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聖女6

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 翌日、ファーディナンドの予想どおり、イベリスはまた笑わなくなった。声のない賑やかさはまるで幻だったかのように静寂が続いている。

「散歩にでも行くか?」

 イベリスの部屋を訪ね、窓の側に置いてある椅子に腰かけて庭を見ているイベリスにそう問いかけるもかぶりを振られる。

「新しい犬を……」

 そう言ってすぐに口を閉じたが、妻はその言葉を許さないようにスケッチブックを開いた。マシロの絵がたくさん描かれている。新しいページを開いて綴られたのは怒り。

「あなたが、私の代わりがいると思えるなら私に新しい犬を与えてください」

 睨みはない。バンッと乱暴にペンを置くこともない。それでも明確に伝わってくる怒りにファーディナンドは返事をしなかった。

「昼食を一緒にとろう」

 頷きが返ってくるが、昼食時も静かだった。
 こんなに静かなのはいつぶりか。リンウッドが亡くなったときはイベリスは食事すらしなかったためこういった静けさとは違った。
 どこにでもついていき、どこへでも連れていくためマシロはいつも傍にいて、イベリスはシロップをかける前のパンケーキをこっそりと少しだけ与えていた。今は黙々と食べるだけ。いつもより小さな口で、いつもより時間をかけ、いつもより静かな昼食時間。
 何か話題を、と思うのに何も浮かんでこない。下手な会話の選択は相手を傷つけるだけになる。だからといってこの空間にも耐えられない。リンウッドのことは慰めれば済んだが、マシロは自分のせい。声をかけていいのかすら悩んでいた。

「皇帝陛下」

 顔を上げると聖女がいた。聖女がテーブルの近くまで寄ったことでイベリスも存在に気付いた。
 目が合うとわざわざ胸の前で手を守るようなポーズを取る聖女の手に巻かれた包帯を見て立ち上がると同時に視線を逸らした。逆恨みしている場合ではない。相手は被害者だ。マシロの牙が深く刺さっているのを見た。噛み砕こうとしていたのを見た。その包帯は嘘じゃない。だから声をかけなければ。大丈夫でしたか? マシロがごめんなさい。そう言わなければと頭ではわかっていても、聖女がこっちに来なければ、耳が聞こえないと知っていたのだから隣に立つとかしてくれれば、と思ってしまう。悔しくて、腹が立って、泣きたくなる。
 じわりと滲む涙を深呼吸を抑える。瞬きを多めにしてゆっくり息を吐き出す。

「俺があらかじめ背後から妻に触れないよう言っておくべきだった。俺からも詫びよう」
「とんでもない。皇帝陛下は正しい処遇を行ってくださいました。感謝申し上げます」

 妻が視認できるのは夫の言葉だけ。聖女が何を言っているのかはわからないが、謝罪を受けて満足げであることはわかる。

「イベリス、どこへ行くんだ?」

 振り返ったイベリスが両手人差し指を顔の横で立て、そのまま前後に動かす。そのあと、人差し指と中指で人が歩くように指を動かしてドアへと向かう。その際、聖女には頭を下げなかった。

「許してやってくれ。マシロは妻にとって我が子同然だったんだ」
「私も……心苦しいです……。犬に噛まれたのは初めてで、大騒ぎしてしまいました」
「主人を守ろうとした犬と声をかけようとした人間が折り合えなかっただけだ」
「でも、イベリス様は……私が悪いとお思いなのでしょうね……」

 悲しげに呟くその言葉をファーディナンドが否定する。

「そうではない。イベリスは自分のせいだと言っていた。イベリスは耳が聞こえない代わりに嗅覚が鋭く、気配に敏感だ。それでもそなたの気配に気付かなかったのはマシロを洗うのに夢中だったからだろう」
「ですが……私を見る目に怒りと恨みが宿っていました……」
「それはそなたにではなく、俺に向けられたものだ。マシロを奪った俺を妻は許さないだろう」
「そんな……! 皇帝陛下の判断に間違いはありません! どこの世界でも地位ある者を傷つけた動物は処分と決まっています。悲しく、辛いことではありますが、皇妃であるイベリス様はそれを受け入れるべきですのに……」

 皇妃になりたくてなったわけじゃない。騙されて皇妃になり、今を生きているイベリスにそう説くのはあまりにも非情で、ファーディナンドはそうするつもりはない。聖女の言葉に多くの貴族は賛同するだろうが、ファーディナンドは良い反応は返さなかった。
 それを横目で見る聖女が先程までイベリスが座っていた椅子に腰掛けてファーディナンドを見つめながら問いかけた。

 「一つ、質問よろしいでしょうか?」
「なぜ耳の聞こえない女と結婚したのか、か?」

 苦笑する聖女を見たあと、握っていたカトラリーを置いてイベリスが食べていたパンケーキを見つめる。

「……騙して結婚したんだ」
「騙して?」
「一目惚れしたと嘘をついた」
「どうして、嘘をつかれたのですか?」

 数秒黙り込んだあと、静かな声で答えた。

「どうしても手に入れたかったからだ」

 最低な計画を実行しようとした自分を今は恥じている。残虐と言われた皇帝も世界にはいる。それでも彼は妻にこんなことをしただろうか。嘘をついて、愛する者を取り戻すために一人の命を軽んじて犠牲にするなど。
 聖女が相手でも真実を口にするつもりはなく、苦笑して顔を上げる。

「耳が聞こえないのに、ですか?」
「聞こえないと思わせないほど妻は明るい。俺も時々、妻が聞こえないということを忘れている。それほど底抜けに明るいんだ。天真爛漫、という表現が合うかもしれんな」
「愛しておられるのですか?」
「もちろんだ」

 その答えにだけは迷いがなかった。イベリスを好きだと自覚してから、ロベリアを生き返らせるのはやめようと決意してから、彼女を好きだと想う気持ちは日に日に増している。今更返ってくるはずのない愛を待つ構えている情けない男であることも自覚している。
 それでも、ファーディナンドは断言する。相手からの気持ちがなくとも、自分はイベリスを愛していると。

「今回の件で恨まれてしまったのでは……?」
「だろうな。新しい犬を、と言ったら怒られてしまった。俺は本当に無神経な男で──」
「そんなことはありません!」

 響き渡る大声に目を瞬かせる。イベリスとでは絶対にありえないものだ。

「私は、陛下は立派な方だと思っています。聖女を信じない国も多々あった中で、陛下は何一つ疑わず受け入れてくださいました。こうして手厚いもてなしを受け、感動しています。それに、イベリス様に恨まれるとわかっていながらも私を優先してくださったその優しさに感謝しています」
「イベリスは聡明だ。しっかり話せばわかってくれる」
「だとよいのですが……。もし、わかってくださらないようであれば、私が直接お話ししますので」

 もともと快く思っていない存在だ。早々に席を立ったのを見れば聖女を受け入れてもいない。話し合いに参加させればどうなるか想像もつかないだけに「大丈夫だ」とだけ言って。

「今日は、貴族の方と会議があるとか」
「ああ」
「私も同席してもよろしいですか?」
「ダメだ」
「そうですか。私の話をすると耳にしたものですから、私が同席したほうが話が進みやすいのではないかと思ったんです」

 貴族は驚くほど口が軽い。手に入れた情報を拡声器のように皆に広げてしまう。どこぞの貴族が聖女にベラベラと喋っているのだろう。権力を手に入れるためなら金も人命も厭わない者が多く、彼女がテロスを出る前になんとか確かな繋がりを持ちたいと考えているのが手に取るようにわかる。

「滞在期間は残り少ない。テロスを楽しんでくれ。その手では不自由かもしれん。使用人を1人付けよう」
「氷使いのあのメイドはダメですか?」
「サーシャはイベリスの専属だ」
「では、あの獣人族の彼は──」
「ウォルフもイベリスの専属だ。他の使用人や騎士も皆、優秀な者ばかりだから心配する必要はない」
「はい。ありがとうございます」

 聖女という狙われやすい立場であれば使用人の優秀さを心配するのも当然だと理解し、時計を見て立ち上がる。ファーディナンドに合わせたように聖女も立ち上がり、一緒に廊下に出た。
 深く頭を下げて階段で別れ、執務室に向かう途中で合流したアイゼンを見て溜息をつく。

「俺が間違っているのはわかっている」
「でしょうね」

 容赦ない言葉に苦笑しながら執務室へと入っていった。
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