亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

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妻の変化

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 髪を切った日からイベリスは少し変わった。

「皇妃の態度はまるでロベリア前皇妃が戻ってきたようですね! あれだけ興味がなかった歴史にこんなにも興味を持つだなんて誰が想像できたことでしょう!」

 嫌がっていた歴史の授業中に欠伸をすることはなくなり、質問までするようになった。家庭教師のアーシャルは大喜びだが、サーシャは違った。

〈何故急に意欲を持たれたのですか?〉

 イベリスが歴史の授業を嫌がっていること誰よりも知っていたサーシャがテーブルの上にティーセットを並べたあとにメモ帳に書いて問いかけるとイベリスはまだ空のティーカップを見つめる。熱い紅茶が入ったティーポットへ手を伸ばすも、サーシャが先に蒸らすためのカバーをかけてしまった。

〈もう少し待ってください〉

 イベリスは頬を膨らませるもすぐに笑顔に変わる。

〈アーシャル先生に何か言われた?〉
〈いいえ、アーシャル先生は大喜びでしたよ。あれだけ興味がなかった皇妃がこんなにも真面目になるなんて、と〉
〈アーシャル先生は書いてくれないから何を言ってるかわからなかったけど、そんなことを言ってたのね〉

 アーシャルはいつも少し優しさが足りない。耳が聞こえないからと黒板にビッシリと書くくせに皇妃への言葉を書くことはしない。サーシャが三度頼んでみたが、授業にお喋りは必要ないと一蹴されて終わった。
 イベリス自身はあまり気にしていないのか、アーシャルが何を言っているのか、何を言ったのか問いかけることはしなかったし、これからもしないだろう。だからサーシャも諦めている。

〈お父様が言ったことを思い出したの。やりたいことは全部やればいい。やってダメなら仕方ないけど、やってもないことを先入観で嫌って遠ざけるのはあまりにも惜しい。やれそうだなって自分が思ったら折れるとこまでやればいい、って〉

 イベリスが好奇心旺盛な理由がわかったとサーシャが頷く。

〈私ね、とことんって得意じゃないの。あれもこれも手を出すけど全部中途半端。最初はすごく熱心にするのよ。でも途中で飽きちゃうの。最初は面白かったのになぁって勝手に飽きてるのにまるでそれに面白味がなくなったみたいに思っちゃう。飽きたって言うと両親はダメだったかって笑ってくれて……甘やかしてくれる両親にずーっと甘えてた。だけど、私は両親から離れてテロスの皇妃になった。ただの伯爵令嬢から皇妃になったのに好きだからやる、嫌いだからやらないなんて通用しちゃいけないんじゃないかって考え直したってだけ〉
〈立派です〉
〈悔いのないように生きたいの。結構なんでも楽しいって思える性格だから、人生が終わるときも楽しかったって、最高の人生だったって思えるような生き方をしたいから……大嫌いな歴史もちゃんとやろうって。あんまり入ってないんだけどね〉

 ペロッと舌を出して笑うイベリスらしい笑い方にサーシャは安堵した。人が変わったように思う瞬間が何度か合ったから、髪を切って変わってしまう何かがあったのではないかとずっと不穏な推測が回り続けていた。
 皇妃になったからと意識を変えるのは良い傾向だと喜びさえ覚える。
 指先でペンを回しながら空いている手でサンドイッチを取って頬張るイベリスに合わせてカップに紅茶を注ぐ。フルーツティーの香りに犬のように鼻を鳴らして香りを嗅いでからそーっと飲む。

〈今日は私の大好きな物ばかりね。どうして?〉
〈歴史の授業を真面目に受けられているご褒美です〉
〈ご褒美だ! あと何回受けられるかな?〉
〈頑張り続ける限り何度でもご褒美はありますよ〉
〈じゃあたくさん頑張らないと〉

 あとでポットの中の桃を食べたいとソーサーからカップを外して、ここに乗せるようペンでをソーサーを叩いて行儀悪く指示を出す。それではご褒美はあげられないと言うとペンを置いた右手を立て、顔の前で頭と一緒に手を下げた。
 それを見て合格を出したサーシャがポットの中から桃を取り出してソーサーに乗せる。小皿があるのだが、イベリスの指示に従った。 

〈あったかい桃って意外と美味しいって知らなかった〉
〈リンベルも寒い国なのに知らないとは意外です〉
〈どうして思いつかなかったのかしら?〉
〈果汁が弾けたり滴る感じはなくなってしまいますからね。生のフルーツを使う紅茶には賛否ございます〉
〈生じゃなかったら何を使うの?〉
〈乾燥させた物を使う地域もあるそうですよ〉
〈生のほうが絶対美味しい〉
〈グラキエスも生なので私は賛成です〉

 サーシャとは住んでいる国がそう遠くないのもあって話が合う。博識で、話をしているだけで知らない知識をたくさん与えてくれる。だからティータイムは必ずサーシャも一緒にするようにと命じている。軽食はイベリスがサーシャの皿に盛らなければ絶対に食べることはしないため時折イベリスが皿に置く。一緒にティータイムを取り始めた頃は遠慮していたが、イベリスが一緒に食べてくれると嬉しいと言ってからは一緒に食べるようになった。イベリスは今でもこの時間が一番好きだ。
 楽しげに笑うイベリスにサーシャが聞いた。

〈髪を切ったのは陛下のためですか?〉

 ますますロベリアに似てしまったイベリスに問わずにはいられなかった。
 ロベリアのことはなんとも思っていない。会ったこともない死者に嫉妬もしなければ嫌悪もない。笑顔が素敵な人だからきっと良い人だったと思うとまで言っていたが、それでもロベリアにはなりたくないとも言っていた。髪を切れば本当にロベリアになってしまいそうで嫌だと。
 そう言っていたイベリスが突然髪を切った理由が小説の中の登場人物に触発されたから、では納得できなかった。

〈似合ってない?〉

 図星を突かれた人間というのは話を逸らすか黙り込むか強く否定するかのどれか。イベリスは話を逸らした。
 慌てて駆けつけた美容師に髪を整えられる姿をずっと傍で見ていたサーシャはその瞬間のイベリスの表情が忘れられない。覚悟を決めたような、でもどこか諦めたようにも見える表情。鏡越しに目が合えば笑顔になるその複雑な表情は触発されて切った人間の表情ではない気がしている。

〈変わりたかったの〉
〈嫌だと言っていたではありませんか〉
〈でも、こうすることが一番だと思ったから〉
〈あなたは充分に魅力的な女性ですよ。髪を切って陛下の理想どおりにならなくても時間がそれを証明してくれます〉
(時間……)

 時間が解決してくれたらどんなにいいだろう。三年後には、五年後には仲良くなって本当の夫婦のように仲睦まじく過ごせていたら、この結婚にも意味があったと思えたのかもしれない。
 だけど、時間はもう一年しかない。いや、結婚してから既に一ヶ月経った。もう一年もない。
 苦笑がこぼれるイベリスにやはり理由は別にあると確信したサーシャが言った。

〈私は何があろうとイベリス様の味方です。イベリス様とこうしてお話した内容は全て他言無用。誰にも話しません。陛下にさえも〉
〈ありがとう。サーシャって本当に優しいのね。大好きよ〉
〈私もです〉

 だが、イベリスが心の内をサーシャに話すことはしなかった。
 壁にかかっている肖像画のロベリアも写真立ての中にいるロベリアも、目の前にいる人物ではないはずなのにサーシャでさえロベリアが戻ってきたのではないかと思ってしまうほどよく似ている。あれだけ反抗し続けてきたのに、今になって自ら似せる道を選んだ理由がサーシャは知りたかった。

〈今日も明日も頑張らないとね〉
〈あまりご無理はなさらないようにしてくださいね。勉強はあまり得意ではないようですから〉
〈難しい言葉が苦手なだけよ。もっと簡単に、動物に教えるように説明してくれれば私だってすぐに覚えるはずよ。歴史に難しい言葉は必要ないのに、どうして人間は小難しい言葉ばっかり並べて偉そうに語るのかしら?〉
〈では明日、アーシャル先生にもう少し簡単に話すよう言ってみましょうか〉
〈きっと驚いた顔のあとに呆れを見せるわ。歴史を簡単に話せなど歴史の冒涜も同然!とか言ってね〉

 中指でメガネの端を持ち上げながら激昂するアーシャルの真似はとてもよく似ていた。無邪気に笑うイベリスに合わせて笑うサーシャの中には消えない一抹の不安がある。
 イベリスのこの無邪気さが、いつか消えてしまうのではないだろうかという漠然とした不安。それはファーディナンドが望むように全てロベリアへと変わってしまう可能性からくるもの。
 見た目から入ったイベリスの中にはもはやファーディナンドへの抵抗は見られず、むしろ受け入れようとしているようにさえ見える。だからこそ不安だった。
 彼女の良さが全て消え、内外共にロベリアと見間違うほどになってしまったら、と。
 イベリスが嫁に来る少し前、サーシャはファーディナンドから言われていた。

『一年だ。一年でロベリアと見間違うほどの皇妃教育を完成させろ』と。

 あの圧力をイベリスもかけられたのだとしたら髪を切ったことへの納得もいく。二人で笑顔で過ごしている日もあるが、結局はイベリスにロベリアの面影を重ねているから笑顔になれるだけ。ファーディナンドが見ているのはイベリスではなくロベリア。
 あまりにも辛いその現実に、サーシャは笑顔でペンを走らせながら左手は強く拳を握っていた。
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