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ナース・ステーションの前で立ち止まろうとしたら、夜勤の看護師に声をかけられた。
「もっと、奥へ。ずっと家に帰れていない子がいるんです。今も点滴中で。……動くと針がずれてしまうんです」
なるほどそれは大変そうだ。
「ずれると次に入れる所がなくてね。…でも、入れなきゃいけない点滴なんです。三日近く、食べられてないし…」
長々とした看護師のことば、ひとごととして聞き流した東子の指示された立ち位置は、その話の子どもの正面だ。
開け放した扉の向こう、白いベッドの半分ぐらいの背しかない子どもが横たわっていた。
薄明かりの中で、その子の細い細い腕にぐるぐる巻かれたテープと、それに固定された点滴セットが見える。
側に居る母親らしい女性が、小さな丸椅子に、背中を曲げてどこかぼんやりと座っている。
部屋の中には折り紙の鶴が吊られ、枕元には『がんばれ』という大きな文字を中心に、色とりどりの寄せ書きの色紙がある。
子どもは目を開けていた。
硬い表情で、前で歌う東子を見ていた。
点滴がゆっくりゆっくり落ちていく。
身動きもせず、その洗礼を受けて、子どもは東子を見つめている。
なぜ、自分は歌っているのだろう。
ふいにそう思った。
なぜ、今ここで、この子の前で。
子どもが緩やかに目を閉じて、東子はぎくりと息を引いた。
側に居た母親もいつの間にか目を閉じ、項垂れている。
まるで、その二人と東子がこの空間に取り残されて、永遠の迷路に投げ入れられたようだ。
息が苦しい。息をしなきゃ。息を大きく。
でないと死ぬ。
死んでしまう。
死んでしまったの、この子どもは?
なぜこんなに静かなの?
誰も気づいていないの?
母親も?
私だけ?
私だけが気づいている?
私だけが何とかできる?
なぜ、私が?
どうして、今?
まだ、何の準備もできていないのに。
「……アベ・マリア…」
唐突にソロが始まって、我に返った。
子どもは安らかに眠っている。
母親もまた眠っている。
けれど、東子達の歌声が眠りを誘ったはずはない。
東子は、指先を痺れさせながら、そう思った。
あの時と同じような、一瞬、たった一人暗がりに放り出されたような、そんな気持ちが今、東子の中に渦巻いている。表面上は穏やかに、笑みを振りまきさえできるのに。
「えーと……林、東子さん。あなたの受け持ちはこの子ね、大原麻衣子ちゃん、七歳。もう二年、ここにいます。もう少しで寛解期に入って退院できるでしょう。退院指導中心にね」
やりにくいな。
カルテを見ながら、東子はこっそり呟いた。
もう二年も病棟に居る、ということは、医者の癖も看護師の癖も、よく心得ているということだ。実習生にも何度か当たっているだろう。
比較される。
そんな気持ちが先に立った。
「もっと、奥へ。ずっと家に帰れていない子がいるんです。今も点滴中で。……動くと針がずれてしまうんです」
なるほどそれは大変そうだ。
「ずれると次に入れる所がなくてね。…でも、入れなきゃいけない点滴なんです。三日近く、食べられてないし…」
長々とした看護師のことば、ひとごととして聞き流した東子の指示された立ち位置は、その話の子どもの正面だ。
開け放した扉の向こう、白いベッドの半分ぐらいの背しかない子どもが横たわっていた。
薄明かりの中で、その子の細い細い腕にぐるぐる巻かれたテープと、それに固定された点滴セットが見える。
側に居る母親らしい女性が、小さな丸椅子に、背中を曲げてどこかぼんやりと座っている。
部屋の中には折り紙の鶴が吊られ、枕元には『がんばれ』という大きな文字を中心に、色とりどりの寄せ書きの色紙がある。
子どもは目を開けていた。
硬い表情で、前で歌う東子を見ていた。
点滴がゆっくりゆっくり落ちていく。
身動きもせず、その洗礼を受けて、子どもは東子を見つめている。
なぜ、自分は歌っているのだろう。
ふいにそう思った。
なぜ、今ここで、この子の前で。
子どもが緩やかに目を閉じて、東子はぎくりと息を引いた。
側に居た母親もいつの間にか目を閉じ、項垂れている。
まるで、その二人と東子がこの空間に取り残されて、永遠の迷路に投げ入れられたようだ。
息が苦しい。息をしなきゃ。息を大きく。
でないと死ぬ。
死んでしまう。
死んでしまったの、この子どもは?
なぜこんなに静かなの?
誰も気づいていないの?
母親も?
私だけ?
私だけが気づいている?
私だけが何とかできる?
なぜ、私が?
どうして、今?
まだ、何の準備もできていないのに。
「……アベ・マリア…」
唐突にソロが始まって、我に返った。
子どもは安らかに眠っている。
母親もまた眠っている。
けれど、東子達の歌声が眠りを誘ったはずはない。
東子は、指先を痺れさせながら、そう思った。
あの時と同じような、一瞬、たった一人暗がりに放り出されたような、そんな気持ちが今、東子の中に渦巻いている。表面上は穏やかに、笑みを振りまきさえできるのに。
「えーと……林、東子さん。あなたの受け持ちはこの子ね、大原麻衣子ちゃん、七歳。もう二年、ここにいます。もう少しで寛解期に入って退院できるでしょう。退院指導中心にね」
やりにくいな。
カルテを見ながら、東子はこっそり呟いた。
もう二年も病棟に居る、ということは、医者の癖も看護師の癖も、よく心得ているということだ。実習生にも何度か当たっているだろう。
比較される。
そんな気持ちが先に立った。
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