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ファーディナンドの失態

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 今日のお茶の時間はファーディナンドに誘われたため二人ですることとなり、イベリスは彼の執務室に来ていた。

〈皇帝の幼馴染ってどういう立場の人がなるの?〉

 書かれた質問に持っていたティーカップをソーサーの上に戻したファーディナンドが肩を竦める。

「幼馴染など存在せん」
〈そうなの? 王族にだって幼馴染がいるのよ?〉
「王族と皇族は別物だ」
〈じゃあ幼馴染も友達もいないの?〉
「そうだな」

 なんて寂しい人生なんだと思う一方で、だからこそロベリアに執着する理由がわかった気がした。
 彼は今まで心を許せる相手がいなかった。自分という人間を理解し、愛してくれる人間に出会ったことがないから渇望していた願いを全て叶えてくれたロベリアに執着している。
 ようやく手に入れた愛をたった七年で失ってしまった喪失感は計り知れないだろうと同情さえした。

「何を考えているのかは知らんが、俺は孤独ではなかった」

 顔に出ていたかと頬に手を当てて揉むイベリスが首を傾げる。

「孤独とは一人ではなかった人間が感じるものだ。一人ではない幸せを知っているから孤独というものを感じる。俺は生まれてからずっと一人だった。厳格な親に育てられ、友人さえ作ることは許されなかったからな。皇帝として生きる未来を見据え、その自覚を幼い頃から植え付けられ、押さえつけられるがままに生きてきたからこそ、人生とはそういうものだと思って生きてきた」
〈でも、大人になってわかったんじゃない? 自分は孤独だったんだって〉
「そうでもない。俺は元来、人付き合いが得意ではない。談笑する人間を見たところで羨ましいとすら思わん」

 今度はイベリスが肩を竦めて返事をメモ帳に書いた。

〈寂しい人〉

 書かれた言葉に眉を寄せるもイベリスは呆れるでも同情でもなく笑顔だった。大方、友人がいないことをからかっているのだろうとジトッと視線を向けるもイベリスは既にペンを走らせている。

〈でも、あなたはもう知ってるでしょ? 誰かといる幸せと楽しさを〉
「そうだな」
〈今は孤独も知ってる〉
「ああ……」

 互いに決してロベリアの名は出さない。イベリスはロベリアとのことを言っているし、ファーディナンドもその意図に気付いていながら気付かないフリをしていた。

「お前はどうだ?」
〈どうって?〉
「長年、迫ってきた幼馴染と縁切りしたいとは思わないのか?」
〈思わない〉
「恥をかかされたのにか?」
〈恥なんてかいてないもの〉
「婚約破棄を受けたんだぞ? 婚約破棄など女にとって婚期を遅らせる恥でしかないだろう」

 すごい偏見だと目を瞬かせるも皇帝に下々の人間の生き方などわかるはずもなく、若い嫁をもらっていたファーディナンドにとって十代で結婚しないのはあり得ないのだろうと解釈してその場で腕を組んだ。こちらをジッと見つめるイベリスに片眉だけ上げて言葉を待つ。何か言いたげであるのは伝わってくる。

「なんだ?」
〈老嬢って言葉知ってる?〉
「婚期を逃し続けたババアを守るための言葉だろう。それぐらい知っている」

 大きく口を開けて信じられないと顔に書くイベリスを見ながら紅茶を飲むファーディナンドはそのままクッキーに手を伸ばした。だがその指がクッキーを摘む前にイベリスによって皿ごと遠ざけられ届かなかった。

「何をする」
〈そんなひどい言い方する人間に美味しい物を食べる権利はない!〉
「わからん。書け」

 一度テーブルに置いてペンを走らせている間にヒョイッとクッキーを摘んだファーディナンドにまた大きく口を開けるだけで声は出ていないが、出ていたら叫んでいるのだろうと想像するとおかしかったのか肩を揺らす。

〈どうしてそんな言い方するの!?〉
「俺は年寄りが嫌いなんだ」
〈あなたもいつかはその大嫌いな年寄りになるのよ?〉
「俺は婚期を逃してはいない。世継ぎを残し、偉大な皇帝として碑を残す」

 呆れたと顔に出すイベリスはペンを置いてまた皿を遠ざけた。膝に乗せてクッキーを頬張る様子を見て「卑しい」とあえて悪口を発すると残っていたクッキーを重ねて全部に齧り付いた。
 同じように呆れ顔を見せるファーディナンドに舌を出せばクッキーを皿に戻してからテーブルに置く。

(似ても似つかん)

 本当に伯爵令嬢として生きてきたのかと疑いたくなる行動に顔を背けるもペンが走る音に視線だけ向ける。

〈七年間も結婚生活があったのにどうして世継ぎが生まれなかったの?〉

 踏み込んでいい話題かわからないが、気になっていた。気分を害するだろうかと伺うような表情を見せながら答えを待っていると無表情の瞳がこちらを向き、数秒間黙ったあと、ゆっくり口を開いた。

「なんでだろうな。わからん」
〈検査しなかったの?〉
「ああ」
〈どうして? 皇帝なら世継ぎを作るのは義務でしょう? 皇妃にもプレッシャーになるわけだし、早く調べたほうがよかったんじゃない?〉
「そう急ぐつもりはなかった。互いに若かったからな。問題があったところで若さでなんとでもなると思っていた」
〈彼女はそう思ってなかったかもしれない〉

 急に不機嫌を顔に出すファーディナンドにイベリスがペンを止めた。書いていた言葉を隠すように次のページに変えると向けられるのは冷たい視線。

「お前に何がわかる」

 声色はわからないが、目つきから冷たい言い方をしているのだろうと想像はつく。

〈ごめんなさい。余計なことを聞きすぎたわ〉
「そうだな。お前には関係のないことだ」

 目の前に表示された言葉にイベリスが小さく目を見開く。キュッと唇を噛んだあと、新しいページにペンを走らせる。

〈世継ぎを残すってあなたが言ったから聞いただけよ。あなたに問題があるなら早めに検査を受けてもらわないと実現できないから〉

 見せつけるように相手の顔の近くまでメモ帳を突き出した。
 ファーディナンドが言った言葉は間違いではない。初夜も済ませていない自分たちに子作りは関係ない。ましてや相手の願いがもっと未来にある以上は二人で子供の話をしたところでそれこそ意味のない行為だ。だが、そんな言い方はないだろうとイベリスは思った。胸が痛い。呼吸が苦しくなるほどに。

〈私が健康体でよかったわね。耳が聞こえないってだけだもの〉
「どういう意味だ?」

 怪訝な表情で問いかけるファーディナンドへの返事はなかった。ペンを置き、あからさまな抵抗。言い逃げかと気を悪くしたファーディナンドが「書け」と命じるもイベリスは顔を背けて拒んだ。

「書けと言っているだろう」
〈命令しないで〉
「お前が意味のわからないことを書いたんだろう。俺はそれに対して答えを求めている。書け」

 命令するなと書いた文字を何度も指で叩いて同じ言葉を返すもそれはファーディナンドも同じ。書けと相変わらず表示され続ける文字が消えないとわかっていても手で払う。

〈時間ね〉

 ボーンと鳴った時計の音に立ち上がったイベリスの腕を掴み、強制的に座らせるともう一度「書け」と命じた。それに眉を寄せたイベリスがペンを持って泣き殴る。

〈私はあなたの妻であって従者じゃないし。使用人でもなければ部下でもないし、どこぞの国のゲストでもない。命令して従わせるならそこにあるのは夫婦関係じゃなくてただの主従関係よ〉
「…………」

 ひどく驚いた顔をするファーディナンドに怪訝な表情を向けるイベリスを彼はそのまま見つめ続ける。
 余計なことを聞いてしまった自覚はある。だから反省したのに、関係ないと言われて、わかっていても悲しかった。自分の世継ぎはロベリアとの子であってイベリスとの子ではないとハッキリ言われた気さえした。でもその思いをそのまま伝えることはできなくて、かといって上手い誤魔化し方も思いつかなかったから逃げた。
 どんなに優しくもらっても結局はロベリアのためだと感じる相手の言動を今はポジティブに考えることができず、腕を払ってその場から離れようと一歩踏み出すと同時に部屋中に響いた大きな声。
 ロベリアに言われた言葉を一語一句違えず言ったイベリスにファーディナンドは無意識に声を発した。

「ロベリア!」

 それがイベリスには文字で表示された。
 動きが止まり、瞬きをも忘れる。

「あ……」

 呼ぶつもりはなかった。呼んではいけないとわかっていたし、ずっとそうしてきた。心の内を悟られてはいけない。一目惚れではないことに気付いてはいるだろうが、それでも隠し通せる部分は隠し通さなければと思っていたのに、怒った顔と去っていく姿があまりにもよく似ていたから……口から溢れ出てしまった。

「イベリス、すまな──……」

 振り返ったイベリスの顔には涙が見えた。目に溜めた涙が溢れ零れ、こちらを睨みつけている。
 強く振り払われるがままに手を離し、早足で部屋から出ていく姿を見送るしかできなかった。

「泣いた……」

 イベリスは滅多に泣かない。笑って、怒って、拗ねて、喜んで、驚いての繰り返し。悲しみという感情など持っていないのではないかと思うほど、イベリスは涙を見せない。いつも賑やかで、いつも明るいから軽く考えていた。何を言っても泣かないのだろうと。
 そんなはずがない。あの涙は嘘ではない。悔しさか、ショックか。どちらにせよ負の感情によるもの。それも他者から与えられた感情のせいで流れたものだ。
 傷つけた──その一言に尽きる。 
 時折、言葉の端に感じさせる計画の認知。知っているはずがない。これはサーシャもウォルフも知らない計画。イベリスが知っているはずがないと思いながらも不安がよぎる。
 一体なんの不安かと自分に問う。ロベリアの器を失うこと? イベリスがいなくなること?
 二つの選択肢にかぶりを振る。後者はありえない。イベリスがいなくなればロベリアの器を失うから危惧しているだけで、イベリスの存在自体は気にしていない。気にするはずがない。選択肢として浮かぶことがおかしいのだ。

『相手を怒らせたらその人の怒りが鎮まるまで待つんじゃなくて、あなたが怒らせたんだからあなたが相手の怒りを鎮めに行くの。そこに皇帝とかそんな立場は関係ない。一人の人間としてやるべきことなんだから』

 ロベリアを怒らせて謝りに行った際に言われた言葉を思い出し、ファーディナンドは立ち上がる。

「失態だ……」

 十六歳相手に何をムキになっていたんだと自分に呆れながら寝室ではなく自室に帰ったのだろうイベリスを追いかけた。部屋には案の定、鍵がかかっていて開かない。部屋の前の大きな窓を磨く使用人は何があったと緊張しながら耳を傾けるもイベリスは聞こえないため返事などあるはずがない。ファーディナンドがドアを叩いていることにさえ気付いていないだろう。ドア越しでは言葉が表示されないことは既に検証済み。
 それでもファーディナンドはドアを叩き続けた。

「サーシャかウォルフはどこへ行った?」
「サーシャならマシロを洗いに行きました。ウォルフ騎士なら宿舎へ訓練に向かいました」

 こんな時にと舌打ちを鳴らすファーディナンドは廊下にいる使用人たちに紙とペンを持っていないか聞くが、誰も持っていなかった。もう一度舌打ちをして一度部屋に戻ったファーディナンドはイベリスに謝罪の文章を書いてから戻り、ドアの隙間から差し込んだ。

「イベリスが出てきたら知らせろ」
「承知しました」

 頭を下げる使用人は見ていた。泣きながら戻ってきたイベリスが部屋に入ってすぐ鍵をかけたことも。イベリスを追いかけてきたファーディナンドの表情がどこか苦しげに見えたことも。
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