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アイススケート3
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夕食時、それはとても静かなもので、カトラリーが食器に当たる音だけが食堂に響いている。
広すぎる空間を埋めようとして用意された必要のない長テーブル。ファーディナンドはもちろんのこと、イベリスもすっかりと慣れたもの。
サーシャとウォルフは二人並んで壁際に立ち、イベリスの食事が終わるのを待っている。
〈ごちそうさま〉
左手の上で右手の指二本で箸を使って食べるように二回すくい、右手の人差し指と親指で作った輪に左手を添えて同時に手前に寄せたら左手の甲に右手を垂直にトンッと当てる。
三人が一番見慣れた手話かもしれない。
「イベリス様」
口を拭き終えたのを見計らってウォルフがかけた声にイベリスが振り向く。
「サーシャがイベリス様のためにスケートリンクにブラシをかけたんですよ。良かったら滑りに行きませんか?」
〈大丈夫!? 転ばなかった!?〉
心配するイベリスにサーシャはすぐにメモ帳を取り出して返事を書いた。
〈ウォルフ騎士の背中に乗せてもらいながらの作業でしたので一度も転ぶことなく終えました〉
その言葉にイベリスが嬉しそうに笑う。
〈一緒に作業したの?〉
〈快く引き受けてくれました〉
〈素敵! 良かった! 二人が仲良くしてくれないかなってずっと思ってたの!〉
ウォルフは「ほらな」と言わんばかりの表情でサーシャを見遣り、それを視界の端で捉えただけで不愉快になったサーシャは顔を少し動かしてあえて視界からウォルフを消した。
仲良くしてほしいと言わなかったイベリスの気持ちを二人はわかっていたが、サーシャがどうにも受け入れられなかった。受け入れるつもりもなかったし、今もイベリスがいったからといってあからさまに仲良くするつもりはない。だが、イベリスがこうして笑うならイベリスの前でぐらいは普通に、と考えてはいた。
「少しだけ練習もしたんですよ。イベリス様が転ばれては大変だと言って」
〈転んでない?〉
「今のサーシャは完璧ですよ。イベリス様もきっと楽しく滑ることができると思います」
〈じゃあ行く! 三人で滑ろ!〉
足で椅子を下げて立ち上がっためガガッと音が鳴るもイベリスはわからない。サーシャがサッと椅子を引き、それと同時にファーディナンドを見るも目は合わなかった。食後のワインを飲んでいるだけ。三人を止めようとさえしてはいない。
妻がやりたいことを夫が全て叶えてやる必要はない。ボートに乗り、街に下りる許可も出した。ファーディナンドは極力叶えてやっている。だから今回のことで不満を感じる必要はないが、サーシャはウォルフがファーディナンドの感情に対して曖昧にしか返事をしなかった理由がなんとなくわかった気がした。
嫉妬が垣間見えるときもあったが、いつもではない。気まぐれ。言葉で表すならそんな感じだ。
何故結婚したのか。そうした疑問すら感じる。ロベリアと瓜二つの少女を見つけてロベリアが生きていると思いたくて手に入れたが、結局は違う人間であることを思い知ったからロベリアに見せていたような愛は向けない。そんな感じではないかと。
「陛下、行ってまいります」
「ああ」
淡白な返事。サーシャは昼間言ったように、ファーディナンドが早く仕事を終わらせてイベリスと滑る時間を確保するのではないかと期待していた。だが、違った。いつもどおりの時間に仕事を終わらせ、いつもどおりの時間に食事をし、スケートリンクに行くと話しても自分が行くとは言わなかった。自分が受けいているわけではないのに虚しさすら感じてしまう。
食堂から出る前、ウォルフと共に振り返り、頭を下げた。
〈いつの間に柵ができたの!?〉
「慣れるまではこうした物が必要だと気付き、街の川にも同じ物を作ってきました」
「ありがとう」
凍っていただけの池には新たに氷の柵が作られていた。柵というよりは塀だが、それでもそれがあるだけで安心できる。
「お手をどうぞ、お姫様」
〈お姫様だって!〉
口だけ動かすため何を言っているのか二人にはわからないが、喜んでいるのは笑顔でわかる。
先にリンクに立ったウォルフが差し出す手を取ってゆっくりと立つ。気を抜けばツルッと転んでしまいそうな感覚に顔から笑顔が消えて表情筋に力が入る。
(生まれたての仔鹿ってこういうことなのね)
震わせるつもりなどないのに勝手に震える脚。
(足が笑うって表現は正しいわ)
震える様が肩や胸を揺らしながら笑っているのと同じに見えて、小説に書いてあった表現を思い出しながら一人感心する。
手を握って支えられているはずなのに転ぶのではないかという不安が消えない。それでも口元には笑みが浮かぶ。リンベルで過ごした日々を思い出して懐かしい気持ちが溢れてくるのだ。
〈ちょっと掴んでて〉
ウォルフの手を肩に移動させるとしっかりと支えてくれる。その間にメモ帳を開いてペンを走らせた。
〈まだ少し怖いから二人が滑ってる姿を見せてくれない?〉
いつでもイベリスが休めるようにと池の近くに置いていたテーブルと椅子を移動させてきたサーシャと二人でメモ帳を覗き込むウォルフが顔を向ける。
「俺はいいけど、サーシャはどうする?」
「私も構いません。イベリス様がそれで安心されるのでしたらいくらでも」
決定、とイベリスを抱き抱えてリンクを下り、近くに移動させた椅子にイベリスを下ろすとウォルフはまた戻っていく。
「踊ることはできませんよ?」
期待させすぎないよう先に言ったウォルフに頷きを返すと二人は手を繋いで滑り始める。塀が低いおかげで座っていても二人の姿がよく見える。
空が黄昏に染まっている時間は短く、あっという間に夜へと変わる。鮮やかだった世界が闇にのまれて色を失い、その寂しさを癒すように月が照らす。
月明かりに照らされたリンクの上で二人は手を繋ぎながら滑る。ゆっくり、でもスムーズに。
ウォルフが言ったようにそれは踊りではなく、ただ単純に滑っているだけだが、イベリスは二人が一緒に滑る光景がとても微笑ましかった。
「滑らないのか?」
突然表示された言葉に目を瞬かせるも後ろに感じた気配に勢いよく振り向くとファーディナンドが立っていた。
何故来たのか、と無粋な問いかけをするつもりはなく、今の気持ちを大事にしたいためイベリスは〈あとで〉と書いた紙を見せる。
「お前が転び回っている姿を見てやろうと思ったんだが、残念だ」
性格悪い奴だと視線を向けるも残念と言うわりには優しい微笑みがそこにある。
彼の気持ちがイベリスは読めない。どういう心境でここに来て、今ここに立っているのか。からかうつもりで来たのであればそんな微笑みは必要ない。彼も二人を見て自分と同じ気持ちになっているのだろうかと顔をリンクへと向ける。
「陛下! 来てくださったのですね!」
存在に気付いたウォルフがサーシャの手を引いてリンクの端まで行き、そこから陸へと上がって寄ってくる。同じように寄ってきたサーシャはファーディナンドに頭を下げるだけ。
〈イベリス様、いかがでしたか? 滑る不安は少し軽くなったりしましたか?〉
〈楽しかった?〉
逆に問い返され、戸惑いながらも頷くサーシャにイベリスが笑顔で親指を立てる。
〈滑りに行きますか?〉
〈もう少し見てたかったな〉
「せっかく陛下が来てくださったことですし、イベリス様とお二人で滑られてはいかがですか?」
サーシャは舌打ちを飲みこんだ。ここでファーディナンドが断ればイベリスが傷つくだけなのにと空気が読めないウォルフの舌に氷柱を突き刺してやりたくなる。
チラッとイベリスを見ると浮かべているのは苦笑。メモ帳に綴られる言葉を先読みしたサーシャがイベリスの前にしゃがんで手を握った。
「イベリス様はまだ滑っておられませんので、陛下とお滑りになるのはもう少し慣れてからがよろしいかと。明日も明後日もイベリス様が望むままに凍らせておきますので──」
サーシャの言葉を無視するようにリンクへと歩いていくファーディナンドが氷に足を踏み出す前に振り返って言った。
「イベリス、来い」
(犬じゃないんだけど)
マシロを呼ぶような言い方だが、イベリスは立ち上がって歩いていく。
「なんだかんだで甘いよな」
適度に、という言葉を隠しながらサーシャの横に立って横目で表情を伺うと苦笑する。気に入らないとあからさますぎる表情でファーディナンドを見ている。
「気まぐれすぎる」
ボソッと呟いた声色には若干の苛立ちが滲んでいるものの拳を握ったりはしていない。複雑な感情があるのだろう。それはウォルフも同じ。だが、同時にファーディナンドも複雑な感情の中で生きているのだと考えてもいる。ロベリアを求める一心で求婚してしまったことに。別人だとわかっていながらも見た目が最愛の者と同じなだけに離婚にも踏み切れない。愛せるか、愛せないか。そんな簡単な答えが出せないでいるのでは、と勝手な想像をしている。
〈私と滑りたくなった?〉
リンクに入る前に書いて見せると鼻で笑われた。
「お前が縋り付くような目で見てきたから来てやったんだ」
〈食堂から出る前、私はあなたを見てなかったけど?〉
「食事中に見てきただろう」
〈あなたがまたお酒飲んでるって思ってただけ〉
「素直にねだればいいだろう」
〈俺は行かない! 絶対に行かない! 転んだら恥ずかしいだろ!って言ってたのはだあれ?〉
「俺じゃないことは確かだ」
〈素直じゃないんだから。一緒に滑りたかったならそう言えばよかったのに〉
「来てやった夫に対してありがとうの一つも言えないのか?」
〈言ってほしい?〉
「お前は……」
メモ帳を下ろして口を動かしたイベリスがなんと言っているのかわかった。ありがとうの口の動き。直後に微笑むイベリスをファーディナンドはジッと見つめる。イベリスもその瞳を見つめ返すだけ。
(もう少しだよ。もう少しだけ待ってね)
彼が見ているのは自分ではなくロベリアだとわかっている。きっと、想像しているのだろう。テロスは池や川が凍るほど気温が下がることはない。だから一緒に氷の上を滑るなど未経験。もしロベリアが生きていたら何を言っただろう。どう楽しんだだろう、と。
彼が日常的に思いを馳せることは全て叶えられる。恋焦がれる想いに潰されそうになることもない。夢の中でだけ会える相手ではなくなるのだと顔を下げる際に目を閉じたイベリスがゆっくり息を吐き出した。
「転んでもいいが、俺のことは引っ張るなよ」
〈道連れにしてやる〉
思ったよりは滑らなかった。もっとサーシャのようにキレイに転ぶものだと思っていただけに彼女たちがしてくれた善意に感謝していた。
月明かりの下で滑るというよりは歩いている。慎重に慎重に。ボートでゆっくり進んでいくのと同じ。違うのは会話がないこと。向かい合っていないこと。目が合わないこと。ずっと手を繋いでいること。
足元は冷えているのに手は熱い。そんな不思議な感覚にイベリスは小さな幸せを感じていた。
広すぎる空間を埋めようとして用意された必要のない長テーブル。ファーディナンドはもちろんのこと、イベリスもすっかりと慣れたもの。
サーシャとウォルフは二人並んで壁際に立ち、イベリスの食事が終わるのを待っている。
〈ごちそうさま〉
左手の上で右手の指二本で箸を使って食べるように二回すくい、右手の人差し指と親指で作った輪に左手を添えて同時に手前に寄せたら左手の甲に右手を垂直にトンッと当てる。
三人が一番見慣れた手話かもしれない。
「イベリス様」
口を拭き終えたのを見計らってウォルフがかけた声にイベリスが振り向く。
「サーシャがイベリス様のためにスケートリンクにブラシをかけたんですよ。良かったら滑りに行きませんか?」
〈大丈夫!? 転ばなかった!?〉
心配するイベリスにサーシャはすぐにメモ帳を取り出して返事を書いた。
〈ウォルフ騎士の背中に乗せてもらいながらの作業でしたので一度も転ぶことなく終えました〉
その言葉にイベリスが嬉しそうに笑う。
〈一緒に作業したの?〉
〈快く引き受けてくれました〉
〈素敵! 良かった! 二人が仲良くしてくれないかなってずっと思ってたの!〉
ウォルフは「ほらな」と言わんばかりの表情でサーシャを見遣り、それを視界の端で捉えただけで不愉快になったサーシャは顔を少し動かしてあえて視界からウォルフを消した。
仲良くしてほしいと言わなかったイベリスの気持ちを二人はわかっていたが、サーシャがどうにも受け入れられなかった。受け入れるつもりもなかったし、今もイベリスがいったからといってあからさまに仲良くするつもりはない。だが、イベリスがこうして笑うならイベリスの前でぐらいは普通に、と考えてはいた。
「少しだけ練習もしたんですよ。イベリス様が転ばれては大変だと言って」
〈転んでない?〉
「今のサーシャは完璧ですよ。イベリス様もきっと楽しく滑ることができると思います」
〈じゃあ行く! 三人で滑ろ!〉
足で椅子を下げて立ち上がっためガガッと音が鳴るもイベリスはわからない。サーシャがサッと椅子を引き、それと同時にファーディナンドを見るも目は合わなかった。食後のワインを飲んでいるだけ。三人を止めようとさえしてはいない。
妻がやりたいことを夫が全て叶えてやる必要はない。ボートに乗り、街に下りる許可も出した。ファーディナンドは極力叶えてやっている。だから今回のことで不満を感じる必要はないが、サーシャはウォルフがファーディナンドの感情に対して曖昧にしか返事をしなかった理由がなんとなくわかった気がした。
嫉妬が垣間見えるときもあったが、いつもではない。気まぐれ。言葉で表すならそんな感じだ。
何故結婚したのか。そうした疑問すら感じる。ロベリアと瓜二つの少女を見つけてロベリアが生きていると思いたくて手に入れたが、結局は違う人間であることを思い知ったからロベリアに見せていたような愛は向けない。そんな感じではないかと。
「陛下、行ってまいります」
「ああ」
淡白な返事。サーシャは昼間言ったように、ファーディナンドが早く仕事を終わらせてイベリスと滑る時間を確保するのではないかと期待していた。だが、違った。いつもどおりの時間に仕事を終わらせ、いつもどおりの時間に食事をし、スケートリンクに行くと話しても自分が行くとは言わなかった。自分が受けいているわけではないのに虚しさすら感じてしまう。
食堂から出る前、ウォルフと共に振り返り、頭を下げた。
〈いつの間に柵ができたの!?〉
「慣れるまではこうした物が必要だと気付き、街の川にも同じ物を作ってきました」
「ありがとう」
凍っていただけの池には新たに氷の柵が作られていた。柵というよりは塀だが、それでもそれがあるだけで安心できる。
「お手をどうぞ、お姫様」
〈お姫様だって!〉
口だけ動かすため何を言っているのか二人にはわからないが、喜んでいるのは笑顔でわかる。
先にリンクに立ったウォルフが差し出す手を取ってゆっくりと立つ。気を抜けばツルッと転んでしまいそうな感覚に顔から笑顔が消えて表情筋に力が入る。
(生まれたての仔鹿ってこういうことなのね)
震わせるつもりなどないのに勝手に震える脚。
(足が笑うって表現は正しいわ)
震える様が肩や胸を揺らしながら笑っているのと同じに見えて、小説に書いてあった表現を思い出しながら一人感心する。
手を握って支えられているはずなのに転ぶのではないかという不安が消えない。それでも口元には笑みが浮かぶ。リンベルで過ごした日々を思い出して懐かしい気持ちが溢れてくるのだ。
〈ちょっと掴んでて〉
ウォルフの手を肩に移動させるとしっかりと支えてくれる。その間にメモ帳を開いてペンを走らせた。
〈まだ少し怖いから二人が滑ってる姿を見せてくれない?〉
いつでもイベリスが休めるようにと池の近くに置いていたテーブルと椅子を移動させてきたサーシャと二人でメモ帳を覗き込むウォルフが顔を向ける。
「俺はいいけど、サーシャはどうする?」
「私も構いません。イベリス様がそれで安心されるのでしたらいくらでも」
決定、とイベリスを抱き抱えてリンクを下り、近くに移動させた椅子にイベリスを下ろすとウォルフはまた戻っていく。
「踊ることはできませんよ?」
期待させすぎないよう先に言ったウォルフに頷きを返すと二人は手を繋いで滑り始める。塀が低いおかげで座っていても二人の姿がよく見える。
空が黄昏に染まっている時間は短く、あっという間に夜へと変わる。鮮やかだった世界が闇にのまれて色を失い、その寂しさを癒すように月が照らす。
月明かりに照らされたリンクの上で二人は手を繋ぎながら滑る。ゆっくり、でもスムーズに。
ウォルフが言ったようにそれは踊りではなく、ただ単純に滑っているだけだが、イベリスは二人が一緒に滑る光景がとても微笑ましかった。
「滑らないのか?」
突然表示された言葉に目を瞬かせるも後ろに感じた気配に勢いよく振り向くとファーディナンドが立っていた。
何故来たのか、と無粋な問いかけをするつもりはなく、今の気持ちを大事にしたいためイベリスは〈あとで〉と書いた紙を見せる。
「お前が転び回っている姿を見てやろうと思ったんだが、残念だ」
性格悪い奴だと視線を向けるも残念と言うわりには優しい微笑みがそこにある。
彼の気持ちがイベリスは読めない。どういう心境でここに来て、今ここに立っているのか。からかうつもりで来たのであればそんな微笑みは必要ない。彼も二人を見て自分と同じ気持ちになっているのだろうかと顔をリンクへと向ける。
「陛下! 来てくださったのですね!」
存在に気付いたウォルフがサーシャの手を引いてリンクの端まで行き、そこから陸へと上がって寄ってくる。同じように寄ってきたサーシャはファーディナンドに頭を下げるだけ。
〈イベリス様、いかがでしたか? 滑る不安は少し軽くなったりしましたか?〉
〈楽しかった?〉
逆に問い返され、戸惑いながらも頷くサーシャにイベリスが笑顔で親指を立てる。
〈滑りに行きますか?〉
〈もう少し見てたかったな〉
「せっかく陛下が来てくださったことですし、イベリス様とお二人で滑られてはいかがですか?」
サーシャは舌打ちを飲みこんだ。ここでファーディナンドが断ればイベリスが傷つくだけなのにと空気が読めないウォルフの舌に氷柱を突き刺してやりたくなる。
チラッとイベリスを見ると浮かべているのは苦笑。メモ帳に綴られる言葉を先読みしたサーシャがイベリスの前にしゃがんで手を握った。
「イベリス様はまだ滑っておられませんので、陛下とお滑りになるのはもう少し慣れてからがよろしいかと。明日も明後日もイベリス様が望むままに凍らせておきますので──」
サーシャの言葉を無視するようにリンクへと歩いていくファーディナンドが氷に足を踏み出す前に振り返って言った。
「イベリス、来い」
(犬じゃないんだけど)
マシロを呼ぶような言い方だが、イベリスは立ち上がって歩いていく。
「なんだかんだで甘いよな」
適度に、という言葉を隠しながらサーシャの横に立って横目で表情を伺うと苦笑する。気に入らないとあからさますぎる表情でファーディナンドを見ている。
「気まぐれすぎる」
ボソッと呟いた声色には若干の苛立ちが滲んでいるものの拳を握ったりはしていない。複雑な感情があるのだろう。それはウォルフも同じ。だが、同時にファーディナンドも複雑な感情の中で生きているのだと考えてもいる。ロベリアを求める一心で求婚してしまったことに。別人だとわかっていながらも見た目が最愛の者と同じなだけに離婚にも踏み切れない。愛せるか、愛せないか。そんな簡単な答えが出せないでいるのでは、と勝手な想像をしている。
〈私と滑りたくなった?〉
リンクに入る前に書いて見せると鼻で笑われた。
「お前が縋り付くような目で見てきたから来てやったんだ」
〈食堂から出る前、私はあなたを見てなかったけど?〉
「食事中に見てきただろう」
〈あなたがまたお酒飲んでるって思ってただけ〉
「素直にねだればいいだろう」
〈俺は行かない! 絶対に行かない! 転んだら恥ずかしいだろ!って言ってたのはだあれ?〉
「俺じゃないことは確かだ」
〈素直じゃないんだから。一緒に滑りたかったならそう言えばよかったのに〉
「来てやった夫に対してありがとうの一つも言えないのか?」
〈言ってほしい?〉
「お前は……」
メモ帳を下ろして口を動かしたイベリスがなんと言っているのかわかった。ありがとうの口の動き。直後に微笑むイベリスをファーディナンドはジッと見つめる。イベリスもその瞳を見つめ返すだけ。
(もう少しだよ。もう少しだけ待ってね)
彼が見ているのは自分ではなくロベリアだとわかっている。きっと、想像しているのだろう。テロスは池や川が凍るほど気温が下がることはない。だから一緒に氷の上を滑るなど未経験。もしロベリアが生きていたら何を言っただろう。どう楽しんだだろう、と。
彼が日常的に思いを馳せることは全て叶えられる。恋焦がれる想いに潰されそうになることもない。夢の中でだけ会える相手ではなくなるのだと顔を下げる際に目を閉じたイベリスがゆっくり息を吐き出した。
「転んでもいいが、俺のことは引っ張るなよ」
〈道連れにしてやる〉
思ったよりは滑らなかった。もっとサーシャのようにキレイに転ぶものだと思っていただけに彼女たちがしてくれた善意に感謝していた。
月明かりの下で滑るというよりは歩いている。慎重に慎重に。ボートでゆっくり進んでいくのと同じ。違うのは会話がないこと。向かい合っていないこと。目が合わないこと。ずっと手を繋いでいること。
足元は冷えているのに手は熱い。そんな不思議な感覚にイベリスは小さな幸せを感じていた。
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