亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

文字の大きさ
上 下
31 / 190

アイススケート3

しおりを挟む
 夕食時、それはとても静かなもので、カトラリーが食器に当たる音だけが食堂に響いている。
 広すぎる空間を埋めようとして用意された必要のない長テーブル。ファーディナンドはもちろんのこと、イベリスもすっかりと慣れたもの。
 サーシャとウォルフは二人並んで壁際に立ち、イベリスの食事が終わるのを待っている。

〈ごちそうさま〉

 左手の上で右手の指二本で箸を使って食べるように二回すくい、右手の人差し指と親指で作った輪に左手を添えて同時に手前に寄せたら左手の甲に右手を垂直にトンッと当てる。
 三人が一番見慣れた手話かもしれない。

「イベリス様」

 口を拭き終えたのを見計らってウォルフがかけた声にイベリスが振り向く。

「サーシャがイベリス様のためにスケートリンクにブラシをかけたんですよ。良かったら滑りに行きませんか?」
〈大丈夫!? 転ばなかった!?〉

 心配するイベリスにサーシャはすぐにメモ帳を取り出して返事を書いた。

〈ウォルフ騎士の背中に乗せてもらいながらの作業でしたので一度も転ぶことなく終えました〉

 その言葉にイベリスが嬉しそうに笑う。

〈一緒に作業したの?〉
〈快く引き受けてくれました〉
〈素敵! 良かった! 二人が仲良くしてくれないかなってずっと思ってたの!〉

 ウォルフは「ほらな」と言わんばかりの表情でサーシャを見遣り、それを視界の端で捉えただけで不愉快になったサーシャは顔を少し動かしてあえて視界からウォルフを消した。
 仲良くしてほしいと言わなかったイベリスの気持ちを二人はわかっていたが、サーシャがどうにも受け入れられなかった。受け入れるつもりもなかったし、今もイベリスがいったからといってあからさまに仲良くするつもりはない。だが、イベリスがこうして笑うならイベリスの前でぐらいは普通に、と考えてはいた。
 
「少しだけ練習もしたんですよ。イベリス様が転ばれては大変だと言って」
〈転んでない?〉
「今のサーシャは完璧ですよ。イベリス様もきっと楽しく滑ることができると思います」
〈じゃあ行く! 三人で滑ろ!〉

 足で椅子を下げて立ち上がっためガガッと音が鳴るもイベリスはわからない。サーシャがサッと椅子を引き、それと同時にファーディナンドを見るも目は合わなかった。食後のワインを飲んでいるだけ。三人を止めようとさえしてはいない。
 妻がやりたいことを夫が全て叶えてやる必要はない。ボートに乗り、街に下りる許可も出した。ファーディナンドは極力叶えてやっている。だから今回のことで不満を感じる必要はないが、サーシャはウォルフがファーディナンドの感情に対して曖昧にしか返事をしなかった理由がなんとなくわかった気がした。
 嫉妬が垣間見えるときもあったが、いつもではない。気まぐれ。言葉で表すならそんな感じだ。
 何故結婚したのか。そうした疑問すら感じる。ロベリアと瓜二つの少女を見つけてロベリアが生きていると思いたくて手に入れたが、結局は違う人間であることを思い知ったからロベリアに見せていたような愛は向けない。そんな感じではないかと。

「陛下、行ってまいります」
「ああ」

 淡白な返事。サーシャは昼間言ったように、ファーディナンドが早く仕事を終わらせてイベリスと滑る時間を確保するのではないかと期待していた。だが、違った。いつもどおりの時間に仕事を終わらせ、いつもどおりの時間に食事をし、スケートリンクに行くと話しても自分が行くとは言わなかった。自分が受けいているわけではないのに虚しさすら感じてしまう。
 食堂から出る前、ウォルフと共に振り返り、頭を下げた。

〈いつの間に柵ができたの!?〉
「慣れるまではこうした物が必要だと気付き、街の川にも同じ物を作ってきました」
「ありがとう」

 凍っていただけの池には新たに氷の柵が作られていた。柵というよりは塀だが、それでもそれがあるだけで安心できる。
 
「お手をどうぞ、お姫様」
〈お姫様だって!〉

 口だけ動かすため何を言っているのか二人にはわからないが、喜んでいるのは笑顔でわかる。
 先にリンクに立ったウォルフが差し出す手を取ってゆっくりと立つ。気を抜けばツルッと転んでしまいそうな感覚に顔から笑顔が消えて表情筋に力が入る。

(生まれたての仔鹿ってこういうことなのね)

 震わせるつもりなどないのに勝手に震える脚。

(足が笑うって表現は正しいわ)

 震える様が肩や胸を揺らしながら笑っているのと同じに見えて、小説に書いてあった表現を思い出しながら一人感心する。
 手を握って支えられているはずなのに転ぶのではないかという不安が消えない。それでも口元には笑みが浮かぶ。リンベルで過ごした日々を思い出して懐かしい気持ちが溢れてくるのだ。

〈ちょっと掴んでて〉

 ウォルフの手を肩に移動させるとしっかりと支えてくれる。その間にメモ帳を開いてペンを走らせた。

〈まだ少し怖いから二人が滑ってる姿を見せてくれない?〉

 いつでもイベリスが休めるようにと池の近くに置いていたテーブルと椅子を移動させてきたサーシャと二人でメモ帳を覗き込むウォルフが顔を向ける。

「俺はいいけど、サーシャはどうする?」
「私も構いません。イベリス様がそれで安心されるのでしたらいくらでも」

 決定、とイベリスを抱き抱えてリンクを下り、近くに移動させた椅子にイベリスを下ろすとウォルフはまた戻っていく。

「踊ることはできませんよ?」

 期待させすぎないよう先に言ったウォルフに頷きを返すと二人は手を繋いで滑り始める。塀が低いおかげで座っていても二人の姿がよく見える。
 空が黄昏に染まっている時間は短く、あっという間に夜へと変わる。鮮やかだった世界が闇にのまれて色を失い、その寂しさを癒すように月が照らす。
 月明かりに照らされたリンクの上で二人は手を繋ぎながら滑る。ゆっくり、でもスムーズに。
 ウォルフが言ったようにそれは踊りではなく、ただ単純に滑っているだけだが、イベリスは二人が一緒に滑る光景がとても微笑ましかった。

「滑らないのか?」

 突然表示された言葉に目を瞬かせるも後ろに感じた気配に勢いよく振り向くとファーディナンドが立っていた。
 何故来たのか、と無粋な問いかけをするつもりはなく、今の気持ちを大事にしたいためイベリスは〈あとで〉と書いた紙を見せる。

「お前が転び回っている姿を見てやろうと思ったんだが、残念だ」

 性格悪い奴だと視線を向けるも残念と言うわりには優しい微笑みがそこにある。
 彼の気持ちがイベリスは読めない。どういう心境でここに来て、今ここに立っているのか。からかうつもりで来たのであればそんな微笑みは必要ない。彼も二人を見て自分と同じ気持ちになっているのだろうかと顔をリンクへと向ける。

「陛下! 来てくださったのですね!」

 存在に気付いたウォルフがサーシャの手を引いてリンクの端まで行き、そこから陸へと上がって寄ってくる。同じように寄ってきたサーシャはファーディナンドに頭を下げるだけ。

〈イベリス様、いかがでしたか? 滑る不安は少し軽くなったりしましたか?〉
〈楽しかった?〉

 逆に問い返され、戸惑いながらも頷くサーシャにイベリスが笑顔で親指を立てる。

〈滑りに行きますか?〉
〈もう少し見てたかったな〉
「せっかく陛下が来てくださったことですし、イベリス様とお二人で滑られてはいかがですか?」

 サーシャは舌打ちを飲みこんだ。ここでファーディナンドが断ればイベリスが傷つくだけなのにと空気が読めないウォルフの舌に氷柱を突き刺してやりたくなる。
 チラッとイベリスを見ると浮かべているのは苦笑。メモ帳に綴られる言葉を先読みしたサーシャがイベリスの前にしゃがんで手を握った。

「イベリス様はまだ滑っておられませんので、陛下とお滑りになるのはもう少し慣れてからがよろしいかと。明日も明後日もイベリス様が望むままに凍らせておきますので──」

 サーシャの言葉を無視するようにリンクへと歩いていくファーディナンドが氷に足を踏み出す前に振り返って言った。

「イベリス、来い」
(犬じゃないんだけど)

 マシロを呼ぶような言い方だが、イベリスは立ち上がって歩いていく。

「なんだかんだで甘いよな」

 適度に、という言葉を隠しながらサーシャの横に立って横目で表情を伺うと苦笑する。気に入らないとあからさますぎる表情でファーディナンドを見ている。

「気まぐれすぎる」

 ボソッと呟いた声色には若干の苛立ちが滲んでいるものの拳を握ったりはしていない。複雑な感情があるのだろう。それはウォルフも同じ。だが、同時にファーディナンドも複雑な感情の中で生きているのだと考えてもいる。ロベリアを求める一心で求婚してしまったことに。別人だとわかっていながらも見た目が最愛の者と同じなだけに離婚にも踏み切れない。愛せるか、愛せないか。そんな簡単な答えが出せないでいるのでは、と勝手な想像をしている。

〈私と滑りたくなった?〉

 リンクに入る前に書いて見せると鼻で笑われた。

「お前が縋り付くような目で見てきたから来てやったんだ」
〈食堂から出る前、私はあなたを見てなかったけど?〉
「食事中に見てきただろう」
〈あなたがまたお酒飲んでるって思ってただけ〉
「素直にねだればいいだろう」
〈俺は行かない! 絶対に行かない! 転んだら恥ずかしいだろ!って言ってたのはだあれ?〉
「俺じゃないことは確かだ」
〈素直じゃないんだから。一緒に滑りたかったならそう言えばよかったのに〉
「来てやった夫に対してありがとうの一つも言えないのか?」
〈言ってほしい?〉
「お前は……」

 メモ帳を下ろして口を動かしたイベリスがなんと言っているのかわかった。ありがとうの口の動き。直後に微笑むイベリスをファーディナンドはジッと見つめる。イベリスもその瞳を見つめ返すだけ。

(もう少しだよ。もう少しだけ待ってね)

 彼が見ているのは自分ではなくロベリアだとわかっている。きっと、想像しているのだろう。テロスは池や川が凍るほど気温が下がることはない。だから一緒に氷の上を滑るなど未経験。もしロベリアが生きていたら何を言っただろう。どう楽しんだだろう、と。
 彼が日常的に思いを馳せることは全て叶えられる。恋焦がれる想いに潰されそうになることもない。夢の中でだけ会える相手ではなくなるのだと顔を下げる際に目を閉じたイベリスがゆっくり息を吐き出した。

「転んでもいいが、俺のことは引っ張るなよ」
〈道連れにしてやる〉

 思ったよりは滑らなかった。もっとサーシャのようにキレイに転ぶものだと思っていただけに彼女たちがしてくれた善意に感謝していた。
 月明かりの下で滑るというよりは歩いている。慎重に慎重に。ボートでゆっくり進んでいくのと同じ。違うのは会話がないこと。向かい合っていないこと。目が合わないこと。ずっと手を繋いでいること。
 足元は冷えているのに手は熱い。そんな不思議な感覚にイベリスは小さな幸せを感じていた。
しおりを挟む
感想 328

あなたにおすすめの小説

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

噂の悪女が妻になりました

はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。 国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。 その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

許婚と親友は両片思いだったので2人の仲を取り持つことにしました

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
<2人の仲を応援するので、どうか私を嫌わないでください> 私には子供のころから決められた許嫁がいた。ある日、久しぶりに再会した親友を紹介した私は次第に2人がお互いを好きになっていく様子に気が付いた。どちらも私にとっては大切な存在。2人から邪魔者と思われ、嫌われたくはないので、私は全力で許嫁と親友の仲を取り持つ事を心に決めた。すると彼の評判が悪くなっていき、それまで冷たかった彼の態度が軟化してきて話は意外な展開に・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

処理中です...