『VAKU』

segakiyui

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4.空白の記憶

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 既に騒ぎは十分大きくなっていた。
 映画館に面した大きな通りに人が集まっている。その少し先、交差点の中央に、いつか見た真珠色の霧が凝り固まり、高さは周囲のビルの二階分ほどもあった。ぼんやり霞んだ周辺から、渦を描いた中央の空間へ近づくに従って、霧は密度を高めてもったりとした風合いに見える。中心点はほとんど触れそうなぐらいくっきりとした形を描いていた。 
 いつぞやの夜に見た、おぼろげな霧の塊とは全く違う。
 アンモナイトの下部がもやもやと消えている辺りで、数台の自転車がおかしな具合にねじ曲げられて止まっている。道路には何の変化もなさそうだが、ガードレールもアンモナイトの殻に押しのけられているように僅かに曲がり始めていた。
 それ以上は動こうとしていない相手を甘く見たのか、物見高い野次馬が幾重にも垣を作り、アンモナイトを囲んでいる。誰か通報したのだろう、遠い所からパトカーのサイレンらしい音が響き始めていた。
「な……に…」
「アンモナイト。化石でしか知らないわね。古生代から中生代にかけて存在した生物よ。もっともここにいるのは、それがいた、という『記憶』………やっかいなのは、この周囲に、これを見てすぐ、アンモナイトを想像した人間が多かったこと………おまけに不良のVAKUがいる」
 絞り出すような鹿子の声に、『炎』は淡々として厳しい声で応じた。
「見てごらんなさい。『記憶』が見る見る濃くなっていくでしょう? アンモナイトを思い出した人々の『記憶』を、VAKUが外へ放出し切れないで、増幅させてしまってるの…………『瞳』!」 
「だめだな、もう押さえ切れない……VAKUを捕獲するしか手がなさそうだ」
 少し前の方に立っていた『瞳』が、思い詰めたような声で答えた。
 きびすを返して戻ってくる、その目がじっと映画館の入り口に注がれている。
 視線を追った鹿子は、その先に立つすすむと咲子の姿を認めた。
「わかった。では、VAKUを捕獲後、『記憶』の始末にかかる」
 きっぱりと言った『炎』が、ずい、とすすむの方に足を進めた。付き従う『瞳』の背後で、いよいよ濃くはっきりと実体化していくアンモナイトを遠巻きにしていた人垣が崩れ、悲鳴と怒号が波打つ。押し出されるようにアンモナイトに近寄せられた数人が、まるでスライムに呑み込まれるように霧の中に姿を消す。 
「う、わ…」
「なんだ…っ」
「きゃ、あああああ! かずきーっ!」
 女性の金切り声が響き渡り、次の瞬間辺りはパニック状態になった。
「好都合」
 『瞳』が皮肉な調子で呟いた。
 人がうねりとなって鹿子達を襲う。逃げて来る者、なお近づく者、入り交じって揺れる中、押し倒されまいと足を固める鹿子とは逆に、泳ぐように『炎』と『瞳』がすすむに近づいていく。 
(処理……捕獲………すすむ!)
「ごめん! ごめんなさい! ……ええい、どけえっ!」
 両手を振り回し、声を限りに叫びながら、鹿子はアンモナイトに背を向けて、すすむの方へ走った。
「すすむ! すすむ! 逃げて! 逃げて、よおっ」
 群衆の中からどうして鹿子の位置を知り得たのか、すすむが確実に鹿子の方を凝視した。唇が動く、人波の向こう、ゆるやかに弧を形作って名前を呼ぶ。
『か、の、こ』
 その次紡がれたことばに気づいて、鹿子の目の前が見る見る滲んだ。
『あ、ぶ、な、い』
「危ないのはあんたよーっ! ばかーーっ!」
 逃げてええええっ!
 『炎』と『瞳』が、まるで何かに導かれるようにすすむの側へすり寄った。咲子が人ごみに押されてすすむの側から離され、ようやく気づいて鹿子の方へ泳ぐように歩き出す。入れ代わるように、すすむに『炎』が近づき、片手を振り上げた。すすむはまだ気づかない。ひどく真面目そうな心配そうな表情で、じっと鹿子を見つめている。
「すすむーっっっ!」
 鹿子が絶叫するのと、『炎』の片手が振り下ろされて、日差しより遥かに眩い光の意図がすすむの回りに散るのが同時だった。
「ああっ…」
 思わず声を上げる鹿子の前で、すすむがびくりと体を強張らせる。近くに多くの人間が居るのに、光の糸はすすむだけを閉じ込めていく。くるりと網のように繋がった糸の輪の中、すすむが慌てたように周囲を見回した。だが、それも長くない、苦しそうに胸を抱き、のけぞるように倒れていく。 
「『炎』!!」
 いつかの繭よりももっと容赦なく強く編まれた檻が、見る見るすすむを包んでいく。呆然とする鹿子の前で、細身の体がイリュージョンよろしく中空に吊り上げられる。    
「鹿子!」
 必死に人の手足を潜って、咲子がようよう鹿子に近づいて来た。ぼんやりしてしまった鹿子の方を掴み、強く揺さぶって叫ぶ。
「鹿子、あれ!」    
 のろのろと振り返って、鹿子はアンモナイトがさっきより格段に弱々しい像になったのを見た。その前に進み出ていく『瞳』の姿を見た。続いて、周囲の人間が止めるのを振り切って『炎』が歩み出す。  
「何…する気なんだろう……」
 咲子のつぶやきは、そこに居た全ての者の問いだったに違いない。
 『瞳』が足を速めた。アンモナイトが敵に気づいたように体を震わせる。霧が輪郭から僅かに広がり、零れ落ちていくようだ。後に続いた『炎』も速度を上げ………もう少しでアンモナイトに接触するというところで、一瞬二人の姿が重なったように見えた。 
 その瞬間。
 光が満ちた。
 どよめきが上がった。
 高い悲鳴が空を裂いた。
 だが……それだけだった。
 人々が目を開けたとき、道路にはねじ曲がった自動車だけが放置され、巨大なアンモナイトはどこにもいなかった。


「鹿子……鹿子!」
 少し大きな声で呼ばれ、鹿子はようやく我に返った。自分を覗き込んでいる母親に、鈍く笑ってみせる。 
「はい……聞こえてる…」
「大丈夫?」
 母親は心配そうだ。部屋の隅で膝を抱えて丸くなっている鹿子を、もう何度も呼んだのだ、と言う。
「すすむ君のことが心配なのはわかるけど、何か食べないと……」
「うん……わかってる……大丈夫……大丈夫だから……」
 答えながら、鹿子は立ち上がった。見守る母親を残して玄関に向かう。
「また……すすむ君の所?」
「うん……何か連絡入ってるかも知れないし……あいつのとこ、留守電あるし……」 
 携帯にも連絡がないのだ、すすむの家にメッセージなど残されていないことは百も承知だった。
 あれからもう二日、すすむは行方不明のままだ。
 あの事件をTVや新聞は数百人の白日夢、という扱いで報じた。原因は究明中だが、何かのガスが近くの薬剤の研究所から漏れたとか、何かの異常で急激な気圧か酸素濃度の変化があったとか、そんな具合に考えられている。妙な具合に曲がった自動車やガードレールは、一部のオカルト番組で取り上げられたものの、幻覚を見た人間が起こした事故によるものとして処理されたようだった。
 それでもあえて、アンモナイトを見たと主張する数人は医師の診察を受けることになり、そうなるとおかしなもので確かに自分も見たと言い出す人間は一気に減った。 
 そこへ各報道機関の白日夢としての扱い、あれほどの事件が翌々日の夕方にはなかったこととして消されていこうとしている。 
 それが『炎』の言った、この世界を保つためにある『正しい』努力なのかも知れないが、すすむがいなくなっていることは確かな事実、鹿子の『記憶』はあの時点から離れられない。 
 不思議なのは、息子を失った楢家の対応だった。
 すすむの両親は息子がいなくなった事をまるで気づいていないかのような無関心さで、これまで通りの生活を続けていた。あんまりだ、と噛みついた鹿子には「警察に任せていますから」で押し通し、かと言って、あのマンションを引き払う風でもない対応、それは、鹿子にすすむがどれほど孤独だったのかを思い知らせた。
 すすむは手のかかる息子だった。女を引っ張り込む困り者だった。あの騒ぎで行方が知れなくなったが、どうせ家出でもしたのだろう、そういうぐうたら息子だった。 
 そうつぶやく両親の内側の声が聴こえてきそうだ。
 不思議と言えば、鹿子の母親の態度も奇妙だった。
 あれほどすすむに頼っていたのに、彼がいなくなってショックを受けた鹿子が、一応人並みに生活は送れると知ると、逆に、彼がいなくなってほっとした、という表情を見せることが多くなった。むしろ、すすむに拘る鹿子に戸惑い、何とかすすむのいない生活にも慣れさせようとしているようだった。 
(みんな、おかしい)
 鹿子は反発し、日に何度もすすむのマンションに向かう。
「鹿子」
「大丈夫、大丈夫だから」
「……早く帰るんですよ」
「うん、大丈夫!」
 すがりつくような母親の視線に吐き捨て、素早く靴を履いて外に出る。
 スムーズな動作とは裏腹に、鹿子の気持ちはあの時のまま凍りついている。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせていなければ、このままぐずぐずと崩れて二度と立ち上がれないような気さえしている。
 マンションのエレベーターで十五階へ一気に上がった。勝手に作った合鍵でドアを開け、主のいない部屋に入る。
 夕闇が迫り始めた無人の部屋は寒々として、鹿子を拒んでいるようだった。  
 ドアを閉め、鍵をかけ、まるで儀式のように奥へ通って、ベッドの横にある枕元の電話の前にぺたりと座った。
 留守番電話は入っていない。それを三度も確かめて、向きを変えた。
 電話の横の小さな棚に、何冊かのアルバムがある。
 手前の数冊を引き出し、膝に載せて開いていく。青い光が澱む部屋で、写真の中のすすむと鹿子が白々しく笑っている。
 二人の写真はそう多くない。どちらかというと、すすむと他の女が写っている方が多い。
 けれども、限られた何枚かの写真を指で追っていく鹿子の口元には、微かな笑みが戻ってくる。
「そうそう、この後すぐに、あたしに電話かけてきて、『今部屋に居るんだ。女の子の分と二人分、御飯作ってよ』なんて言うんだもん。頭きて、うーんと辛いカレーを持ってったんだ」
 それでも、すすむは「鹿子のが一番うまいんだ………こんなの作れる……?」とのうのうと相手に尋ね、もちろん、浮気はその場でご破算、あの時の女の顔ったらなかった。
 思い出してくすくす笑い、次のページを捲って動けなくなった。
 何も貼っていないページ。
 食い入るように見つめていた鹿子の目から、ゆっくりと涙が零れ落ちる。 
 どうして、だろう。
 鹿子はすすむが自分の作った物を食べなくなる時が来ると、思ったことがなかった。すすむが突然居なくなるなどとは考えたこともなかった。
 浮気するたび腹を立てて、そのくせ、食事時にはすすむの好きな献立を考えて作った。抱き合ったこともなければ、キスしたこともない。手さえ握ったこともない。
 なのに、すすむと自分の時間が途切れることはあり得ないと、どうして信じていられたのだろう。
 だが、その全てはもう帰らないものとなった。
 すすむは二度と鹿子の食事を食べない。
 このアルバムに新しい写真が増えることもない。
 自分の心が真っ白な空間に押し出されていくような気がする。
 何もない。
 何もなくなってしまった。
 こと、とアルバムが膝から滑り落ち、我に返った。
 部屋はかなり薄暗くなっている。家に一本電話を入れないと、明日は出してもらえないかもしれない。
 アルバムを片付けようとしたが、暗すぎて、いつもならすっと片付けられるところがなかなか入らない。 
 立ち上がって明かりを点け、戻って来てアルバムを抱え、一度に入れようとして棚を覗き込み、眉をひそめた。 
 奥の方に何か薄いものが引っ掛かっている。
 手を伸ばして引き出し、それもアルバムだと気づいた。赤いぺらんとした表紙、ページも数枚分しかない安っぽいものだ。
「いつのかな…」
 今までこれは見たことがない、と表紙を開いて、思わず微笑んだ。
 毛布の上に転がっている男の子。病院で撮ったのだろうか、裸んぼで手足を広げている。『すすむ、誕生』の文字に笑みを深めたが、次の写真に思わず手を強張らせた。
「何……これ……」
『すすむ、両親と』
 その文字を読んでも信じられない。
 そこに写っているのは、今のすすむの両親ではなかった。見も知らぬ二人が赤ん坊のすすむを抱えて笑っている。
 鹿子は慌てて写真を追った。
 ちょうど二歳の誕生日を迎えた辺りで、両親の顔は今の両親のものになっていた。
「養子……」
 幼なじみと言いながら、今まで全く知らずにいたことだった。
 すすむの知られたくないことを無理に見てしまったようでためらったが、思い切って続く数枚を目で追った。 
「小さい頃はやんちゃ坊主の顔だけどね………あ……れ……?」
 ふと首を傾げた。
 付いているコメントからすれば、すすむの写真は七歳ぐらいまできていることになる。
 だが、どこにも鹿子の姿がない。すすむと行ったはずの六歳の夏祭りの写真にさえ、鹿子が写っていないのだ。
「変……だな……」
 覚えている限り、鹿子は五歳ぐらいからすすむと一緒にいる。それも離れているのは夜寝る時ぐらい、という親密さだったはずだ。その頃はすすむの両親も今ほど無愛想ではなかったし、すすむがどこかに出かける時は必ず鹿子も同行した。鹿子のアルバムは、五歳頃のはなくしたようだと言われたものの、その後のものはほとんど、すすむと写っている写真ばかりだ。  
「待って…」
 誰に言うともなく、鹿子は呟いて目を閉じた。
 いや、待て……確かに七歳の夏祭りはすすむと一緒の写真がある。
(でも、六歳のは?)
 覚えていなかった。単に忘れているだけだろうか。
 もう一度目を開いて、すすむの六歳の夏祭りの写真を見つめた。
 暗闇に赤や黄色、オレンジの提灯。踊りの中央を白いライトが照らしている。その光景を背に綿菓子を持ったすすむと両親が写っている。
 六歳の夏祭り。
 鹿子は何をしただろう? 屋台を見ていたのか? りんご飴を舐めていたのか? パチンコを試していただろうか。 
 鹿子は次第に早くなってくる呼吸に気づいていた。
 いつもの苦手な光景とこの写真はそっくりだ。そう思いついて、ますます息苦しくなってくる。
 それを我慢して、鹿子は必死に記憶を探った。
 何か変だ。何か大切な事を鹿子は無視してきている。それはすすむに関する事、そして鹿子自身に関する事だ。
 鹿子は六歳の夏祭りを、奇妙な空白に置き忘れてきている。
(もう少し……もう……少しだ……)
 額からにじんで流れてくる脂汗に、唇を噛んだ。気分が悪い。今にも吐きそうだ。けれども、これはどうしても思い出さなくてはならない。
 六歳の夏祭り。
 その時、鹿子に何があったのか。
「待って」
「!」
 背後で声が響き、ふわりと肩に手が置かれて硬直した。びくっと跳ねた体をなだめるように、置かれた白い手がゆっくり上下にリズムを取る。 
「急がないで……段階がいるの。わたし達なら手伝える………VAKUの助けにもなるわ」
「『炎』……」
 鹿子はのろのろと振り向いた。
 どこから入ったのか、『炎』が後ろに立っていた。
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