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しおりを挟む馬車の中でティファニーは何故こういう日ばかり眠れないのか文句を言いたくなっていた。
いつもなら馬車に乗れば習慣のように眠っていたのに今日はそれがない。目はばっちり開いて、向かいに座るアーロンの顔もよく見えている。
「大丈夫?」
「ええ。厚塗りになりましたけど上手く隠せているでしょう?」
「メイクが上手なのは知ってるけどそうじゃなくて、精神的に」
「問題ありませんわ。今更何が起ころうと同じ事。ずっと一人ですもの」
「でも今回は家族が巻き込まれた。平気じゃないよ」
アーロンはティファニーのことをよくわかっている。自分の事なら気にしないでいられても、家族が巻き込まれたのでは気にするだけではなく怒りさえも感じているだろうと。それに対してヒステリーを起こすわけでもなく、あくまでも自分の中での怒りに変えている事も心配だった。
人は吐き出した方が本当に冷静になれる。だがそれをしないのは今回は自分の事ではなく、愛する姉達が巻き込まれたせい。叫び出したいほどの怒りは静かな怒りと変わり、沸々と沸騰を続けている。
もしそれが爆発した時、ティファニーがどうにかなってしまうのではないかとアーロンは不安だった。
(クリストファーはやめとけって言ってやれ)
コンラッドが言っていた言葉も気になっていた。
クリストファーがイイ男だ。人間としても同性としても尊敬できる人間だ。コンラッドの自由さとはまた違った自由さを感じさせ、余裕があり、そして何よりティファニーを理解し、笑顔にしてくれている。
誰に聞いてもクリストファーから悪い噂は聞かない。皆、口を揃えて『彼は立派な人だ』『素晴らしい人間性を持っている』『彼が王になる日が楽しみだよ』と言う。誰も彼を『裏表がある』『厄介だ』『彼を王にするのは心配だ』とは言わなかった。
コンラッドの事を聞けばそっちの言葉が聞こえてくる。
それなのに何故コンラッドがあんな事を言ったのかがわからない。
「ティファニー、クリストファー王子ってどんな人?」
「優しい人よ。いつも心に寄り添ってくれる。全てを許してくれるような広い心を持っていて、そして……」
「愛情深い人?」
驚いたような顔を見せるティファニーだが、すぐに小さな笑みと共に頷いた。
アーロンも同じことを思っていた。自分がティファニーの事を好きなのはきっと気付かれている。それなのに嫌な顔、嫌な態度一つ見せず挨拶をしてきた。柔和で大人な対応。勝ち誇った顔一つ見せない彼にティファニーを託したくなるほどだった。
実際、アーロンはティファニーとクリストファーの仲を応援している。疑いなど持った事はなかったのに、コンラッドの言葉が引っかかって仕方なかった。
「クリストファー王子が隠し事をしてるって感じたことない?」
「いいえ」
「じゃあ何か秘密を持ってる感じがするとか」
「いいえ」
「じゃあ……」
「アーロン」
聞き出し方が子供より下手すぎるアーロンに面倒くさいという表情を向けると眉が下がる。言いたい事があるならハッキリ言えと昔からティファニーに言われてきただけにあの顔が今も苦手だった。
「コンラッド王子がクリストファー王子はやめとけって言ってやれって言ってたんだ。何か知ってそうな口ぶりだったから……」
「わたくしを守ってくれる人よりわたくしを攻撃した人を信じるの?」
「信じてないよ、信じてない。信じてないけど、もし彼が何かを隠してるような感じがしてるなら、コンラッド王子は何か知ってるのかなって思っただけだよ……」
アーロンが知っているのはあくまでも貴族の間の評判だけ。コンラッドは貴族が入れない王族だけが集まるイベントに出席する。そこでクリストファー王子について何か情報を得ているのかもしれないと考えていた。
ティファニーが言うようにコンラッドはティファニーに攻撃姿勢を取っていた。だから100%の信頼はしていなくとも、あの発言に真実が含まれている可能性がゼロではない事も想定しているのだ。
「まだ数回しか会っていないのにわかりませんわ。彼がわたくしの全てを知っていないように、わたくもまた同じ。隠し事があってもおかしくはありませんのよ」
「そういうのって結婚前に聞いておいた方がいいんじゃないの?」
「……アーロンはわたくしがあなたに言っていない隠し事があったら友達をやめますの?」
「やめないよ! そんなことでやめたりしない! 絶対にやめない!」
全力で否定するアーロンにティファニーはおかしそうに笑いながら「そういう事ですわ」と答えた。
アーロンはティファニーを純粋だと思っている。人を攻撃することに関してはアーロンよりずっと上手く、孤独への耐性はヘザリントン家特有といえるもので強い。だが逆に言えば人と接してこなかったからこそ深い仲になりそうな相手への対処法は上手くない。
大事にするということ。
愛するということ。
ティファニーはまだよくわかっていないのだ。
アーロンはそこを心配していた。
「僕は、君に傷付いてほしくないんだ」
馬車が停まってアーロンの言葉に目を細めるティファニーはアーロンの手を握って首を振る。
「わたくしはいつだって前を向く人間ですのよ。傷付くだなんて大袈裟ですわ」
「でももしクリストファー王子に隠し事や裏の顔があったら?」
「誰しもそういう面は持っているものでしょう?」
「心配なんだ」
心配ばかり口にするアーロンの言葉を否定するつもりはない。ただ、考えた事がなかっただけに今どう答えればいいかわからないだけだった。
あるかもしれないし、ないかもしれない。
コンラッドの事は信じたくはないが、彼は腐っても王子。ティファニーが知らない情報を知っているかもしれない。
だが今はもうそれを気にする事はない。婚約の取り下げ願いは書いた。クリストファーの事を気にして動けないのでは自分が自分ではなくなる。この話が手紙を書く前なら色々考えたかもしれないが、手紙はもうとっくに国を出ている。今更取り下げ願を取り下げなど出来ないのだ。
「さ、今日も元気に行きますわよ」
いつもより厚い化粧のせいで地肌の状態はわからないが、いつもより表情に元気がないように見えた。どこか疲れているような感じで、そこをカバーしようと無理矢理笑顔を浮かべているのだとアーロンにはわかった。それでも何も言わないのは言ったところでティファニーがそれをやめないから。
いつだってティファニーは自分を隠して生きている。自分の役目が何なのか自覚するよう言い聞かされて生きてきたせいで、悪役令嬢らしくない弱音はアーロンには見せない。子供の頃からずっとそれが寂しかった。
今もそれは変わっていない。
頑固なティファニーを動かせるとは思っていないため、アーロンはせめて支えぐらいにはなろうと決めている。クリストファーが傍で守れないのだからその間だけは自分が支えになると決めて笑顔で馬車を出た。
「わたくし、職員室に寄ってから行きますわ」
「僕も一緒に行く」
降りた時に集まる生徒達の視線は以前よりずっと悪くなった。
今まではティファニーを嫌煙するような感じだったのが、今は好奇の目にさらされている。理由は簡単。アビゲイル、パトリシア、二人の姉にあんな事実があるのだから妹であるティファニーにもあっておかしくないと思っているのだ。
クリストファーとの婚約も色目を使ったのではないかと陰口が聞こえるも、ティファニーは睨みもせず職員室へと歩きだす。
「職員室に何の用なの?」
「アシェル先生に少しね」
「そういえば昨日は何の話をしたの?」
「迷惑かけたって話よ」
「アシェル先生は悪くないけどね」
「そうね。でもあんな写真を撮られるような事をしたのは彼ですもの。反省ぐらい当然ですわ」
アーロンは何とも言えなかった。教師だから我慢すべきと言うのは簡単だ。しかし、学校以外で会う事は出来ない。リーヌス・アシェルは貴族ではない。その能力を買われて赴任してきただけ。一教師が生徒の家をプライベートで訪ねるなど許されるはずがない。学校にバレるのもそうだが、父親であるアルバートにバレるのはもっとマズイ。
学校でしか会えない関係なら学校で傍にいるしかない。
パトリシアの性格を考えれば何も考えなしに抱きついたわけではないだろう。二人きりになれる場所に行って、人がいないのを確認してから行動したはずだ。それなのに誰かがあの写真を撮った。
きっと〝偶然〟ではなく〝意図的〟に。
疑問なのはその写真を何故当時ではなく今公開したのかということ。もうパトリシアはいない。本人にダメージを与えるのではなく妹にダメージを与えるために取っておいたのであればあまりにも悪質。
「ストップ」
「はい」
ティファニーの声にアーロンは犬のようにその場に立ち止まった。
「そこで待ってて」
黙ってティファニーを見送ると出てきたリーヌスにティファニーが手紙を渡していた。美しい封筒は明らかに個人的なもので、事務的なことが書かれているのではないとわかったアーロンはそのまま首を傾げる。
「お姉様からの手紙よ」
「ああ」
納得したアーロンは安堵した笑みを浮かべながら隣を歩きだす。
「ティファニー」
聞き慣れた不愉快な声に立ち止まって振り返るとマリエット一人が小走りでこっちへ走ってくる。
「なんですの?」
「お茶会に招待しようと思って」
「暇ですのね」
「公女のする事なんてそれぐらいよ。あなたの婚約祝いをしたいって皆言ってるの。是非来てちょうだい」
何かあると勘付くもティファニーは招待状を受け取った。
今までお茶会に誘われた事はあってもこんな仰々しい招待状を渡された事はなかった。何があったか知りながらそれについては触れもせずお茶会に誘う理由は皆の前でバカにするためだとわかっているが、マリエット主催ということはクラリッサも出席するということ。欠席するという選択肢はなかった。
「放課後、いつもの場所で」
「ええ」
含み笑いではなく、いつものヒロインぶった笑顔で優雅に去っていく上機嫌さが不気味だった。
「行くのやめた方がいいよ。どうせロクなこと考えてないんだから」
「でしょうね。でもわたくし悪役令嬢だから行かなきゃ」
「またそれ……」
「心配してくれてありがとう。でもいいの。これはやらされてるんじゃなくてわたくしが自分で選んで進んでいるだけだから」
皆の前で写真を見せて馬鹿にするつもりなのは目に見えているが、それでクラリッサが犯人だとわかるのであれば望むところだと意気込んでいた。
何でも華麗に受け流すのが淑女だというのであればティファニーは淑女になどなれなくてもいいと思った。無関係の姉達まで辱めるような真似をされて黙っていられるほどティファニーは大人しくない。相手もそれをわかっていながら仕掛けてくるのだから潰しに来ていると覚悟はしていた。
「ティファニーの行動で状況が悪化したらどうするの?」
「没落貴族になるでしょうね。でも昨日の感じではコンラッド王子はわたくしに敵意は見えなかったし、ただの貴族同士の争いで失うものなんて何もありませんわ」
「アルバートさんは生きにくくなるよ」
「でしょうね」
既に噂は広がり、その対応に必死だろう。だがアルバートには希望があった。三女のティファニーがクリストファー・ブレアに見初められて婚約するという希望。それだけで彼は今を乗り越えられるのだ。娘が王族に嫁げば自分は今よりずっと偉くなり、周りを見返せると。
だが、娘はその希望を既に打ち砕く行動に出た。婚約を断った事を知れば泡を吹くか鬼の形相で手を上げるかのどちらかだと容易に想像がつく。
一度だって穏やかな一年を過ごした事がないティファニーはこの状況を異常だと思わない自分の異常さに苦笑する。
「クリストファー王子だって……」
言いかけてやめたアーロンは唇を噛んだ。
自分が言えることではない。クリストファー・ブレアという男がどういう人間か表面的な事しか知らないのに知ったように話すのは違うと思ったのだ。最後まで言えばティファニーに不快な思いをさせてしまう。それはアーロンが望んでいる事ではない。
「ごめんなさい、アーロン。わたくしそこまで賢くありませんの」
「君は賢いよ」
賢くなければ悪役令嬢など出来なかったはずだ。性格が悪いから続けてこれたのではなく、どうすればそれらしく見えるか計算しながら嫌な役を受け続けてきたのだ。
それはきっとヒロインを演じるよりずっと大変なことで、辛い事だったはず。
今、ティファニーが自分を賢くないと言うのは、感情に従って行動するから。だがそれが賢くないという理由にはならない。
アーロンは全てが終わる事になっても姉達を侮辱した罰を受けさせるつもりのティファニーの覚悟と勇気を批判する事は出来なかった。
「僕も一緒に行こうか?」
「わたくしにお守は必要ありませんことよ」
「心配だよ」
「掴み合いになるのが?」
「うん」
ふふっと他人事のように笑うティファニーにアーロンは眉を下げるだけ。
頬の腫れも引いていないのにこれ以上無茶をしてほしくないのに。
「アーロン」
「ん?」
「ありがとう」
この笑顔を守りたいのにアーロンの言葉ではティファニーは止まらない。きっとクリストファーの言葉でもティファニーは止まらないような気がしていた。
クリストファーに連絡すべきだろうか? 連絡したところで仕事全てを放棄して駆けつけることは不可能だ。向こうはコンラッドのように仕事を担っていないお気楽王子ではない。ましてやまだ何も起こっていない。もしかするとただの罵倒試合で終わるかもしれない。それならいい。それで終わってくれるのであれば何も問題はないのだから。
「気を付けてね」
「ええ」
この時の自分の判断をアーロンは後悔することになる。
「行ってきますわ」
放課後、笑顔でお茶会に向かうティファニーに手を振って見送ったことを。
笑顔を守れなかったことを。
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