『VAKU』

segakiyui

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3.『記憶』の狩人

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「んじゃ…ね。とりあえず、気をつけてよね」
「はあい、わかってまあす……物わかりいいだろ、ぼくって……恋人の事なら……夢だって本気にしてやるんだもん」
 半開きのドアの隙間から、にこにこ笑って返事したすすむに、鹿子は大きく深い溜め息をついた。
 あの後、すすむのことばの意味を尋ねようとした鹿子に、いきなり気分が悪くなったと訴えてすすむはトイレに駆け込み、実際に吐くや熱を出すやで朝まで過ごした。合間合間に、起こった出来事について説明はしたものの、すすむが本気にするはずもなく、鹿子の質問に答える様子もなかった。朝日が部屋に差し込むと、さすがに奇妙なことを口に出すのも今更ながらという気がして、それでも一応、昼と夜の食事を作り、鹿子はすすむの部屋を出た。
「鹿子ー」
「なによ」
「また、御飯、作りにきてよねえ…」
「あんたって……奴は……」
 はいはい、と首だけ動かして返事にして、鹿子は疲れた足取りで家に帰った。
「ただいまあ………」
「おかえんなさい。すすむ君、どうだった?」
 玄関に出て来た母親が無邪気に尋ねるのに、のろのろと靴を脱ぎながら応える。
「ん、もう大丈夫だからって……」
「ほんと、すすむ君にはお世話になりっぱなしだから…」
「あのねえ、お世話してるのはこっちなの。ったく、すすむがいつあたしの世話を焼いてくれたっていうのよ」
 疲れているのも手伝って、つい母親に絡むと、相手は一瞬顔を強張らせた。が、すぐに、
「まあ、そういうもんじゃ……大体、受験の時だって、すすむ君がいろいろ教えてくれたからでしょう?」
「まあ………あいつ……頭はいいから……」
 鹿子は仕方なしに応じた。立ち上がり、伸びをしながら、
「シャワーでも入って、寝ようっと」
「あら、咲子ちゃんと約束してたんじゃなかったの?」
 母親がきょとんとした顔になって、思い出した。
 そう言えば、友人と映画を見に行く予定だった。妙なことが続いたのですっかり忘れていたのだ。
「そうだ、時間、何時?」
「もう十時十五分よ、確か十時…」
「半に待ち合わせ!」
 慌ただしく二階へ駆け上がり、用意を整えて家を飛び出した。


「遅い!」
「ご、ごめんっ」
「もう少しで始まるとこだったよぉ」
 待ち合わせの場所で、咲子はぷっと頬を膨らませて見せた。
「通り過ぎるのはカップルばかりだし」
「で、あたしが来てもカップルじゃないし……すみませんね、ほんと」
「いえいえいどういたしまして。ほんとなら、すすむ君と一緒のはずでしょ」
「あいつなら、駄目よ」
「また?」
「うん」
「苦労するわよね、あんたも。いい加減に別れたら?」
「そうしたいんだけどね…」
 鹿子は肩を竦めて咲子の後に続いた。入り口で券を買いながら、咲子が振り返る。
「そういえばね、さっき凄いカップル見たよ。美男美女だけど、なんか妖しくってさ」
 くすくす笑って首を竦める。
「ほうら。また咲子の病気が始まった」
「趣味に徹した、と言ってほしい」
 美男美女というなら、と鹿子は昨夜の二人を思い出した。あれほどきれいな組み合わせもそうそういないだろう。
(きれいなだけじゃない、お互いがお互いを大事にしている感じでよかったな、本当に相手がいないと生きられないっていう感じで………やっぱ、ちょっと憧れるものね、ただ一人の運命の相手、とかさ…)
 心の中で呟いて、すすむのことを思い出す。「何の事だ?」厳しい声……まるで、大人の男の人のような。そして、真っ青になっていた顔。あの一瞬だけなら、惚れ直していたのにな、と思う。
(でも、なんであんなに驚いたんだろう?)
「鹿子、鹿子、始まったよ」
「う、うん」
 咲子に促されて、鹿子は画面に意識を戻した。
 主人公らしい青年、さえない風を装っているが元々見栄えのいい役者を使っているので、どうして彼が周囲に認められないのか、よくわからない。それから、相手役の女性。優しい仕草だが、ところどころに険悪なものが見えて、そのうち主人公を裏切りそうだ。
 そんなことを考えていると、二人が薄暗いトンネルで揉め出した。
(あ……まずい……)
 鹿子は眉をしかめて、画面から視線を落とした。
 だが、物語は一番展開がショッキングな所に来ているらしく、どうしてもそちらに目が引き寄せられる。画面の中で暗闇とオレンジの明かり、人が蠢く白い点がちらつく。
 微妙な息苦しさを感じ始めた。
「鹿子……? やっぱり駄目……?」
「……ごめんね……ちょっと外に出てる」
 事情を知っている咲子が察してくれた。
「うん……こんなシーンあるなら、やめときゃよかったね」
「いいよいいよ」
 ゆらゆらする足下を何とか踏ん張りながら席を離れる。
 なぜかは知らない、いつ始まったのかも覚えていないのだが、鹿子にはどうしても見ていられない光景というものがある。
 それは、暗闇にオレンジや白が動く光景だ。
 その光景を見ていると、妙に息苦しくなって目を開けていられない。
 だから、遠足などでバスでトンネルを通ったりする時も、いつも目を閉じ、ひたすらトンネルが過ぎてくれるのを待ったものだ。
(変な癖、だよね)
 ロビーに出てジュースを買った。
 ソファに腰を降ろして溜め息まじりにストローをくわえる。
 強いて言えば、その時の感覚は『怖い』という気持ちに近い。
 でも、なぜ怖いのか、何が怖いのか、と聞かれると、どうにも答えられない。
 それはお化けや幽霊といったはっきりしたものでないだけに、考えることすら不安になる。
「ふう…」
 咲子に悪いことをした。
 吐息をついて目を上げ、鹿子は体を凍りつかせた。
 正面の観客席からドアを開いて出て来る二人、見間違えるはずもない、あの『炎』と『瞳』だ。
(どうしてこんな所に)
 今は真昼、羨望するように周囲が振り返っているから、鹿子一人の妄想でもないのだろう。
 食い入るように二人を見ていた鹿子は、突然肩を叩かれて飛び上がった。
「鹿子」
 声になお驚いて振り返る。
 すすむがしゃらっとした顔で笑いかけている。
 視界の端で、例の二人が自分達が呼ばれたように同時に振り向いたのに、わけもなくうろたえた。慌てて立ち上がり、すすむの手を取る。
「鹿子?」
「行こう、すすむ」
「え…だってさ……咲子ちゃん……」
「あ…」
 すすむに言われて初めて気づき、自分がどれほど慌てているのか知った。
(なぜ)
 自問した答えは無意識に『炎』と『瞳』を振り返ってわかる。すすむが鹿子の視線を追って、ロビーの向こうにいる二人を見つける。
「? 何だろ……あいつら…?」
 不思議そうな茫洋としたすすむの声に、ひやりと背筋が竦む。
「VAKU……」
 囁くような声、けれどもそうはっきりと二人の唇が動いた気がして、鹿子は焦った。
(まずい)
 でも、何が?
「す、すすむ、こっち」
 自分の中に沸き起こった疑問を押しやり、すすむの手を引っ張り、強引に咲子の座っている所にとって返す。背後から忍び寄ってくるように、『炎』と『瞳』がついてくるのを気配で感じた。
「鹿子…?」
「咲子、ごめん……すすむ、ここで見てて」
「ここでって……えー……鹿子ぉ」
「ちょっと鹿子」
 訝しげに声を返す二人に周囲から怒りの呟きが上がる。それらを振り向きもせず、自分の居た席にすすむを押し込み、身を翻して見張るように壁際に立っている二人の方へ歩み寄った。
 鹿子の動きに、いい加減にしろよ、と詰る声を後ろに、『炎』と『瞳』の前に立つ。
「あなた……」
「VAKUの仲間か」
 『炎』の目に浮かんだ警戒と『瞳』の顔に広がった敵意をまともに受け止めて、鹿子は低い声で唸った。
「話したいことがあるの、付き合って」
 映画館を出て、細い路地を右手に曲がっていくと、ごみごみした街の中にぽかりと開けた空間がある。ゆとりと潤いのある街にする、とかで、その辺りにあった小さな店をいくつか整理して作られた小公園だ。
 だが、今、石畳の丸い空間には、あちらこちらにファースト・フードの食べ残しやチラシ、わけのわからないゴミなどが散らかり、とてもじゃないが『憩いの場所』とは言い難かった。
 その隅の方にある細い木の下、やはり石造りのベンチがある所に、鹿子は『炎』と『瞳』を誘導した。
「ここなら、いいか。派手に言い合っても誰にも迷惑かかんないし」
 一人つぶやいて、鹿子は振り返った。
 黙々と後ろからついてきた二人は、元々きれいな容姿に昼過ぎの日差しを浴びて、きらきらとどこか透けるような儚さで立っている。鹿子の正面に立つ『炎』とそれを守るかのように彼女の後ろに立つ『瞳』の姿は、それだけで王子と王女の物語を思い出させる。
 鹿子は、何が起こったかも知らないで、今頃咲子と映画を見ているだろうすすむを思って、少し溜め息をついた。
(こんなことして、何になるんだろう)
「……この前の夜は、ただの通りすがりだと思ったのだけど……そうではなかったようね」
 『炎』がゆっくりと桜色の唇を開いた。
 無言で鹿子を射すくめるように見ている『瞳』をあえて無視して、鹿子は首を振った。
「ううん、やっぱり通りすがりだと思う」
「でも、VAKUを知っていた」
 追うように、否定させない強さを込めて、『炎』がことばを続ける。黒い髪の下、黒い目がじっと鹿子を見つめている。彼女の片手が翻らないことだけに注意して、鹿子は応じた。
「あたしにはわからないことだらけだわ。あの夜の質問、もう一度尋ねる。あなた達は何者なの? どうしてここにいるの? ………すすむとどんな関係があるの?」
「………わたし達は『ーーーー』だ」
「…何?」
 一瞬、『炎』のことばがもやもやと揺れて聞こえ、鹿子は慌てて聞き返した。
 相手がふ、と悩ましく息をつき、ゆるやかに首を振ってみせる。
「あなた方には発音できないし……その概念もないと思うわ。……そう、一番近いことばで言えば……環境保護監察者…ね」
「環境……保護……?」
 鹿子の頭の中に『地球に優しい』というキャッッチフレーズが過った。
「ベンチに座りましょう……わたし達はあなたに危害を加える気はない…………ただ、不良なVAKUの調査と処理が目的なのよ」
 『炎』は鹿子を促して、ベンチに腰を降ろしてみせた。『瞳』がすうっと影のように移動して、姫君に仕える従者よろしく再び『炎』の背後を護る。
 鹿子は少しためらった後、半分『炎』に体を向けるような形でベンチに座った。
「始めに、今まで学校で習った事、本で読んだ事、全て白紙にして聞いてちょうだい。この世界が物質である、ということを忘れて欲しいの」
「物質である、ということを忘れる?」
 鹿子は無意識にベンチを撫でた。
 その仕草を見て取った『炎』は、何度か頷いて、同じようにベンチを撫でた。
「そう……ここはひどく『頑丈』にできてるわ。きっと、住んでいるものが物質だと信じ込んでいる率が、異常に高いんでしょう。でも、これは、本当はこれほどしっかりした物じゃない。ここにいるものの意識が固まって、そう見えているだけなの。だから、こんな事もできる」
「ひゃ…」
 鹿子は上げかけた悲鳴を必死に呑んだ。
 『炎』がいきなり鹿子の手首を掴んだかと思うと、そのままずぶりとベンチに押し込んだのだ。石のベンチ、なのに、何の抵抗もなく鹿子の手は『炎』の手に握られたまま深くめり込んで、痛みさえ感じない。体を震わせている鹿子に、どこか優しい目を向けて、『炎』は鹿子の手をベンチの中から引き上げた。
 慌てて自分の手を取り返し、そっともう一方の手で摩っている鹿子に、
「この世界は、始めからこのまま存在しているんじゃない。ここにいるものの意識………わたし達は『記憶』とも呼ぶけど……そういうものが集まって、共通した世界を作り上げているの。そう、別のものの目からみれば、網のような意識の固まりなの。その中にあなた達がいる……」
「で…でも……だって……ベンチは……これは……石よ? ……だって………」
 鹿子はおそるおそる指先でベンチを突いた。指が硬い感触を伝えるのに安心して、ぱんぱん、ことさら叩いてみせる。
「ほら、どうにもならない。石、だもの! 人の手、なんか入らない!」
「そう、考えているからね」
 『炎』は首を傾げて鹿子を見た。深い深い目の色で諭すように続ける。
「それこそ、ずっと小さい頃から、そう、考えたでしょ? 覚えている限り、石は硬い、って何度も教えてもらったから。誰も石が指で貫けるほど柔らかいって教えなかったから。でも、それは正しいの。皆が共通する『記憶』を持たなければ、この世界は今すぐ崩れさっていくから。ここの者は賢かったわね………心の深みを考える前に、周囲の環境について『記憶』を固めておいたから、精神文明が発達し始めて、VAKUが不良でも、何とか今まで保ったんだもの」 
「VAKU……」
 与えられた知識を必死に理解しようとして、鹿子は少しでもわかりそうなことばにしがみついた。
「そう。世界はそこにいる者の『記憶』で構成され、変化していく。始めはそれには気づかない。けれども、そのうち、それに気がつくようになってくる。そうするとね、世界に小さな綻びが出来始めるの。石は柔らかいかもしれない。空気は固めてボールのように投げられるかもしれない。遠く離れた所へも僅か一歩で行けるのかもしれない」
 『炎』は静かに瞬きした。
「そんなことをたくさんの人が一斉に考え出すとどうなるのか」
 答えを待つように口を閉じたが、もちろん鹿子に答える術はない。 
「それは、一方では精神文明の始まりなんだけど、もう一方では今までの世界最小単位まで壊してしまう危険を含んでいる。変化はゆっくり行われてこそ、進歩に繋がるの。数時間で生物が海から陸へ進化するわけにはいかなかったように、急激な変化は滅亡しかもたらさない」
 『炎』は哀しそうに笑ってみせた。
「だから、物質文明から精神文明に移行しようとする世界は、その破滅を防ぐため、その中に生きる者の中から、必ず『VAKU』を産み出すの」  
「VAKU……って、あの……夢を食べるばく、と同じ?」
「ああ、ここにはそういう話が伝わっているのね」
 『炎』はほっとしたように呟いた。これから話すことの面倒さを少しでも減らせる、そう思ったようだ。     
「そうなの。正常なVAKUは、急激な精神文明への移行を食い止める。石が柔らかい、空気を丸められる、そういった発想を、あなた達の言う『夢』として体に引き込み、VAKUだけが持っている放出口から世界の外へ出してしまう。全部、じゃないわよ。世界が一気にひび割れてしまわないように、ほんの僅かな『夢』を残して、ね。そうして、ゆっくり世界を変えていけるようにするの。でも……」
 一瞬、『瞳』の方に視線を投げて、
「ここは今にも弾けそうになっている。世界を作っている『記憶』がひどく緩んでいて、あちらこちらに穴が開いている。もっとひどいことに、……わたし達にとって、わけがわからないことに、VAKUは『記憶』を引き込み続けているみたいで、その世界の穴から、時間を越えてまで『記憶』を貪ってしまっている」
 『炎』は考え込んだ目の色になった。
「それがどうにもわからない。……VAKUは、なぜ、ここの『記憶』をちゃんと処理しないんだろう。『記憶』をどんどん引き込んでいるのに、どうしてそれを放出しないんだろう?」
「方法を……知らないんじゃないの?」
 鹿子のことばに『炎』は首を振った。
「そんなことはあり得ない。わたし達がこの役目のためにいるのと同様、VAKUはそのためにここにいるはずだもの。それこそ無意識にでも処理出来るはずなのに………それができないのは、VAKUの構造に何か問題があるのか、それとも、ここがVAKUの介入を許さない別のものに支配されているのか……。でも、構造に問題が起こったのなら、なぜ改善しないのか…そのままでいることはVAKUにとっても決して楽なことではないはずだし」
「VAKUにとっても楽じゃない?」
 どきりとした。
「それって………苦しい、ってこと?」
「まあ…ね。本来は『記憶』……それこそ、悪夢に近い『記憶』を引き込むのも、放出できるからだし………放出できない『記憶』はVAKUの体の中に溜まっていくばかりだから……かなり苦しいはず……」
 鹿子の脳裏に、いつもだらだらと寝そべってばかりいて、ろくろく動こうともしなかったすすむの姿が浮かんだ。それは今まで、毎日のように浮気相手といちゃいちゃしているせい、とばかり、鹿子は思っていたのだが。
「すすむ……」
「『炎』」
「うん?」
 鹿子は唐突に声をかけてきた『瞳』を見上げた。『炎』の話に夢中になって、ついついその存在を忘れていたが、陰り始めた陽のせいだろうか、彼はひどく薄っぺらく見えた。 
「時間を取り過ぎた。VAKUが『記憶』を引き込んでいる」
「む!」
 はっとしたように立ち上がる『炎』、その後ろで『瞳』はますますゆらゆらと現実感を無くしていく。つられて立ち上がった鹿子は、『瞳』がそのまま風景に溶けいるのに目を見開いた。
「先に行くぞ……ひどくまずい……誰か『記憶』を流し込んだ奴がいる………実体化しきってる……『アンモナイト』だ」
「わかった」
 『瞳』が姿を消すのと同時に『炎』が走り出した。うろたえて後を追う鹿子に、『炎』がちらりと振り返り、短く言った。
「来ない方がいい」
「どうしてよっ、向こうには、咲子やすすむがいるのよっ」
 追いすがって声をかけると、相手は惑うような表情になって呟いた。
「だから」
「だから……?」
 あ、と鹿子は声にならない叫びを漏らした。
 さっきの『炎』の話の中で、彼女は不良なNAKUの処理をする、と言っていた。
 もし、すすむがそのVAKUであったなら。
 姿を消した『瞳』や走り続ける『炎』が狙うのは。
「だめ……行かないで!」
 鹿子は絶望的な叫びを上げた。
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