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元婚約者の変化

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 一時間ほど前~

「上機嫌ですね」
〈ええ。だってとっても嬉しいもの。良い別れ方じゃなかったから、ずっと気になってたの〉

 サーシャに髪を整えてもらうイベリスは朝から上機嫌だった。突然ではあったが、元婚約者のリンウッドがテロス近くまで行く用事があるから会いたいと手紙を寄越した。
 涙での別れから半年以上。立ち直っただろうかと心配していただけにテロス付近までの長旅が出来るようになったことはイベリスにとって良い知らせだった。
 鏡越しにウォルフの顔を見てはメモ帳を見せる。

「喧嘩別れや浮気で別れたんじゃないなら……まあ、あるかもしれませんけど」
〈ウォルフだったら会わない?〉
「絶対に何があっても会いません。気まずくて仕方ないですよ」
〈喧嘩別れの経験でもあるの?〉
「まさか。一時期でも自分の婚約者であれこれした相手と無関係の仲になったあと、どうやって話せばいいかわからないじゃないですか」
〈普通にお話したらいいと思うけど〉
「女性はそうですよね。男ばっかり引きずるんです」
「ふふっ、ウォルフの意外な一面ね」

 二メートルを超える大男の発言とは思えないことにおかしそうに笑いながら鏡の中の自分を見つめる。髪を切ってしまったためポニーテールができなくなってしまった寂しさはあれど、軽い髪も気に入っている。幼い頃からほとんど髪を切ったことがなかっただけにリンウッドは今の姿を見たら驚くだろうと少し楽しみにしていた。

「でも、不思議ですね。普通は元婚約者であろうと相手が結婚したら会いに行ったりしないもんだと思いますけど」
〈遠く離れた異国の地を踏むことってなかなかないじゃない? せっかくだからって思ったのかもしれないわ〉
「だといいんですけど」
〈ウォルフは心配性ね〉
「騎士は疑り深いんです」
〈でもリンウッドは大丈夫。とっても良い人なのよ〉

 イベリスにとっての良い人が他の人間にとっても良い人であるとは限らない。テロスの皇妃になった元婚約者に会いに来るのは少し異常だとウォルフは考えていた。いくら幼馴染であろうと立場は変わってしまったのだ。近くに行く用事があるから会いたいなどと相手が一般人のような書き方をしたリンウッドの常識のなさにイベリスの言葉をイマイチ信用できないでいる。

〈あとで紹介するわね〉
「楽しみにしています」
 
 髪飾りをつけてもらい、準備は完了。立ち上がり、両手を広げておかしな点がないか確認してもらい、二人は大丈夫だと頷く。
 それから三十分ほどでリンウッドが到着した。

「迎えに行ってきますので、イベリス様は賓客室へどうぞ。感動の再会ですよ」
「ここで会うつもりよ」
「私室で、ですか?」
「ええ。ここに連れてきてくれる?」
「わかりました」

 皇妃自ら門まで迎えに行くのはファーディナンドがいい顔をしないだろうと配慮してウォルフがリンウッドを迎えに行った。

(マジかよ……)

 既に馬車から降りて待っていたリンウッドに近付くと思わず足を止めそうになるほど驚いた。

「……リンウッド・ヘイグ様でしょうか?」
「イベリスにアポを取ってある。案内してくれ」
「イベリス様がお待ちです。こちらへどうぞ」

 歩きながらもリンウッドをイベリスのもとへ連れて行っていいものかウォルフは悩んでいた。
 リンウッドがどういう外見をしていたか知らないため元々こうであった可能性はあるが、どこから見ても病気を患っていそうな外見をしている。笑顔も心も優しい人だとイベリスは言っていた。まだ笑顔は見ていないが、どこからどう見ても柔和さはない。
 本当に彼がイベリスの婚約者なのかと怪しむが、連れて行けばわかる。イベリスが違うと言った瞬間に窓から放り出そうと考えていた。

「……イベリスではない肖像画があるのは何故だ? 皇妃はイベリスだろう」
「……イベリス様ですよ」

 長い廊下を歩く中で至る所に存在するロベリアの肖像画。立ち止まってマジマジと見ることなく見抜いた彼をこんなことでイベリスの元婚約者だと実感できたことに内心苦笑する。

「僕を馬鹿にしているのか? イベリスはこんなに腹黒い顔はしていない。彼女ほど清らかな人間はこの世にいないんだ。こんな醜悪な女とイベリスを一緒にするな」

 愛しすぎているが故に別れを告げたというのは本当なのだろう。ファーディナンドさえ言わない言葉を当たり前のように口にし、ウォルフを睨みつける。

「イベリスは不遇されているのか? ここで幸せになれていないんじゃないだろうな? それなら僕は今日、イベリスを連れ帰るつもりだ」
「陛下はイベリス様を愛しておられます。イベリス様も同じです」
「……イベリスに聞けばわかることだ」

 お前は信用していない。目で語るリンウッドに背を向けて長い階段を三階まで上がっていく。

「まだ着かないのか」
「もうすぐです」

 階段を上がりきり、角を曲がるとまた長い廊下に入る。誰もいない静かな廊下を真っ直ぐ進むと待ちきれないリンウッドがウォルフを追い抜こうとした。イベリスの部屋は彼女が間違えないようにドアにドライフラワーの花輪をかけている。そこだと確信したリンウッドが急ぐのに合わせてウォルフも足を大股で踏み出した。リンウッドはそれほど背は高くないためウォルフは早歩きしただけで彼の小走りに追いつく。

「少々お待ちください」

 ドアの前で立ち止まったウォルフが三回ノックし「リンウッド・ヘイグ様が到着されました」と言うと中からサーシャがドアを開けた。

「お待ちしておりました」
「どけ!」

 ウォルフを突き飛ばすように押したリンウッドが部屋の中に飛び込むと目を見開いた。

「イベリス……!」

 まるで女神でも見たかのようにその場に膝をついて涙を流しながら両手を伸ばすリンウッドにウォルフとサーシャは引いていた。なんだこの男は。気持ち悪い。それが第一印象だった。
 サーシャはドアを開けたはいいが、すぐにイベリスの隣に戻って警戒する。こんな気持ち悪い男がイベリスの元婚約者なわけがないと疑っていた。

〈リンウッド……?〉

 誰だお前はと思っているのはイベリスも同じなのか、恐る恐るといった感じ。

〈随分と痩せたのね〉
〈君と別れてからあまり食事が喉を通らなくて〉

 手話で会話できているのを見ると疑いは薄れる。
 メモ帳に書いたお願いをサーシャに見せるとすぐに頷いた。

〈食事を用意してくれる?〉

 今日はお茶を楽しむ予定だった。紅茶は何がいいか。軽食は何がいいかと数日前から考えていたのだが、リンウッドの様子によって変更になった。
 できるだけたくさんと所望するイベリスに頷きながらサーシャがドアへ向かい、入り口に立っていたウォルフに小声で「見張ってて」と言い、厨房へ走っていく。

「すぐに食事のご用意をさせていただきますので、おかけになってお待ちください」
〈リンウッド、立って〉

 差し出された手を両手で握るリンウッドがそのまま額に押し当てる。ウォルフの前だというのにリンウッドは涙を流し、嗚咽する。会いたかったと連呼するリンウッドをイベリスは困った顔で見ていた。相変わらずの泣き虫だが、イベリスは彼のこういうところに惹かれたのだ。
 道端で馬車に轢かれた動物を上着で包んで安全な場所へと移動させる。助かる可能性があれば獣医に連れていき、死んでいれば埋めることもあった。その際、ダメでも助かっても涙を流した。上着なんてまた買えばいいと躊躇しない彼の優しさが好きだった。
 おかしくなってしまう前にと別れを告げたのも優しさだとイベリスは受け止めている。
 好きで別れたわけではないのだから、好きすぎるから別れたのだから会いたくて当然。元来、とても泣き虫な相手だ。こうして泣きじゃくるのに驚きはなかった。驚いたのは痩せこけたように見えるその外見。七ヶ月もの間、彼は必要最低限の食事しかしていなかったのだろう。
 目の前に膝をついたイベリスはそっとリンウッドを抱きしめた。

「イベリスッ! 君に会いたかった! 君に会いたくてたまらなかったんだ! 別れようなんて言って君を手放したことを後悔してる! 僕には君しかいないのに……僕は、僕はなんて愚かな真似をしたんだ!」

 その言葉はイベリスには届いていない。聞いているのはウォルフだけ。痩せ細っている男の腹から出る声とは思えない叫び。
 ウォルフはどんな理由であれ元婚約者に会おうとは思わないだろうと自分の行動を予想している。それはここまで愛した人間がいないからなのかもしれないと思った。グラキエスの皇帝が妻を愛して変わったように、人を変えてしまうほどの愛の存在を目の前で見て、不気味ではあれど感嘆していた。
 だが、イベリスはテロスの母であり、ファーディナンドの妻。相手が元婚約者であろうと幼馴染であろうと抱きしめるのは危険だとリンウッドの腕を掴んで強制的に立ち上がらせ、そのままソファーまで運んで座らせた。

〈乱暴しないで〉
「すみません。ですが、皇妃が陛下以外の男性と抱き合っているのを見過ごすわけにはいきません」

 そうね。と書いたメモ帳をテーブルに置いて立ち上がり、リンウッドの向かいのソファーに腰掛けた。
 袖で拭っていた涙をポケットから取り出したハンカチで拭うリンウッドが泣き止むのを待つイベリスの表情は微笑ましげで、ファーディナンドの前では見せたことがないもの。この光景をファーディナンドが見ることがなくてよかったと安堵していた。
 だが、それでも不安は消えない。リンウッドが叫んでいたあの言葉が引っかかっている。

(ただ会いにきただけじゃないと思うのは考えすぎか……?)

 目的を持ってここまでやってきた。イベリスの性格を誰よりも把握しているだろうリンウッドが何を考えているのか、ウォルフはあえてイベリスの後ろに立って彼の表情を観察することにした。
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