『そして、別れの時』〜『猫たちの時間』13〜

segakiyui

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9.月下魔術師

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「……」
 周一郎はまた額に汗をかいていた。傷のせいか、精神的ストレスのせいか、とにかく、かなりの熱があるのは間違いなかった。俺はもう一度熱を測ろうと、体温計を取り上げた。さっきが39℃、汗をかいて少し下がってくれりゃいいんだが……。
「う…ん……」
「…周一郎?」
「い…た……」
 ぐっと眉を顰め、呟いて、唐突にポカリ、と周一郎は目を開けた。開けた瞬間、澄み渡った眼で俺を認めたのか、少し笑って確かめる。
「…滝……さん……?」
「わかるか?」
「うん……そうだと思…た…」
「そうだと思った?」
 ぼんやりと応じて周一郎は笑みを深めた。鸚鵡返しの俺のことばに頷く。
「よく…眠……ってたでしょ…う…?」
「俺は睡眠薬か?」
 ふてる俺にくすっと笑い、傷に響いたのか辛そうに眉を寄せた。表情一つ一つが目を奪うほど素直で邪気がなかった。じっと俺を見つめ、問い掛ける。
「ぼく………たれた…?」
「ああ。あの予告状の奴かな。ったく、日を間違えるなら、予告状なんか出すなって言うんだ」
「違う…」
 僅かに切なげに、周一郎は囁いた。
「ん?」
「予告状……違う……小木田…だ。小木…田…利…和…」
「小木田源次とかの長男だろ。どこが違う?」
「違…うんだ……………ルト……帰…てき…た?」
「もうすぐ帰ってくる。……どうして、あんなことをした?」
「え…?」
「『ルト』を、どうして使った?」
「……」
 答えずに周一郎は笑った。無防備に、何の照れも飾り気もなく、戸惑いさえも消し去って。
「俺の…ためか?」
 小木田利和が、俺まで狙うと知らせてきたのはかなり前だった。だからこそ、いつかの夜、俺が椅子の脚かなんかに引っ掛かってこけた日に、周一郎は青くなって飛んできたのだろうとお由宇は言った。てっきり、俺に何かあった、と思って。
「違います」
 きっぱりと周一郎は言い放った。が、一瞬前、意固地な表情が浮かんですぐ消え、俺は十分にことばの示すことを悟っていた。
「バカが」
 コン、と頭を軽く叩く。
「俺よりもお人好しなんじゃないか、お前ってのは」
 もう一度。……コン。
「…………」
 周一郎は黙ってまま、それでもひどく嬉しそうに笑った。
「貶されて笑ってる奴がいるかよ。自分の状況をわかってないな?」
 声に籠った心配を読み取ったのだろう、瞬時にして、周一郎の表情が大人びた。笑みが消える。瞳の輝きが沈潜する。僅かに伏し目になりながら、
「大丈夫です」
「今、厚木警部が連れてくる」
「そうですか」
 答えて周一郎はすっと目を走らせ、戸口にいるお由宇を見つけ出した。そのまま何か、俺にはわからない会話が交わされたらしい。
「……いいの?」
 お由宇がぽつりと尋ねた。ゆっくり、周一郎が頷く。
「そう…」
 お由宇の声が憂いを帯びる。
「世紀の大魔術、と言うところね」
「演出さえ良ければ」
「脚本には自信があるらしいわね。でも……本当にいいの?」
 お由宇には珍しい、案じるような声音だった。にっ、とどこか不敵な笑みが、周一郎の頬に広がる。
「らしくないですよ。それに…」
 チラッ、と周一郎は一瞬俺を見たようだった。それも、この上もない、極上の優しさを込めて。
「嫌われてもいいんだ」
「……周一郎………」
 お由宇が呆気に取られた顔になり、やがて苦笑しながら首を振った。
「……敵わないわね、全く……あなたが味方になった人間には」
 最後の方は、俺に向けられたものらしい。
「は?」
「誰も彼もが、自分の事お構いなしになっちゃって」
「え…?」
「そろそろ、本人も自覚して欲しいもんだわね。でなきゃ、この世の中に『お人好し症候群(エンジェル・シンドローム)』が蔓延しちゃう」
「お、お由宇…?」
 えんじぇる・しんどろーむ? なんだ、そりゃ? 新しい病気か何かか?
 訳のわからぬ俺に、戸口を出ようとしたお由宇は、突然振り返った。薄い、けれど艶やかな笑みを浮かべて、軽く頭を下げる。何事だと訝る2人の刑事を尻目に、芝居がかった口調で、
「さて、皆様」
 左右を見回す真似をして見せる。
「長らくお楽しみ頂いたこの心理推理劇も、どうやら幕切れに近づいて参りました。然るに、謎はそのまま、登場人物の行く末もわからぬとあっては、さぞかしご覧の皆様の後味も悪かろうと存じます。そこで不肖、佐野由宇子が少々中国魔術をお見せしようと考えております。つきましては、貴重なお時間を拝借、下拵えと手管の仕上げをして参りたいと存じます」
 お由宇はにっこりと唇を笑み綻ばせた。もこもことした淡いブルーのセーターとスカート、白い手が手品師のように左右に広がる。
「何が飛び出しますやら、それは後ほどのお楽しみ……日時は明晩、所はこの家(や)の玄関ホール、助手に高柳慈を迎えますれば、皆様のご期待に添えますよう尽力致すつもりです。何卒、多数のご来場を、心よりお待ち致しております」
「……」
 俺は口を開けてお由宇を見ていた。ひょっとしてどこかネジが弾け飛んだのかと思ったが、そうではないことは眼でわかる。猛々しいと言ってもいいほど鋭い瞳……それを瞬時に笑みに紛らせ、お由宇は再び深々と礼をした。そしてくるりと背中を向け、音もなくドアを滑り抜けて行った。
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