亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

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夫の変化

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「イベリス様、お待ちください! マシロに合わせて走ってはまた転びますよ!」
「追いかけて止めなさい! 足が速いことだけが取り柄でしょ!」

 窓を開けていると庭のほうから声がする。書類にサインを繰り返す手を止めて椅子ごと回って窓から外を覗き込むと走るマシロのリードを掴んだまま必死についていこうとするが引きずられる一歩手前の体勢になっているイベリスを慌てて追いかけるサーシャとウォルフの姿が見えた。
 すっかり元気を取り戻したイベリスはマシロが来てからウォルフの背中に乗らなくなり、四六時中ウォルフの話をすることもなくなった。真面目に授業を受け、最近すれ違ったアーシャルからは真面目に受けるだけでなく質問までするようになったと大絶賛していた。

『ロベリア前皇妃が戻ってきたようで懐かしくもあり新しくもある、私にとってとても充実した時間を送らせていただいています』

 あのアーシャルがそこまで言うのだからイベリスはロベリアに似た真面目な皇妃として成長しつつある。
 耳が聞こえないため表に出て公務をすることはできずとも、公になっていない名もなき公務に精を出していた。最近はその隙間時間にマシロと戯れていると使用人から聞いている。

「イベリス様はいつもお元気ですね」
「俺の看病を覚えてないなどと抜かしたがな」
「きっとわかっておりますよ。そうでなければあのような笑顔を見せるはずがありませんからな」

 イベリスの熱が引くのに三日かかった。その間、ファーディナンドはほとんど眠っていなかった。昼間はサーシャに看病を任せて仕事をし、夜はイベリスの看病。三日間それを繰り返し、ようやく下がったイベリスが言ったのは〈よく寝た〉だった。
 あまりにものんきな言葉に思わずメモ帳を叩き落とし、額を指で弾いた。痛いと訴え、頬を膨らませて怒ったかと思えばすぐに笑った。その笑顔を見ただけでファーディナンドは安心できた。
 朝食時、〈覚えてないって言ってるのに俺が看病してやったってしつこいのよ〉と訴えるイベリスの笑顔がアイゼンはとても印象的だった。本当に覚えていなければあのはにかんだ笑みは出てこないだろう。
 だからこそアイゼンは切なくなる。

「お気持ちに変化はございませんか?」

 アイゼンの問いにファーディナンドは「ない」とハッキリ答えた。だが、その声が彼の計画を聞いたときよりも少し弱く感じた。
 ロベリアを取り戻したい気持ちに変わりはないのだろう。だから「ない」と答えた。だが、彼の中にイベリスに対して悪くない感情が芽生えているのも確か。それを認めたくないのか、それとも既に自覚してしまっているからなのか。そこはアイゼンが確信を得るには至らない。まだ葛藤の最中といったところ、程度。
 それでも、三ヶ月で少しの揺らぎがあったのはファーディナンドにとっても大きな変化だとアイゼンは思っている。

「マシロ止まれ! ステイ! ストップ! ストップだストップ! 池は絶対入るなよ!? 絶対だからな!?」
「イベリス様ッ!!」

 バシャンッ!と大きな音がした。アイゼンから外へと視線を移すとファーディナンドが目を瞬かせる。
 白狼の姿になったウォルフがマシロのリードを踏みつけ、イベリスを咥えて立っている。顔はもはや無に近く、獣の姿で追いかけたため追いつきはしたのだが、自分の身体の大きさのせいで水飛沫がすごく、結局はイベリスもマシロもびしょ濡れとなった。
 マシロは賢い犬で間違いないが、テンションが上がるとどうにも猪突猛進の気がある。忙しくなってきたイベリスと遊ぶ時間が少し減ったことが寂しいのだろう。遊べるとなるとハシャぐようになった。
 サーシャの命でその様子を見ていた使用人たちが慌ててタオルを持ってくる。

「うわっ! やめろ! ステイだステイ!! ずぶ濡れ、だ!」
「キャアッ!!」

 落ち込んでいるように耳を下げながら池から上がったマシロが立ち止まって全身を振る。吸っていた水が一気に飛び、周りの使用人たちをも濡らす。巻き込まれ事故のような惨状にウォルフが注意するも彼も反射的に身体が動いてしまった。身体が揺れ、毛を振り乱し、水が大雨のようにその場にいた人間を襲った。
 大柄の狼が吸い込んだ大量の水が使用人を濡らし、間近にいたサーシャは頭から足先まで全身ずぶ濡れになった。

「やべ……」
「ウォルフ……」
「は、はーい……」
「さっさとイベリス様を離してあなたは走って乾かしなさい!!」
「走って!?」
「行け!!」

 飼い主のような命令に慌てて屋敷の端まで走り出したウォルフを見送ったイベリスが大口を開けて笑う。ずぶ濡れ。

「ああ、メモが……」

 エプロンまでしっかり濡れてしまったせいでメモ帳がダメになってしまった。新しくしたばかりのメモ帳を振るとイベリスも自分が持っていたメモ帳が紙として機能しないほど濡れているのを確認する。
 メモ帳がなければ会話ができない。

「ねえ、メモ帳持ってない?」
「持ってないわ」

 耳が聞こえない皇妃がいるのになぜ所持していないんだと憤慨したいところだが、全員と関わりを持つわけではないため全員にメモ帳の指示が出ているわけではない。侍女であるサーシャが持っていればいいという考えが蔓延している。

「メモ帳を取ってくるからイベリス様をお風呂場へお連れしてくれる?」
「わかった。イベリス様、こちらへ」
〈どこへ行くの?〉
「メモ帳を取ってくるだけです。すぐに戻ります」

 引き留めるイベリスにサーシャが答えるも首を傾げられる。ウォルフを走って行かせたのは間違いだったと自分の選択ミスに舌打ちしたくなった。彼を耳のない姿に変えれば頭を拭くだけで済んだのに上司気取りで罰を与えるようなことをした自分の失態だと唇を噛む。
 もう一度、今度はゆっくり口を動かそうとしたとき、上から声が聞こえた。

「イベリス」

 目の前に表示される名前にイベリスが周りを見る。

「上だ」

 見上げると開いた窓からファーディナンドが顔を出している。目が合うとイベリスが手を振った。

「水を滴らせて、随分とイイ女になったもんだな」
〈嫌味な男!〉
「池で泳ぐのは楽しかったか?」
〈おかげさまですっごく楽しかった! あなたもどう?〉

 手招きするイベリスに肩を竦める。

「俺は行かん。お前のように池で泳ぐという崇高な趣味は持ち合わせてないもんでな」
〈泳げないだけでしょ〉
「お前が溺れても助けてやらんぞ」

 口を動かして返事をしていただけのイベリスはファーディナンドはこちらの言葉を理解していないと思っていたが、的確に返ってきたことに驚いた。

「お前が言いそうなことぐらいわかる」
〈ロベリアの代わりにはなりたくない〉
「わかるさ」
〈バーカ!〉
「バカはお前だ」

 当てずっぽうだったと肩を竦めたあとに言った言葉はちゃんと理解されていた。わかりやすい口の動きだったから。
 ファーディナンドが引き留めてくれている間に全速力でメモ帳を取りに行ったサーシャが戻ってきたことでイベリスの顔がサーシャに向いた。

〈お待たせして申し訳ございません。お風呂に入りましょうか〉
〈ファーディナンドがバカで困る〉

 視界からスッと姿が消えたかと思うとすぐに出てきたイベリスがまだ窓から顔を出しているファーディナンドに向かって舌を出した。

〈バーカ!〉
「俺は鏡ではない」

 そのまま屋敷の中へと入っていったイベリスの姿が見えなくなるとファーディナンドが小さく吹き出して笑う。
 イベリスが来てからファーディナンドはとにかくよく笑うようになった。
 厳しく育てられた人間のあるべき姿で成長を続けていたファーディナンドをアイゼンはずっと心配していた。ロベリアと結婚してから柔和さを得て、よく笑うようになった。導き手が消えたことで得た物が全て失われたように思われたが、イベリスが来てまた笑顔を取り戻した。
 ロベリアなら絶対に舌を出して夫にバカと言い放つことはしない。彼女はロベリアではない。このままイベリスという少女に心を絆され、悪しき計画を白紙に戻してくれるよう願うしかできないことがもどかしい。

「やかましい奴だ」

 場はとても静かだった。それでもファーディナンドはまるでイベリスの声が聞こえているかのような発言をする。
 太陽の光を浴びながら微笑むファーディナンドの穏やかな顔を見つめながら祈っていた。

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