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責められた母親の目元が、麻衣子の頬と同じぐらい赤く染まってくる。乾いて、口紅の剥げかけた母親の唇が、何度か痛いものをそうっと呑み下した後、ゆっくり動いた。
「ごめんね…」
びくっと麻衣子が体を震わせる。食い入るように見ている瞳がゆらゆらと緩んでいく。
「おかあさん、麻衣子に、嘘、ついちゃったね…」
続いた母親の声に、麻衣子の顔がくしゃくしゃに歪んだ。うそつき、と言った時よりずっと辛そうに、悲しそうに眉を寄せる。
周囲の視線を痛いほど感じ続けていた東子は、その表情を見た瞬間、ああ、違う、と思った。
違うんだ。おかあさんが嘘つきだなんて、麻衣子ちゃん、思っていない。おかあさんに、そんなこと、認めてほしいなんて思っていない。
心の中のその声に、背中を押されたように東子は口を開いていた。
「麻衣子ちゃん」
きょとんとした顔で、麻衣子は東子を見た。
今まで、東子がそこにいてもいなくても気にしていなかったのだろう。急に声をかけられびっくりしている。
「麻衣子ちゃん、おかあさん、嘘つきじゃないよ」
ことさら静かな部屋の中の自分を、東子は不思議な落ち着きで感じていた。
いつかのように、暗い夜の中、たった三人取り残されている。
そんな光景が頭の中を過っていく。
それは、真実だ。
今、この一瞬、東子はこの親子と三人取り残されている、誰もが当然のように持っていると信じている明るく健やかな未来から。
そうして自分は試されている。
何ものか知らぬ大きなものに、何を選び取るのかをじっと見つめられている。
「おかあさんに、麻衣子ちゃんが御飯を一生懸命食べたら帰れるって言ったのは、私なの。もう痛い検査もないし、お熱もでないと言ったのも私なの。ごめんね、私が嘘をついたの」
私が嘘をついていたの。
思いは、胸の堰を切った鋭い痛みとともに、東子の全身に広がった。
ベッドに横たわっている小さな麻衣子に、自分の姿が重なって見えた。
必死に自分をかきたてて、何とか周囲と自分の期待に添おうとして、それでも現実の強さに手も足も出ず、身動き出来なくなっていく自分の姿。誰か必ず報いてくれる、いつか必ず救いが来る、そう信じる自分を嗤い切れずに戸惑う姿。
そういう自分を見捨てようと足掻く姿。
でも、本当は違う。
東子が本当に望んでいたのは、そんな自分を見捨てることじゃない。
私は嘘をついていたの。
心の中で呟いた。
私は嘘をついていたの。
弱々しく意気地のない無能力な自分を知られたくなくて、いや、何よりそんな自分だと思いたくなくて、そのくせ、何もせず、自分は頑張ってるけど認められない、そう嘘をついていたの。
「でもね」
声が掠れた。
「そうであればいいと思っていたからなの。そうであれば、どんなに嬉しいだろうと思ったの」
自分が忍耐強くしなやかな機知と人間的な豊かさに溢れている人間であれば、どんなに嬉しいだろう、と思ったの。
「ごめんね、麻衣子ちゃん」
ごめんね、放って捨てられかけていた私。
低い声で言った東子の心の声まで聞いていたように、麻衣子はじっと東子を見つめていた。ことばが終わるや否や、母親が滲んだ声で、
「看護師さん…」
一言、呟いた。
麻衣子の瞳に新しい涙が盛り上がる。
「うそつき…」
ぽつん、と麻衣子が言った。少し声を荒げて、自分の勇気を確かめるようにことばを継ぐ。
「うそつき」
「麻衣子…」
母親のなだめる声も麻衣子は無視した。
「うそつき、うそつき、うそつきーっ……!」
身を揉んで、力の限り吐き捨てる。涙を吹き零れさせながら、
「林さんなんて、大きらいーっ!」
わああっ、と激しく泣きじゃくって母親の胸に身を投げる麻衣子に、深々と頭を下げて、東子はベッドサイドを離れ、部屋を出て行った。
「ごめんね…」
びくっと麻衣子が体を震わせる。食い入るように見ている瞳がゆらゆらと緩んでいく。
「おかあさん、麻衣子に、嘘、ついちゃったね…」
続いた母親の声に、麻衣子の顔がくしゃくしゃに歪んだ。うそつき、と言った時よりずっと辛そうに、悲しそうに眉を寄せる。
周囲の視線を痛いほど感じ続けていた東子は、その表情を見た瞬間、ああ、違う、と思った。
違うんだ。おかあさんが嘘つきだなんて、麻衣子ちゃん、思っていない。おかあさんに、そんなこと、認めてほしいなんて思っていない。
心の中のその声に、背中を押されたように東子は口を開いていた。
「麻衣子ちゃん」
きょとんとした顔で、麻衣子は東子を見た。
今まで、東子がそこにいてもいなくても気にしていなかったのだろう。急に声をかけられびっくりしている。
「麻衣子ちゃん、おかあさん、嘘つきじゃないよ」
ことさら静かな部屋の中の自分を、東子は不思議な落ち着きで感じていた。
いつかのように、暗い夜の中、たった三人取り残されている。
そんな光景が頭の中を過っていく。
それは、真実だ。
今、この一瞬、東子はこの親子と三人取り残されている、誰もが当然のように持っていると信じている明るく健やかな未来から。
そうして自分は試されている。
何ものか知らぬ大きなものに、何を選び取るのかをじっと見つめられている。
「おかあさんに、麻衣子ちゃんが御飯を一生懸命食べたら帰れるって言ったのは、私なの。もう痛い検査もないし、お熱もでないと言ったのも私なの。ごめんね、私が嘘をついたの」
私が嘘をついていたの。
思いは、胸の堰を切った鋭い痛みとともに、東子の全身に広がった。
ベッドに横たわっている小さな麻衣子に、自分の姿が重なって見えた。
必死に自分をかきたてて、何とか周囲と自分の期待に添おうとして、それでも現実の強さに手も足も出ず、身動き出来なくなっていく自分の姿。誰か必ず報いてくれる、いつか必ず救いが来る、そう信じる自分を嗤い切れずに戸惑う姿。
そういう自分を見捨てようと足掻く姿。
でも、本当は違う。
東子が本当に望んでいたのは、そんな自分を見捨てることじゃない。
私は嘘をついていたの。
心の中で呟いた。
私は嘘をついていたの。
弱々しく意気地のない無能力な自分を知られたくなくて、いや、何よりそんな自分だと思いたくなくて、そのくせ、何もせず、自分は頑張ってるけど認められない、そう嘘をついていたの。
「でもね」
声が掠れた。
「そうであればいいと思っていたからなの。そうであれば、どんなに嬉しいだろうと思ったの」
自分が忍耐強くしなやかな機知と人間的な豊かさに溢れている人間であれば、どんなに嬉しいだろう、と思ったの。
「ごめんね、麻衣子ちゃん」
ごめんね、放って捨てられかけていた私。
低い声で言った東子の心の声まで聞いていたように、麻衣子はじっと東子を見つめていた。ことばが終わるや否や、母親が滲んだ声で、
「看護師さん…」
一言、呟いた。
麻衣子の瞳に新しい涙が盛り上がる。
「うそつき…」
ぽつん、と麻衣子が言った。少し声を荒げて、自分の勇気を確かめるようにことばを継ぐ。
「うそつき」
「麻衣子…」
母親のなだめる声も麻衣子は無視した。
「うそつき、うそつき、うそつきーっ……!」
身を揉んで、力の限り吐き捨てる。涙を吹き零れさせながら、
「林さんなんて、大きらいーっ!」
わああっ、と激しく泣きじゃくって母親の胸に身を投げる麻衣子に、深々と頭を下げて、東子はベッドサイドを離れ、部屋を出て行った。
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