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愛しすぎたが故の婚約破棄

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「別れよう」

 お気に入りの白いワンピースを着て、お気に入りのカフェで婚約者とデート。名物のバタースコーンにお気に入りのミルクで煮出したミルクティー。空を見上げると目を細めるほど眩しい太陽と雲一つない青空が広がっていた。
 そよぐ風を胸いっぱいに吸い込んだイベリスがお気に入りだったワンピースをスコーンにつけようとしたジャムで汚したのは婚約者であるリンウッド・ヘイグから婚約破棄を申し出られた瞬間だった。

〈え?〉

 ワンピースを汚すブルーベリージャムの紫。カランと音を立てて床に落ちたバターナイフを交換してもらうことも、鞄からハンカチを取り出すことも忘れ、イベリスはリンウッドが別れようと書いた紙から彼の顔へと視線を移すもすぐに紙を見てはまた彼を見る。見間違いではないかと何度も紙の上に綴られた言葉を読み返すも当然、字は変わらない。
 イベリスは耳こそ聞こえないが目はとても良い。だから読み間違うはずがない。

〈なに?〉

 立てた人差し指を左右に振って聞き直すとリンウッドは苦しみを表情に出して頭を抱えた。耳が聞こえないイベリスは普通に話されてもわからない。ましてや下を向いては唇を読むこともできない。

〈私、何かした?〉

 かぶりを振られる。

〈説明して〉

 別れようと書かれた紙を彼の顔の下まで押し込んだイベリスが肩を揺らすとリンウッドがようやく顔を上げた。
 内ポケットから取り出した万年筆で紙に言葉を綴る。

「君を愛してるから、耐えられない」

 一体どういう意味だと怪訝な表情で首を傾げるイベリスを見て、またすぐに続きを書く。

「愛しすぎて頭がおかしくなりそうなんだ。このままじゃ僕はおかしくなってしまう。君が好きだと言ってくれた僕ではなくなってしまう気がするんだ」

 何を言っているんだと唖然とするが、イベリスは怒らなかった。リンウッドが見せる表情があまりにも辛くて、怯えているようにさえ見えたから。
 八歳の頃に彼と出会った。それから八年、彼からアプローチを受けて二年前に婚約したばかり。学校を卒業したら結婚するという話だったのに、卒業前に破棄となった。

「ごめんッ」

 紙が雫で濡れる。深く頭を下げるリンウッドの手をイベリスが握った。顔を上げたリンウッドの目に映ったのはイベリスの笑顔。

「あ・り・が・と・う」

 声の出ない口をゆっくり動かしたイベリスが何を言ったのか理解した瞬間、テーブルに突っ伏した。
 微笑まれて辛かった。こんなにも愛しているのに、別れたくないのに、迫ってくる闇が怖くて別れを選ぶしかなかった。

〈バイバイ〉

 リンウッドの手から万年筆を取って書かれた言葉にリンウッドがまた涙する。
 手を振ることも、笑顔で別れることもできない弱虫な自分が彼女の婚約者で居ていいはずがない。 
 子供のように嗚咽を上げながら泣くリンウッドは今までの思い出が走馬灯のように蘇り、一時間ほど泣き続けた。 

 イベリス・リングデールは生まれつき耳が聞こえなかった。それでも底なしの明るさを持つ彼女の周りにはいつも人がいた。
 ここら辺では珍しい雪のように白い髪と青空を映したような瞳を持つ少女はイベリスの花のように可憐な姿へと日々成長を続けている。
 八歳のとき、建国記念のパレードで出会った。貴族の子供だけが乗れる馬車で一緒になった。目が合った瞬間、イベリスが微笑み、その直後にリンウッドが告白した。耳が聞こえないと知ったのはそのとき。
 紙もペンも持っておらず、言葉で告白はできなかったが、幼いながらに必死に想いを伝えようとした。手でハートを作ってずっとイベリスに向け続け、イベリスはずっとそれを笑ってくれた。
 馬車を降りてすぐ、父親に紙とペンをねだった。胸に内ポケットから手帳とペンを取り出した父親から奪うように取ってイベリスに改めて想いを伝えたが、無理だと言われた。それでもリンウッドは諦めなかった。その日からずっと筆談でイベリスにアプローチし続け、二年前にようやく受け入れてもらった。根負けした、という感じだったが、舞い上がるほどに嬉しかった。踊り出すほどに幸せだった。
 でも、その感情は長くは続かなかった。
 いつも周りに人がいる。自分の物なのに──そんな感情が湧き上がるようになった。性別は関係ない。誰もイベリスに近付くなと怒りさえ覚えるようになった。自分に向ける笑顔を他の人間にまで向けるイベリスにまでその感情が向くこともあった。
 筆談しているのだから近くに寄るのは仕方ないとわかっているのに、怒りと嫉妬が止まらなくなったのは半年前のこと。
 イベリスの耳が聞こえないのをいいことに、ひどいことを言い始めた。

『僕以外の男にも好かれたいと思ってるんだろ』
『そうやって笑顔を見せてれば誰もがチヤホヤしてくれるってわかってるんだろ』
『婚約者がいるくせに他の男に笑いかけるな』
『君の耳が聞こえてれば僕がこんな思いをすることはなかったのに』

 最低な言葉を口にするようになった。聞こえてないイベリスはいつも笑顔を向けてくれる。その度に吐き気がした。後悔した。だけど止まらなかった。
 学校でも注意を受けるようになった。イベリスを褒める人間への嫌味、自分が婚約者であるという自慢と牽制。嫌な人間になっていく自覚があった。
 
『リンウッド、どうしたんだよ。最近ちょっと変だぞ。イベリスも心配してた』

 友人にそう言われて頭の中で何かが切れる音がした。

『イベリスが心配してるのを知ってるって自慢か? 婚約者は僕なんだよ! お前たちがイベリスに近付くからどうしようもなく腹が立ってるんだ! イベリスに近付くな! 彼女は僕のものだぞ!!』

 教室でそう叫んだ日、リンウッドは早退した。やってしまった。なんであんなことを言ってしまったんだ。彼らはただ心配してくれただけなのに。
 布団の中に潜り込んで自分の髪を鷲掴みにしながら後悔に震えた。
 それがきっかけとなり、リンウッドは別れを決めた。いつか、あの爆発がイベリスに向く日が必ず来る。そうなったらきっと耐えられない。自分の言葉でイベリスを傷つけることだけは絶対にできない。
 傷つけるのは婚約破棄が最初で最後。そう決めてから今日まで三ヶ月かかってしまった。卒業には間に合った。あと一ヶ月で卒業。イベリスを自分の伴侶だと胸を張れるまであと一ヶ月だった。
 後悔している。生まれてからこれほどまでに後悔した日はない。だけど、リンウッドは自分が誇らしかった。身勝手に愛する人を傷つける人間になる前に苦しみもがくことになっても別れを選べた自分を。
 これから一生続くだろう後悔を抱えても、イベリスには幸せになってほしかったから。

「イベリスッ……イベリスッ!」

 戻ってきてくれ──声にしたくなる言葉を唇を噛むことで堪える。
 花が咲いたように笑う声のない少女を純粋な気持ちで愛せなかった罰だと自分に何度も言い聞かせた。独占しようとするから罰が当たったのだと。
 彼女の両親はどう思うだろう。自分の両親は何を言うだろう。申し訳なさも相まって嗚咽が強まるリンウッドが天に向かって顔を上げるとイベリスの瞳の色がそこにあった。

 家に帰ったリンウッドは驚く両親に大した説明はせず、一言だけ告げた。

『音のない世界で生きる清らかな彼女を純粋に愛せなかった』

 なんのことだと怪訝な表情を見せる両親は後日、イベリスの両親から真実を聞かされ納得したように頷いたあと、深々と頭を下げて謝罪した。
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