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侍女

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 サーシャの化粧が完璧だったおかげか、それともイベリスが泣いたことなど興味もないのか、ファーディナンドは朝食時に何も問いかけはしなかった。
 色々と話しかけてくるファーディナンドにイベリスは返事をする度にペンを取らなければならないため食事が進まなかった。そのため思わず〈食事中は話したくない。ご飯が冷めちゃう〉と書いた。
 それを見て、あからさまに気分を害したような顔でファーディナンドは言い放った。

『黙っているのはお前の専売特許だからな』

 視界を支配するように浮かぶその言葉にカッとなったイベリスはメモ帳を彼に投げつけた。
 手話をして相手に何か伝えたところで伝わりはしないし、ひどい言葉を放った相手のためにわざわざ言葉を綴るのもバカバカしいと立ち上がって食堂を出て行った。
 後ろから追いかけてくるサーシャと一緒に部屋に戻り、苛立ちをぶつけるように何度も何度もクッションを叩く。サーシャはその間、何も言わずにイベリスを見守っていた。

〈そろそろ授業のお時間です〉
〈行かない!〉

 サーシャの言葉を読んでイベリスは拗ねたようにベッドに伏せた。嫌だと拒絶する理由も痛いほどわかる。これは一種の結婚詐欺。
 ファーディナンドから直々に指名されてイベリスの侍女となった際、サーシャは一つ問いかけた。

『イベリス・リングデールは陛下のお考えを知っているのですか?』
『知らん』
『離婚すると言い出す可能性があると思うのですが』
『離婚はしない。俺が許可しなければ離婚はできん』
『黙って出ていくことは──』

 一応の可能性を口にするサーシャにファーディナンドは大きく口を開けて笑った。

『サーシャ、リンベルまで歩いて何ヶ月かかると思ってるんだ? 馬車にしか乗ったことがないお嬢様だぞ。金も持たずに馬車には乗れん。リンベルまで一人で帰るなど不可能で非現実的だ。イベリスはそれがわからんほどバカではない』

 逃すつもりはないと言っているように聞こえた。
 イベリスは既にファーディナンドという籠の中に閉じ込められた鳥となった。自由を奪われた代わりに少し上質な餌を与えられただけ。自由に羽ばたくことも許されず、全てはファーディナンドの思うがまま。
 ロベリアが不治の病を患ったと判明した日からファーディナンドは少しおかしくなった。国中の医者と科学者と魔法士を集め、新薬を開発するよう命じた。もともとは優しい性格であったファーディナンドは人が変わったように命令、怒声を繰り返すようになった。
 イベリスにはまだ怒っていない。だが、それも時間の問題。ロベリアを取り戻そうとするファーディナンドの思うとおりに動かなければ何をされるかわからない。暴力はないだろう。ロベリアと瓜二つの顔を殴れるわけがないのだから。ただ、圧はかけるだろう。ロベリアには絶対に向けなかった圧を。
 あくまでも全て推測に過ぎないものの、やりかねないという確信もあった。だからサーシャはペンを走らせ、イベリスに読ませた。

〈何が嫌なのですか?〉

 サーシャの顔を見るも怒っても呆れてもいない。だからイベリスはペンを取って返事を書く。

〈あの人が求めてるのはロベリア・キルヒシュでしょ? あの人が生き返ったみたいに振る舞わせたいんでしょ?〉
〈そうだと思います〉
〈私はロベリアじゃない。イベリスなの〉
〈そうですね〉

 泣けば化粧が落ちてしまう。そう思って涙を堪えるも瞬き一つで零れ落ちてしまうだろうほど目にいっぱいの涙が溜まっている。
 貴族令嬢なら政略結婚が普通だが、ファーディナンドは一目惚れをしたと嘘をついた。受け入れ難いだろう。

〈私は私のまま私として生きたい〉

 悲痛さを物語るその表情にサーシャも胸が締め付けられる。
 イベリスが暮らしていたリンベルからテロスまで馬車で二週間以上かかる。船に乗せることもできるが、耳が聞こえないイベリスは馬車のほうが安心だろう。かといって馬車は野盗に狙われやすい。野盗の慰み者になったあとに人身売買にかけられる末路は多くの貴族令嬢が辿っている。
 今のところサーシャはどこか別の国に移動するつもりはなく、紹介状なしでは面接さえ受けられない場所で働いている環境を捨ててまでイベリスのために動くつもりもないため、イベリスの逃し方を考えるのはやめた。

〈では、授業を受けるだけ受けるのはいかがですか? その場は教師の言うとおりに動いて、それ以外はイベリス様のまま生きるんです〉
〈ファーディナンドが怒るもの〉
〈陛下の前でも陛下の望むまま動く。それ以外はイベリス様の自由に生きるのもアリかと〉
〈誰かが告げ口しない? ロベリア様だったらあんなこと絶対にしなかったのにって。陛下にお伝えしなきゃって〉

 使用人がいる生活を当たり前として生きてきたイベリスは使用人の性格をよく知っている。サーシャはイベリスの想像を否定できないし、自分が止めるとも言えない。
 メモ帳にペンの先を付けたままサーシャは考えていた。これを書くべきかどうか。

〈なんでも言って〉

 考えを読んだように書いたイベリスにサーシャはペンを走らせる。

〈ロベリア様はとても気が強く、常に自分の意思を二分化させるお方でした。イエスかノーか、したいかしたくないかの二択。それは陛下が何を言っても曲げることはありませんでした〉
〈ファーディナンドは怒らなかった?〉
〈全く。それがロベリア様であることを受け入れられていました〉
〈妻は特別だものね〉

 自分も妻であるはずなのにと苦笑するイベリスに向けて再度メモ帳を差し出した。

〈イベリス様もそう生きてみてはどうでしょう?〉
〈私も?〉
〈どこまでイベリス様ご自身が陛下に通用するのかを試してみるのもいいかもしれません。どうしても陛下が譲れず、イベリス様が譲れるものは妥協すればいいと思います。イベリス様が譲れないものは譲らず、陛下も譲れないのであれば妥協はなし……というのはいかがでしょう?〉

 思いどおりにはならないとイベリスはファーディナンドに言った。その言葉に嘘はないし、黙って従い続けるつもりもない。だが、ここには味方はいない。数えきれないほどいる使用人全員が主人であるファーディナンドの味方。そう思うと心が挫けそうになっていたが、サーシャの言葉で少し勇気が出た。

〈そうする。私はロベリア・キルヒシュじゃなくてイベリス・リングデールだもの〉
〈今はイベリス・キルヒシュでございます〉
〈リングデールのほうが可愛くて好き〉
〈それは私の口からはなんとも言えませんが、私はイベリス様の侍女ですからイベリス様の味方ですよ〉
〈じゃあ少し頑張ってみる。ロベリアにならなくていい方法を探すわ〉

 授業を受けることにした。サーシャと話していたことで予定されていた授業の時間に遅刻し、それに対して厳しい言葉を飛ばされるもイベリスは気にしない。耳が聞こえないため相手の怒声は感じない。黒板に書かれた文字と表情で相手の怒りを理解するだけ。
 自分が望んで受けさせてもらったわけじゃない。あくまでもファーディナンドが勝手に入れた予定。教鞭を手に、脅すように机を、黒板を叩く女教師に対し、イベリスは大欠伸をかますこともあった。
 歩き方の授業は嫌いではなかった。のんびり歩くのが好きだったが、教えてもらった歩き方は姿勢から歩き方からサーシャを見ているようだと思った。お手本が近くにいるためコツを聞き、あっという間に褒められるようになった。歴史の授業は例外。一週間が経っても大欠伸を連発しては怒られる。

〈サーシャはどうして歩き方がキレイなの?〉
〈キレイかどうかはわかりませんが、氷の国出身のせいかもしれませんね〉
〈氷の国? もしかしてグラキエス?〉
〈おや、ご存じですか?〉
〈行ったことはないけど、聞いたことはあるわ。リングデールからそんなに遠くないしね〉
〈一年中凍っている国で、とても寒いんです。背を丸めて歩いているとそのまま身体が固まってしまいそうなぐらいには。だから背を丸めないようにと気をつけて歩いてきたせいかもしれません〉
〈サーシャの歩き方を真似すると先生が褒めてくれるの〉
〈光栄です〉

 一定のリズムで歩くことが大事と言われてもよくわからなかったが、サーシャに歩いてもらうとよくわかった。ピンと伸びた背筋、スッと前に出る足、一点を見据えて歩く顔の角度。
それらを真似するとよく褒めてもらえることが嬉しかった。それがロベリアの歩き方だとしても褒められるだけで嬉しいとイベリスは歩き方の授業がお気に入りだった。
 最近は授業がない日はよく、イベリスの部屋でサーシャとお茶をしながら少し大きめのメモ帳を用意してもらって話をする。手話を教えてほしいと言うサーシャからのお願いでイベリスが教師役をすることもあった。鼻の下にペンを当てて歩き方の授業をする教師の真似をするイベリスをサーシャが笑ってくれるようになった。
 
〈でも、どうしてテロスに来たの? グラキエスからテロスまではとっても遠いでしょ?〉
〈寒すぎて嫌になったんです〉

 あまりに簡単な理由にイベリスが大口を開けて笑う。爆笑しているのに部屋は静かなもので、サーシャは不思議な感覚だった。

〈私はイベリス様のままでいいと思います〉

 突然の言葉にメモ帳とサーシャを交互に見るとイベリスが目を瞬かせる。

〈ロベリア様の代わりは誰にも務まりません。イベリス様の代わりもまた陛下がどこかで同じ顔の方を見つけられたとしてもそれはイベリス様ではありませんし、イベリス様にはなれません〉
〈でもファーディナンドはロベリアを求めてる〉
〈いつかそれが間違いだったと気付く日が来るでしょう〉

 まるで予知のように告げるサーシャにイベリスは嬉しくなった。肩を上げて満面の笑みを浮かべながらダブルピースして見せる。その姿に一度だけ頷き、サーシャは気持ちを伝える。

〈あなたのその明るさはロベリア様にはないものでした〉
〈暗い人だったの?〉
〈いえ、そうではありません。明るい方でしたよ。ただ、イベリス様の明るさが太陽だとしたら、ロベリア様の明るさはランプのようなものでした〉
〈ふんわりした明るさ?〉

 まるでロベリアを見たことがあるかのような的確な言葉に今度はサーシャが目を瞬かせた。
 根っからの明るさを持つイベリスがロベリアのようになるには性格ごと変えなければならない。それはイベリスの良い部分を全て奪うことになるとサーシャは思った。
 まだ侍女となって一週間だが、サーシャはファーディナンドよりもずっとイベリスの良い部分を見ている。
 だからこそロベリアにしようとしているファーディナンドに少し嫌悪感を持っていた。

〈あ、鬼が来た〉

 ガチャッとノックもなしに開いたドア。ここはイベリスの部屋であって寝室ではないにもかかわらず、それが許されるのはこの屋敷の主人だけ。
 
「イベリス、また歴史の授業を真面目に受けなかったと聞いたぞ」
〈つまらないんだもの〉
「この国の皇妃になる者がこの国の歴史を知らないなど許されないぞ」
〈政治に関わらない人間がどうして歴史を知る必要があるの?〉
「他国の皇族や王族と話した際に自国について聞かれて答えられないなどあってはならないからだ」
〈あなたがフォローしてくれるでしょ?〉
「王妃皇妃だけが集まる場に俺はいない」
〈サーシャがいるもの〉

 ああいえばこう言うイベリスをファーディナンドはあまり快く思っていなかった。もう少し可愛げがあればもっと可愛がったのだが、ロベリアと似ているのは顔だけであって性格の良さは雲泥の差があると舌打ちしたい気分になる。
 だが、やはり見れば見るほどロベリアでしかなく、苛立つ気持ちはすぐに消えていく。
 近付いてきたファーディナンドが手を伸ばす。目を逸らさずその手を受け入れる様は特にロベリアに似ていた。
 優しく髪を撫でる大きな手。それを受けながらイベリスはペンを走らせ、紙を見せた。

〈触り心地良いでしょ〉

 自慢の髪だと笑うのを見て微笑んだファーディナンドはイベリスの髪をひと束、手に取って口付けたあと、言い放った。

「明日、髪を切るぞ」

 目の前に浮かぶ突然の言葉にイベリスだけでなくサーシャも驚きを隠せなかった。
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