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妻の看病
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「熱? 朝見たときは平気だったぞ」
「はい。ですが、先程倒れられました」
時計を見遣り、ティータイムでもと考えていたファーディナンドのもとへウォルフがやってきてイベリスが倒れたことを知らせた。
朝、ベッドで見たときは元気だった。昼食を共にした際は確かに少し顔に赤みが帯びていたが、暑いと顔を仰いでいたため風邪とは思わなかった。
立ち上がり、イベリスの部屋へ向かおうとするファーディナンドの前にウォルフが立つ。怪訝な顔をするファーディナンドに頭を下げた。
「イベリス様より伝言です。風邪が移っては大変だから部屋には来るな、と」
イベリスなら言いかねないと表情を解くと暫く考え込むように黙ったあと、机へと戻る。
「夜、少しだけ顔を見に行くと伝えろ」
「絶対に入れるなと申しつけられております」
「少しだけだ。眠っている間に帰る」
ウォルフはサーシャと違ってファーディナンドの言動に疑問を持たない。少しでも顔を見たいという愛だと感じ、絶対に入れるなと言われていることは伝えず部屋をあとにした。
背もたれに身体を預けて天井を見上げる。
「三ヶ月か……」
イベリスと結婚して三ヶ月が経った。教育さえちゃんとすればロベリアとして愛せると考えていたが、実際はそう甘くはなかった。
ロベリアが面白いと言っていた歴史の授業を嫌い、短いほうが乱れなくていいと言っていた髪を伸ばし続け、ロベリアが絶対にしなかった大口を開けて笑うことや城内を走ることをやめないイベリスはどう頑張ってもロベリアと重ねることはできなかった。
それでも、あまり腹は立たなかった。いちいち紙に書かなければ返事がわからない煩わしさはあれど、声が出ないため耳障りだと思うことはなかった。紙に書く文句や悪戯めいた言動は多々あろうと、ロベリアの顔で笑われると怒りがすぐに消えていった。
三ヶ月、色々あった。イベリスが髪を切り、何もなかった池にボートを浮かべ、犬がやってきた。
「犬はそれほど好きではなかったな……」
ロベリアは犬が少し苦手だった。吠えられると怖いと言い、それは子供の頃のトラウマによるものだと説明を受けた。だからロベリアが戻ってきたときのために犬は飼わないでおこうと思っていたのだが、飼うことになった。
この行動についてはなぜそうしたのか自分でもわからない。ウォルフについて語るイベリスを見ていると何故か腹が立った。
(あれは騎士のくせに獣の姿になっているウォルフに腹を立てたんだ。ウォルフへの当てつけにそうしただけだ)
自分に言い聞かせるように心の中で呟くも否定しきれない感情が心の片隅に生まれていることをファーディナンドは自覚している。好きという感情ではない。それは確かだ。だが、熱を出したと聞いて会いに行こうとするぐらいにはイベリスを受け入れている。
会いに行ったところで話はできないだろう。熱が出たぐらいならいいが、倒れたのだ。自分でも気付いていなかったのだろうか。常駐している医師がいるため心配はない。ウォルフのあの冷静さから見ても大事に至ってはいないということ。
仕事を済ませてから顔を見に行くので充分だろうと考え、預けていた身体を戻してペンを握った。
(イベリスのことだ、夜になればケロッとしているかもしれん。マシロと遊びすぎて熱が出ただけだろう)
〈真っ白だからマシロ〉
安直すぎる名をつけた瞬間のことを思い出してフッとと笑う。
知恵熱のようなものだろうと予想し、仕事に集中し、寝る前にイベリスの部屋を訪ねた。
「陛下、どうぞお部屋にお戻りください。イベリス様のご命令で陛下であろうとお通しすることはできません」
サーシャはウォルフのように甘くはなかった。融通が利かない女だと知ってイベリスの侍女にしたのだ。甘やかさず、一刻も早くロベリアに近付けさせるために。それがこんなところで弊害となるとは思ってもいなかった。
「顔を見るだけだ」
「眠っておられますので」
「俺が入ったところで聞こえん。問題ない」
ドアを閉める音も開ける音も足音さえも聞こえないイベリスが目を覚ます心配はないと言うもサーシャはドアを開けようとしない。
「夫だぞ。妻の顔も見てはいけないのか?」
「イベリス様は望んでおられません」
「ただの風邪だろう」
「風邪がただの熱で終わるという保証はありません」
どういう意味だと眉を寄せるファーディナンドにサーシャが言った。
「風邪だと思っていたものが実はとんでもない病気だったということもあります」
「イベリスがそうだと?」
「イベリス様は単純な風邪です。しかし、イベリス様の風邪がもし陛下に移り、それが大事になったらイベリス様は風邪をひいた自分を責めるでしょう。私はそれを避けたいのです」
皇妃より皇帝の命を重く見るのは当然で、イベリスもそれを理解しているからこそファーディナンドであろうと通すなと言った。そして続けて〈ファーディナンドが駄々を捏ねたらこう言って〉と言われた言葉を伝えた。
「一緒に眠れなくて寂しいのはわかるけど、一人で寝る練習よ」
イベリスの言葉だと疑いはしない。誰に言ってるんだと口元に小さな笑みを浮かべたファーディナンドだが、ドアを押し開けた。
「陛下、お戻りください」
「俺に指図するのか?」
圧はとても小さなものだが、迫力があった。思わず黙り込んだサーシャに顔を見たら帰ると約束してベッドに寄っていく。
「イベリス」
声をかけても目は開かない。普段は言葉が見えているから会話ができるのだと改めて実感する。聞こえないということは小さな問題に見えてとても大きい。
抱きしめながら会話ができること。触れ合って囁き合えること。目を閉じたまま愛を伝えられること。当たり前にしてきたことがイベリスにはできず、彼女と夫婦をする中でそれは当たり前ではない。
白い肌が赤く染まり、汗をかいている。眠っているときは閉じている口が小さく開き、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。
「この氷はどこで手に入れた?」
「私の魔法で」
「そうか……そうだったな」
洗面器の中には水と氷が入っている。サーシャは氷の魔法が使えるのだと思い出し、頷きながら近くの椅子に腰掛けた。
「陛下、あまり──」
洗面器の中に手を浸け、三秒ほどしてから出すとタオルで拭いてからイベリスの頬に触れる。熱い。
(朝から既に熱はあったのかもしれない。昼食のときに気付くべきだった)
風邪をひけば寒がる。その思いこみが風邪を疑わなかった。
リンベルは寒い地方に位置するため、高温を記録し始めたテロスの気温の変化に順応していないだけだと思っていた自分に拳を握る。
「何度か目は覚ましたか?」
「いえ、一度も」
「倒れてからずっとか?」
「はい」
険しい表情を浮かべるファーディナンドは自分が魔法を使えないことが少し悔しかった。氷も水も生み出せない自分がいたところでなんの役にも立たない。目を覚まし、近くにサーシャではなく自分がいるのを見たところで喜びはしないだろう。むしろ怒るはず。任せるしかないと立ち上がろうとしたとき、イベリスの表情がピクピクッと痙攣したように小さく動いた。
「イベリス」
声をかけたところで聞こえないのはわかっているが思わず名前を呼んだ。
まるでその声が聞こえたかのようにうっすらと開いた瞳がファーディナンドを捉えた。
「イベリス、目を覚ましたか。まだ苦しいか? 俺はもう戻るが、欲しい物があればサーシャに伝えろ。用意させる。今はゆっくり休──」
目が開けば文字が読める。ただ目を開けただけで意識は朦朧としているかもしれないと過去に高熱を出した子供の頃を思い出すも見えている可能性も考えて声をかけた。怒る元気があればと顔を近付けるも瞬きを繰り返すイベリスの表情に変化はない。それでも目はファーディナンドを映している。
嫌な記憶が蘇る。最愛の者を失いかけていた日の恐怖と苦しみ。言葉があればイベリスで、言葉がなければロベリアなのだ。ファーディナンドの手に嫌な汗が滲んだとき、イベリスの頬が手に擦り寄ってきた。唇が動いて何か言っている。
「冷たくて気持ちいいか?」
自分の都合の良いように解釈しているだけかもしれない。それでもうっすらと、苦しい中で無意識に微笑むイベリスが手の冷たさを求めて擦り寄ってきた。これによって少しでも辛さが和らげばと願い、ファーディナンドはタオルを膝に置いて空いている手を洗面器に浸けた。手が痛いと感じるまで浸け、出した手をタオルで軽く拭いてから反対の頬に触れるとイベリスの頬はより冷たいほうを求めて顔を向ける。その間にイベリスの熱が移った手を洗面器で冷やす。
「サーシャ、お前はもう部屋に戻って休め」
「いえ、私が朝までついておりますので──」
「お前には日中付き添ってもらわねばならない。今は休め」
「それでは陛下がお休みになる時間が──」
「俺はいい。俺はいつでも休める。皇帝だからな」
休む暇などないだろうにと思いながらも二人きりになりたいのかもしれないと察してサーシャは部屋に帰ることにした。
部屋を出る前にイベリスの顔をファーディナンドの後ろから覗き込んで様子を確認したあと、近くに置いていた厨房から取ってきた長方形の容器の中に正方形の氷の塊を山積みに作り出した。
容器の中には既に洗面器の中に入れていた氷が溶けた水が溜まっている。ファーディナンドが手を出した瞬間を狙って洗面器を取り、熱くなった水をテラスに流してから容器に付属している小さな蛇口を捻って冷えた水を注いだ。
「蛇口を捻ると溶けた水が出てきます。氷がなくなれば削って洗面器の中にお入れください。水瓶はあちらに用意しておりますので」
「感謝する。ゆっくり休め」
「何かあればお呼びください。失礼いたします」
密度の高い氷を作ったため朝まで保つだろうと予想しながら部屋を出ていった。
「明日の朝には良くなる。心配するな」
言葉を発するたびにフラッシュバックするように思い起こされる嫌な記憶。呼吸が荒くなり、汗が止まらず、虚な表情で天井を見上げる亡き妻の顔。今見る表情はそれよりマシだが、これが悪化すればあの瞬間を再現することになるだろう。
必ず良くなる。相手にか自分にかわからない言葉を一生分言い続けたあの年──……
何度も繰り返し手を浸け、汗を拭き、名を呼び、良くなると言い続けながら朝を迎えた。
「はい。ですが、先程倒れられました」
時計を見遣り、ティータイムでもと考えていたファーディナンドのもとへウォルフがやってきてイベリスが倒れたことを知らせた。
朝、ベッドで見たときは元気だった。昼食を共にした際は確かに少し顔に赤みが帯びていたが、暑いと顔を仰いでいたため風邪とは思わなかった。
立ち上がり、イベリスの部屋へ向かおうとするファーディナンドの前にウォルフが立つ。怪訝な顔をするファーディナンドに頭を下げた。
「イベリス様より伝言です。風邪が移っては大変だから部屋には来るな、と」
イベリスなら言いかねないと表情を解くと暫く考え込むように黙ったあと、机へと戻る。
「夜、少しだけ顔を見に行くと伝えろ」
「絶対に入れるなと申しつけられております」
「少しだけだ。眠っている間に帰る」
ウォルフはサーシャと違ってファーディナンドの言動に疑問を持たない。少しでも顔を見たいという愛だと感じ、絶対に入れるなと言われていることは伝えず部屋をあとにした。
背もたれに身体を預けて天井を見上げる。
「三ヶ月か……」
イベリスと結婚して三ヶ月が経った。教育さえちゃんとすればロベリアとして愛せると考えていたが、実際はそう甘くはなかった。
ロベリアが面白いと言っていた歴史の授業を嫌い、短いほうが乱れなくていいと言っていた髪を伸ばし続け、ロベリアが絶対にしなかった大口を開けて笑うことや城内を走ることをやめないイベリスはどう頑張ってもロベリアと重ねることはできなかった。
それでも、あまり腹は立たなかった。いちいち紙に書かなければ返事がわからない煩わしさはあれど、声が出ないため耳障りだと思うことはなかった。紙に書く文句や悪戯めいた言動は多々あろうと、ロベリアの顔で笑われると怒りがすぐに消えていった。
三ヶ月、色々あった。イベリスが髪を切り、何もなかった池にボートを浮かべ、犬がやってきた。
「犬はそれほど好きではなかったな……」
ロベリアは犬が少し苦手だった。吠えられると怖いと言い、それは子供の頃のトラウマによるものだと説明を受けた。だからロベリアが戻ってきたときのために犬は飼わないでおこうと思っていたのだが、飼うことになった。
この行動についてはなぜそうしたのか自分でもわからない。ウォルフについて語るイベリスを見ていると何故か腹が立った。
(あれは騎士のくせに獣の姿になっているウォルフに腹を立てたんだ。ウォルフへの当てつけにそうしただけだ)
自分に言い聞かせるように心の中で呟くも否定しきれない感情が心の片隅に生まれていることをファーディナンドは自覚している。好きという感情ではない。それは確かだ。だが、熱を出したと聞いて会いに行こうとするぐらいにはイベリスを受け入れている。
会いに行ったところで話はできないだろう。熱が出たぐらいならいいが、倒れたのだ。自分でも気付いていなかったのだろうか。常駐している医師がいるため心配はない。ウォルフのあの冷静さから見ても大事に至ってはいないということ。
仕事を済ませてから顔を見に行くので充分だろうと考え、預けていた身体を戻してペンを握った。
(イベリスのことだ、夜になればケロッとしているかもしれん。マシロと遊びすぎて熱が出ただけだろう)
〈真っ白だからマシロ〉
安直すぎる名をつけた瞬間のことを思い出してフッとと笑う。
知恵熱のようなものだろうと予想し、仕事に集中し、寝る前にイベリスの部屋を訪ねた。
「陛下、どうぞお部屋にお戻りください。イベリス様のご命令で陛下であろうとお通しすることはできません」
サーシャはウォルフのように甘くはなかった。融通が利かない女だと知ってイベリスの侍女にしたのだ。甘やかさず、一刻も早くロベリアに近付けさせるために。それがこんなところで弊害となるとは思ってもいなかった。
「顔を見るだけだ」
「眠っておられますので」
「俺が入ったところで聞こえん。問題ない」
ドアを閉める音も開ける音も足音さえも聞こえないイベリスが目を覚ます心配はないと言うもサーシャはドアを開けようとしない。
「夫だぞ。妻の顔も見てはいけないのか?」
「イベリス様は望んでおられません」
「ただの風邪だろう」
「風邪がただの熱で終わるという保証はありません」
どういう意味だと眉を寄せるファーディナンドにサーシャが言った。
「風邪だと思っていたものが実はとんでもない病気だったということもあります」
「イベリスがそうだと?」
「イベリス様は単純な風邪です。しかし、イベリス様の風邪がもし陛下に移り、それが大事になったらイベリス様は風邪をひいた自分を責めるでしょう。私はそれを避けたいのです」
皇妃より皇帝の命を重く見るのは当然で、イベリスもそれを理解しているからこそファーディナンドであろうと通すなと言った。そして続けて〈ファーディナンドが駄々を捏ねたらこう言って〉と言われた言葉を伝えた。
「一緒に眠れなくて寂しいのはわかるけど、一人で寝る練習よ」
イベリスの言葉だと疑いはしない。誰に言ってるんだと口元に小さな笑みを浮かべたファーディナンドだが、ドアを押し開けた。
「陛下、お戻りください」
「俺に指図するのか?」
圧はとても小さなものだが、迫力があった。思わず黙り込んだサーシャに顔を見たら帰ると約束してベッドに寄っていく。
「イベリス」
声をかけても目は開かない。普段は言葉が見えているから会話ができるのだと改めて実感する。聞こえないということは小さな問題に見えてとても大きい。
抱きしめながら会話ができること。触れ合って囁き合えること。目を閉じたまま愛を伝えられること。当たり前にしてきたことがイベリスにはできず、彼女と夫婦をする中でそれは当たり前ではない。
白い肌が赤く染まり、汗をかいている。眠っているときは閉じている口が小さく開き、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。
「この氷はどこで手に入れた?」
「私の魔法で」
「そうか……そうだったな」
洗面器の中には水と氷が入っている。サーシャは氷の魔法が使えるのだと思い出し、頷きながら近くの椅子に腰掛けた。
「陛下、あまり──」
洗面器の中に手を浸け、三秒ほどしてから出すとタオルで拭いてからイベリスの頬に触れる。熱い。
(朝から既に熱はあったのかもしれない。昼食のときに気付くべきだった)
風邪をひけば寒がる。その思いこみが風邪を疑わなかった。
リンベルは寒い地方に位置するため、高温を記録し始めたテロスの気温の変化に順応していないだけだと思っていた自分に拳を握る。
「何度か目は覚ましたか?」
「いえ、一度も」
「倒れてからずっとか?」
「はい」
険しい表情を浮かべるファーディナンドは自分が魔法を使えないことが少し悔しかった。氷も水も生み出せない自分がいたところでなんの役にも立たない。目を覚まし、近くにサーシャではなく自分がいるのを見たところで喜びはしないだろう。むしろ怒るはず。任せるしかないと立ち上がろうとしたとき、イベリスの表情がピクピクッと痙攣したように小さく動いた。
「イベリス」
声をかけたところで聞こえないのはわかっているが思わず名前を呼んだ。
まるでその声が聞こえたかのようにうっすらと開いた瞳がファーディナンドを捉えた。
「イベリス、目を覚ましたか。まだ苦しいか? 俺はもう戻るが、欲しい物があればサーシャに伝えろ。用意させる。今はゆっくり休──」
目が開けば文字が読める。ただ目を開けただけで意識は朦朧としているかもしれないと過去に高熱を出した子供の頃を思い出すも見えている可能性も考えて声をかけた。怒る元気があればと顔を近付けるも瞬きを繰り返すイベリスの表情に変化はない。それでも目はファーディナンドを映している。
嫌な記憶が蘇る。最愛の者を失いかけていた日の恐怖と苦しみ。言葉があればイベリスで、言葉がなければロベリアなのだ。ファーディナンドの手に嫌な汗が滲んだとき、イベリスの頬が手に擦り寄ってきた。唇が動いて何か言っている。
「冷たくて気持ちいいか?」
自分の都合の良いように解釈しているだけかもしれない。それでもうっすらと、苦しい中で無意識に微笑むイベリスが手の冷たさを求めて擦り寄ってきた。これによって少しでも辛さが和らげばと願い、ファーディナンドはタオルを膝に置いて空いている手を洗面器に浸けた。手が痛いと感じるまで浸け、出した手をタオルで軽く拭いてから反対の頬に触れるとイベリスの頬はより冷たいほうを求めて顔を向ける。その間にイベリスの熱が移った手を洗面器で冷やす。
「サーシャ、お前はもう部屋に戻って休め」
「いえ、私が朝までついておりますので──」
「お前には日中付き添ってもらわねばならない。今は休め」
「それでは陛下がお休みになる時間が──」
「俺はいい。俺はいつでも休める。皇帝だからな」
休む暇などないだろうにと思いながらも二人きりになりたいのかもしれないと察してサーシャは部屋に帰ることにした。
部屋を出る前にイベリスの顔をファーディナンドの後ろから覗き込んで様子を確認したあと、近くに置いていた厨房から取ってきた長方形の容器の中に正方形の氷の塊を山積みに作り出した。
容器の中には既に洗面器の中に入れていた氷が溶けた水が溜まっている。ファーディナンドが手を出した瞬間を狙って洗面器を取り、熱くなった水をテラスに流してから容器に付属している小さな蛇口を捻って冷えた水を注いだ。
「蛇口を捻ると溶けた水が出てきます。氷がなくなれば削って洗面器の中にお入れください。水瓶はあちらに用意しておりますので」
「感謝する。ゆっくり休め」
「何かあればお呼びください。失礼いたします」
密度の高い氷を作ったため朝まで保つだろうと予想しながら部屋を出ていった。
「明日の朝には良くなる。心配するな」
言葉を発するたびにフラッシュバックするように思い起こされる嫌な記憶。呼吸が荒くなり、汗が止まらず、虚な表情で天井を見上げる亡き妻の顔。今見る表情はそれよりマシだが、これが悪化すればあの瞬間を再現することになるだろう。
必ず良くなる。相手にか自分にかわからない言葉を一生分言い続けたあの年──……
何度も繰り返し手を浸け、汗を拭き、名を呼び、良くなると言い続けながら朝を迎えた。
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