『そして、別れの時』〜『猫たちの時間』13〜

segakiyui

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5.青の恋歌(マドリガル)

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 カチャ…。
 1階左翼端の部屋のドアは、軋むこともなくすうっと開いた。
「やっぱりここは使ってなかったンですね」
 先に立って中に入った浅田が独り言のように呟く。俺は、引き寄せられるように一歩中へ入って尋ねた。
「ここが…何だって?」
「『お宅』の部屋だったンです」
「!」
 パチンと言うスイッチの音と共にシャンデリアが眩く輝いて部屋を照らし出し、俺は息を呑んだ。
「お宅……ですよ」
「…」
 柔らかな浅田の声に押されるように、長い毛足の絨毯の上へ踏み込んでいく。
 入った正面に濃い緑のビロードのカーテン、落ち着いた部屋の調度は焦茶と緑で統一され、右の壁には本物の暖炉……だが、そんなことはどうでもいい。
 俺の眼と声を奪ったのは、暖炉の上、左の壁、入った内側の壁、壁という壁を埋めている子どもの写真だった。どれも1歳前、多く見積もっても2歳にはなっていないだろう男の子で、芝生の上で転がったり、ビーチボールに抱きついていたり(押しつぶされているように見えないこともなかったが)、誰かの手にしがみついてかろうじて立っていたり、積み木を齧っていたり……どれもこれもが、笑い声が聞こえてきそうなほど無邪気だ。その写真、大切そうに一枚一枚、木彫りの枠に収まっているその隅に、女性が書いたと思われる綺麗な文字のカードが必ず入っていた。朗、4ヶ月……朗、1歳2ヶ月……。
「…俺、か……」
「義父(とう)さ……いや、多木路氏はこまめな性質(たち)でね、初めて生まれた男の子を愛おしんで、愛おしんで、写真を撮ったンですよ。夫人が木彫りの額を作って、写真を入れて、こんな風に飾って、いつかここでは足りなくなるね、なンて話しながら……けど、お宅の姿が消えたのは、それから数ヶ月後、多木路夫妻が車の接触事故に巻き込まれた時だった……」
 浅田は静かに話し出す。
 生まれて1歳と少しの俺は、その時、母の膝に抱かれて眠っていた。その日は珍しく運転手に休みをやり、多木路氏は自分で運転して、この別荘へ来る途中だった。多木路家からここまでの道中には崖っぷちを走る道があり、注意して車を走らせていた多木路氏はそろそろ崖も終わりという角を曲がった途端、暴走してくる1台の車に気づいた。危ないなと思った次の瞬間、向こうの車が左の聳り立つ岩肌に鼻先を擦り付けるのが目に入った。回転しながら突っ込んでくる車、悲鳴と怒号、とっさにハンドルを切った多木路氏に、夫人は一瞬子どもを抱いていた手を離し……病院に運び込まれた2人の手に、ついに俺は戻らなかった。
「………」
 浅田の声を背中で聞きながら、俺は一番隅の方にある写真に目を吸いつけられた。
 いつ、の写真だろう。
 大学の中だ。俺が友人と話しながら歩いている。カッターシャツにジーパンの軽装、ばさばさの髪、おそらくは振り返った一瞬のスナップ。だがその写真もまた、凝った造りの額縁が包み、隅に小さなカードが入れられている。
 朗、26歳。
「夫人は三日三晩泣き明かしたそうですよ。なぜあの時、手を離してしまったのか……なぜもっとしっかり抱きしめていなかったのか…と」
「…これ、は?」
 柄にもなく熱くなった目頭に、慌てて俺は話題を逸らせた。
 入って左手の壁に取り付けられた棚の上に一つ、少女の写真が置かれている。壁を飾る額縁と同じ女性の手によるらしい、繊細な木彫りの写真立ての中、18、9と見える少女の笑顔があった。肩を過ぎるストレートのロングヘア、両脇で後ろに結い上げ、白いリボンを結んでいる。白いレースのワンピースに木漏れ日が踊り、鮮やかな緑を背景に、清楚で可憐なイメージだ。
「千…夏、……です」
 浅田の声が少し震えた気がして、俺は振り返った。戸口に立った浅田が顔を背けながら、
「お宅の…妹、ですよ。お宅にずっと会いたがっていたンですが……2年前に死にました。あンまり丈夫……じゃなかったンです。そう長くないって言われてて……それまでに会えるといいわね、なンて……バカなことを言ってたン……ですが…」
 途切れる口調に、ふと頭の中に何かが閃いた。
「恋人は?」
「…いた……よう、ですが…」
「あんた、か?」
「……」
 答えずに浅田は銀縁眼鏡を押し上げた。
 浅田は2歳の頃に引き取られたと言う。千夏が生きていれば20か21歳、浅田とは5、6歳の差、ずっと一緒に暮らしてきて、恋を感じても不思議はないだろう。
「………多木路、国彰、だろ、本名」
「……」
「どうして、浅田って名乗った?」
「…単に……気まぐれ…ですよ」
 俺は写真に目を戻した。
 注意してみれば、千夏の写真も所々にある。だが、浅田の写真は一枚もない……酷いことをするものだ。静かに抱えていた、千夏への想いがあったのなら尚更、多木路姓を名乗りたくとも名乗れなかったんじゃないか、こいつは。
「…っあ」
 ガチャン!
 鼻水が垂れそうになって慌てて手を上げた際に、千夏の写真立てに手が触れた。棚から落ちて鋭い音をたてて割れたかとひやりとしたが、外れたのは後ろだけのようだ。
「…ああ、よかった…………ん?」
 しゃがみ込み、拾い上げかけて、写真の裏から少し黄ばんだ封筒を見つけた。表には一行、こう書かれている。
『朗お兄ちゃんへ』
「!」
 俺は急いで封を切った。浅田も気になったのだろう、急ぎ近づいてきて覗き込む。まん丸っこい幼い文字で、薄水色の便箋中央に一言だけ、書かれている内容は。
『遅かったじゃないの!』
 会った事もないが、込められた優しさとユーモアに思わず微笑む。間違いない、この子はいい娘だ、本当に。人生の最後を見据えていても、軽くむくれてみせる可愛らしさを無くしていなかった。
「…千夏……」
 浅田が掠れた声で呟く。俺はもう一度、写真の少女を見つめた。少女は笑う、四角い空間の中から、無限の許しを込めて。間に合わないだろう、それでもこうやって、見たことのない兄に微笑もう、そう決めているように。しっかりとした視線が眩かった。
「…間に合わなくて…すまん。悪かったよ」
 謝って、俺は写真立てから写真を抜いた。人形のように棒立ちになっている浅田の手を掬い、掌に乗せてやる。ぼんやりと顔を上げる相手に、
「写真は持ってるのか?」
「…あ……いや……」
「じゃあ、やるよ。俺はこっちをもらうから」
 浅田の肩を叩き、手紙をポケットに仕舞い込む。憎まれ口が大好きな身内には慣れている、今更一人も二人も同じことだ。
「来いよ。まだ話があるんだろ」
「…あ」
 はっとしたように頷く相手を促し、部屋を出る。
(家族、か)
 心の中で、そのことばを噛み締めた。
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