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皇帝陛下からの求婚
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「デリケートな問題だぞ」
また夫から小声で注意を受けるもレイチェルは相変わらずファーディナンドを見ている。その目が、表情が嘘をついていないかを見逃さないために。
「三年と三ヶ月で傷は癒えましたか?」
テロスの皇后が亡くなったとニュースになったのは彼が言ったように三年と三ヶ月前のこと。皇帝であるファーディナンドはひどく悲しんでおり、公務も手につかない状態だと報じられていた。
他大陸のニュースなどそうそう入ってくるものではなく、そうした国のトップが亡くなるでもなければニュースにはならない。
もう三年か、まだ三年かは個人によるが、レイチェルはアーマンと違ってどうにも警戒の糸が切れないでいる。
フリトリンカに行くために通った際に偶然見かけた一目惚れ。そしてフリトリンカからの帰り道、居ても立ってもいられずアポなしでの訪問となったこと理解できる。テロスは隣の大陸といえど果てしなく遠い。帰って手紙を書いて届くまでに一週間以上かかり、その返事が届くのにまた一週間以上かかる。恋焦がれる日々を過ごすよりも直接申し込んだほうがいいと思ったのかもしれないとそれも理解できる。
レイチェルが理解できないのは悲しみに暮れた三年と三ヶ月で一目惚れできるほど心の傷は癒えるのか、というもの。
「いえ、未だに恋しく思う日はあります。私の初恋の相手ですから、思い出さない日はありませんし、死ぬまで永遠に彼女のことは思い出すでしょう」
「イベリスをテロスの皇后の代わりに、とお考えですか?」
また皇帝の眉がピクッと反応する。その反応がどうにもレイチェルは引っかかっていた。
だが、ファーディナンドはすぐに笑顔を見せる。
「あなたの娘がイベリスお嬢様ただ一人であるように、私の初恋の妻は彼女だけです。ですが、亡き者をいつまでも恋しく想い、独り身で居続けるのは無責任だと思うようになったんです」
国のトップに立つ者には責任がある。国を安定させ、国民を率い、その両方を繁栄させていくこと。
「世継ぎは──」
「いません。妻は身体が弱かったのでタイミングを見ていたら……」
俯いたファーディナンドにレイチェルが慌てる。無神経な問いかけをしてしまった。誰にだって事情があるのにズケズケとリンウッドに聞くような問いかけ方になってしまったと頭を下げた。
顔を上げたファーディナンドがその様子を見て苦笑を浮かべる。
「三年と三ヶ月で傷が癒えたかというとノーです。癒えるのかと聞かれてもノーと答えるでしょう。ですが、イベリスお嬢様に惹かれた想いは嘘ではないんです。彼女が持つ明るさと華やかな笑顔を見ていたいと思ってしまいました」
立ち上がろうとしたファーディナンドに合わせて彼の付き人がタイミングよく椅子を引く。それに合わせて立ち上がったファーディナンドが頭を下げた。
「今すぐに、この場で認めてくださいと言うつもりはありません。ですが、どうか、イベリスお嬢様に抱いたこの想いだけは疑わないでください」
「お、おやめください! 皇帝陛下が頭を下げられるなどあってはならないことでしょう!」
「おやめください! このようなこと、私どもは望んでおりません!」
何がどうなっているのかわからないイベリスだけが状況を把握できずにいる。彼はなぜ頭を下げているのか、なぜ両親は慌てているのか。なぜ誰も説明をしてはくれないのか。
退屈でしかない視界だけが騒がしい静かな状況の中でイベリスは人差し指に毛先を巻きつけて遊ぶしかすることがなかった。
「皇帝陛下」
「はい」
頭を上げたファーディナンドの目に映ったのは苦笑ではなく難しい顔を見せるアーマン。
「こればかりは私ども親ではなくイベリス本人の気持ちが大事だと考えております」
「もちろんです」
「テロスの皇帝陛下に耳の障害を理解していただけた上で嫁に貰っていただけるなど光栄至極ではありますが、イベリスが行きたくないと言えば私どもはお断りさせていただくつもりでございます」
「わかっています」
物分かりの良い相手で助かったと安堵したアーマンは立ち上がってイベリスの隣に移動して床に膝をついた。急に肩を叩くと驚いてしまうためいつもそうする。
顔を向けたイベリスが終わったかと問うためかぶりを振る。
「お前さえ良ければ、彼と少しお話ししないか?」
〈どうして?〉
不思議そうに人差し指を左右に振るイベリスに苦笑が向く。
「彼はヘリオス大陸にあるテロス帝国の皇帝陛下だ」
キョトンとした顔で目を瞬かせる様子に父親も同意するように頷く。無理もない。自国の王にさえ会ったことがないのに突然他国の皇帝陛下と言われても、といったところだろう娘の感情を予想する。
自分たちでさえ理解不能だった彼の行動を娘に理解しろと言っても無理だとわかってはいるが、これも出会いの一つだと全て説明することにした。
「彼はお前に一目惚れしたそうだ」
〈会ったことないのに?〉
驚くより疑問が勝るのはイベリスらしいと苦笑が深まる。
「二日前、リンウッドとカフェにいるお前を見たらしい。華やかな笑顔に惚れて、結婚したいと申し出があった」
〈婚約破棄されたばかりだって言った?〉
あー……と声を漏らしたアーマンが表情はそのままにファーディナンドに振り返って言い辛そうに口を開いた。
「二日前、皇帝陛下が娘を見かけられたとき、ちょうど……婚約破棄を受けていたところなんです」
「婚約破棄……?」
「幼馴染なのですが、少し事情がありまして破棄に至り……」
「そのようなことが……」
心を痛めたような表情を見せるファーディナンドを見てイベリスが笑顔で左胸に当てた四本指を右胸へと移動させる。
「彼女はなんと?」
「大丈夫と。気にしてないと伝えているんだと思います」
「なんと健気な……。もし、私に癒せるのであれば癒したいと、傲慢にも思ってしまいますね」
再び慈愛に満ちた瞳が向けられ、その表情をアーマンは嬉しそうに見ていた。チャンスというわけではない。もっと権力を持つ伯爵になりたいと思ったこともない。愛しい妻と娘に恵まれた人生は宝物だとさえ思っている。
だが、耳が聞こえないというハンデを背負った娘を受け入れてくれる者がこの世にどれだけいるかとずっと心配していた。相手が皇帝陛下であれば何も心配はいらないと信じることにした。
「私たちは部屋を出ているから少し、彼とお話してみるのはどうだろうか?」
すぐに返事はせず、イベリスはファーディナンドの顔を暫く見つめる。優しい微笑みが向けられ、手を差し出された。握手だろうかと握り返すと優しく握られ、緩く上下に数回振られる。手を離そうとするも離さない相手を見つめながらクイクイと手を引いてアピールするも向けられる優しい瞳は変わらない。
「小さい手ですね」
〈なに?〉
空いている手で人差し指を立てて左右に振るとようやく手を離された。
「こちらをお使いください」
「ありがとうございます」
アーマンがペンと大量の紙を二人に用意し、レイチェルと一緒に一声かけてから部屋を出て行った。
〈何から話そうか?〉
〈あなたのことを教えて〉
〈ああ、自己紹介がまだだった。緊張しすぎているようだ〉
〈緊張しているようには見えない〉
〈隠すのが上手いんだ〉
〈嘘つきの才能がありそう〉
〈君も、だろう? 婚約破棄を受けて傷ついてたくせに破棄した側が辛そうにしてたから笑顔を見せた。隠すのが上手い〉
綴られていく言葉を見てイベリスがペンを止めて顔を上げた。目が合うと数回瞬きしてからすぐに柔らかな笑みを向けてくれるファーディナンドにイベリスは苦笑を返す。
そして顔を下げて文字で問いかけた。
〈ちゃんと、笑えてた?〉
本当は別れたくなかった。耳が聞こえないと知っても変わらず、いや、より一層、丁寧に話してくれるようになった。いつもペンとメモ帳を持ち歩いて、言葉は全部それに綴ってくれた。
『手話も好きだよ。でもこうして文字に残しておくとイベリスとの会話がいつだって読み返せるから好きなんだ』
そう言ってくれたことで心が救われた。手話をすれば『内緒話みたいで好きだよ』とも言った彼の優しさにいつの間にか心奪われていた。
だけど、いつしか彼は少し変わったように思う日が増えた。苛立って見える日があったり、悔しそうに見える日があったり。彼の優しい笑顔が好きだったのに、自分といるとそういう顔をする日が増えた。だけど、その感情は一度だって向いたことがない。
そして、いつしか彼が怯えているように見える日が増えた。苛立ちが恐怖へと変わったような、そんな感じ。だから、リンウッドが別れを切り出したときは素直に受け入れることができた。彼の変化は自分のせいだと気付いていたから。でも、言い出す勇気がなかった。本当は彼が変わってしまう前に彼の感情に気付いて別れを切り出すべきだったのに。
彼がこれ以上苦しまないようにするためには笑顔で受け入れるしかないと思ったからそうした。受け入れても泣いていれば彼はもっと苦しんだだろうから。
でもずっと不安だった。ちゃんと笑えたいただろうかと。帰り道、馬車の窓に映る自分の顔はひどく歪んで涙で濡れていたから。
紙の上をペンが走る音でイベリスの意識がそちらへ向く。
〈一目惚れするぐらい儚くて美しい笑顔だった〉
よかったと安堵するイベリスが鼻を啜って笑うと滲んだ涙を拭う。
〈私の名前はファーディナンド・キルヒシュ。ラタネヴィア大陸の隣に位置するヘリオス大陸にある、テロスという国で皇帝の座に就いている〉
〈何歳?〉
〈来年三十を迎える〉
〈おじさん〉
〈十六歳の君からすればおじさんだと思う。気持ち悪いかい?〉
〈全然。これでも貴族の娘なの。歳の差婚への理解は普通にあるつもり〉
〈それはよかった。では、君のことを教えてくれるかい?〉
〈ええ、いいわよ。名前はイベリス・リングデール。十六歳。生まれつき耳が聞こえないし、声も出ない。だから話をするためには筆談か、手話。手話できる?〉
〈もちろん。手話マスターだよ〉
〈そうなの!? じゃあ手話で話してみて〉
目を輝かせるイベリスの前でファーディナンドは立てた四本指を左胸に当て、そのまま右胸へと移動させた。
〈何が?〉
人差し指を左右に振るイベリスに今度は字を書いた。
〈私がマスターした手話だ〉
その言葉にイベリスが吹き出して笑う。
〈手話マスターって書いてある〉
〈(一つの)手話(の単語を)マスター(した)って書いたんだ〉
()書きが多いことに肩を揺らして笑うイベリスが相手の紙に大きな文字で〈嘘つき〉と書いた。それを見たファーディナンドが笑う。
〈嘘つきの才能があるって見抜いてたんじゃなかったかい?〉
〈確信に変わった〉
〈じゃあ嘘でもいいから私を好きになってくれないか?〉
〈じゃあこの求婚は嘘?〉
〈それは真実だよ〉
〈どうかしら〉
積まれていた白紙はどんどん減っていき、その代わり、文字で埋め尽くされた紙が積み上げられていく。笑い合いながら字を綴っては時折、手を動かしてまた笑う。
互いに相手の紙にも文字を書き、自分の紙を腕で守り、時には隣の椅子の座面で文章を見せ合った。
部屋の前で待機していた両親は中から聞こえるファーディナンドの楽しげな笑い声にまだ二人は話し合っているんだと察し、二時間ほど外で立っていた。
また夫から小声で注意を受けるもレイチェルは相変わらずファーディナンドを見ている。その目が、表情が嘘をついていないかを見逃さないために。
「三年と三ヶ月で傷は癒えましたか?」
テロスの皇后が亡くなったとニュースになったのは彼が言ったように三年と三ヶ月前のこと。皇帝であるファーディナンドはひどく悲しんでおり、公務も手につかない状態だと報じられていた。
他大陸のニュースなどそうそう入ってくるものではなく、そうした国のトップが亡くなるでもなければニュースにはならない。
もう三年か、まだ三年かは個人によるが、レイチェルはアーマンと違ってどうにも警戒の糸が切れないでいる。
フリトリンカに行くために通った際に偶然見かけた一目惚れ。そしてフリトリンカからの帰り道、居ても立ってもいられずアポなしでの訪問となったこと理解できる。テロスは隣の大陸といえど果てしなく遠い。帰って手紙を書いて届くまでに一週間以上かかり、その返事が届くのにまた一週間以上かかる。恋焦がれる日々を過ごすよりも直接申し込んだほうがいいと思ったのかもしれないとそれも理解できる。
レイチェルが理解できないのは悲しみに暮れた三年と三ヶ月で一目惚れできるほど心の傷は癒えるのか、というもの。
「いえ、未だに恋しく思う日はあります。私の初恋の相手ですから、思い出さない日はありませんし、死ぬまで永遠に彼女のことは思い出すでしょう」
「イベリスをテロスの皇后の代わりに、とお考えですか?」
また皇帝の眉がピクッと反応する。その反応がどうにもレイチェルは引っかかっていた。
だが、ファーディナンドはすぐに笑顔を見せる。
「あなたの娘がイベリスお嬢様ただ一人であるように、私の初恋の妻は彼女だけです。ですが、亡き者をいつまでも恋しく想い、独り身で居続けるのは無責任だと思うようになったんです」
国のトップに立つ者には責任がある。国を安定させ、国民を率い、その両方を繁栄させていくこと。
「世継ぎは──」
「いません。妻は身体が弱かったのでタイミングを見ていたら……」
俯いたファーディナンドにレイチェルが慌てる。無神経な問いかけをしてしまった。誰にだって事情があるのにズケズケとリンウッドに聞くような問いかけ方になってしまったと頭を下げた。
顔を上げたファーディナンドがその様子を見て苦笑を浮かべる。
「三年と三ヶ月で傷が癒えたかというとノーです。癒えるのかと聞かれてもノーと答えるでしょう。ですが、イベリスお嬢様に惹かれた想いは嘘ではないんです。彼女が持つ明るさと華やかな笑顔を見ていたいと思ってしまいました」
立ち上がろうとしたファーディナンドに合わせて彼の付き人がタイミングよく椅子を引く。それに合わせて立ち上がったファーディナンドが頭を下げた。
「今すぐに、この場で認めてくださいと言うつもりはありません。ですが、どうか、イベリスお嬢様に抱いたこの想いだけは疑わないでください」
「お、おやめください! 皇帝陛下が頭を下げられるなどあってはならないことでしょう!」
「おやめください! このようなこと、私どもは望んでおりません!」
何がどうなっているのかわからないイベリスだけが状況を把握できずにいる。彼はなぜ頭を下げているのか、なぜ両親は慌てているのか。なぜ誰も説明をしてはくれないのか。
退屈でしかない視界だけが騒がしい静かな状況の中でイベリスは人差し指に毛先を巻きつけて遊ぶしかすることがなかった。
「皇帝陛下」
「はい」
頭を上げたファーディナンドの目に映ったのは苦笑ではなく難しい顔を見せるアーマン。
「こればかりは私ども親ではなくイベリス本人の気持ちが大事だと考えております」
「もちろんです」
「テロスの皇帝陛下に耳の障害を理解していただけた上で嫁に貰っていただけるなど光栄至極ではありますが、イベリスが行きたくないと言えば私どもはお断りさせていただくつもりでございます」
「わかっています」
物分かりの良い相手で助かったと安堵したアーマンは立ち上がってイベリスの隣に移動して床に膝をついた。急に肩を叩くと驚いてしまうためいつもそうする。
顔を向けたイベリスが終わったかと問うためかぶりを振る。
「お前さえ良ければ、彼と少しお話ししないか?」
〈どうして?〉
不思議そうに人差し指を左右に振るイベリスに苦笑が向く。
「彼はヘリオス大陸にあるテロス帝国の皇帝陛下だ」
キョトンとした顔で目を瞬かせる様子に父親も同意するように頷く。無理もない。自国の王にさえ会ったことがないのに突然他国の皇帝陛下と言われても、といったところだろう娘の感情を予想する。
自分たちでさえ理解不能だった彼の行動を娘に理解しろと言っても無理だとわかってはいるが、これも出会いの一つだと全て説明することにした。
「彼はお前に一目惚れしたそうだ」
〈会ったことないのに?〉
驚くより疑問が勝るのはイベリスらしいと苦笑が深まる。
「二日前、リンウッドとカフェにいるお前を見たらしい。華やかな笑顔に惚れて、結婚したいと申し出があった」
〈婚約破棄されたばかりだって言った?〉
あー……と声を漏らしたアーマンが表情はそのままにファーディナンドに振り返って言い辛そうに口を開いた。
「二日前、皇帝陛下が娘を見かけられたとき、ちょうど……婚約破棄を受けていたところなんです」
「婚約破棄……?」
「幼馴染なのですが、少し事情がありまして破棄に至り……」
「そのようなことが……」
心を痛めたような表情を見せるファーディナンドを見てイベリスが笑顔で左胸に当てた四本指を右胸へと移動させる。
「彼女はなんと?」
「大丈夫と。気にしてないと伝えているんだと思います」
「なんと健気な……。もし、私に癒せるのであれば癒したいと、傲慢にも思ってしまいますね」
再び慈愛に満ちた瞳が向けられ、その表情をアーマンは嬉しそうに見ていた。チャンスというわけではない。もっと権力を持つ伯爵になりたいと思ったこともない。愛しい妻と娘に恵まれた人生は宝物だとさえ思っている。
だが、耳が聞こえないというハンデを背負った娘を受け入れてくれる者がこの世にどれだけいるかとずっと心配していた。相手が皇帝陛下であれば何も心配はいらないと信じることにした。
「私たちは部屋を出ているから少し、彼とお話してみるのはどうだろうか?」
すぐに返事はせず、イベリスはファーディナンドの顔を暫く見つめる。優しい微笑みが向けられ、手を差し出された。握手だろうかと握り返すと優しく握られ、緩く上下に数回振られる。手を離そうとするも離さない相手を見つめながらクイクイと手を引いてアピールするも向けられる優しい瞳は変わらない。
「小さい手ですね」
〈なに?〉
空いている手で人差し指を立てて左右に振るとようやく手を離された。
「こちらをお使いください」
「ありがとうございます」
アーマンがペンと大量の紙を二人に用意し、レイチェルと一緒に一声かけてから部屋を出て行った。
〈何から話そうか?〉
〈あなたのことを教えて〉
〈ああ、自己紹介がまだだった。緊張しすぎているようだ〉
〈緊張しているようには見えない〉
〈隠すのが上手いんだ〉
〈嘘つきの才能がありそう〉
〈君も、だろう? 婚約破棄を受けて傷ついてたくせに破棄した側が辛そうにしてたから笑顔を見せた。隠すのが上手い〉
綴られていく言葉を見てイベリスがペンを止めて顔を上げた。目が合うと数回瞬きしてからすぐに柔らかな笑みを向けてくれるファーディナンドにイベリスは苦笑を返す。
そして顔を下げて文字で問いかけた。
〈ちゃんと、笑えてた?〉
本当は別れたくなかった。耳が聞こえないと知っても変わらず、いや、より一層、丁寧に話してくれるようになった。いつもペンとメモ帳を持ち歩いて、言葉は全部それに綴ってくれた。
『手話も好きだよ。でもこうして文字に残しておくとイベリスとの会話がいつだって読み返せるから好きなんだ』
そう言ってくれたことで心が救われた。手話をすれば『内緒話みたいで好きだよ』とも言った彼の優しさにいつの間にか心奪われていた。
だけど、いつしか彼は少し変わったように思う日が増えた。苛立って見える日があったり、悔しそうに見える日があったり。彼の優しい笑顔が好きだったのに、自分といるとそういう顔をする日が増えた。だけど、その感情は一度だって向いたことがない。
そして、いつしか彼が怯えているように見える日が増えた。苛立ちが恐怖へと変わったような、そんな感じ。だから、リンウッドが別れを切り出したときは素直に受け入れることができた。彼の変化は自分のせいだと気付いていたから。でも、言い出す勇気がなかった。本当は彼が変わってしまう前に彼の感情に気付いて別れを切り出すべきだったのに。
彼がこれ以上苦しまないようにするためには笑顔で受け入れるしかないと思ったからそうした。受け入れても泣いていれば彼はもっと苦しんだだろうから。
でもずっと不安だった。ちゃんと笑えたいただろうかと。帰り道、馬車の窓に映る自分の顔はひどく歪んで涙で濡れていたから。
紙の上をペンが走る音でイベリスの意識がそちらへ向く。
〈一目惚れするぐらい儚くて美しい笑顔だった〉
よかったと安堵するイベリスが鼻を啜って笑うと滲んだ涙を拭う。
〈私の名前はファーディナンド・キルヒシュ。ラタネヴィア大陸の隣に位置するヘリオス大陸にある、テロスという国で皇帝の座に就いている〉
〈何歳?〉
〈来年三十を迎える〉
〈おじさん〉
〈十六歳の君からすればおじさんだと思う。気持ち悪いかい?〉
〈全然。これでも貴族の娘なの。歳の差婚への理解は普通にあるつもり〉
〈それはよかった。では、君のことを教えてくれるかい?〉
〈ええ、いいわよ。名前はイベリス・リングデール。十六歳。生まれつき耳が聞こえないし、声も出ない。だから話をするためには筆談か、手話。手話できる?〉
〈もちろん。手話マスターだよ〉
〈そうなの!? じゃあ手話で話してみて〉
目を輝かせるイベリスの前でファーディナンドは立てた四本指を左胸に当て、そのまま右胸へと移動させた。
〈何が?〉
人差し指を左右に振るイベリスに今度は字を書いた。
〈私がマスターした手話だ〉
その言葉にイベリスが吹き出して笑う。
〈手話マスターって書いてある〉
〈(一つの)手話(の単語を)マスター(した)って書いたんだ〉
()書きが多いことに肩を揺らして笑うイベリスが相手の紙に大きな文字で〈嘘つき〉と書いた。それを見たファーディナンドが笑う。
〈嘘つきの才能があるって見抜いてたんじゃなかったかい?〉
〈確信に変わった〉
〈じゃあ嘘でもいいから私を好きになってくれないか?〉
〈じゃあこの求婚は嘘?〉
〈それは真実だよ〉
〈どうかしら〉
積まれていた白紙はどんどん減っていき、その代わり、文字で埋め尽くされた紙が積み上げられていく。笑い合いながら字を綴っては時折、手を動かしてまた笑う。
互いに相手の紙にも文字を書き、自分の紙を腕で守り、時には隣の椅子の座面で文章を見せ合った。
部屋の前で待機していた両親は中から聞こえるファーディナンドの楽しげな笑い声にまだ二人は話し合っているんだと察し、二時間ほど外で立っていた。
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