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彼の真の目的
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仲は悪くなかった。仲が特別良いわけでもなかったが、険悪になることもなかった。それはきっとこの顔で怒るとロベリアを見ているようで許してしまうからだろう。彼は時折、イベリスがとても不気味に思うほど甘く優しいときがある。亡き妻と瓜二つの人間を求め続けていた相手にとって中身は違えど黙っていれば妻がそこにいるような気分になれる。それだけで幸せを感じている。
彼のその感情を間近で感じていたイベリスも居心地が悪いわけではなかった。自分を愛してくれているわけじゃないとわかっていても優しくされるのは嬉しい。無理強いをすることもなく、平和な日常が続いた一ヶ月。イベリスもようやくここでの生活に慣れてきた。
〈できましたよ〉
〈ありがとう〉
左手の甲の上に右手を垂直に乗せ、そのまま右手を軽く持ち上げながら会釈程度に頭を下げてお礼を伝えるイベリスは鏡越しにサーシャに微笑みかけた。
鬱陶しくない髪型でいることを条件に髪を切らないでおくと言ったファーディナンドとの約束を守ってポニーテールが定番となりつつあるヘアスタイルも見慣れたもので、キュッと気持ちも引き締まって悪くないと思えてきた。
〈今日は歴史の授業が三時間入っていますよ〉
〈……今日は風邪引く予定だからキャンセル〉
〈ウォーキングの授業がなくなった代わりに真面目に受けない歴史の授業を増やされました〉
やりたくないことはそこそこにと決めた行動が裏目に出たと頭を抱えるロベリアの鼻がヒクッと動いた。よく知っている匂い。だが、まだ香水は振っていない。なぜだと振り返ると視界いっぱいに広がる花の光景に目を瞬かせる。
〈ファーディナンド〉
彼が朝食前に来るのは珍しい。ましてや花束を持ってくるなんて。
〈結婚記念日か何か?〉
「一ヶ月記念日か? 俺はそういう細かなものは好かん」
〈ロベリアとの結婚記念日かなって〉
「ロベリアとの結婚記念日になぜお前に花を送る必要がある」
言い方一つで腹が立たないこともあるのに棘を生やして言葉を選ぶ相手にイラッとするのは毎度のこと。もはや慣れた感覚すらある。だからイベリスは相手が嫌な言い方をしてきた際はあえてポジティブに考えることにした。
〈じゃあ私のためにわざわざこうして花を持ってきてくれたってことね。だってこれはイベリスの花だもの〉
「わかるのか?」
〈香りでわかるわ〉
「甘ったるい匂いだ」
そう言いながらもあまり嫌そうな顔は見せず、受け取れと言わんばかりにグッと更に突き出してイベリスに渡した。砂糖菓子のような甘い香りを胸いっぱいに吸い込むイベリスは幸せな気持ちになる。
テロスに引っ越す前、父親はイベリスの花の香水を用意してくれた。リングデール家の庭にはいつもイベリスの花が咲いており、耳が聞こえないイベリスが香りと見た目を楽しめるようにと生まれてすぐに両親が用意したもの。
『イベリスは強い花でな、暑さにも寒さにも強い。お前もよく似ている。だからあまり心配はしていないんだよ。お前はイベリスの花に似て、とても強い子だからね』
出発前にそう言いながら香水瓶を渡してくれた。
『もし、辛くなったり恋しくなったら使いなさい。気軽に帰れる距離にないからこそ、支えになるだろう』
香水瓶と一緒に強く手を握った父親の言葉に励まされながら嫁いできて一ヶ月、イベリスは彼に花を植えてほしいとお願いしたことは一度もなかった。一輪でもいいからと頼んだことも。
それなのに彼は突然こうして花を持ってきた。
〈どうしてイベリスの花を?〉
「お前の父親と約束したからな」
〈お父様と?〉
「もし、お前がいい子にしていたら一年に一度でいいからイベリスの花を贈ってやってほしいと」
皇帝になんてお願いをしているんだと苦笑してしまうが、彼が律儀にその約束を守ったことにイベリスは驚いていた。
〈じゃあ次にイベリスの花を見るのは来年?〉
「そうなる」
〈ふふっ、楽しみだわ〉
嬉しい。きっとこれはウォーキングの授業を卒業できたからだと花束を抱きしめて笑うイベリスをファーディナンドは静かに見下ろす。
ロベリアを求め、探し続けた三年間。ようやく見つけた少女はまだ十六歳と幼い。静かに本を読んでいれば似ているものの、笑うとやはり年相応に見える。ロベリアが亡くなった年齢に追いつくにはまだ七年もかかる。それが少しもどかしく感じていた。
「褒美をやったんだ。歴史の授業をサボるんじゃないぞ」
〈これはウォーキングの授業を卒業したご褒美でしょ? 歴史の授業頑張ってほしかったらもっとご褒美くれてもいいんじゃない?〉
「褒美とは成果をあげた者だけが与えられるものだ」
〈じゃあテロスのことを半分覚えたご褒美は?〉
「成果は問題を半分解決しただけでもらえるものではない。甘えるな」
〈あなたってやっぱりケチね〉
「お前の考えが甘すぎるだけだ」
イベリスがベーッと舌を出すとファーディナンドが呆れた顔で部屋を出ていく。
時計を見ると八時五分前。食堂に向かっている間に八時になると立ち上がってサーシャと一緒に食堂へ向かった。
朝摘みのイベリスの花を思い出してはニヤニヤするイベリスに「静かに食べろ」とファーディナンドが注意をするもイベリスは無視。
部屋に戻るとすぐにサーシャが花瓶を持ってきて花束を飾ってくれた。窓から差し込む太陽の光で輝いて見える白い花を恍惚とした表情で見つめるイベリスはやはり歴史の授業に集中しなかった。
〈アーシャル先生、今日は一段とお怒りでしたよ〉
〈あの先生は多分あれでいつもどおりだと思う〉
〈確かに怒りっぽい性格ではありますが、今日のあの怒りはイベリス様のせいだと思いますよ〉
〈この香りでリラックスできないなんて次の授業は歴史じゃなくてアーシャル先生がリラックスできる方法を探す授業に切り替えるべきね〉
〈イベリス様がしっかりと集中して真面目に授業を受けられればアーシャル先生はとてもリラックスした状態で授業ができると思います〉
〈そうかしら?〉
帝国であるが故に歴史は長く、その物語は壮大。これを片っ端から覚えろと言われたところで無理だとお手上げ状態のイベリスは毎日顔を合わせる家庭教師のアーシャルの怒りにもすっかり慣れてしまった。ロベリアにも家庭教師として就いたプライドもあって皇妃でありながら真面目にテロスの歴史を覚えようとしないイベリスに腹を立てているとサーシャは本人から直接聞いている。
〈髪を解きましょうか〉
〈まだ寝ないし、自分で解くから大丈夫〉
〈あまり夜更かししてはいけませんよ?〉
〈はあい〉
寝る前のホットミルクを受け取ってカップに蜂蜜を一杯垂らしてもらう。ハニーディッパーで絡め取った蜂蜜が紅茶に落ちていくのを見るのが好き。甘くなっていくその過程を想像するのが楽しかった。
受け取って、一口飲めば想像どおりの甘さ。熱すぎないミルクにホッと息を吐き出し、ゆっくり時間をかけて飲み干すとサーシャとは本日のお別れの時間。
いつもならベッドに入ってから見送るのだが、今日はベッドには入らず花瓶へと向かう。三本ほど取ってサーシャの元に戻ったイベリスが笑顔でそれを差し出した。
〈私に?〉
驚くサーシャにイベリスは何度も大きく頷く。
テーブルの上に開いた状態で置いているメモ帳を取ってペンを走らせる。
〈いつもありがとう。侍女がサーシャじゃなかったらリンベルに帰ってたと思う〉
〈そんなことはありませんよ〉
〈でも、サーシャでよかったと思うから。受け取ってくれる?〉
〈もちろんです〉
受け取って微笑むサーシャがイベリスの花の匂いを嗅いで目を細めた。
〈イベリス様と同じ匂いですね〉
〈本当はね、イベリスって鉢に植える花なの。だから本当は鉢で渡したかったんだけど──〉
〈次は私が鉢でイベリスの花をご用意いたします〉
〈本当!?〉
〈約束です〉
差し出された小指を数秒間、目を瞬かせながら見つめたあと、イベリスは嬉しそうに笑って小指を絡めた。上下に揺らすこと十回。歌えない彼女の中での一種のルールなのだろうとサーシャは察する。
〈おやすみなさい〉
〈おやすみ、サーシャ。また明日〉
パタンとドアが閉まる音は聞こえない。イベリスはノックの音もドアが閉まる音も知らない。それでも、サーシャが帰るといつも部屋の中がとても静かになったような気がしていた。
(聞こえないはずなのに、どうして朝と夜じゃこんなにも違うのかしら……)
リンベルにいた頃は気にならなかった静けさ。夜、母親が過保護に寝かしつけに来る。もう十六歳だと言っても必ず『まだ十六歳よ』と言われた。母親が出ていったあと、サイドテーブルのランプは消さずに本を読んで寝落ちする。そんな生活の中で一度も静けさを気にしたことはないし、感じたこともなかっただけにテロスにやってきてから感じ始めたこの感覚が少し寂しい。これは本を読んでも紛れないものだと知った。
今日は特に強く感じる気持ちに本を読む予定を取り消して早く寝てしまおうとベッドに向かったとき、目の前に文字が表示され、足を止める。
(ファーディナンド?)
イベリスの目の前に表示されるのはファーディナンドの言葉だけ。振り返ってもその存在はなく、隠れているのだろうかとカーテンを捲り、クローゼットを開けてもやはり見つからない。テラスかと外へ出たとき、少し離れた場所に彼が立っているのが見えた。執事長のアイゼンと何か話している。
「本当によろしいのですか?」
「今更何を確認する必要がある」
「イベリス様のご様子から察するに、陛下は一年後の説明をされていないのではありませんか?」
「東の森の魔女と契約を交わした時点で既に計画は始まっている。今更計画に変更などはない」
二人で話しているのだろうが、ファーディナンドの言葉しか表示されないため一体なんの話かわからない。それでも自分の名前が出たことから関わっていることはわかる。
(東の森の魔女? 契約? 計画? 一体なんのこと?)
「あまりにも残酷すぎるとは思いませんか?」
「俺にはロベリアが必要だ」
「陛下、ロベリア様が亡くなられましたことは、テロスの国民全員が心を痛め、悲しみに暮れました。ですが、現実を受け入れ、前に進まねばならないのです。イベリス様はロベリア様ではございません」
「器があれば魂を戻せると魔女は言った。だから俺はこうしてロベリアの器となる者を見つけてきたんだ。一年後、ロベリアは俺のもとへ戻ってくる」
ドクンッとイベリスの心臓が大きく跳ねる。
「たとえ、本当に魔女がロベリア様の魂をイベリス様の身体に降ろしてくれたとして、身体は彼女のもの。陛下のお声は届かず、陛下のお名前を呼ぶこともできません。それでも求めるとおっしゃるのですか?」
「たとえ耳が聞こえずとも、俺の名前を呼べずともロベリアであれば構わん。ロベリアが嫌だと言えば魔女に頼んで障害を全て修復してもらう」
「またあの森へ行くと? 帰ってきたあなたの身体はボロ雑巾よりもひどい状態だったというのに」
「ロベリアのためなら命など惜しくもない。俺はもう一度ロベリアに会いたいんだ、アイゼン。愚かだと思うなら思えばいい。だが、俺はもう決めた。障害は持っているが、まるでロベリアと双子のように似た顔を持つ娘を見つけた幸運は運命が、神が俺に味方しているということ。」
「ロベリア様のお言葉をお忘れになったわけでは──」
「前へ進むさ。ロベリアとな」
聞くつもりがなくても目の前にファーディナンドの言葉が流れてくる。アイゼンの言葉がなくともわかってしまった。ファーディナンドが自らの口で語ったのだから。
「一年。あと一年、我慢すればロベリアが戻ってくる。それだけだ」
「イベリス様に申し訳ないとは思わないのですか?」
「俺の妻は後にも先にもロベリアだけだ」
イベリスは勘違いしていた。ファーディナンドはずっとロベリアを再現したいのだと思っていた。そのために瓜二つの女を探して結婚したのだと。だが、実際はそうではなかった。
ファーディナンドは再現しようとしていたのではなく、ロベリアを取り戻そうとしていた。亡き妻の魂を降ろすための器としてイベリスと結婚した。
予想以上の計画に流石にポジティブに考えることなどできるはずもなく、部屋へ戻る身体がフラつく。壁に手をついてそのまま倒れるようにソファーに腰掛けた。
(そういうことか……。ロベリアがこの身体に入るから全部そのままにしてるんだ。肖像画も、写真も、服も全部……)
捨てられないんだと、再現するためだと思っていたのがいかに幸せだったかを思い知る。そうじゃなかった。
(思いどおりにならないとか、私がどれだけ抵抗したところで関係ない。髪を切らなくてもいいと簡単に諦めたのはロベリアが戻ってくれば自由に切れるから。花を持ってきてくれたのもこちらの思惑にも気付かず、一目惚れでの求婚を疑いもせずに器を簡単に差し出してくれた愚かな親への約束を守ってのこと。口うるさく言わないのはロベリアが戻ってくるまでの一年間、私に“器”を大事にさせるため)
点と点が線で結ばれる感覚はサスペンスを読んだときだけだと思っていた。人生においてそれ以上に疑問が解決する瞬間などないと思っていたイベリスは肩を揺らして笑いだす。声も出ないのに口を開けて、おかしそうに笑っている。
こんなにおかしいことはない。哀れで、愚かで、どうしようもない現実に涙が溢れる。
(すごい愛よね、これって……)
誰かを犠牲にしてでも欲しい愛がある。誰かがそれを愚かだと言い、誰かはそれを素晴らしいと言い、また誰かは羨ましいとさえ言うだろう。
イベリスはファーディナンドが持つ愛を羨ましいと思った。
彼ががどれほどロベリアを愛しているのかを知ったイベリスは笑うのをやめて立ち上がる。向かったのは花瓶が飾ってあるテーブル。ついたままだった長い葉を切るために使ったハサミを手に取り、まだ解いていなかったポニーテールの根っこを掴んで深呼吸をする。
イベリスの花と一緒にガラスに映る自分を見てイベリスは笑った。
彼のその感情を間近で感じていたイベリスも居心地が悪いわけではなかった。自分を愛してくれているわけじゃないとわかっていても優しくされるのは嬉しい。無理強いをすることもなく、平和な日常が続いた一ヶ月。イベリスもようやくここでの生活に慣れてきた。
〈できましたよ〉
〈ありがとう〉
左手の甲の上に右手を垂直に乗せ、そのまま右手を軽く持ち上げながら会釈程度に頭を下げてお礼を伝えるイベリスは鏡越しにサーシャに微笑みかけた。
鬱陶しくない髪型でいることを条件に髪を切らないでおくと言ったファーディナンドとの約束を守ってポニーテールが定番となりつつあるヘアスタイルも見慣れたもので、キュッと気持ちも引き締まって悪くないと思えてきた。
〈今日は歴史の授業が三時間入っていますよ〉
〈……今日は風邪引く予定だからキャンセル〉
〈ウォーキングの授業がなくなった代わりに真面目に受けない歴史の授業を増やされました〉
やりたくないことはそこそこにと決めた行動が裏目に出たと頭を抱えるロベリアの鼻がヒクッと動いた。よく知っている匂い。だが、まだ香水は振っていない。なぜだと振り返ると視界いっぱいに広がる花の光景に目を瞬かせる。
〈ファーディナンド〉
彼が朝食前に来るのは珍しい。ましてや花束を持ってくるなんて。
〈結婚記念日か何か?〉
「一ヶ月記念日か? 俺はそういう細かなものは好かん」
〈ロベリアとの結婚記念日かなって〉
「ロベリアとの結婚記念日になぜお前に花を送る必要がある」
言い方一つで腹が立たないこともあるのに棘を生やして言葉を選ぶ相手にイラッとするのは毎度のこと。もはや慣れた感覚すらある。だからイベリスは相手が嫌な言い方をしてきた際はあえてポジティブに考えることにした。
〈じゃあ私のためにわざわざこうして花を持ってきてくれたってことね。だってこれはイベリスの花だもの〉
「わかるのか?」
〈香りでわかるわ〉
「甘ったるい匂いだ」
そう言いながらもあまり嫌そうな顔は見せず、受け取れと言わんばかりにグッと更に突き出してイベリスに渡した。砂糖菓子のような甘い香りを胸いっぱいに吸い込むイベリスは幸せな気持ちになる。
テロスに引っ越す前、父親はイベリスの花の香水を用意してくれた。リングデール家の庭にはいつもイベリスの花が咲いており、耳が聞こえないイベリスが香りと見た目を楽しめるようにと生まれてすぐに両親が用意したもの。
『イベリスは強い花でな、暑さにも寒さにも強い。お前もよく似ている。だからあまり心配はしていないんだよ。お前はイベリスの花に似て、とても強い子だからね』
出発前にそう言いながら香水瓶を渡してくれた。
『もし、辛くなったり恋しくなったら使いなさい。気軽に帰れる距離にないからこそ、支えになるだろう』
香水瓶と一緒に強く手を握った父親の言葉に励まされながら嫁いできて一ヶ月、イベリスは彼に花を植えてほしいとお願いしたことは一度もなかった。一輪でもいいからと頼んだことも。
それなのに彼は突然こうして花を持ってきた。
〈どうしてイベリスの花を?〉
「お前の父親と約束したからな」
〈お父様と?〉
「もし、お前がいい子にしていたら一年に一度でいいからイベリスの花を贈ってやってほしいと」
皇帝になんてお願いをしているんだと苦笑してしまうが、彼が律儀にその約束を守ったことにイベリスは驚いていた。
〈じゃあ次にイベリスの花を見るのは来年?〉
「そうなる」
〈ふふっ、楽しみだわ〉
嬉しい。きっとこれはウォーキングの授業を卒業できたからだと花束を抱きしめて笑うイベリスをファーディナンドは静かに見下ろす。
ロベリアを求め、探し続けた三年間。ようやく見つけた少女はまだ十六歳と幼い。静かに本を読んでいれば似ているものの、笑うとやはり年相応に見える。ロベリアが亡くなった年齢に追いつくにはまだ七年もかかる。それが少しもどかしく感じていた。
「褒美をやったんだ。歴史の授業をサボるんじゃないぞ」
〈これはウォーキングの授業を卒業したご褒美でしょ? 歴史の授業頑張ってほしかったらもっとご褒美くれてもいいんじゃない?〉
「褒美とは成果をあげた者だけが与えられるものだ」
〈じゃあテロスのことを半分覚えたご褒美は?〉
「成果は問題を半分解決しただけでもらえるものではない。甘えるな」
〈あなたってやっぱりケチね〉
「お前の考えが甘すぎるだけだ」
イベリスがベーッと舌を出すとファーディナンドが呆れた顔で部屋を出ていく。
時計を見ると八時五分前。食堂に向かっている間に八時になると立ち上がってサーシャと一緒に食堂へ向かった。
朝摘みのイベリスの花を思い出してはニヤニヤするイベリスに「静かに食べろ」とファーディナンドが注意をするもイベリスは無視。
部屋に戻るとすぐにサーシャが花瓶を持ってきて花束を飾ってくれた。窓から差し込む太陽の光で輝いて見える白い花を恍惚とした表情で見つめるイベリスはやはり歴史の授業に集中しなかった。
〈アーシャル先生、今日は一段とお怒りでしたよ〉
〈あの先生は多分あれでいつもどおりだと思う〉
〈確かに怒りっぽい性格ではありますが、今日のあの怒りはイベリス様のせいだと思いますよ〉
〈この香りでリラックスできないなんて次の授業は歴史じゃなくてアーシャル先生がリラックスできる方法を探す授業に切り替えるべきね〉
〈イベリス様がしっかりと集中して真面目に授業を受けられればアーシャル先生はとてもリラックスした状態で授業ができると思います〉
〈そうかしら?〉
帝国であるが故に歴史は長く、その物語は壮大。これを片っ端から覚えろと言われたところで無理だとお手上げ状態のイベリスは毎日顔を合わせる家庭教師のアーシャルの怒りにもすっかり慣れてしまった。ロベリアにも家庭教師として就いたプライドもあって皇妃でありながら真面目にテロスの歴史を覚えようとしないイベリスに腹を立てているとサーシャは本人から直接聞いている。
〈髪を解きましょうか〉
〈まだ寝ないし、自分で解くから大丈夫〉
〈あまり夜更かししてはいけませんよ?〉
〈はあい〉
寝る前のホットミルクを受け取ってカップに蜂蜜を一杯垂らしてもらう。ハニーディッパーで絡め取った蜂蜜が紅茶に落ちていくのを見るのが好き。甘くなっていくその過程を想像するのが楽しかった。
受け取って、一口飲めば想像どおりの甘さ。熱すぎないミルクにホッと息を吐き出し、ゆっくり時間をかけて飲み干すとサーシャとは本日のお別れの時間。
いつもならベッドに入ってから見送るのだが、今日はベッドには入らず花瓶へと向かう。三本ほど取ってサーシャの元に戻ったイベリスが笑顔でそれを差し出した。
〈私に?〉
驚くサーシャにイベリスは何度も大きく頷く。
テーブルの上に開いた状態で置いているメモ帳を取ってペンを走らせる。
〈いつもありがとう。侍女がサーシャじゃなかったらリンベルに帰ってたと思う〉
〈そんなことはありませんよ〉
〈でも、サーシャでよかったと思うから。受け取ってくれる?〉
〈もちろんです〉
受け取って微笑むサーシャがイベリスの花の匂いを嗅いで目を細めた。
〈イベリス様と同じ匂いですね〉
〈本当はね、イベリスって鉢に植える花なの。だから本当は鉢で渡したかったんだけど──〉
〈次は私が鉢でイベリスの花をご用意いたします〉
〈本当!?〉
〈約束です〉
差し出された小指を数秒間、目を瞬かせながら見つめたあと、イベリスは嬉しそうに笑って小指を絡めた。上下に揺らすこと十回。歌えない彼女の中での一種のルールなのだろうとサーシャは察する。
〈おやすみなさい〉
〈おやすみ、サーシャ。また明日〉
パタンとドアが閉まる音は聞こえない。イベリスはノックの音もドアが閉まる音も知らない。それでも、サーシャが帰るといつも部屋の中がとても静かになったような気がしていた。
(聞こえないはずなのに、どうして朝と夜じゃこんなにも違うのかしら……)
リンベルにいた頃は気にならなかった静けさ。夜、母親が過保護に寝かしつけに来る。もう十六歳だと言っても必ず『まだ十六歳よ』と言われた。母親が出ていったあと、サイドテーブルのランプは消さずに本を読んで寝落ちする。そんな生活の中で一度も静けさを気にしたことはないし、感じたこともなかっただけにテロスにやってきてから感じ始めたこの感覚が少し寂しい。これは本を読んでも紛れないものだと知った。
今日は特に強く感じる気持ちに本を読む予定を取り消して早く寝てしまおうとベッドに向かったとき、目の前に文字が表示され、足を止める。
(ファーディナンド?)
イベリスの目の前に表示されるのはファーディナンドの言葉だけ。振り返ってもその存在はなく、隠れているのだろうかとカーテンを捲り、クローゼットを開けてもやはり見つからない。テラスかと外へ出たとき、少し離れた場所に彼が立っているのが見えた。執事長のアイゼンと何か話している。
「本当によろしいのですか?」
「今更何を確認する必要がある」
「イベリス様のご様子から察するに、陛下は一年後の説明をされていないのではありませんか?」
「東の森の魔女と契約を交わした時点で既に計画は始まっている。今更計画に変更などはない」
二人で話しているのだろうが、ファーディナンドの言葉しか表示されないため一体なんの話かわからない。それでも自分の名前が出たことから関わっていることはわかる。
(東の森の魔女? 契約? 計画? 一体なんのこと?)
「あまりにも残酷すぎるとは思いませんか?」
「俺にはロベリアが必要だ」
「陛下、ロベリア様が亡くなられましたことは、テロスの国民全員が心を痛め、悲しみに暮れました。ですが、現実を受け入れ、前に進まねばならないのです。イベリス様はロベリア様ではございません」
「器があれば魂を戻せると魔女は言った。だから俺はこうしてロベリアの器となる者を見つけてきたんだ。一年後、ロベリアは俺のもとへ戻ってくる」
ドクンッとイベリスの心臓が大きく跳ねる。
「たとえ、本当に魔女がロベリア様の魂をイベリス様の身体に降ろしてくれたとして、身体は彼女のもの。陛下のお声は届かず、陛下のお名前を呼ぶこともできません。それでも求めるとおっしゃるのですか?」
「たとえ耳が聞こえずとも、俺の名前を呼べずともロベリアであれば構わん。ロベリアが嫌だと言えば魔女に頼んで障害を全て修復してもらう」
「またあの森へ行くと? 帰ってきたあなたの身体はボロ雑巾よりもひどい状態だったというのに」
「ロベリアのためなら命など惜しくもない。俺はもう一度ロベリアに会いたいんだ、アイゼン。愚かだと思うなら思えばいい。だが、俺はもう決めた。障害は持っているが、まるでロベリアと双子のように似た顔を持つ娘を見つけた幸運は運命が、神が俺に味方しているということ。」
「ロベリア様のお言葉をお忘れになったわけでは──」
「前へ進むさ。ロベリアとな」
聞くつもりがなくても目の前にファーディナンドの言葉が流れてくる。アイゼンの言葉がなくともわかってしまった。ファーディナンドが自らの口で語ったのだから。
「一年。あと一年、我慢すればロベリアが戻ってくる。それだけだ」
「イベリス様に申し訳ないとは思わないのですか?」
「俺の妻は後にも先にもロベリアだけだ」
イベリスは勘違いしていた。ファーディナンドはずっとロベリアを再現したいのだと思っていた。そのために瓜二つの女を探して結婚したのだと。だが、実際はそうではなかった。
ファーディナンドは再現しようとしていたのではなく、ロベリアを取り戻そうとしていた。亡き妻の魂を降ろすための器としてイベリスと結婚した。
予想以上の計画に流石にポジティブに考えることなどできるはずもなく、部屋へ戻る身体がフラつく。壁に手をついてそのまま倒れるようにソファーに腰掛けた。
(そういうことか……。ロベリアがこの身体に入るから全部そのままにしてるんだ。肖像画も、写真も、服も全部……)
捨てられないんだと、再現するためだと思っていたのがいかに幸せだったかを思い知る。そうじゃなかった。
(思いどおりにならないとか、私がどれだけ抵抗したところで関係ない。髪を切らなくてもいいと簡単に諦めたのはロベリアが戻ってくれば自由に切れるから。花を持ってきてくれたのもこちらの思惑にも気付かず、一目惚れでの求婚を疑いもせずに器を簡単に差し出してくれた愚かな親への約束を守ってのこと。口うるさく言わないのはロベリアが戻ってくるまでの一年間、私に“器”を大事にさせるため)
点と点が線で結ばれる感覚はサスペンスを読んだときだけだと思っていた。人生においてそれ以上に疑問が解決する瞬間などないと思っていたイベリスは肩を揺らして笑いだす。声も出ないのに口を開けて、おかしそうに笑っている。
こんなにおかしいことはない。哀れで、愚かで、どうしようもない現実に涙が溢れる。
(すごい愛よね、これって……)
誰かを犠牲にしてでも欲しい愛がある。誰かがそれを愚かだと言い、誰かはそれを素晴らしいと言い、また誰かは羨ましいとさえ言うだろう。
イベリスはファーディナンドが持つ愛を羨ましいと思った。
彼ががどれほどロベリアを愛しているのかを知ったイベリスは笑うのをやめて立ち上がる。向かったのは花瓶が飾ってあるテーブル。ついたままだった長い葉を切るために使ったハサミを手に取り、まだ解いていなかったポニーテールの根っこを掴んで深呼吸をする。
イベリスの花と一緒にガラスに映る自分を見てイベリスは笑った。
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