『アシュレイ家の花嫁』

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11.世界

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『四隅に散りて花を与えん』



「ひ…」
 意識が戻ったその瞬間、マ-スは身体の中から音をたてて血が引くのを感じた。
「いや…だ…」
 無意識に漏れた自分のつぶやきを聞き取って既にべっとりと汚れた身体の中心が竦む。だらっと垂れた右腕から申し訳程度にひっかかった薄物、身体の前でかき寄せ握りしめる左手が震えてぱたぱたと胸に当たる。
 屋敷の奥深くとは思えないような鍾乳石の広間だった。
 壁に取り付けられた燭台が並び、煙をあげながら燃える蝋燭の匂いが満ちている。ちらちら動く火が奥にある舞台を、突き立てられたどす黒くてらてら光る一本の棒を、絡む蛇のような数本のロープを、そして、舞台前の広間で静まり返っている数十人の人間を照らす。
 その『観衆』が、扉から入ってきたマ-スと、彼を引きずり上げ押し立てるラピドリアンを一斉に振り返る。期待と興奮に光る眼は、15歳の『祭』の悪夢を思い起こさせる。
「いやだ……」
 マ-スは身動きできない身体をよじった。がくがくと膝が震え、ただでさ薬で動けない身体がますます身動きできなくなる。
「やめて…くれ……」
「どうした……何か思い出したのか?」
 左側の耳元でラピドリアンがねっとりとした声でつぶやいた。
「いや……だ……」
「ああ、似ているだろう。前の『祭』と」
 こともなげにラピドリアンがことばを続けて、マ-スは凍った。
「15の時だったかな? あのときは、お前も夢中だったじゃないか?」
「いや…………っ!」
 翻そうとした身体をあっさり担ぎ上げられ、しかも折れた右腕を手酷く殴られて声を失った。

 15歳のときの『祭』は酷かった。
 12歳の『祭』を耐え抜いたことは運命の惨さを思わせたが、自分の驚異的な能力を確認もさせた。傷つけられ痛めつけられても、すぐに回復する身体は、慣れさえすれば、痛みもするすると蒸発するように消していく、という経験もした。傷つけられることは辛かったけれど、毎夜繰り返されることで次第に耐性もできてくる……そういう身体のしたたかさも学び始めていたころだった。
 けれど、その『祭』は。
 夕食に薬を盛られたと気づいたのは、食後、『祭』のために着替えている最中のことだった。服を脱ぎ捨てシャワーを浴びる。シャワーの水の感触を妙に強く感じて、首を捻りながら水流を弱めたのに、その弱めた水が身体を流れ落ちるのに呼吸が乱れて異変に気づいた。
(なに…?)
 身体を震わせながら自分の変化を感じる。一人で立っていられない。足元がふらつく。喉が乾いて、呼吸が速くなる。頭に霧か霞がかかったように考えがまとまらない、のに、感覚だけはタオルが触れるのさえ堪え難いほど鋭くて。
(なに?)
 知らないわけではない、その感覚が、けれどどうして今生まれてきて、しかもとめどなく増殖しているのかわからずに部屋に立ち竦んでいるところを、マージに襲われた。
 抱きつかれ、押し倒され、首筋に強く噛みつかれ背中を吸われて、それだけでもう、意識が吹き飛びそうになる。それでも恐怖半分で抵抗していると、突然現れたラピドリアンに右腕をねじ上げられて引き倒された。めき、と肩で嫌な音がして激痛が走り、悲鳴を上げたはずなのに、なぜかその声が信じられないほど掠れて柔らかく聞こえ、マ-スはぞっとした。
 マージが唇を、手を、指を、マ-スの身体に這い回らせる。鋭くなった感覚が十分開いて全てを拾うのを、それに耐え切れなくて身もがくのを、ラピドリアンは醒めた眼で見ながら指示していた。「まだくり返せ」「そこには触れるな」
「大丈夫だ、もっと深くまでかまわない」。
 自分の喘ぎが何度か響くのを遊離し始めた意識で聞きながら、白く弾ける一瞬を潜った。潜りぬけても終わらない感覚の暴走を悲鳴を上げながらなお煽られ尽くし、起きているのかそれとも全てが夢なのかわからないままに、中庭に連れ出された。
 今でも覚えている。ざわめいていた群集がマ-スを振り返ったときに息を呑んだ気配。極上の逸品が食卓に供された、そんな囁きが漏れていた。「できあがっているようだ」とくすくす笑う無遠慮な声。「もう準備もすませて」とつぶやく声が妙な熱を帯びていて。「さあ、では頂こうか」。
 縛りつけられた時、ぼんやりと顔をあげると、遠くにクリスが居るのが見えた。大丈夫だといつものように笑いかけたつもりだったけれど、立っていられないほど身体がだるくて熱っぽくて。けれど、崩れることはできなかった。手前に居た男にやにわに顎を掴みあげられ、喉に食らいつかれた。無防備に開いた腹に突き込まれた剣の衝撃が走って、悲鳴をあげかけた口を誰かに塞がれた。手をねじ上げられ下肢を握られ、内臓と肉を点検するかのように広げられ、指を突っ込み確かめられ、上げる悲鳴に笑い声と呻き声が応じていく。無数に切り裂かれる痛みにはもう感覚はついていかず、なだれかかる人の手と口に、全てを奪われ持ち去られた。
 最後にマ-スを貫いたのはラピドリアンだっただろうか。
 ずたぼろになった身体がいましめから外されて抱きかかえられ、その後で、群集が見守る中で背後から一刺しにされた。絶叫したつもりだったのに、声がもうでなかった。血に塗れた唇を開いたとたん、ずぶりと腹から剣先が突き出るのが目に入り、抜かれ、また貫かれ、その剣にぼたぼたと口から吹き零れた血が落ちた。何度か繰り返されるうち、剣を濡らしているのが自分の吐いた血なのか、それとも内側を満たしていた血なのかわからなくなってしまった。
 それからずっと背後に回られると気持ちが竦み身動きできなくなる。

(同じ右手、同じ薬、同じように貪られて運ばれて…!)
 その重なりを認識すると、意識が濁った。
(感じるな)
 身体の中で剣が蠢き、生き物のようにのたうちながら血肉を引き裂いて出入りする感触。
(カンジルナ)
 ことばがどんどん形をなくす。どこにも届かない悲鳴をあげても仕方がない。
(ココロヲ……トザセ……)
 それでもがたがた身体が勝手に震えている。歯が高い音をたてて鳴っていて、口の中を傷つけたのだろうか、血の味が広がる。
(オナジ…)
 閉じていられなくなった口からたらたらと温いものが零れた。けれど、視界は曇らない。涙は零れない。ただべたべたとした汗が身体を濡らしていく、際限なく震え続ける身体を。
(オナジ……)
 周囲から熱気が押し寄せてくる。15歳の時と同じ暗く激しい欲望の吐息。
「は…」
 舞台で降ろされ棒にもたれさせらると、身体が跳ねてびくびくと動く。大きく開いた目を閉じることができずに、息を呑んで見守る群集と向かいあう。
「……っ!」
 ふいに強く右腕を背後に引かれ、仰け反った。晒した首にロープが巻きつけれて棒に固定され、喉が詰まる寸前でわずかに緩められる。
「ああ、右手は大丈夫だな、縛らなくても」
「ああっ」
 右腕を乱暴に放され身体に叩きつけられて悲鳴が喉を突いた。その隙に左手を背後に縛り上げられ、押さえられなくなった薄物が前ではだけて揺れ開く。
「ほ…ぅ」
 群集が微かにざわめき吐息を漏らした。
 崩れそうになる足を各々に棒に固定され、なおかつ付け根に強くロープをかまされて、身動き一つできなくなる。肌を擦るロープが痛い。食い込む力が苦しい。
「お集りのみなさま」
 ラピドリアンが群集に向かって声を張り上げた。
「今宵の『祭』をこのような形で行なわなくてはならないことをお許し下さい。みなさまもご存知のように、当主マ-ス・アシュレイが聖なる定めを怠り汚し、おかげで我らはしばし人の歴史より姿を隠さねばなりません。我ら天空より降り立ちこの地に囚われた神の子孫たる存在が、醜く浅ましい身体に未来永劫縛りつけられる責め苦を耐えるための『祭』を、愚劣なるこの地の生物が生き長らえるために利用しようとしております。今宵の『祭』はしばしの別れの宴となります……よって」
 ふ、とすぐ側にラピドリアンの姿が現れた。ぼんやりとそちらを向くマ-スの顔を片手で掴む。
(オナジ……)
 ぞくっと冷たいものが背筋を走り上がってマ-スは我に返った。縛りつけられた身体と対照的にだらっと垂らされたままの右手を拾われ、握られ、そのままずるずると掌を肩へ滑らされる。
「う……あっ……ああ……ぐっ…」
 折れた骨の部分を撫で摩られて声を上げると、開いた口から零れていた血を舐め取られた。そのまま口の中の血まで吸われて吐き気が込み上げる。吹き出た汗が身体を濡らし、額を頬を流れ落ちていく。意識が朦朧と霞みかけたとき、
「っ!」
 どすん、と重い衝撃が腰に砕けた。腰を鋭い痛みが押し広げ抉り込んでくる。跳ね上がった身体を押さえつけられ、なお突き込まれて悲鳴が止まらなくなった。意識が限界を越えて引千切られていく。
(オ…ナジ……)
「っあ………あああっ……ああああ」
 掠れた声を上げるマ-スの耳元で、まるで言い聞かせるようにラピドリアンが笑った。
「どうか存分に……楽しまれよ」

「あれ?」
 不思議に穏やかな空気に満たされてドライブから戻ってきたクリスと芽理は、アシュレイ家に繋がる道に立っている人影に気づいた。
「水尾さん?」
「よう……二人で…?」
「誤解はなしだよ、水尾さん」
 クリスが運転席から笑いかけた。
「僕は今めいっぱい落ち込んでるんだから……芽理に叱り飛ばされてね」
「紫陽くんに?」
「いえ、あの、違うっていうか……でも、どうしてこんなところに?」
「いや、どのあたりまで揺さぶれたかと敵状視察」
「敵状視察?」
「水尾さんはね、芽理」
 クリスがひんやりとした薄い笑みを広げた。
「君が渡したタオル? あれを分析した医学データを不老不死の研究機関にばらまいてくれたんだよ。おかげで、今年の『祭』はできなくなるかもしれない」
「ほんと?」
(じゃあ、ひょっとするとマ-ス、助かるかもしれない?)
 微かな希望が湧いて、芽理はクリスと水尾を交互に見た。へら、と中途半端な笑い方をした水尾が、
「そうか……じゃあ、思ったよりもいい効果があったんだな? 実際、あれを分析したやつがかなり焦ってたよ、このサンプルはどこで手に入れたんだ、まだ専属の機関は決まってないだろうな、と」
「幾つかの国家と軍部から接触があった……全く、とんでもないことをしてくれて。あんなものが軍事利用されたりしたら、僕らがどうなるかって想像しなかったのかい?」
「ひと昔前ならな」
 水尾は無精髭にしたたかな笑みを乗せた。
「国家機密だのスパイ合戦だのややこしくなってただろうけどな、お前さんの考えるより世界はずっと速く進んじまってて、オープンする範囲が広ければ広いほど、国家レベルでどうこうできるものなんてなくなっちまったんだよ。不老不死に関する分野、いわゆる再生医療分野は巨大企業の範疇だ。ここで物を言うのは国家じゃない、経済なんだよ。経済的にペイするかどうかで軍事産業の方針も変えざるを得ない。そして、経済を仕切るのは軍人じゃない、商人なんだ。思想もイデオロギーも経済の前では押しつぶされる。単純で簡単な図式になっちまったんだ」
「困った人だ」
 クリスは満更そうも思っていないように、笑みを返した。
「この後、僕らはどうすればいい?」
「さあな。まあ、どこを向いても売り手市場だ。一番効率のいいところと手を組んじまうのが賢いだろうな」
「御忠告感謝するよ。……家に行くんだろう? 乗っていくかい?」
「ああ」
 水尾は戸惑った顔で後部座席に滑り込んだ。
「前からお前、そうだったか? マ-スの話ではもうちょっと甘い感じだったのにな。なんかえらく荒れてるみたいだけど?」
「荒れも……するさ」
 車を発進させながら、クリスは苦い笑いを押し上げた。
「自分のやってきたことが、全部間違いだったとわかったなら」
 辛そうに眉をしかめると、
「取り返しが……つけばいいんだけど」
「ふうん?」
 水尾は訝しそうな顔になったが、
「ところで……屋敷が静まり返ってるのは、じゃあ、『祭』が中止になったせいか?」
「え?」
 ぎくりとしたようにクリスが振り向いた。
「実は一度屋敷の方に行ったんだが、妙な感じでな。人っ子一人いない……クリス?!」
 ふいにクリスがアクセルを踏み込み、芽理は座席に押しつけられた。水尾がひっくり返りかけて慌てて体勢を立て直す。
「どうした?」
「『祭』は簡単には中止にならない」
 食いしばった歯の間から無理に押し出すような声でクリスは唸った。
「そんなにすぐにやめられるなら、こんなことを繰り返してはいないさ」
「どういうことだ?」
「場所を変えた……人間社会で受け入れ易い『祭』でおさめないことにしたんだ!」
 タイヤを鳴らしてアシュレイ家に走り込む。車を玄関に横付けし、飛び出すようにクリスは車をおりた。急いで続いた芽理も屋敷の異変に気がついた。人っ子一人どころか、誰も住んでいないように真っ暗になった屋敷は、夕方出てきた場所とは思えない。数年も、いや、数百年も人が住んでいなかったような荒れ果てた空気に満ちている。
「クリス、待って!」
 引きつった顔で先頭を走るクリスの背中に脅え切った気配を読み取って、芽理は必死に追い掛けながら叫んだ。
「どうしたの!」
「兄さんが、やられる」
 一瞬振り返ったクリスの顔は真っ青になっていた。
「ラピドリアンはアシュレイの長だ。人間社会から離れるとなったら、兄さんを無事に済ませるわけはない、むしろ」
 凍った声で続けた。
「これが最後だって言うぐらい、兄さんを」
 その後を呑み込んで屋敷の中を駆け抜けていく。向かう先はマ-スの部屋、そのどこを目指しているのか、芽理はすぐに思い当たった。
「おい、どこに行くんだ、紫陽くん、クリス!」
 背後で戸惑いが立って遅れている水尾を置き去りに芽理も速度を上げた。
(そんな……そんな……マ-ス……!)
 そんな時に一人で屋敷に残してきた。クリスとドライブに出かけてしまった。
 知らなかったとはいえ、悔やんでも悔やみ切れない。最悪の予想に身体が強ばるのを内側から蹴り飛ばすような激しさで駆け抜ける。
 屋敷には誰も人がいない。マ-スの部屋も静まり返っていた。飛び込んだクリスがためらいなく壁に突進し、まるでそこに一枚の布しかないように頭から突っ込む。
「!」
 とぷん、とクリスの体が壁に溶け込んで、芽理はぞっとした。勢いで近寄ったものの、さすがに飛び込む踏ん切りがつかず、怯んで竦んでしまう。
「クリス!」
 芽理は地団駄踏んで喚いた。壁に触っても固く冷たい手応えしか返らない。
「クリス! 私も連れてってよ! 置いてかないで! クリス! クリス!」
 答えがない。このまま壁の向こうの世界に永久にマ-スを攫われたままなのか。
(それだけはいや!)
「ちっくしょう……」
 芽理は歯ぎしりして後ずさった。自分が、というより、人が通れるのかどうかわからないけれど、やってみもせずに諦められない。部屋のぎりぎりまで離れて息を整え、今まさに飛び込もうとした矢先、
「芽理!」
「クリス!」
 壁からぬっと出たクリスが手を差し出した。慌てて走りより、それに縋る。
「え、あ、おい!」
 背後から声が響いて、駆け込むように芽理の背中を押しながら水尾が突っ込んできた。
 ずぷっ………。
 表現しがたい粘稠性のある液体に身を投げた、そんな感覚だった。息が詰まり、水中に飛び込んだように耳が封じられ、空気と音とが切り離される。数分、あるいは数秒だったのか。いきなり伸ばした手が密度のある壁を抜け、ひんやりとした空気の広間へ芽理は転がり出た。
「っはっ…」
「うおっ!」
「こっちだ!」
「うん!」
 先を行くクリスに遅れまいと、唸る水尾の声を背中にまた走り出す。
 地下通路のようだった。空気は冷えて湿気を含み、重い。岩を削ったような回廊、数本の柱の間を前方に見える微かな明かりを目指して走り続ける。思ったよりずっと長い通路に足ががくがく揺れ出して、芽理は歯を食いしばった。
(どうか無事で……無事で……マ-ス!)
 願うのはそのことだけ。上がる呼吸に胸が詰まって燃え尽きそうだ。後ろから水尾も駈けてきているのだろう、足音が二重三重に入り乱れる。
 と、唐突に目の前が明るく広がった。通路の先は小広間になっているらしく、ふいに天井が高くなり熱気の籠った空気が流れ込んでくる。目的地に辿りついたとほっとした芽理は、その入り口で今の今まで駈け続けていたクリスが立ちすくんでいるのに、あやうくぶつかりそうになった。
「クリス…?」
「兄……さん……」
 見上げたクリスの顔が茫然としていた。今にも零れ落ちそうなぐらい見開いた目が不安定に泳いでいる。
「手足を………折られて……?」
 掠れたつぶやきを漏らして、それとは気づかずにだろう、緩く首を振りながら、
「そんな……折れたら……すぐには治らないのに……骨折は………何日もかかるのに……」
 あやふやな声で続けながら、ゆらゆらと体が揺れている。
 その視線の先を追って、芽理もまたことばを失った。

 悲鳴をどれぐらい重ねたのだろう。
(オナジダ)
 跳ね上がる身体の反応がどんどん鈍くなる。
(オナジダ……ズット)
 力なんてとっくに入らない。身体が崩れないのは絡みつき縛りあげているロープと、マ-スをこの場所に縫い止めている棒に刺さった幾本もの剣……もっとも、どちらも血に濡れ脂に塗れて、ぬるぬると滑りながらマ-スの皮膚を裂き続けているけれど。
 今にも止まりそうな呼吸が弱く喉を行き来する。声は枯れて、それでも続く痛みにまだ掠れた声をあげざるを得なくて、頭も胸も熱くて痛い。
(イタイヨ……メリ……)
 それは何の呪文だっただろう。
 前に唱えたときは、ずいぶん楽になったような気がしたのだけど。
 ぶらぶらと揺れる右腕が重くて邪魔だ。誰か切り落としてくれないだろうか。それを言うなら、捻られて踏み折られた左足ももう要らないかもしれない。引きずって何度か引き裂かれてしまったから、かなりささくれていて人の足には見えない。もう片方の足も重くてだるい。数倍に腫れ上がり表面を弾けさせているから、使いものにはならないだろう。腹はどうだろうか。中身はまだ零れていないようだが。胸から裂けた傷がじわじわと開いていっているから、そのうち全部中身を吐き出すことになるかもしれない。視界が真っ赤なのは、目に入った血のせいだろうか、額を深く切られたせいだろうか。
(イタイ…)
 どこがと尋ねられたらわからないけど。さっきから痛くないところを探して、何とかしのごうとしているけれど、それがどこにも見つからない。どこも痛くて、どこも苦しくて、どこも濡れてて、どこも何もマ-スを保つ場所が見つからない。
(オナジナンダ)
 何をしても。誰がいても。どこにいっても。いつまで生きていても。
 焼けつく呼吸を繰り返し続けるだけ。
 はあ。はあ。はあ。はあ。
 呼吸するだけ。
 はあ……はあ……はあ……はあ……。
 呼吸するだけ……だが、その呼吸も。
「マ-ス、もう限界か?」
 囁かれ口を塞がれて、たまっていた血や何かを啜られて、空気もろともに奪われて、意識が遠のく、けれど、また。
「あ…ああ」
 首を強く掴まれて掠れた声が漏れた。
 ああ、まだ、そこは痛くなかったんだ……?
 ぼんやりと思う。
「ずいぶん強くなったじゃないか? ほら、もう回復してる部分があるぞ?」
「く…ぁっ……」
 少し力の戻った左足をまた、撫で上げられながら切り裂かれて、下半身が、跳ね上がる。
「だが、もう終わりだ……皆も堪能したようだ。次の『祭』まで十分な慰めを得たことだろう」
 右腕が持ち上げられる。ラピドリアンのかざした剣がきらきらと蝋燭の火に光っている。最後に願いが叶うのだろうか、とマ-スはぼんやり思った。
 一つ一つ痛い部分を切り落とされて、そうしていけば、最後に痛くない部分が残るかもしれない。
 それはうれしい、と微かに笑うと、
「惜しいよ、マ-ス。お前のような贄を失うのは我が一族の傷みだ。だが、『祭』を汚した罪はどうやってそそいでもらおう………そうだ、クリスがいたな?」
 クリス、の名前に身体が震えた。
「……は……やめ……」
「ほう……じゃあ、あの娘にするか」
「……の……すめ……?」
「芽理……紫陽芽理」
「め……り……」
 ふいに胸に空気が戻った。
 なんて呪文だろう。このことばはいつも光に満ちている。与えられない光、届かない光、まばゆくて、そのきれいさに胸が痛くて。
(イタイヨ……メリ……)
 涙が、零れた。
「お前の瞳は濡れてこそ見事だな」
「ひ…っ……!」
 ざくり、と腕の付け根に剣が食い込んだ、その矢先、叫びが、貫いた。
「兄さんっ!!!」

 クリスの喉を絶叫が突いた。一気に芽理を置き去りにし、ラピドリアンに屠られているマ-スをすばらしい演技を見るように息を呑み興奮して眺めている群集の中へ走り込んでいく。突然の乱入に呆気にとられている人々の中で、マージだけが反応した。クリスの行く手を遮るように走りよっていく。
 足が悪いと聞いていたのは幻だったのか、それともそれを越える力に動かされているのか、みるみる近づいていくマージに芽理も広間に飛び込んだ。視界を満たす興奮した大人達の中にまっすぐに突っ込み、クリスを遮るように前へ回りかけたマージに、体ごとぶつかって押し倒す。
「クリス!」
 はっとしたようにクリスが振り向きかけるのを、マージの肩をめいっぱい押さえつけながら首を振った。
「走ってーーーっ!」
「ああ!」
 はっとしたようにクリスが身を翻して舞台に駆け上がる。ぎょっとした顔で振り返ったラピドリアンが剣をマ-スから引いて、
「クリス?!」
 驚いたように叫びながら剣を構える。だが、そこから先は芽理には見えなかった。
「ったあああっ!」
「どきなさい、このばか!」
 思いっきり髪の毛を引っ張られて引き倒され、あっという間にマージにのしかかられて床に背中を打ちつけ、衝撃に息が詰まって咳き込む。
「何をいきなり飛び込んできて!」
「くうううう」
 喉を思いもかけぬ大きな手で握り潰されそうに掴まれて、一気に頭の血が煮え立った。
「もう遅いわよ、何もかも!」
 嘲笑う声に目を開けると、邪悪とはこんな顔かと思うような禍々しい笑みに顔を歪めてマージが覗き込んだ。相手の紅の唇や歯や舌がルージュではなく、うっすらと立ち上る紅い霧に彩られていると気づいて、芽理の中で尖った鋭いものが弾ける。
(マ-スの血!)
 さっき目に飛び込んだ、棒に縛りつけられた肉塊のようなマ-スの姿が視界を覆う。乱れた髪の下、白い顔に紅の血を流し、顔色より白く虚ろな瞳を開いて、物のように吊り下がった右腕、ねじくれた左足、朱に染まった半裸の身体は何も拒めないような頼りなさだったのに、それをラピドリアンの歓喜に満ちた顔がなおも食いつき貪るさま、あまつさえ、ぶらぶら揺れる片腕にまるで木になってる果物を切り落とすような気軽さで剣を食い込ませていく、その笑みに。そして、そんな人間にマ-スを委ねてしまった自分への怒りに。
「ば、か、や、ろうううううっ!!!」
「ぎゃっ!」
 一瞬息を詰めて怒鳴りながら、振り上げた足は力の限りマージを蹴り飛ばした。転がって、急に解放された喉が新鮮な空気に満たされて咳き込む、その背中にまたのしかかってくる誰とも知らぬ人間に、思いっきり肘鉄一撃、また横に転がってすぐに立ち上がれば、周囲にマージを中心として囲む人の輪があって。
「何よ、あなた、泣いてるの?」
 嘲るようなマージの声に顔を擦れば、そうだ、確かに泣いていた。
 情けなくて。あまりにも情けなくて。
(守れなかった、また守れなかった)
「安心なさい、ここまで来た見返りはちゃんと上げる。ここで殺してあげるから」
「殺されても!」
 ぼろぼろ零れる涙をそのままに叫び返す。
「殺されても!!」
(マ-スの側に、少しでも近くに、いく)
 もう許してはもらえないだろうけど。
「望みを叶えてあげるわ」
 マージが傍らの人間から剣を受け取り、ゆっくりと笑みを浮かべながら近づいてくる。
「ここで一緒に死なせてあげる」
「く」
 身体を屈めて向かい合う。殺されても全然それは構わない。けれど、一緒に、というのは違うのだ。だから、ここで殺されるわけにはいかない。せめてクリスがマ-スに辿りつくまで。せめてマ-スが無事でいることを確認するまで。せめて水尾がマ-スを助け出してくれるまで。
(一分一秒でも)
 時間を稼ぎ、周囲を巻き込み、マ-スの道を確保して。
 呼吸を整えぎらぎら光るマージの顔を見つめていると、ずっと昔、野犬に追われたことを思い出した。
 塾からの帰り道で、大人は側に誰もいなかった。通りですれ違った犬がふと振り向き、何を思ったのか、ふいに芽理を追い出した。走り出しながら、逃げ切れないとわかっていた。犬は人間よりずっと速い。犬は人間よりずっと力が強い。人は犬にはまず勝てない。ましてや芽理は小学五年生の子どもだった。
(チャンスは一回)
 勝つことは考えない。自分が死ななければいい。けれど、死ぬ覚悟は決めなくちゃならない。
 そのときどうしてそこまで冷静だったのか。きっと命の際だったからだろう。
 芽理はまっすぐに近くの用水路へ向かって走った。力の限り全力で。それでも犬は芽理を追いこす。追いこして、前から身を翻して飛びかかる。その瞬間に、芽理は犬に飛びかかった。大きく開けた犬の口に手にしていた鞄をまっすぐに突っ込み、そのまま犬をはね飛ばして用水路にもろとも突っ込んだ。衝撃に息を詰め、鞄を噛んでもがく犬を今度は力の限り抱き締めたまま水の底に体をすくめた。用水路は芽理一人呑み込む深さがあった。犬は抱き込んでしまえば芽理より少し小さかった。蹴り飛ばされ爪で頭を叩かれながら、芽理はきつく口をつぐんで呼吸の続く限り潜り続けた。
 やがて我に返ったとき、溺れかけながら離れていく犬の姿が視界に入った。助かったんだ、そう思っても、しばらく茫然としたまま、芽理は用水路に立っていた。
(あのときと同じ)
 ちりちりと体に緊張が走ってきた。同じ感覚を引き戻して、万に一度のチャンスを狙う。万に一度のチャンスを絶対逃がさないように集中する。
(でも、今度は)
 最悪死んでも構わない。その幅の広さをきっと有利に使ってみせる。
 荒くなる呼吸を堪えながら、じりじり迫るマージを見つめる。と、その時、
「マ-ス! 紫陽くん!」
 水尾の声が響き、
「う、あああっ……!」
 舞台の上で悲鳴が上がった。
 一瞬マージの気が削がれる、その一瞬を芽理は見のがさなかった。頭を下げてまっすぐにマージの足下に体を突っ込ませる。
「え、あ、ああっ!」
「ちいっ!」
 ラグビーのタックルの要領で抱き込んだマージの足を力の限り薙ぎ払った。悲鳴を上げてひっくり返るマージの顔をしならせた片腕で殴り飛ばす。その瞬間に突き出された剣に片腕を裂かれたが、動きを止めずにそのまま相手の体にのしかかって、頭を抱え引き上げるや否や床に叩きつけた。
「が!」
 くるっ、とマージは白眼を向いた。あまりの展開に怯んだのか、周囲の輪が弛んだ隙に必死に体勢を立て直し、気を失ったマージの手から剣を奪って振り回しながら走り出す。
 そのとき。
「うおああああああああっっっ!!」
 魂を潰すような絶叫が広間を覆った。

(クリス…?)
 一瞬マ-スには何が起こったのかわからなかった。
 ラピドリアンに片腕切り落とされかけて、朦朧としたままそれを受け入れつつあったのに、いきなり群集の中から飛び出してきたクリスが舞台に駆け上がるや否や、ラピドリアンに切りかかった、その次の瞬間、
「馬鹿めが!」
 ラピドリアンが体を交わして、マ-スに食い込ませていた剣を抜き放った。それから一瞬の動きで、飛びかかったクリスを、まるで子猫を壁に押し付けるようにマ-スの体に押し付けると、ためらいなく斜めに切り裂いたのだ。
「う、あああっ……!」
  クリスの高い悲鳴が響き渡る。仰け反った身体がマ-スによろめいてすがりつく。
「兄……さん……」
 その肩から溢れた血が音をたてて足下に跳ね散っていく。
「クリ……ス……?」
「ごめ………間に………あわなくて………」
「クリス……」
「ごめ………今までずっと………ごめん……許して……」
 愛おしむようにマ-スを棒ごと抱きしめたクリスが、マ-スの体から剣をなぎ落としながら崩折れていく。
「なぜ……クリス……」
 ずるずると倒れたクリスが足下の血溜まりに浸される、その光景はマ-スの意識を鮮烈に貫いた。
「クリス……?」
「馬鹿なやつが」
 ラピドリアンが吐き捨てた。のろのろと目を上げるマ-スに、冷ややかな微笑を浮かべて、
「マ-スほどの回復力も持たないくせに、何を血迷って飛び込んできたものか。誰にそそのかされたのか」
(誰にそそのかされた?)
 無意識にマ-スは視線を広間に向けていた。
 『それ』はすぐに見つかった。
 剣を構えたマージの前に低く姿勢を屈めながら、乱れた髪の下、燃えるような瞳で相手を睨みつけている、芽理。華奢な体が緊張している。どう見ても、圧倒的に芽理の方が不利にしか見えなくて、凍るような思いを味わったのは一瞬、飛びかかったのは何と芽理の方だった。マージを引き倒し、あまつさえ殴り飛ばして跳ね起きる。剣を手にまっすぐこちらへ駈けてくる。猛々しく鮮やかな姿。
(……芽理、なのか……?)
「ぐっ!」
 足下でクリスが呻いてマ-スは視線を戻した。ラピドリアンが足で再びクリスを蹴る。それから唾をその顔に吐き捨てると、不愉快そうな顔でマ-スに向き直った。
「邪魔が入った、さあ、マ-ス」
「……るな」
「何?」
「クリスに……触るな」
「何を言ってる」
「もう、二度と」
 自分の中に芽理の猛々しいものが注ぎ込まれたような気がした。回復だけのエネルギーではない、荒々しく空間を圧する力の気配、それがマ-スの中に横溢していく。
「僕達に触るな」
「なに…を」
「アシュレイの当主は……僕だ」
 ぶつん、とロープが弾け切れた。左手が自由になると、首にかかっていたロープを引っ張る。確かに繰り返された責めで刻まれ脆くはなっていたけれど、手などで切れるはずのないロープがやすやすとマ-スの指に引きちぎられるのに、ラピドリアンの顔色が変わった。右腕を垂らしたまま、左腕一本で剣を取り上げ、棒から我が身を切り解く。裂け砕かれていた両足が見る見る回復していくのに、ラピドリアンも異常を察した。本能的にまずいと感じたのだろう、マ-スが完全に自由にならぬ先にと、剣を振り上げ襲いかかってくる。
 だが、それは十分に遅かった。
 自分の体がいきなり巨大な力を貯えた気がした。強いていえば、真っ黒な強い翼が背中を破り両肩に数枚はえたような感覚、ゆらりと動いた自分の動作が時の流れを潜るようにのろのろと見える。
 襲いかかるラピドリアンの首にまっすぐマ-スの剣が食い込んだ。
「うおああああああああっっっ!!」
 絶叫が広間に響き渡り、ざわめきと怒号をかき消していく。
 マ-スの剣は止まらない。淡々と静かに、ラピドリアンの喉首を丁寧に、ことさら丁寧に切り落としていくさまに、周囲の群集は凍りついた。血飛沫が吹き上がり、マ-スを染める。
 紅蓮の、悪夢。
 ごとん。
 首が落ちる。ごろ、ごろ、ごろ、ごろ、と転がって、やがて舞台の端から広間に転げ落ち、そこにいた者が微かな悲鳴を上げて後ずさった。
 さすがに不死を生きる命とはいえ、新たに首ははえるまい。
 ゆっくりとマ-スは舞台に立ち、群集を見下ろした。脅え強ばった顔が、先ほどまで自分達の玩具だったマ-スが魔王のようにその場に君臨していくのを震えながら見守っている。
 静かに、笑った。
「『祭』の終結を命じる」
 マ-スは口を開いた。声が掠れ、まだ響き渡る大きさには出せなかったが、それでも群集には十分だった。ひくりと緊迫した気配が流れ、誰もが次のマ-スのことばを待っている。
「以後、各自は僕の指示に従うように。守れなければ」
 マ-スは目を細めた。
「ラピドリアンの運命に殉じてもらう」
 脅す口調ではない。事実を述べる淡々とした声。
 ごく、と皆が唾を呑み、弱々しく各々がうなずいた。
「では、この地から離れ、各々の生活に戻れ。所在を明らかにし、僕の指示を待て……もし万が一、命の倦怠に耐えられぬのなら」
 マ-スは笑みを深めた。慈悲をたたえた声で、強大な父親が愚かな子どもを諭すように、
「いつでもその苦痛を取り去ってやる」
 群集が凍りついた。無意識にお互いの手を握りあう。それでも、マ-スの視線に射抜かれて動けない。
「……兄さん……」
 背後で微かに名前を呼ばれて、マ-スは振り返った。背後で緊張が崩れた。退け。離れろ。ここから逃げるんだ、いますぐに。でないと。呻くような囁きが広がっていくのを感じ取りながら、片足を引きずってクリスの元に戻り、無事な左腕で相手の上半身を抱え上げる。
「…っ」
「大丈夫か、クリス」
「うん……」
 血に塗れ、痛みに顔を歪めながら、それでもクリスは不思議に幸福そうな笑みを浮かべた。
「兄さん……すごいな」
「……もっと早く……こうすればよかったんだ」
 マ-スは苦く吐いた。
「僕がアシュレイを背負えばよかったんだ」
 答えながら気づいていた。
 アシュレイの背負う運命は人の美しさとは相容れない。人の世界の豊かさとは相容れない。 
 それは闇を支配し闇に君臨する運命だ。
(僕はずっとそれから逃げていたんだ)
 屠られる被害者でいることで、アシュレイの抱える傷み、永遠の命を持て余す苦痛を、マ-スもまた考えまいとしていたのだ。
「そうすればお前に……こんな役割をさせずに済んだ」
「兄さん…?」
「すまない、クリス」
「兄……さん……」
 クリスの顔が幼いときにしがみついてきたそのままに歪んだ。泣き出しそうな青い瞳が、すがるようにマ-スを見つめ返し、そっと微笑む。そのとき、背後から聞きたいと願い続けた声が響いた。
「……マ-ス……」

 まるで闇の帝王みたいだ、と芽理は思った。
 薄い笑みを浮かべて血染めの衣を素肌に翻し、群集相手に冷酷に声を響かせるマ-ス。
 瞳の薄さがまばゆく煌めき、たった今屠ったラピドリアンを冥界に追い掛けてまたいたぶりそうな冷ややかさ、それは圧倒する力の在り処を知らしめる。
 マージに裂かれた右手が痺れて痛い。流れた血が服の下を濡らして、それでも吸い取られずに滴ってくるのを堪えながら、ざわめきながら一人二人と姿を消していくアシュレイ一族の波に逆らって、舞台へと上った。
 隅に転がっているラピドリアンの死体を回り、回復しつつあるらしいけれど、それでも十分に酷い状態でクリスを腕に屈み込んでいるマ-スの元へ辿りつく。
 細身の裸身には汚れ引きちぎられた薄物一枚、それらから立つ血煙のように赤黒い霧に包まれながら、マ-スはクリスをそっと抱えている。甘えるようなクリスの顔、膝に乗せてそっと汚れたプラチナブロンドをかきあげてやる指先が優しい。
(無事だ)
 ふいに崩れるような安堵が芽理の胸に広がった。
(よかった)
 あんな酷い状態だったのに、生きていてくれた。
(よかった)
 クリスも怪我をしたけれど、何とか大丈夫みたいだ。
(ほんとに、よかった)
 『祭』はこの先行なわれないみたいだし、ラピドリアンはいなくなった。自分の力を自覚したマ-スに、マージが何ほどの抵抗ができよう。それに、マ-スもクリスも、もうお互いに傷つけあうようなことはしないだろう。
 心からほっとして、
「……マ-ス……」
 笑顔を期待して呼び掛けた。
 だが、
「なぜだ?」
「え?」
 固い声で背中を向けたまま、マ-スが問いかけてきて立ち止まる。
「なぜ、僕を騙した?」
「!」
 顔が強ばった。ずきりと右腕の傷が痛んで、また新しく溜まった血が流れ落ちていった。
「王子さまネット? 不老不死の研究?」
 明らかに怒りと嘲りを含んだ声が響く。
「君は最初から僕のことなんて嫌いだったんだな?」
 マ-スは一度も振り返らない。
「最初から、みんなお芝居だったんだな?」
 低く抑えた声が震えながら続く。
「僕は確かに君の意志に背いて攫った……だからといって、クリスまで巻き込むことはなかっただろう」
「兄さん…それは」「黙ってろ、クリス」
 ぽた、と手首から血が滴る。
(痛いな)
 芽理は俯いた。
「君が僕に復讐したいのだったら、僕だけを狙えばよかったんだ」
「おい!」
 ふいに背後から声が響いてどきりとした。ようやく追いついてきた水尾が苛立たしげに唸る。
「待てよ、いいか、大体…?」
 水尾は口をつぐんだ。自分の服を掴んでひっぱる芽理を振り返る。その芽理の手が紅に濡れているのに険しい顔になる。芽理はもう一度首を振った。
「…いい」
「しかし」
「いい、から」
(守れなかったのは事実)
 胸に言い聞かせて目を閉じる。
(クリスを傷つけたのも事実)
 ぽた、とまた血が落ちた。
(私がマ-スを騙したのも)
 続くことばはわかっている気がした。
「日本へ帰れるように手続きする……もう、二度と」
 マ-スが背中を向けたまま低い声でつぶやいた。
「顔を見せないでくれ」
「……うん」
 芽理は笑った。振り返ってくれないマ-スの頑な背中に、精一杯、微笑んだ。
 それからゆっくり頭を下げて、
「お世話になり、ありがとうございました。どうか」
 お元気で、が涙に詰まって言えなかった。
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