亡き妻を求める皇帝は耳の聞こえない少女を妻にして偽りの愛を誓う

永江寧々

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事態一変

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「イベリス、おはよう。大丈夫?」

 母親の問いかけにイベリスが頷く。悲しくないわけじゃない。これからリンウッドとの関係がどうなるのか不安はある。八歳の頃からずっと一緒だった仲良しの相手。婚約破棄となったことで疎遠になってしまうのではないかと不安が過ぎる。
 大丈夫と左胸に当てた四本指を右へと移動させたのを見て母親はどういう言葉をかけるのが正解なのか、婚約破棄を受けたと聞いた日からずっと考えているが今もその正解は見つからない。
 気丈に笑顔を見せる娘をベッドの上で肩を抱き寄せるとバタバタバタと激しい足音が聞こえてきた。

「奥様! イベリスお嬢様!」
「どうしたの?」

 ノックが先だと注意を忘れるほど使用人の焦った顔に二人は驚く。

「ヴ、ヴ……!」
「ヴ?」

 王族が暮らしているような城ではなく、ただの屋敷。まるで市場から走って帰ってきたように肩で呼吸をし、お化けでも見たような顔で外を指す使用人に二人は揃って首を傾げる。
 すると、息を整えないまま使用人が汗を飛ばしながら叫んだ。

「ファーディナンド・キルヒシュ皇帝陛下がいらっしゃいました!!」

 イベリスは使用人が何を叫んだのかわからない。母親に通訳をお願いしようと顔を向けると珍しく怪訝な表情を見せていた。

「彼が直々に来たというの?」
「そうです!!」
「今どこに?」
「賓客室にお通しするようにと旦那様から指示をいただき、そのとおりに!」
「事前に連絡はなかったはずよ。用件は言ってた?」
「いえ、何も聞いておりません。旦那様もひどく驚いておられました」

 ファーディナンド・キルヒシュ──ラタネヴィア大陸の隣、ヘリオス大陸に存在するテロス帝国の若き皇帝。テロス帝国と言えば大国も大国。国の規模も当然のことながら総人口は十倍どころではない。
 自国のリンベルとテロスは交流さえなかったはず。それなのに、その国の、たかだか伯爵家に皇帝直々に一体何用だと怪訝な表情は濃くなるばかり。
 良くない知らせだということはイベリスにもわかる。母親の手をクイクイと引っ張ると笑顔が向けられる。

「アポなしのお客様がいらしただけ。問題ないわ。パパが対応してるみたいだからママも行ってくるけど、あなたはここで待って──」
「イベリスお嬢様も一緒に、とのことです」

 リングデール家の使用人は全員手話ができる。それが他の貴族の家よりも給料が良い理由。だからレイチェルの手話を読み取った使用人がすぐに伝言を伝えた。

「イベリスも?」
「はい。ファーディナンド皇帝陛下イベリスお嬢様も呼んでほしいと」

 ファーディナンドとイベリスは会ったこともないはず。王族との交流もない家柄だ。他大陸の皇帝と交流などあるはずもない。それなのにファーディナンドはイベリスを指名した。何が狙いだと理解できない突然の出来事に困惑していると新しい足音が聞こえてきた。
 ドアの真ん中に立っていた使用人が端へと避けて頭を下げるのを見て夫だと理解する。

「レイチェル、やはりここだったか」
「ファーディナンド・キルヒシュが来たって本当なの?」

 夫が部屋に足を踏み入れるなり歩み寄ったレイチェルは「ああ」と答える夫の声に困惑が滲んでいるのを感じ取った。

「彼の目的は?」
「イベリスらしい」
「どうして?」
「詳しくはイベリスが到着してから話したいと」
「冗談でしょ……」

 嫌な予想しかできない状況にレイチェルは泣きたくなった。

「とりあえず、あまり待たせすぎてもいけない。イベリスを連れて行こう」
「結婚の申し出だったらどうするの!?」
「選択権はイベリスにある。イベリスが拒めば結婚はさせない」

 確たる意思を持って発言した夫を信じることにしたレイチェルはイベリスに手を差し出し、一緒に行く旨を伝えた。
 何が起こっているのかもわからないまま、母親に手を引かれて向かう賓客室。特別な立場の人間でも来ない限りは入れない場所。一体誰が来たのだろうと少し楽しみにしているイベリスは入る前に手櫛で髪を解いてから開いたドアから中に入る。

「お待たせいたしました。妻のレイチェルと娘のイベリスでございます」
「遠路はるばるようこそお越しくださいました」

 夫の紹介を受けて丁寧に挨拶をするとファーディナンドが立ち上がる。テーブルを挟んで立ち上がってもわかる彼の背の高さ。
 少しくすんだ白髪に薄紫の瞳。薄い唇が驚いたように少しだけ開き、ジッとイベリスを見ている。

〈イベリスです。こんにちは〉

 指文字で名前を伝えて笑顔を向けるもファーディナンドの表情は変わらない。黙って見つめられる気まずさに先に視線を逸らしたことでファーディナンドがハッとする。

「アポも取らずに申し訳ない。フリトリンカに用があったものですから、立ち寄らせていただきました」

 噂とは違う柔らかな物腰の若い青年。五年前に皇帝の座を就いだとニュースで知った。問題は彼の若さではなく来訪理由。

「どうぞ、立ち話ではなんですからおかけください」

 使用人が引いた椅子にそれぞれ腰掛けるとファーディナンドの視線はやはりイベリスに向く。顔を上げると慈愛に満ちた目と視線が絡むもイベリスはすぐに逸らしてしまう。なんだか落ち着かない。
 なぜ初対面の相手にそんな顔を向けるのか、なぜその目の奥に違う感情があるように思うのか。イベリスは戸惑っている。

「皇帝陛下、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「なぜ、我がリングデール家にお越しいただいたのでしょう? お恥ずかしながら王族とすら交流がない家でございます。そんな我が家にテロスの皇帝が直々にお越しくださるとはどういう──」
「イベリスお嬢様に求婚しに来ました」

 イベリスを見つめたまま告げた内容にイベリスとファーディナンド以外の人間全員が固まった。
 彼は今、なんと言った? 求婚? 誰に?
 各々が自らに問いかけながらファーディナンドの言葉を整理する。しかし、咀嚼する必要すらないほどストレートなセリフ。レイチェルの嫌な予感が当たった。

「なぜ、イベリスなのでしょう?」
「レイチェル!」

 やめなさいと小声でアーマンが注意するもレイチェルはファーディナンドを見つめたまま目を逸らさない。媚び諂いながらの問いかけではなく、むしろ同等の相手に問いかけているような態度だが、ファーディナンドはそれに気を悪くするでもなくむしろ笑顔で答えた。

「イベリスお嬢様に一目惚れしたんです」
「いつでしょう?」
「二日前、イベリスお嬢様がカフェでお茶をしている姿をお見かけしました。その際に見かけた笑顔の愛らしさと美しさに一目惚れを」

 二日前、イベリスがリンウッドに婚約破棄を言い渡された日。フリトリンカに向かうためにリンベルを通った際に見かけたのかと二人は推測する。だが、未だ警戒心は解かず、怪訝さも消えない。
 彼は、テロス帝国の皇帝。そんな男が他国の、それも特別なにか持っているわけではない伯爵家の令嬢に求婚をするだろうか。なにか狙いがあるのではないかと笑顔の下では疑っている。

「先ほど、軽くご説明させていただきましたように、イベリスは生まれつき耳が聞こえません。筆談か手話でのコミュニケーションとなります。皇帝の妻になろう者がそのような障害を背負っているのはいかがなものでしょう」
「何故ですか?」

 ファーディナンドは至極純粋な眼差しで見つめ、アーマンに問いかけた。苦笑さえ滲ませず、障害がどうしたと言わんばかりの表情にアーマンのほうが苦笑してしまう。
 一人娘の耳が聞こえないと知ったとき、夫婦で絶望にも似た感情に襲われた。自分のせいだと毎日泣き喚く妻を慰め、この子をどうするべきかとまで考えた。それでも、耳が聞こえないだけで愛しい我が子であることに変わりはないと抱えきれないほどの愛情を注いで育ててきた自慢の娘。誇りですらある。
 そんな娘を今、自分は障害を理由にした。手放したくないからか、それとも心のどこかで障害を持った娘に負い目があるのか。アーマン自身もわからない。だが、少なからずこれで一つ、警戒心から張り巡らせていた糸を一つ切れた。
 だが、レイチェルは違った。

「皇帝陛下の奥様が亡くなられてもう、三年が経ったでしょうか?」

 ピクッと眉を動かしたファーディナンドの目だけがレイチェルを捉え、そのすぐあとに顔が向く。一瞬、ほんの一瞬見せたその目がどこか鋭く、人に恐怖を与えかねないものに見え、膝の上に置いていた手を無意識に握った。

「三年と三ヶ月になります」

 苦笑にも似た、少し寂しげな笑みを浮かべたファーディナンドが呟くように答えた。


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