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やらないという仕返し

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「ん……」
「おはよう」
「おはようございます……」
「よく眠れた?」
「ええ、とても。いつもよりぐっすり眠れた気がしま、す……わ……?」

 寝ぼけ眼で答えるティファニーが違和感に目を開けて焦点を合わせるとキラキラと輝いて見える顔が傍にあった事に目を見開いた。

「おは……」
「ギィィィヤァァァァアアア!」

 到底ヒロインなど不可能な悲鳴が朝の小鳥たちのさえずりの代わりに部屋に響き渡った。

「そんなに驚かなくてもいいのに。傷付くなぁ」
「ごめ、だって、え? どういう、あの、えっと、これは、は? なに?」

 何故こんな事になっているのかわかっていないティファニーにとって今がどこで一体どういう状況なのかもわかっていなかった。混乱する頭を一人で整理するのは無理で、今は吐き出しそうな心臓を正しい場所に留めておくことで精いっぱいだった。

「君が昨日寝ちゃったからそのまま部屋に寝かせたんだ」
「わ、わわわわわたくし、お、おおおおお泊りしてしまいましたの!?」
「うん」

 爽やかな笑顔での回答に一瞬意識を失いかけるも寸でのところで繋ぎ止め、自分の身体を見た。

「着替えさせたのは使用人で、僕は君の肌は見てないよ。お楽しみは初夜に取っておくつもりだからね」

 初夜とそこまで考えている相手の言葉に想像した事もなかった場面を想像してしまい、無性に恥ずかしくなって立てた膝に顔を埋める。

「あ、あなたはどこで寝ましたの? わたくしあなたのベッドを占領してしまいましたわ」
「ここで寝たから大丈夫だよ」
「ソファー?」
「ここ」
「どこ?」
「ここ。このベッド。君の隣」

 は?という声も出せないまま情報処理しきれない脳がフリーズを起こして思考が全て停止する。だがすぐにハッとして慌て始めたティファニーの手を握るクリストファーは何が言いたいのかわかっていた。

「君の父上には電話しておいたよ」
「何か言ってませんでしたか?」
「ご迷惑をおかけして申し訳ない。よろしくお願いしますとだけ」
「そうですのね。ご迷惑おかけしました」

 喜んでいたかどうか聞くのは無粋。そんなこと聞かずともわかっているのだからいちいち聞く必要もない。
 父親が電話に出た事で悪役令嬢だけではなくそれ以上の恥もさらしたことになり、頭に浮かぶ〝婚約〟の文字が消えていく。あんな父親が王族に入ればどんな横柄な態度に出るかわからない。迷惑しかかけず、受け入れてもらうなど不可能だと容易に想像がついてしまう。

「僕は嬉しかったよ。君の寝顔も見られたし、君の寝息も聞けた」
「そ、そんな淫らな事は言うべきではありませんわよ! ただベッドを共にしたというだけでそもそもわたくしは意識がなかったのですから嬉しかったとかそんなことありませんの!」

 早口で捲くし立ててもクリストファーの表情は変わらない。言葉で何を言おうと真っ赤な顔がティファニーの感情を表しているのだから丸わかり。
 パーティーにも出席しない。悪役令嬢のせいで公子は寄ってこない。男兄弟がいない。故に恋愛のれの字さえ慣れていないティファニーの条件はクリストファーにとってこの上なく良いものだった。
 アーロン・オールストンの存在も頭には浮かぶも、押しに弱く意思も弱い感じが見受けられ、ティファニーから話を聞く限り、ティファニーの相手にはなりえないと予想する。
唯一引っかかるのはコンラッド・グレンフェルの存在だ。
先日のパーティーでティファニーとの事を聞かれ、自分がティファニーについて話す時の若干の優越感には何かあると思った。クリストファーが知らないティファニーをコンラッドは知っている。それも何か特別なこと。
ティファニーがコンラッドを何とも思っていないとしてもコンラッドはそうじゃない。何かしらの感情を持っていて、それをクリストファーに気付かせようとした。

「今日はこのまま一緒に過ごすかい? 夜になったら送っていくよ」
「学校がありますの。あなたも仕事があるのではなくて?」
「今日は休みだよ」

 ティファニーは迷った。父親が許しているならこのままクリストファーと二人で過ごしてもいいのではないかと。初めて一緒に過ごす朝と昼も素敵なものになるだろうとは思ってが、ティファニーは首を振った。

「学校をサボるわけにはいきませんわ」
「今から行くと午後になるよ」
「ええ。それでも行きますわ」

 残念な顔をしたのはクリストファーの方。あからさまに見せる表情にティファニーは苦笑しながら手を握って微笑んだ。

「昨日はとても楽しい時間を過ごせましたわ。あなたのおかげです。オーガストさんの美味しいお料理もお腹いっぱいに食べられましたし、アントンさんの元気な姿は見ているだけで元気をいただけましたの。テキパキと働く素敵な方々のおかげで素敵な一日でした。お礼を言っておいてくださいませ」
「僕には?」
「全て誘ってくださったあなたのおかげです」
「あなたって?」
「あなたですわ」
「約束忘れちゃったの?」

 言われて思い出したことにウッと声を詰まらせるティファニーは逃げるようにベッドから降りるも手首を掴まれ引き寄せられる。相手の腕の中に倒れ込むような格好になったティファニーは再び逃げようとするもクリストファーがしっかり包んで逃がさない。

「名前は?」
「く、クリス……」
「今度僕をあなたって呼んだらキスするからね」
「な、なぜそうなりますの!?」
「だって、名前を知ってるのに呼ばれないなんて寂しいじゃないか」
「あなただってわたくしを君って……く、クリスもわたくしを君と呼びますわ! おあいこですのよ!」

 名前を呼ばないのはお互い様だと言いながらもクリストファーはティフィーと呼んでくれる時もある。

「ティファニー」

 おあいこと言うにはズルいかと考えていたティファニーの耳元で囁く甘い声に目を見開いて慌てて耳を押さえるも囁く声は続く。

「ティフィー」
「や、やめてくださる!?」
「かわいい」
「おやめになって!」
「ティファニー」

 吐息がかかるだけで背筋が震え、続く甘い声に変な気分になりそうだった。
 必死なのはティファニーだけで、クリストファーは至極楽しそうに笑っている。それがまた腹が立つと胸を強めに押して離れれば視界に入ったのはクリストファーの笑顔。腹は立つが、この笑顔を見てしまうと強く怒れない。
 好意を伝えてくれる相手を無下にするなど失礼な事は出来ない。大切にしたい。そう思っているのに、まだ返せない。
 全てに決着をつけるまで待っていてくれるだろうかと悠長な考えを相手にぶつける事も出来ず、都合のいい考えはやめようと首を振った。

「じゃあ送るよ。学校まで」
「家までで結構ですわ」
「いやだ。学校まで送る。さ、準備しよう」

 子供のように断ったクリストファーは意外に押しが強く、しかしコンラッドのように不快にはならない。人徳だと感じた。
 手を振って出ていくクリストファーは既に準備が出来ている。
 入れ違いに入ってくるメイドに軽く頭を下げて着替えを手伝ってもらった。

「クリストファー様は昨夜どちらで眠られたのでしょうか?」

 ティファニーの問いに三回ほど瞬きを繰り返したメイドがクスッと笑ってネグリジェを脱がせる。

「昨夜はこちらでお眠りになられましたよ」
「早起きなのですか?」

 おかしそうに吹き出して笑うメイドに何がそんなにおかしいのかと首を傾げると「失礼いたしました」と頭を下げてドアを振り返る。

「先ほど着られていたものは昨日のままでございます」
「え?」
「坊ちゃんはまだ昨日の服のまま着替えておられません」

 見覚えのある服だとは思った。だが、王子の服はどれもこれも似た物ばかりでそれを昨日の服と指摘できるほどクリストファーの服装に着目していなかったティファニーには驚きの回答だった。

「じゃ、じゃあ本当に……」
「はい。ティファニー様のお隣で眠られておりました」

 信じられないと呆気にとられるティファニーをよそにメイドはテキパキとドレスを着せていく。

「よろしければメイクもいたしましょうか?」
「お願いします」

 濃い目のメイクで頼もうか迷いながらも今日は任せようと思った。
 クリストファーの提案を実行しようと思っていたからだ。いつもの濃い化粧はティファニーにとって戦闘服のようなもので、あの濃さがなければ対等に渡り合えないと思っていたからずっと濃くしてきた。だがそれも相手にしないと決めたのであれば必要ない。薄い顔を見られるのは不安だが、それでも戦い方を変えなければならないのは事実だ。
 このままマリエットだけ幸せにというわけにはいかないのだから。

「近いうちのお戻りを期待しております!」

 馬車に乗る際の見送りはアントンだけではなく来た時同様、使用人達が総出状態で行われる中、アントンの大声が響き渡る。

「また是非」
「近いうちに!」
「アントン、声が大きい」
「失礼しました!」
「だから声が大きいんだって……」

 苦笑するクリストファーは先にティファニーを馬車に乗せてから乗り込み、窓を開けて皆に軽く手を上げた。それを合図に頭を下げる使用人達のお辞儀の角度は完璧で、まるで絵画を見ているようだった。

「そのままデートしたかったな」
「学校をサボるわけにはいきませんもの」
「悪役令嬢様は真面目だね」
「真面目な悪役令嬢も悪くありませんでしょ?」
「そうだね。魅力的だよ」

 昨日は本当に食事会という感じで散歩もしなかった。あの美しい王宮の庭園を二人で散歩出来ればよかったとティファニーも思ったが、学校をサボってまでやる事ではない。
 人生は自分の思い通りにはならない。だから努力する。自分が幸せになる道に目を背けて愚かな道を歩み出したのだとしても後悔はしない。いや、するかもしれないが、そうなる可能性があるとしても考えは変わらなかった。
 これが終わったら……という期待はしない。

 だが、彼はいつだってティファニーを惑わせる。

 家に戻って制服を着替える中、鏡に映るいつもと違う顔をした自分を見つめる。その顔はどこか弱く見えて不安になる。

 ———化粧が薄いせい? やっぱりいつものに戻した方がいいかもしれない。

 化粧道具に手を伸ばしてマスカラをたっぷり付けようとブラシを取り出すも目の前まで持ってきて動きを止めた。

「やり返すばかりでは芸がない」

 悪役令嬢に意地悪を受ける可哀相だけどそれを許す聖女のような優しさを持つヒロインになりたがっているマリエットを安定ルートで進ませないためにはやり方を変える必要がある。今はクリストファーの提案が一番正しいのだと頷いてマスカラを置いた。

「行ってきます……って、ええっ!?」
「おいで」

 午後からの登校だというのに父親は笑顔で送り出した。だがティファニーが驚いたのはそれではなく、まだクリストファーが待っていたこと。

「くれぐれも失礼のないように! 王子の前でパパの話はするんじゃないぞ!」
「偉そうに物を言うとか?」
「気を付けて行ってきなさい」

 あれだけ口うるさかった父親を黙らせるなんて今じゃ簡単な話。貴族は権力に弱すぎると首を振りながら馬車に近付くと出てきた王子が手を出す。ドアが開いた状態なのを見ると何が言いたいのかはわかる。

「送っていただく理由がありませんわ」
「僕が送りたいっていう理由があるよ」

 どうしようか迷いながらもその手を取ったのは今日で一気に駆け上がるため。この戦いを長引かせることに意味はない。
 許可は得たのだからと手を取って馬車に乗り込めばクリストファーは笑顔になる。

「化粧を直さなかったのは停戦の証?」
「いいえ、これは新しい火種を落とすという宣告ですわ」
「静かな悪役令嬢になるんだね」
「ええ。わたくしに出来るかどうかわかりませんが、今はあな……クリスの提案が一番効果的だと思いましたの」
「嬉しいよ」

 どうなるかはわからない。マリエットの反応は想像出来るが、問題はコンラッドだ。彼がどう出るかがわからない。マリエットに気がないのだから良くする理由はない。今、彼がマリエットの傍にいるのが自分への当てつけだとわかっている。だからこそ今回、関わろうとせず、大人しくなった悪役令嬢にどう反応するのか……。
 想像がつかない事は不安で大きく深呼吸をした。

「大丈夫だよ。必ず上手くいく」
「すごい自信ですわね。やるのはわたくしですのよ?」
「だからだよ。君は賢い人だ。カッとならずに冷静で落ち着いていれば問題ないよ」
「失敗しないために寝て過ごすことにしますわ」

 悪役令嬢の任を放棄するティファニーにマリエットは苛立つだろう。だが、ヒロイン故にその苛立ちをぶつける事も出来ない。想像するだけでおかしいものの、今はそこにセットと呼んでもおかしくはないクラリッサが一緒だ。
 今日、もし馬車が学校に着いた時、タイミング良くクラリッサがいたら天は味方していると思えるだろう。自分の人生を神頼みするなど馬鹿げているとは思うも、今は神にさえ縋りたいほど迷っていた。

「僕以外の男の前で無防備な姿は見せないでほしいけどね」

 笑顔を見せないティファニーの手を握って手の甲に口付ける甘い男にティファニーの胸の高鳴りが始まる。紳士がレディにする挨拶のようなものなのに、こんな事でドキドキしてしまうのだから単純だと自分に苦笑する。

「コンラッド王子以外に魅力的な男性はいる?」
「コンラッド王子以外に? その言い方ではコンラッド王子が魅力的だと言っているように聞こえますけど」
「だって彼、顔は悪くないよ。王子っていう肩書持ちだし。女の子達が放っておかないんじゃないかい?」
「それだけですわ。顔が良い王子なんて世界中の王子がそうでしょうし、それだけで魅力的な男性と捉えるには無理がありますわ」
「でも可愛いティーカップを見れば欲しくならないかい? それが例え使い勝手が悪いものだとしても」
「それはわたくしにとって魅力的なカップであった場合であって、魅力的でなければいくら可愛かろうと意味などありませんのよ」

 誘惑されるのではないかと心配しているのだろうかと勘繰ってしまう。好意を伝えられているのだから当然だが、真っ直ぐすぎる想いを正面から受け止めるにはティファニーのスキルが足りない。
 クリストファーは素敵という言葉では足りないようなイイ男だ。文句の付け所がない完璧な男が好意を示してくれていることがまだ不思議でならなかった。疑ってはいない。ただ夢のようで信じられない気持ちでいっぱいだった。

「君のそういう所が好きなんだ」

 朝から脳みそまで蕩けてしまいそうなほど甘い男に大きく息を吐き出せば何度か頷いてみせた。自分でも何を思って頷いたのかはわからないが、相手を安心させられるならとしたことだ。

「もし眠っている君にキスする男がいたら殴り飛ばすんだよ?」

 ドキッとした。彼は既に何か知っているのではないかと。

 ———あのパーティーで何か聞いた? コンラッドが全て喋ってしまった?

 だが、クリストファーは試しているような感じには見えない。ただ純粋に、ティファニーがどこでも眠ってしまうから心配しているように見えた。

「さ、着いた」
「ありがとうござい、え? え? え?」

 嫌な不安に襲われているとクリストファーが先に馬車を降りてしまった。降りるのはティファニーだけでクリストファーは必要ない。絢爛豪華な馬車が一般貴族の物ではないことぐらい誰にだってわかる。ワザつきが聞こえた直後、女子生徒の黄色い悲鳴にティファニーは苦笑も出来ず溜息が出てしまった。

「さあ、手を」

 もうこのまま馬車でどこかに行ってしまいたかった。今日から悪役令嬢はお休みだと決めた直後に問題発生しそうなことをやらかすクリストファーが何を考えているのかわからず、戸惑いながら手を出した。

「行っておいで、お姫様」

 馬車からティファニーが現れると悲鳴はザワつきに戻ってしまう。それもそのはず。ティファニーのような人間がクリストファー・ブレアと懇意にしている理由がない。それなのにクリストファーの馬車からはティファニーが降りてきたのだから昼休み中の生徒達は驚きを隠せないでいる。

「またね」

 頬にキスをされて今度は絶叫が響き渡る中、ティファニーも驚いた。しかし、ほんの少し顎を動かしたクリストファーの行動が後ろを指しているのだとわかるとティファニーもほんの少し顔を動かして後ろを確認した。
 クラリッサがいる。マリエットとコンラッドも一緒だった。
 立ち止まっている事から見ていたのだろう。ティファニーはクリストファーのウインクに笑顔を向けると同じように頬に口付けを返して「行ってきますわ」と手を振って歩きだす。

 向かいには敵キャラ三人。頭にはまだ〝挑む〟か〝休む〟かの選択肢が交互に光っている。優雅に歩くだけで精いっぱいなのを勘付かれないように笑顔を崩さないまま三人の前で立ち止まった。

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