたはずなのに、今日は久しぶりにそれを強く感じている。
 音のない世界を生きるイベリスにとって聖女のありがたみはこれっぽっちもわからなかった。

「ありがとうございました」
「素晴らしい歌声だった。感謝する」

 盛大な拍手の中、聖女は馬車へと向かう。そのあとをついて行き、馬車の前で振り返った聖女がイベリスに向かって感謝の手話をして見せた。嬉しそうに笑ったのはファーディナンドだけで、イベリスは違う。ニコッとした笑顔を張り付けて手を振った。
 聞こえない不幸もあれば聞こえない幸せもある。皇妃のこうした振る舞いを快く思わない国民もいるだろう。横目で見る国民の中には隣の人間と耳打ち合いながらこちらを見ている者がいる。大方、「聖女が手話をしてるんだから手話で返せばいいのに」とでも言っているのだろうと予測し、聞こえなくてよかったと心から思う。

「では、失礼いたします」

 聖女を見送ったあと、イベリスはそのまま先に城内へと戻っていく。

「何か怒っているのか?」

 長い足で追いかけてくるファーディナンドにあっという間に追いつかれ、目の前の言葉を読むも足は止めない。怒っているわけでもなければ気分を害したわけでもない。ただ、居心地が悪いだけ。だから一刻も早く自分のテリトリーに戻りたかった。

「イベリス」

 玄関ホールで腕を掴まれ、強制的に止められる。
 振り向いたイベリスの不満げな顔に思わず眉が寄った。

「ウォルフにはあれだけ笑いかけるくせに俺にはその表情か?」

 離してと腕を振り、そのままペンを握るとメモ帳の上で走らせる。

〈怒ってるのはあなたでしょ〉
「俺は怒ってるわけじゃない。お前が……」

 ウォルフにだけ笑うから、と言おうとして口を閉じた。彼女の一番大切なものを奪った人間が要求できることなどあるはずがない。ウォルフは運良く獣人族だったからイベリスに最も必要なものを与えられた。
 たった一週間しか滞在しない聖女のためにイベリスからマシロを奪った。国のため、国民のためと言い訳しながら決めたことだ。
 目を閉じ、溜息をこぼしたファーディナンドから逃げるようにその場をあとにした。

「聖女が帰ってよかったですね」
〈そうね。なんだか好きになれない人だった。あんまり接してないのに〉
「そういうもんですよ。接してなくても生理的に、とかありますからね」
〈ウォルフもそういうのあった?〉
「山ほどありますよ。俺、あまり性格がよろしくないので嫌いな人間のほうが多いんです」

 ガバッと起き上がったイベリスが驚いた顔でウォルフを見ると大きな犬歯を見せて笑う。
 確かに昨日の口調には驚いたが、それでも性格が悪いとは思わなかった。人間は多面性な生き物だと思っているし、一緒に過ごした月日の中で知った彼はとても良い人。だからイベリスは〈ウォルフの性格が悪いなら私なんて目も当てられないほどよ〉と書いた。大きな目が何度か瞬き、そして笑う。

「イベリス様は天使ですよ。優しくて、愛らしくて、朗らかで」
「耳が聞こえないからそう思うのよ。なんでもすぐ口走ったりしないしね」
「聞こえても聞こえなくても、イベリス様が天使であることに変わりはないと思います。あ、でも、お喋りに拍車はかかったでしょうけど」
「お喋り大好きだもの」
「そういうところも素敵なんですよ」

 いつも褒めてくれるウォルフに恥ずかしくなり、毛に顔を埋めながら彼のお腹をトントンと叩く。
 今の季節、ウォルフの毛に埋まるのは暖かい。良い暖になっている。マシロもそうだった。手を埋めると暖かくて、冷えた手を毛に埋めては少し逃げられるを繰り返して遊んでいた。

(マシロに会いたい……)

 自分がちゃんと聖女の気配に気付いていればマシロは今も隣にいて、お腹を出して眠っていたのに。
 聖女が来てくれたから混乱が消えた。その代わり、マシロも消えてしまった。
 じわりと滲む涙をウォルフの毛が吸い取っていく。それでも流れる涙にイベリスは今日も後悔し続けていた。

(聖女なんて……)

 国よりも民よりも一匹の犬が大事だと思ってしまう自分もまた嫌いだった。
しおりを挟む
感想 328

あなたにおすすめの小説

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

噂の悪女が妻になりました

はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。 国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。 その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

処理中です...